第二章3-名指しの召喚状-
帝都サルディアは朝靄に包まれていた。
特に並ぶ建物が低い流民街は靄が街全体を覆い、上空から見れば一部の見張り台やボロい鐘楼を除けば薄い靄の海に沈んでいるかのように見えることだろう。
流民街を流れる二つの巨大な川。
帝都北部に流れる大河から水を引いた歴史ある水路で、王宮の北部にある巨大な水門によって水路に流れ込む水を調節し、王宮から王都の市街に向かって北部の山脈から流れ出した清涼な水を運び、その恩恵は内縁街、外縁街、流民街へと水の流れるままに区別なく届けられている。
もっとも、正式な水路が整備されているのは外縁街までであり、外縁街の終端である民壁より先の水域は水路としては粗末なモノで民街から出たところだけ歪な石造りの人工的な『水路』が構築されているが、そこから先は整備されていないことにより川幅が広がり、水量が調節されていることによって氾濫するようなことはないものの、民壁から勢い良く噴き出す大河の名残は抑制を受けずに水域を広げ、水路ではなく単純な『川』へと回帰して流れている。
最初は噴き出す水の勢いによって流れは早いが、徐々に流れは勢いを失って川幅が広がることに伴い緩やかな流れとなっていく。
流民街がここへ出来る前から存在する二つの川は、今日も穏やかな流れと共に流民街に住む貧しい人々に様々な恩恵をもたらしている。
その恩恵たる用途は多岐にわたり、飲み水は勿論のこと炊事、洗濯、家畜の水から小舟による交通手段にさえなっていた。
そんな川の一条、王都を正面から見て右側にある『イニス川』の畔で一人の少年が一心不乱に剣を振るっていた。
長剣で風を切る斬撃の音が一定のリズムで繰り返し響き、大雨などで川の水量が多い時に川幅が広がるため丸い小石が周囲に落ちている川原で、少年――レオリス=ケリンは黙々と剣を振るう。
常日頃から自己鍛錬としてここで剣を振るう彼だったが、ここ数日はその修練に打ち込む姿勢が以前より真剣みが増していた。
正眼に構えた剣を真っ直ぐに振り下ろし、振るう剣の重みで構えがブレることのないように、柄をしっかりと握って何度も剣を振るう。作業的に目標数をこなすだけの行為にならないように、一振り一振りに確かな意志を込めて振り続ける。その姿はまるで、その一振り一振りが己の確かなる糧になることを確信しているかのような行為に思えた。
数日前のレオリスには今のような逼迫した雰囲気はなかったが、だが数日前のある日を境に、毎日欠かさず行っている朝の鍛錬は今のように真に迫る真剣さを伴ったものとなった。
そのきっかけとなったのは、あのクロウシスという男との出会いだった。
予兆もなく突然目の前に現れて、十数個の銃口を前に一切怯むことなく、撃ち出された銃弾をことごとく剣で叩き落し、魔法が世界的に衰退しつつあるにも関わらず強力な魔法を意図も容易く行使してみせた。そのおよそ人間とは思えない立ち振る舞いで、絶体絶命の危機に瀕していたレオリスたち三人を容易く助けた男。
その存在そのものがレオリスにとって驚愕の塊であり、助けてもらった後でクロウシスが白龍と行動を共にしていることにも卒倒しそうなほど驚いたのだが、他の何よりもレオリスにとって衝撃的であり強く印象に残っている出来事があった。それは――。
不意にレオリスの視界に風に乗った木の葉が入り込み、素振りのために振り上げていた剣を持つ手に僅かながら力みが入る。そして呼気を小さく吐くと同時に、目の前で揺れる小さな木の葉目掛けて斬撃を繰り出した。
「――ッ!!」
鋭い打ち込みではあったが、長剣の刃が木の葉を捉えるよりも先に、振るった長剣が生み出した風によって木の葉がその軌道を変えてしまい、振り下ろした剣は虚しく何もない宙を空振りした。
ヒラヒラと舞う木の葉は剣を振り下ろした姿勢のまま硬直しているレオリスの側を、風に弄ばれながら舞い通り過ぎていった。
「――ふぅ」
肩の力を抜いて、柄を強く握っていた手を弛緩させて全身からも力を抜く。吐き出した息と共に張り詰めていたものも一緒に抜け去り、切っ先を川原につけた。
レオリスが木の葉をソレに見立てて斬ろうとしたもの、それこそがレオリスの動機。
今も目を瞑れば明確に思い出すことが出来る。
目の前に現れた黒く広い背中は一切の恐れもなく立ち、そう出来ることが自然であるかのように剣を振るった。だが、その剣速はレオリスでは軌跡を捉えることすら出来ないほどに速かった。そして連続して起こる金属同士がぶつかる甲高い音。
何が起こったのかレオリスは最初は理解が出来ず状況に追いつけなかったが、クロウシスに抱えられてレゾとラナルゥに合流し、抱擁と拳骨を喰らった後に再度背後で起こった甲高い音を耳にして、遂に何が起こったのかを明確に理解した。
――剣で銃弾を弾き落としている!
