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第二章2-逃走劇-

今回はいつもにも増して見直し甘めです。

明日、仕事から帰ったら改めて確認しますので、見苦しい部分があればご一報下さい。

 閑静な――と言えば聞こえもいいが、ここ内縁街に住まう住民――主に貴族だが、それらに属する人々は平民たちと接することを常に嫌う。

 その傾向から自然と、自分達が住む内縁街と平民たちが住む外縁街とを隔てる臣壁に近寄ることも忌避されており、臣壁に程近いその場所には人っ子一人居はしなかった。


 重なり合って響いた銃声が木霊し、小奇麗な邸宅が建ち並ぶ街に乾いた音がいまだに残響を残して、その場にいる全ての者の鼓膜を震わせていた。

 そして、その場にいる誰もが凍りついたように動きを止めて、突然現れた乱入者を注視しており、特に銃撃を行った戦兵たちは、その乱入者が手に持った剣で銃弾を弾いたのを見て、驚きと共にその理解し難い出来事に呆然としていた。


 向けられた銃口を前に、一か八かの行動に出た精龍の加護(ドラグリーベ)の三人もまた呆然としていた。

 絶体絶命の危機に瀕し、元より弱小の割にはやる事が過激である精龍の加護(ドラグリーベ)は称賛する者よりも、むしろ妬みややっかみを持ったり、三人が元々内縁街に住んでいた学士であることを理由に敵視するものたちさえいた。

 だからこそ彼ら三人には、このような窮地に駆けつけてくれる存在に思い当たる人物はいなかった。しかしだからといって、ここは流民街ではなく外縁街の更に先、堅牢にそびえ立つ臣壁の内側であり、秩序と軍備によって侵入者に対して容赦のない内縁街。ここは間違っても都合の良い偶然など起こるはずがない場所だった。


 銃を構えたまま固まる戦兵の横で、エイティス=ケイティフィールが口を開けたまま立ち竦んでいた。

 大して幅が広いわけでもない通りを塞ぐように展開していた戦兵たちも、まだ状況を把握出来ていない様子で銃を構えたまま動きはない。

 その中で黒い外套で身を包んだ乱入者――クロウシスが僅かに顔を後ろに傾けると、そこには呆然と目の前に突然現れた黒づくめの乱入者に驚いて動けないでいるレオリスと、その後方で腰が抜けたように座り込むラナルゥと被っていたフードが僅かにずれたまま呆然と立ち尽くすレゾの姿があった。


 三人の驚き様をフードの中から見て、先程の勇ましくも潔い口上とその後の行動に、クロウシスは口の端を吊り上げた。


                    ◇◆◇


 ――時を僅かに遡る。


 内縁街にある教会の隣、天高くそびえる鐘楼が正午を報せる鐘を鳴り響かせる。

 その鐘楼の鐘室でクロウシスは目覚めた。

 鐘楼で鳴り響く鐘の音をこんな間近で聞けば、通常聴覚に異常をきたすところなのだが、身体に帯びた魔力の層を通すことで耳に心地よい程度の鐘の音が聴こえている。


 壁に背を預けて座ったまま寝ていたクロウシスは、数日ぶりの睡眠を取った事で幾分頭はスッキリしていたが、何せ石壁を背に寝ていたわけで背筋が僅かに痛みを訴えていた。

 その痛みを無視して立ち上がり、鐘室に置いてある水桶で顔を洗い意識をより明瞭にさせる。

 桶の水が激しく揺れて、それがゆっくりと静まると小さく丸い水面に、少し陰気でこの世界ではとても珍しい黒髪と黄金の瞳を持つ男の顔が映し出される。

 それをしばらく見つめていると、自分が現在直面している奇妙な境遇を再認識させられる。


 確かにあの時、黒龍クロウシスケルビウスは死んだ。


 クロウシス自身もこのような状況に陥るほどに生を渇望したつもりはなく、むしろあの少女との誓約を果たせたことに非常に満足して死んだはずだった。

 だが、現にクロウシスは異なる世界に桶の小さな水面に映っている通り、人間の姿で再び生きている。

 