その事実はレオリスに最大級の衝撃をもたらした。
あの日の夜、宿を取っていないなら泊まって行って欲しいとラナルゥが随分引き留めていたが、クロウシスは『助けた礼は食事で十分に受け取った』と言うと、日が沈む頃にレオリスたち精龍の加護のアジトをあとにした。
正直、レオリスも泊まってもらってもっと話を聞きたいという思いがあった。だが、クロウシスという男の存在の特異性を考えれば、駄々をこねる子供のように無理に引き留めることはできなかった。
レオリスは自分の手にある一振りの剣に視線を落とす。
銘は無いが、簡素な造形ながらもしっかりとした作りをしている自慢の剣。毎日手入れを欠かしたことの無い相棒であり、学院に入る前からの付き合いで、学院在籍中に行われた実戦形式の魔物討伐などでは既に命を預けた剣だった。
それでもこの剣で銃弾を弾き落とすことは出来ない。
何度か考えたことはあったが、そんなことは不可能だと自嘲的な笑みを浮かべたものだった。
だが、あの男――クロウシスはそれを難なくやってみせた。
技量の問題なのか、それとも武器がそれほど強力なのか、高度な魔法を使っていたことを考えれば魔法による身体強化の恩恵も多分にあるのかもしれない。だが、理由がそのいずれにあるにしろ、目の前で起こった事態は紛れもない事実であり、剣に対して距離があれば絶対的有利な銃を剣一本で圧倒してみせた。
固執する理由は極々私的な事情であり、それが出来たからと言って世界が変わるわけでもない。
だが、それでもレオリスにとってそれは何よりも大きな意味を持つ。
『剣』で『銃』に勝つこと――それはレオリスにとって至上命題と言える事象だった。
◇◆◇
早朝の静かな時間。
コチコチという魔力時計の音だけが室内に響き、窓からは昇り始めた太陽の白い斜光が徐々に明るさを増していく中で、レゾはダイニングのテーブルで書き物をしていた。
レオリスは毎朝恒例の鍛錬に行っており、レゾの背後キッチンの上にあるロフトからはラナルゥの穏やかな寝息が僅かに聞こえていた。テーブルに置かれた書類に目を通しながら、その複製を羽ペンで羊皮紙に書き写していく。
黙々とペンを走らせ、字が掠れる前にインク壷にペン先を浸そうとした時、不意に目の前にあるソファーに視線をやると、数日前にそこへ座っていた人物のことを思い出した。
その人物を一言で言い表すならば、尋常ならざる人物だった。
今思い出しても、その立ち振る舞いには鳥肌が立つものばかりだった。
目の前に現れて襟首を掴まれて振り回されたレオリス、現れた時は目を瞑っていて、その後も呆然としていたラナルゥ。その二人よりも、あの場で誰よりも始終を全て目撃したのはレゾだった。
突然現れたのは恐らく魔法の一種だということは理解できた。
剣で銃弾を弾き落としたことにも勿論驚いたが、レゾが目を見張ったのはクロウシスが行使した魔法だった。溜めのようなものは僅かにあったように感じたが、それでもほとんど無詠唱で行使された魔法。
四大元素の『火』を司る英霊精龍『焦熱の火山』バーンアレスを亡くした世界では、火の精霊力が減退し、火属性の魔法は上級魔法でも威力や規模が著しく力を失っている。――にも関わらず、クロウシスが使ったのは魔法は呪文書に書かれている通りの――いや、それ以上の威力を秘めていたように感じた。
ペンを手に物思いに耽っていると、後ろから『白龍さまぁ……今度こそぉ』というムニャムニャという寝言が聞こえてきて、レゾは思わず噴出しそうになったが、羽ペンを持った手を口元に添えて小さく笑ってやり過ごした。
そしてラナルゥの寝言に出てきた白龍のことを思い出す。
幼生ではあったが、あれは紛れもなく白龍だった。
本来であるならば、英霊精龍を信望する全ての種族から庇護されて、世界の中心たる特別な場所で成龍となるまで守護され、成龍になると同時に天へと還り世界を見守る聖龍となる存在。
これは学院の教科書に書かれており、似たような話であればひなびた村で親が子に夢枕で話すお伽話になっているほど取り留めのない話だった。
まさかその存在が目の前に現れるとは思わなかったし、実在していることにも驚いた。英霊精龍と違い、白龍はその存在を確認する手段も感じる機会もなく、まさに伝説的な存在なのだから。
そんな存在を連れる人物が果たしてただの人なのか――?
答えは当然、否だった。
あの二人がどう感じてどう思っているのか。それは何となく分かるし、恐らくかなり好意的な印象を持っているはずだ。それは二人らしい反応であり、現に命を救って貰っているのだから当然と言えば当然だった。
だが、レゾは二人ほど簡単にクロウシスの全てを信じることは出来なかった。
騙されることに怯え、人を信じなくなることを良しとしないレオリス。
信じることを善とし、己の直感で人の善悪を判断するラナルゥ。
基本的に疑うことよりも信じることを選ぶ二人と共にいるからこそ、レゾは人を簡単に信じずに騙された時、裏切られた時のことを考えて行動する。それが三人の中での自分の役割だと思っている。
だからこそ、クロウシスのことも全てを信じているわけではない。
そもそも唯でさえ得体の知れないところ多すぎる人物なのだから、それも当然と思う。
だが――心の何処かでは、超然的な雰囲気を持つあの人物が、自分たちの味方になってくれたならばと、正義感によって無鉄砲なことをする親友と、無邪気で時折酷く無茶な行動を取る親友。
この二人を守ってくれたならばと、レゾは密かに期待している自分に気づいていた。
自分がそんな願望めいた思いを持っていることに気づき、少し自嘲めいた笑みを浮かべると、レゾは羽ペンの先をインク壷に浸して再び書面に視線を落とした。
◇◆◇
まどろみの中で、静かな鼓動が聞こえる。
そこが何処なのかは分からない。
ただ周囲は酷く静かで、あまりの無音さに意識すれば耳鳴りがしそうなほどの静寂に包まれていた。
三百六十度、全方位を見渡しても何もない空間。
上も下も右も左もなく、全ての感覚がとてもあやふやな空間にラナルゥは膝を抱えて漂っていた。
そこには差し込む一筋の光すらなく、限りなく無に近い闇が広がっていた。
膝を抱えているラナルゥは自分が衣服を身に着けておらず、裸で膝を抱えてその闇の中を漂っていることに気づいていたが、不思議と恐怖や羞恥を感じることはなかった。
完全に覚醒しない不安定な意識領域が、ラナルゥが本来持つ天真爛漫な気性を麻痺させていた。
しばらくそこで身を任せて漂っていたが、不意に何かの気配を感じ、ラナルゥは目を開けた。
目の前に広がる何処まで奥行きがあるのかさえも分からない闇の中に、何か巨大な存在があった。
見上げるほどに巨大なその存在を前にして、ラナルゥは口を僅かに開けて息を吐くと、口から気泡が洩れて上へと昇っていく。
そこで初めて、自分が今水中にいることに気づいた。
通常であれば慌てふためく場面だが、呼吸が苦しくなるようなことはなく。既に肺は周囲の水で満たされており、ラナルゥは自然と水中で呼吸するという矛盾した行為を受けて入れていた。
膝を抱えていた腕を解いて、ぼんやりとした頭のまま顔を上げると、光の無い深淵の中で微動だにしない巨大な陰影が、その長い首をもたげて遥か頭上からラナルゥを見下ろしていた。
――あなたは、誰ですか?
水中で声など出せるはずがない。
だが、ラナルゥの発した声は確かに自身の耳にも聞こえていた。
その言葉に反応するように首が僅かに揺れ、巨大な陰影は静かにラナルゥから離れ始めた。
遠ざかる巨大な気配に対し、ラナルゥは咄嗟に手を伸ばした。その手がどういう意図で伸ばされたのかは、本人にすら分からなかった。
ただ行って欲しくない、という感情が手の伸ばさせた。しかし、引き留めるような言葉は口からは出ず、遠ざかる気配を感じる内に、不意に頭に鋭い痛みを感じて頭を抱える。
――遠ざかる気配。
――伸ばす手は虚しく宙を掻く。
――取り返しのつかない過ち。
――大罪。
頭が割れそうなほどの痛みは心臓の鼓動と連動し、生きていることが罪であるかのようにラナルゥに痛みを与え続けた。
それでもラナルゥは、一度は反射的に頭を抱えた腕をもう一度伸ばし、希薄となった気配に腕を伸ばし続けた。
◇◆◇
「――ルゥ、ラナルゥ!」
馴染み深い大切な友人の少しだけ切羽詰った声。
その呼びかけられる言葉に起こされ、ラナルゥは意識を覚醒させた。
ロフトの寝床から見上げる見慣れた天井は、今日も近くに感じる。
ラナルゥは元々寝相が良い方ではないが、今日は特に凄く体に掛けていた掛け布団が捩れて隅に蹴飛ばされていた。着ている寝巻きも上のシャツが捲れ上がり、ズボンも斜めにずり下がっていた。それは学院の寮で支給されたもので、上下でデザインが統一された軽く上等な生地で作られた一着。学院が閉鎖する際にも返却指示が出なかったので、ラナルゥは制服諸共貰い受けて今も愛用している。
そして頭には、これまたズレ気味になっている動物の耳を形取ったナイトキャップを被っている。
なおも心配そうに自分の名前を呼ぶレゾに答えるべく、ラナルゥは寝転がったまま適当に着衣の乱れを直しつつロフトから手を伸ばして見せた。
「レゾ君、起きたよ」
「あ、良かった……呼んでも全然起きないから心配したよ」
本当に安堵した様子が伝わってくる声音に、起きたばかりとはいえいつもより幾分気だるい体に違和感を覚えながら、ラナルゥは階下のレゾに尋ねる。
「ごめんね、レゾ君。何かあったの?」
「いや、随分うなされている様だったからさ。嫌な夢でも見たの?」
そう言われて初めてラナルゥは自分が何か大事な事を夢に見ていたような気がして、必死にその内容を思い出そうとしてみるが、それがどのような内容だったかはまったく思い出すことが出来ず、僅かに感じたのは頭の鈍痛だけだった。
「うん……夢を見ていたような気はするんだけど、どんな夢だったかは思い出せないや」
「そっか、うん。夢に見たことを無理に思い出そうとすると、実際の記憶と夢の内容が混ざってありもしない記憶が出来てしまうと言われているんだ。だから、思い出せないならそのままにしたほうがいいんじゃないかな」
「……うん。レゾくんがそう言うなら、思い出そうとするのはやめとくね」
自分やレオリスとは頭の出来と勉学に対する姿勢が根本的に違う存在であるレゾに対して、ラナルゥは難しい問題に直面して助言をもらった時は大体それを鵜呑みにして納得するようにしている。それが正しいことであるとは限らないが、少なくとも悪意のある助言をするなどと思いもしていないし、何よりも信用し信頼できる仲間であると思っているからこその行動だった。
「よーし、気を取り直して朝ごはん作るぞぉー!」
切り替えの早いラナルゥは、ロフトの前面部をカーテンで仕切って着替え始めた。これもラナルゥは最初いらないと言ったのだが、レオリスとレゾが『共同生活をする以上は必要だ』と言って取り付けたものだった。せっかく自分のためにと付けてくれたものなので、ラナルゥもちゃんと着替えるときは使うようにしている。
普段着に着替えたラナルゥがロフトから降りてくると同時に、部屋の中に小さな密閉空間で重い金属を叩くクグもった小さな音が聞こえた。
音の発生源は部屋の南側――ダイニングの南端に周囲の木目で統一された内装の中で異質な物体からだった。その物体は、一言で言えば床に付けられた扉だった。
用途は壁間を移動する際に使ったモノと同じなことはすぐ分かるが、ここの扉はそれらと違ってノブの付いた普通の部屋と部屋を仕切る壁に設置されているモノとまったく同じ、木製の扉が付いているのだ。鉄製のハッチ式だった今までの扉に比べて明らかに使いにくそうな形をしているが、これにも一応の理由が存在する。
レゾが扉に近づいて耳をすませると、扉を叩く小さな音が一定のリズムを刻んでいることがすぐに分かる。それを確認したレゾは、内側から扉を二度叩くと一歩下がり扉のノブがあるほうへ立つ。そして扉の表面に手を添えて魔力を送り込むと、レゾの手から波及した魔力が扉全体に行き渡ると同時に『ガチャリ』という音が室内に響いた。
その音が鳴ったことを確認して、レゾが再度扉を軽く二度叩く。すると、扉が下側から上へと開き下からレオリスがひょいっと上がってきた。
「いつもすまねーな、レゾ」
「いいさ。君が朝の鍛錬を欠かさずやることには、僕がレオリスのことを尊敬できる数少ない事の一つだからね」
「そっか? 珍しいな、レゾが俺のこと褒めるなんて」
照れたように笑みを浮かべて頭を掻くバカ。
この皮肉も通じない相手と四六時中共にいるのだ。
それはレゾも虚脱するというものである。
おまけに――。
「いいなぁいいなぁ~私だってレゾ君に滅多に褒めてもらえないのにぃ」
バカに同調する天然素材。
出会った頃のレゾであれば頭を抱えたくなる思いに苛まれただろうが、今はもうそういったチクリと刺した針がスリ抜けて自分の手に刺さるような馬鹿な思いをすることは止めた。