 ――いや、生かされている。


 それがクロウシスの率直な現状把握の大前提だった。

 如何なる力が介入し、また何者の意思であるかはまだ分からないが、クロウシスが現在(いま)ここに居る事は偶然でも奇跡でもない。

 それを何よりも物語っているのは、自身の中に変わらず存在する黒龍としての力。そしてこの世界において重要な役割を担いながらも、人間によって淘汰されつつある英霊精龍(カーディナルドラゴン)の力。

 この二つの存在こそが、クロウシスを現在の状況へと導いた存在の証明であると同時に、そこに何らかの意図が介在していることの証拠と言える。


 その意図の一端を、クロウシスはあのバーンアレス島で感じた気がした。

 四大元素を司り、世界の安定と契約を結びし種族の繁栄を祈るドラゴンを、他ならぬその契約者たる人間が殺害し、それによって生まれた歪みと禍根、悲哀と絶望。しかしそれでもなお、力無き者たちは亡き龍神に祈りを捧げ、驕りし者達は手にした虚像の力を振るって弱者を踏み躙ろうとする。

 古代に隆盛を誇った文明の遺産の秘儀の一端を解き明かし、手にした力に酔いしれて驕り高ぶった国家の王が旧世代の神と位置付けた龍神を廃し、新たな神を打ち立てて世界を支配する。

 数千年を生きてきたクロウシスには、それに類似した出来事を幾度も見てきていた。そしてその結果、どのような末路を辿ったかもよく知っている。

 クロウシスが感じた意図の一端は、裏切られ死んでいった英霊精龍(カーディナルドラゴン)の未練――と言えば神が残すモノとしては些か俗っぽい表現になるが、死してなお自分たちが守り育んできた愛しい子等を守りたいという信念だった。

 それを――あの島で英霊精龍(カーディナルドラゴン)『焦熱の火山』バーンアレスとして顕現した際に、初めは一切感じなかった火龍の感情や記憶が断片的に浮かんでは消えていき、クロウシスに対し如実に語りかけていた。


 桶から顔を離して四方に壁の無い鐘室から北方へと目を向ける。

 帝都を云わば象徴している四つの壁。

 クロウシスの視線の先には、その中でも最も高く堅牢な壁である王壁があった。

 よく磨かれた黒曜石のような光沢のある壁面は、雲と王壁内部にある巨大な研究所から排出される煙によって薄くなった陽光を反射していた。

 王壁内部の内縁街で調べた結果、あの巨大な研究所で忌々しい龍騎兵(ドラグーン)は研究され、それが約十五年前に稼動したことから研究所は拡張され続け、今では王城と大差ない敷地を有する存在となっていた。

 そして王壁の内部がギリギリ見える高さの造りとなっている鐘楼の中で、クロウシスは黄金の瞳に幾つもの黒煙を吐く煙突を映し、同族であるドラゴンの屍を辱めてその力を浅ましくも探り尽くそうとする人間の様を感じていた。


 ――今ここで黒龍へと転じ、この不遜なる都を跡形もなく灰燼と化してやるべきか。


 そう思わないでもないし、事実それをすることも可能だと思う。

 だが、クロウシスはそうはしない。

 或いは自分がこの世界の新たな一種として自然な成り行きで生を受け、この世界の住人としてこの状況を迎えているならば、クロウシスはかつての自分だった黒龍(モノ)の力を利用し、世界を敵に回してもなお膨らみ続けるこの国家を明確な敵として直ちに滅ぼしたのかもしれない。

 しかし、クロウシスはこの世界において異物であり、現状この帝国を黒龍として葬ったところで各地で拡大し続ける戦火は収まることはない。

 絡み合った戦乱と運命の輪は人間だけの問題ではなく、理不尽に蹂躙され現在も侵略が続く南方大陸。そして未だ動向がハッキリと掴めない北方大陸を総べる魔族の存在。

 帝都を滅ぼし、侵略の暴君とされる男をただ殺したところで、もう状況は収まらないところまできていた。

 