我慢しているわけではなく、無理をしているわけでもない。
言いたいことを言って、その結果が目の前のトンチンカンなやり取りになるというだけのこと。状況や環境が変わっても変わる事のない二人の心根を感じる内に、それをいつしか心地よく感じているのはレゾ自身だった。
「ほら、朝食食べたら今日からのことを話すから、レオリスは早く汗を流してきなよ」
「お、決まったのか! 今後の精龍の加護の行動予定!」
「おぉー!! さすがレゾ君! よーし、じゃあ私も美味しい朝ごはん作るぞぉー!」
今後の行動方針が気になって仕方が無い様子のレオリスを沐浴場に押しやりながら、起きぬけの様子が気にかかって鼻歌を歌いながらキッチンへ立つラナルゥへ目を向けると、レゾの視線に気づいたラナルゥがニコッと笑みを浮かべて手にしたオタマを振った。
その様子を見て安心し、レゾは『なぁなぁ、ラナより先に教えてくれよぉ』というレオリスの言葉を黙殺しつつ、キッチンの背面にある小さな沐浴場にレオリスを蹴りこんだのだった。
◇◆◇
朝食を終えて各人三者三様に自分のカップを手に食後の一服を楽しんでいた。
ちなみに、三人はほぼ同じデザインのカップを使用している。
それは学院の闘技大会でレオリスが優勝した際に贈られたもので、その優勝はある意味三人で勝ち取った――否。優勝を守り切った証であり、三人が今のように親交を厚くして結束するに至った出来事でもあった。それ故に、三人は今もこのカップを愛用している。
しばらく静かな時間が流れていたが、テーブルにカップを置いたレゾが沈黙を破った。
「さて、今後の僕たち精龍の加護の行動方針についてだけど」
話し始めたレゾを前に、レオリスもラナルゥもカップをテーブルに置いて真剣な表情になる。
「表立った破壊工作はしばらくは控えようと思う。僕らは構成人数で言えば弱小もいいところの組織だけど、やってることはそこらの中堅組織よりも派手だったからね。慣れ始めて油断したところを、あのケイティフィールにつけ込まれてしまったんだ」
「まさかアイツが出しゃばってくるなんてなぁ。まだ根に持ってるのかねぇ?」
「私……やっぱりあの人は苦手だよ」
基本的に人を嫌いにならないラナルゥに出会った段階から苦手意識を持たれていた時点で、人としてかなり終わっているとレゾは常々思っていた。
だが、今回は命を狙われたわけで、学院に居た頃のような悪ふざけや嫌がらせなどというモノとは完全に逸脱した行為をしてくる存在――『敵』であると認識せざるえない。
「あの様子だと、今後も僕たちのことを狙ってくると思う。だから、しばらくは外縁街にも行かないようにしよう」
「でもよぉ、流民街で俺たちがやれることなんてあるのか? 別に派手なことをすればそれでいいってわけじゃないんだけどさ」
「うん。レオリスの言いたいことは分かるよ。流民街は大手の抵抗組織が縄張りを持っているし、帝国の施設も無いに等しい」
巨大な壁による完全なる隔離と監視。
そして龍騎兵による圧倒的な武力。
これらを持つ帝国は流民街に施設を設置して統治を図るような真似はせず、壁内への侵入防止と監視に力を入れて、看過できない動きがあれば龍騎兵による粛清を行う。
そのため、流民街には帝国軍の詰め所どころか監視小屋の一つも存在しない。
レオリスの言いたいことは、帝国にとって重要度の低い流民街で活動しても、帝国に対して痛手――というには今までの活動から言っても過分に言い過ぎだが、巨大な帝都においてその最末端で幾ら騒ぎを起こしたところで如何なる変化をもたらすこともない、ということだ。
その事実を認めた上で、レゾは一枚の書類を取り出した。それは先ほどまでレゾがダイニングで内容を精査しながら複写していたものだった。
「そこでなんだけど、これを見て欲しい」
対面のソファーに並んで座っていたレオリスとラナルゥが書類に注視すると、レゾはその内容を説明し始めた。
「これは『火竜の高巣』から各抵抗組織に配布されたものだ」
「『火竜の高巣』って言えば、流民街で最大規模の組織じゃなかったか?」
「うん。よく広場で大声上げて人を募集してるよね」
『火龍の高巣』。
流民街で数多に存在する抵抗組織の中で、『精龍の使徒』と双璧をなす巨大組織。
元々は主に火龍信仰者を主体とする人員構成だったが、近年は組織規模拡大に心血を注いでおり、帝国の目を気にすることなく人員募集を公に行いなどして、今やその構成規模だけで言えば『精龍の使徒』を突き放し、末端の人間を含めれば万を超える規模となっている。
「そう、最近は特に露骨かつ強引な手法で人員を増やしているせいもあって、他の組織から敬遠――というか、露骨に嫌がられているんだけど。それでもやっぱり、あらゆる意味で最大級の力を持った組織であることは変わりない事実なんだ」
人員の募集などを広場のような場所で公に行えばそれだけ目立つ。それは即ち、帝国の『粛清対象』になり兼ねない行為であり、仮にそうなったとすれば無関係な人間を多分に含んだ粛清が行われることになる。
そういった忌避すべき状況に陥る可能性が高いことを分かっていながら、それでも他の組織からの反発を黙殺あるいは交渉によって抑え込み、現在に至っている。
「それでこれに書かれている内容なんだけど。どうもキナ臭いんだ……」
急に声のトーンを落としたレゾに、レオリスとラナルゥが顔を見合わせる。
「なんて書いてあるんだ?」
「うん。基本的には合同集会への参加呼びかけなんだけど。僕らみたいな弱小組織に態々呼びかけをしてくるのが腑に落ちなくて、内容は複写して吟味はしてみたんだ。で、内容なんだけど――」
『――英霊精龍に祈りし者たちへ。
――帝国の圧制と弾圧は日々、その苛烈さを増すばかりである。
――そのような状況の中で、我々は帝国に大きな動きがあることを察した。
――我々は来るこのような事態の為に、日々人員の増員を進めてきた。
――だが、今回の我々が情報を握った事象に対して、一組織では対処し切れないと判断した。
――故に、志しを共にする精龍の加護を受けし同志諸君に協力を願うものである。
火龍の高巣 統括代表ウラジル=ハーティア』
内容としてはそれであり、その下に日時と場所が記載されていた。
記載された内容を読み上げたレゾが、書類から顔を上げて二人の顔を見ると、それぞれに今耳に入れた情報を吟味しているようだった。
そして最初に口を開いたのはレオリスだった。
「なんかおかしいよな……今まで見聞きしてきた印象とすげー違う」
今までこの流民街で生活してきた中で、レオリスたちが見てきた火龍の高巣に所属する構成員たちの印象は、今聞いた文面から受ける印象とはかけ離れた印象で、お世辞にも行儀の良い連中ではなかった。組織の規模を広げすぎた末に、末端への管理が行き届いておらず高圧的な態度で無体な振る舞いを行い、火龍の高巣の名を出しては暴れまわるような連中すらいた。
「うん、レオリスの言いたいことは分かるよ。ただ、僕の考えを言わせてもらえば、今回のこの誘いには一応乗ったほうがいいと思うんだ」
レゾらしくない『思う』という曖昧な表現に対して、レオリスが少し不思議そうな顔をすると、隣で今まで黙していたラナルゥが声を上げた。
「凄く大勢の人がいるのに、私たちみたいなのが行っても大丈夫なのかな? 何か凄いことをする仲間に加えて貰えるなら嬉しいけど……」
その先は言わずもがなであり、レゾも十分に承知していた。
だからこそ、レゾは二人の顔を順番に見て頷く。
「二人の心配はよく分かる。僕たちは若い上にたった三人の組織――本来なら組織って名乗るのも微妙なところにいるような集まりなんだ。でも、それに反してとても目立つことを僕たちはやってきた。だからこそ、僕たちに対しては名指しで協力を呼びかけてきたんだと思う」
その言葉に二人は驚いて目を丸くした。
「名指し? というか、その紙ってどうやって届けられたんだ?」
「今朝方、市場の様子を見に行った時に火龍の高巣の人たちが配布していたんだ。それで直接受け取るのは顔を覚えられる可能性があったから、地面に落ちていたのを一枚拾ってきた」
これが届けられたものではなく、不特定多数に人間にばら撒くように配られていたという事実に、レオリスは益々顔を顰めて首を捻った。
「書かれてる文章の割には、やり方が大雑把過ぎないか? なんかチグハグなんだよなぁ。せっかくいいこと書いているのに、それを読む人間は誰でもいいみたいなやり方で、人が集まると思ってるのかよ」
レオリスの言いたいことはもっともであるし、それに関しては概ねレゾも同意見だった。
だが、肥大化し過ぎた組織においては、トップの人間の思惑が必ずしも末端部まで反映されるとは限らない。命令を下へ下へと繋ぐその過程で、当初そこにあった目的や思いは徐々に剥がれ落ちていき、最終的には形骸化して歪曲した命令が実行されることもある。
今回の出来事がそうであるかどうかは分からないが、既にこの書類は流民街の各地でばら撒かれている以上、この結果がウラジル=ハーティアの思惑通りであるにしろ、そうでないにしろ、賽は投げられてしまっている。
「ねぇねぇ、レゾ君。どうしてそこに書かれているのが、私たちを名指ししているってことになるの?」
ラナルゥが話を戻したことにより、レオリスもその疑問を投げかけたことを思い出した。それに対してレゾは頷いて、書類をテーブルに置いて二人に見せる。
「ここ――この最後の『志しを共にする精龍の加護を受けし同志諸君』って部分なんだけど。ここに僕らが名乗っている組織の名前があるよね?」
「おう、確かにあるな。でも、これは文章的に偶然ってことも十分に考えられるんじゃないか? さすがにこれだけで俺たちのことを名指しで指名しているって思うのは自意識過剰な気がするぜ?」
「ところが、ここでこの言葉を使うのは通常ありえないんだ」
「え、どうして?」
二人は改めて文章に目を落とす。
『故に、志しを共にする精龍の加護を受けし同志諸君に協力を願うものである』
この帝都に存在する抵抗組織のほとんどが、元々は英霊精龍を信望している人間が中心に興しているものであり、英霊精龍を滅ぼし、その死を悼む人間を弾圧する姿勢に反発して立ち上がったのが始まりとされている。
そのことを考えれば、この文章を使うことそのものには何ら違和感はなかった。
「一体これの何処かおかしいんだ?」
「うん。二人も知ってる通り、帝国は人間以外の種族に対して排除命令を出している。その一番の表れが南方大陸イルムコレナへの侵略行為だ。そして身近なことで言えば、僕たちの通っていたリディアス第二学院に招致されていた他種族学士の国外強制退去。政策の一環なんだと思うけど、帝国は過剰なほどに人間以外の種族が帝都に存在することを嫌う傾向にあるんだ」
レゾの話に二人は神妙に頷いた。
特にラナルゥは僅かに瞳を揺らして、僅かに顔を俯かせる。
「流民街でも他種族を匿っていたことがバレた場合、下手すれば『粛清対象』に入るほどに帝都は敏感になっている。だからこそ、この流民街に住む僅かな他種族は本当に息を殺して生活しているんだ。公になれば捕縛されてどうなるか分からない。抵抗したり隠れようとすれば龍騎兵を使って住んでいた区画ごと焼き払われてしまう」
レオリスたちが流民街に身を潜めてからも、既に何度かそういった場面に遭遇していた。
無慈悲な炎によって木造の粗末な家屋は冗談のようによく燃えて、そこに隠れていた住民たちが火だるまになって焼け出されるが、それでもなお帝国の殺戮兵器は炎の噴射を止めることは無い。
幼い子供を抱え、年老いた母を背に命乞いをする母親に対して容赦なく炎を噴射する場面を見たレオリスは、今でもそのことを思い出すと怒りと悲しみで頭がおかしくなりそうだった。
「その事を踏まえて、今まで彼らが公の場に文章を掲示したり、今回のように配布を行ったときの文面を僕は集めているんだ――これなんだけど、見てみてくれ」
レゾがソファーに置いていたファイルを取り出して、付箋のついたページを捲って二人の前に差し出した。
二人は促されるままに、顔を突き合わせるようにして目を落とす。
内容は人員募集だったり、帝都が募集する労働への不参加呼びかけだったりと様々だが、二人が注目したのはその締めくくりである文末だった。
『故に、志しを共にする火龍の加護を受けし同志諸君に協力を願うものである』
違う。
確かに単語が決定的に違う箇所があった。
二人が顔を上げると、レゾが頷く。
「過去数年間のモノを出来る限り遡って調べてみたけど、『精龍の加護』と書かれたのは今回だけだ。それ以外は全て『火龍の加護』と書かれている。さっきの説明通り、今いくら流民街に隠れ住む他種族の人たちに向かって声を上げたところで、彼らに協力するような力がないことは明白だしね。だからここで英霊精龍の全てを指す『精龍の加護』なんて言葉を使うのは、意図があってのことだと思う」
「……確証があるわけじゃないんだな?」
「うん。でも、これは僕らに向けられたモノだと思う。そう――僕の勘が言ってるんだ」
「レゾ君が……勘?」
ひどく珍しいものを見たとばかりに、ラナルゥが口を開けてレゾを見上げた。
その驚きは『レゾの勘?』ではなく、『レゾが勘?』という言葉からどれほど珍しいものか推して知るべし。
レオリスもラナルゥ同様に驚いていたが、急にニィっと笑うとソファーから立ち上がると、レゾの肩をバンバンと叩いて口の端を吊り上げた。
「いいねぇ。あの堅物なレゾが勘に頼るなんて、そりゃーよっぽど冴えてる勘に違いないぜ」
「よしてくれ、僕だって勘なんて言葉は本当は使いたくなかったんだ。だけど、どれだけ材料を集めても確証を得られなかった。言質を取る相手もいないしね」
少しムスっとした表情で肩を竦めるレゾに、レオリスは益々笑みを深める。
「よーし、話は決まった。行ってやろうぜ。でも、相手は流民街最大規模の組織だ。いざって時のことをしっかりと考えていかねーとな」
「賛成! レゾ君が行った方がいいって思って、レオリスが行くならきっと大丈夫だよ! 私も何か役に立てることあるかな?」
シュタっと笑顔で立ち上がったラナルゥを見て、レゾはやや複雑そうな顔で顔を掻くと、本音を隠すような真似はせずに考えを話す。
「本音を言えばラナルゥには残っていて欲しいんだけど……止めても付いてきそうだしね。囲まれた時の対処について話し合おう。もしもの場合に逃げるルートは僕が考えるから、ラナルゥはその場で最適な道を教えて欲しい」
「うん、任せて!」
「じゃあ、内容を詰めようぜ。あんま時間ないんだよな?」
「うん。向こうは出来るだけ早く会いたいみたいだね。とはいえ、僕ら以外の人間も結構な人数来ることになると思う。集会自体は今夜、まだ時間はあるさ」
こうして弱小組織精龍の加護の面々は、最大規模組織火龍の高巣の召喚に応じることにした。
「んぅぅ~……」
「ん? どうしたんだ、ラナ」
話は決まってそこへ向かっての行動を起こそうとした時、不意にラナルゥが残念そうな唸り声を上げた。レオリスと同じで勢い重視のラナルゥが、勢いを殺すような声を上げたのが珍しくてレオリスが尋ねると、ラナルゥは少しばつが悪そうな笑みを浮かべる。
「うん。こんな時にクロウシスさんが仲間でいてくれたら、凄い頼もしいのになぁ~って思ったの」
ラナルゥの言葉は決してレオリスとレゾでは不安だということではなく、自分を含めた三人にとってあのクロウシスという人物がいてくれたならば、これ以上ないほどに心強い味方だ。という意味であり、それを理解している二人も同じような思いはあったらしく目を合わせて静かに笑うと、光の差し込む天窓を見上げる。
「今頃何してるんだろうな……想像がつかねーわ」
「うん、物凄いことをしでかしてそうだけどね」
「あはは。あの人なら一人でも最強の抵抗組織を名乗れちゃいそうだもんね」
三者三様に、あの黒い人物の所在に思いを馳せつつ自分達のすべきことに取り掛かるのだった。
◇◆◇◆◇◆◇
そびえ立つその建物は、歪で禍々しさを隠すことも無く、そこにあった。
民壁の奥、臣壁よりも奥、王壁の中に、それはある。
帝国の力に象徴である龍騎兵の基地であり、今もその中では英霊精龍の力と、ドラグーンと同様の古代遺産についての研究が行われている。
龍骸物研究所。
濃い灰色の壁面は凹凸で覆われており、まるで建物全体が巨大な生物の骨格に見える。研究所の至る所から煙突が突き出し、そこから黒、紫、赤など様々な色の煙が噴出して空を汚している。
醜悪なその建造物を、クロウシスは王壁の上から睥睨していた。
「……」
目を凝らせば、その身を暴かれるドラゴンたちの姿が浮かぶ。
耳を澄ませば、殺されていったドラゴンたちの怨嗟が聞こえる。
鼻を澄ませば、血肉を焼かれるドラゴンたちの臭いが鼻腔を突く。
それらを感じて、果たして冷静でいられる同族がいるのであろうか?
クロウシスは黙してただ静かに巨大な壁の上で、生まれ出でた世界は違えど同族が理不尽に殺された上にその屍を徹底的に辱められる様子を感じていた。
風属性の魔法によって姿を消して王壁に立っていたクロウシスが、そばに落ちていた石片を拾い上げて僅かばかりの魔力を付与して王壁内部の『皇帝領』へと投げ入れると、まるで水面に小石を投げ入れたように王壁の壁から不可視の膜に干渉し、石が通り抜けた場所から垂直に波紋が広がる。
それを見届けてから、クロウシスは踵を返すともう一度背後の龍骸物研究所を一瞥し、そのまま王壁を横断するように駆け、内縁街側の縁に足を掛けてそのまま躊躇無く跳んだ。
五十メートル以上ある壁から跳躍し、そのまま空中を数歩駆ける。
空を切るはずの足は僅かに展開された魔法陣を踏み、そして蹴って空中を駆ける。
十数メートルほどの距離を駆け抜けチラリと背後に目をやると、背後から黒い影が三体追ってくるのを認め、足元に魔法陣を展開することを止め、そのまま自由落下で降下していく。
降下速度を風を操り調整しながら、直下にあった平坦な屋根の広い建物の上に降り立った。
姿を消していた魔法を解除し、被っていたフードを目深に被り直して剣を抜き頭上を見上げれば、クロウシスを追ってきた三体の追跡者が猛スピードで降下してくるところだった。
一切速度を緩めず、ほとんど突撃するような格好で突っ込んでくる影の正体は、黒い体表に毛むくじゃらの体、手足は太く長い、そして血走った赤い瞳にねじくれた角を生やしている。
それは醜悪な姿をしたデーモンだった。
五メートルはあろうかという巨体で、クロウシスを押し潰そうと突っ込んでくるデーモンに対し、クロウシスは魔法を使わず剣のみで応戦する。
躊躇無く突っ込んできたデーモンは、降下の勢いを殺すことなくそのまま襲い掛かる。
最初の一体は前方に体を滑る様に移動させてかわす。背後でデーモンが屋根に激突し、爆音と共にその巨躯と勢いによってもたらされる衝撃は巨大な建物を揺らすほどのものだった。
だが、クロウシスはその衝撃で揺れる足元には一切頓着せず、二体目のデーモンを迎え撃つ。交差する瞬間、太い腕とその先についた爪でクロウシスを引き裂こうと振るうが、爪を剣で弾くとそのまま腕の外側の皮を削ぎながら回避し、屋根に二度目の衝撃が響き渡る。
赤黒い血に濡れた剣を手に上を向けば、最後の一体が目前に迫っていた。
大きく腕を振り上げて突っ込んでくるデーモンに対し、クロウシスは剣を右斜め下に切っ先を下ろすように構える。クロウシスを押し潰さんと落下速度を維持し、肉薄したデーモンがクロウシスを引き裂こうと腕を振るうが、血飛沫を上げて屋根を滑るように吹き飛んだのは、太いデーモンの腕だった。
「ガォァァ――」
痛みにデーモンが咆えようとするが、その絶叫はすぐに途切れることとなった。
すくい上げる様に繰り出された剣が腕を切り飛ばし、そのままデーモン自身の降下する速度と相まって首筋に食い込んだ刀身は、呆気なくデーモンの首を切り飛ばして宙を舞わせた。
死体となって屋根に激突したデーモンは、屋根を穿ちながら大きくバウンドして血飛沫を撒き散らしながら屋根を抉りつつ移動し、屋根の端っこギリギリの位置で止まった。
血と油で濡れた剣を振るってそれらを落とし、背後で立ち上がる二体のデーモンへ向き直る。
仲間が死んだことなどには一切の関心を示さず、二体のデーモンは闘争本能に目を血走らせ、口から生臭い白い呼気を吐き出しながら、剣を手に自分達を見上げるクロウシスを見下ろした。
最初に動いたのは降って来た順番で言うところの二番目。
交差する際に腕の皮と肉を削がれていた分、怒りが一体目よりも勝ち得ていたのかもしれない。
ダラダラと流れる血を撒き散らしながら、凶暴な咆哮と共に迫り来る。
見た目通りの豪腕が風を切りながら唸りを上げるが、その腕と爪がクロウシスを捉えることはなく、空を切った腕が屋根の穿つ。屋根の素材が砕けて舞う中、クロウシスが中空で剣を横一線に閃かしデーモンの両目を切り裂いた。
「グォアァァァァ――」
痛みに唸りを上げるが、やはりその怒号も途中で切れることになる。
目を切り裂いたまま跳躍し、デーモンの背後に下りたクロウシスは振り向き様にデーモンの心臓を一突きで刺し貫いた。剣を地面と水平に構えて突き出し、体毛に覆われた背中に切っ先をもぐり込ませる。そこから頑丈な筋肉の繊維を引き裂きながら剣を押し進め、僅かに腕に伝わってくる抵抗感は刀身が骨を削っている感触で、横向きに刺した切っ先は骨に引っかかることはなく、そのままデーモンの心臓へ到達した。
剣が脈打つ臓器へと到達したことは手応えで分かり、刺されたデーモン自体も切っ先が心臓に到達した時点で体を大きくビクっと震わせ、口からおびただしい血を吐き出す。
声を上げることは心肺器官に溢れかえる血液のせいでくぐもった唸り声になっていたが、通常の生物よりも遥かに生命力の強いデーモンは、心臓を貫かれても体を振り回して暴れて背中に張り付いたクロウシスを振り落とそうともがいた。
剣の柄を手に左右に激しく振り回されるクロウシスは、柄を持つ左腕に力を込めて上体を上げて右手でデーモンの体毛を掴み、左に体を振ったデーモンが右へと力を入れ替えようとしたところで、腕に力を込めて更に上体を上げると刀身の半ばまで刺さっている剣の柄に足をかけて、そのままデーモンの背をよじ登って頭部に登る。
上半身と首を振り回すデーモンの両肩に足をかけて、頭部から左右に伸びるねじくれた角を掴む。
角はそれがある種族にしか分からない感覚ではあるが、有角種のほとんどが種族として角に対して誇りや精神的に敏感な部分であることが多い。
このデーモンもそれは同様だったらしく、角を掴まれたことに怒り口から血を吐き出しながらも更に体を振る勢いを上げ、背中から肩に上がったことで腕が届くと判断し、クロウシスを両手で掴もうとするが、その手がクロウシスを掴む前に屋根の上に『バキャッ!!』という硬いものが砕ける音が響いた。
音の正体は、角を両手で掴んだクロウシスがデーモンのうなじを思いっきり踏み抜いて、その頚椎を砕いた音だった。中枢神経を寸断されたデーモンは全身に力が入らなくなり、上げようとした腕をダラリと下ろし、続いて右側に振っていた体が遠心力に引っ張られてそのまま倒れこみ、口から血の泡を噴いて絶命した。
倒れたデーモンの背から剣を無造作に引き抜き、刀身を汚す赤黒い血を払うと背後にいる最初に突っ込んできたデーモンに向き直る。
容易く仲間を二体惨殺されたデーモンは、僅かな怯えを見せて『グルル……』と低く唸った。
しかし、そんな様子に頓着することはなくクロウシスがデーモンに向かって一歩を踏み出すと、覚悟を決めたデーモンが己の感じる怯えを掻き消すかのように咆えてクロウシスに突っ込んできた。
――勝負は交差する一瞬で結した。
宙を舞う巨大な頭部が平坦な構造の屋根にゴトリと落ち、赤く濁った瞳が虚空を睨んでいた。
再び剣についた血を払うと、それを鞘に収めてクロウシスは最後に屠ったデーモンの頭部に近づくと、その頭を掴んで持ち上げると、後方に見える王壁を睨む。
王壁内部は先ほど実践してみたように、魔力を含んだ物体は侵入すると反応して、こういった追っ手を差し向けてくる。これは王壁内だけの話ではなく、内縁街や外縁街にも同様の結界が張られている。ただ外側へ行くほどに効力は薄まっているようで、今のように王壁内に干渉するようなことさえしなければ、こちらの位置までを特定されることはない。
だがそれでも、一回の魔力行使の大きな魔法や負荷の大きい継続魔法を使用し続ければその限りでもなく。クロウシスがこの王都で魔法の使用を制限されている原因だった。
出てくるのが目の前に転がるデーモン程度であれば何ら問題はない。
これらはいわゆるレッサーデーモンと言われる下級魔族であり、生物的には魔物に魔族の血が入って誕生した存在といえる。それ故に知性の高い魔族では通常ありえない本能的な行動を取ることもある。先ほど仲間を殺されてクロウシスに対して怯えたのもその現れであり、敵わないことが分かっている相手に対して襲い掛かってきたのも同様のことが言える。
とはいえ、デーモンは最下層の存在とはいえ魔族に分類される存在だ。
それを人間が使役していることはありえないことではないが、もっと単純に考えれば――魔族が協力しているということも考えられる。
バーンアレス島で遭遇した二人の魔族のことを思い出し、連中が自分のことを帝都で待っていると言った。今のところあちらから接触してくることはないが、既にこちらが来ていることは感知しているだろうと、クロウシスは判断していた。
何にしろ手がかりになるかは怪しいところではあるが、クロウシスは屠ったレッサーデーモンの頭部を持ち帰りその記憶を探ることで手がかりを得ることを試そうとしていた。
周囲には赤黒い血が飛散し、頭部を失った死体からは生臭い湯気が立ち上っていた。
レッサーデーモンがほとんど激突に近い形で屋上に墜落して破壊し、その衝撃と破砕音は周囲に響き渡ったはずだが、屋根の縁から下を見ても人が集まっている様子はなく、それどころか建物から人が出てきてすらいない。
人が住んでいるにも関わらず、まるで箱庭のように活気も生気もない内縁街を見下ろして、クロウシスはかつて元々の世界で自分が滅ぼした『人形の都』という都市のことを思い出していた。
あそこもまた活気などはなく、異様なほどの静けさに包まれた静寂の都だった。
だが、あそこに住んでいた住人は全て人間ではなく人形であり、ここに住んでいるのは少なくとも正真正銘の人間であることは間違いない。
で、あるならば一体何がこの街をこのような空虚な姿にしているのか――?
「……フン」
王壁の向こう側、その先に居る存在に一瞥をくれると、クロウシスは縁に掛けていた足に力を込めて跳ぶ。
浮遊感と共に手にしたレッサーデーモンの角を握る手に僅かな力を込めつつ、数日前に出会った三人組の若き人間の姿を思い出す。
あの三人はこの街に住んでいた時期があると言っていた。
であるならば、さぞこの街が不気味に思えていたことだろう。
自分達とは正反対なのだから、それも当然だとクロウシスは思う。
また会うことがあるのだろうか?
己と関わることでより大きな危険に晒すことをよしとせず、必要以上に関わることは避けたが、それでもこの都で出会った最初の鮮烈なる光を思い出して、クロウシスは笑みを深くするのだった。
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