 それにラウズが十年前に聞いたと言う皇帝の言葉。


『帝国を――いや、この世界を救うためには致し方があるまい』


 クリシュを犠牲にして英霊精龍(カーディナルドラゴン)を滅ぼす、という旨の言葉。

 これがラウズを利用するための戯言であるならば、それに越したことはない。

 だが、これが言葉そのままの意味であるならば、一考の余地が出てくる。

 それこそ、その世界を脅かすほどの災厄が差し迫っている場合、自分のような異界の存在が上位存在によって召喚されることは十分に考えられる。


 だからこそ、確かめる必要があるのだ。

 今この世界で起きていること。

 起ころうとしていること。

 それらを明確にしない限り、安易な判断や短絡的な行動に出ることは出来ない。


 クロウシスは自分が生まれ育った世界でさえも、世界が滅びる寸前まで立ち上がろうとはしなかった。

 それはあまりに『個』として完全な存在になりすぎた末に、己の存在が『全の中の個である』という概念を失ったがためだった。

 今度は手遅れになるまで待ちはしない。

 だが、それが如何なる存在であろうとも、正体も分からない相手の手の平で踊らされるつもりもない。

 その真意が善意であれ悪意であれ、この世界の運命線に干渉できるほどの相手であるならば、黒龍としての力を持っていようと迂闊なことは出来ない。


 鐘室からグルリと見渡せば広大な帝都の全容が大よそ一望できる。

 四枚の巨大な壁によって隔離された三つの町並みと一つの宮殿区。

 この帝都は階級や身分によって明確な住み分けがされている都市であり、そのことは既にそこに住まうあらゆる人々にとって揺ぎ無い事実として定義されており、外縁の外で息づく力なき人々も自分達が都市にとって外敵に対する『罪無き群衆の盾』であるという事実を知らずに生活している。

 無論法無き街ゆえに、そこに住む人間にはならず者や悪党も多いが、その存在すらも一種の間引きや小間使いとして中に住む人間は利用していることだろう。


 だが、黒龍にとってそんなことは些細な事とも言える。

 全てにおいて清廉潔白な都市などは存在せず、日中に太陽の光を浴びて都市の町並みが輝けば輝くほどに、その都市が持つ陰影も巨大なものとなり、夜になれば闇が支配して人目のつかない場所で陰惨な悲劇という名の日常が繰り返される。

 それもまた都市としての在り様であり、それを否定するつもりはない。

 光あれば闇があるのは、全ての物事において絶対の成文律なのだから。


 この世界で最も巨大な輝きを放ち、同時に最も巨大な闇を内包する都市を見下ろしながら、今日潜入する予定の蔵書館の位置を遠めで確認していると、この辺りでは群を抜いて高い鐘楼の下から人の声が聞こえてきた。

 通常ならその高さと吹く風も相まって地上にいる人間の声など一切聞こえないのだが、常人に比べて遥かに鋭敏な聴覚を持つクロウシスには、その会話の内容までは聞き取れないものの、それが男女三人組の声だということは判別できていた。


 鐘の音を外界に響き渡らせる為に、鐘室の壁は四隅の柱によって円錐状の屋根を支えており、それ以外の壁は腰辺りで無くなり先程から街を見渡しているように吹き抜けとなっている。

 そこから声がする場所を覗くと、数十メートル下で三人組の男女が街路が合流する周囲を建物に囲まれた広場で何かしているようだった。

 三人の服装は見たことのないものだったが、男二人がほぼ同じ服を着ていることと若い年齢から考えて恐らくは何らかの教育機関ないし訓練機関に所属しているか、あるいはしていたのだろう。

 戦時下ではあるが、サーディアス帝国は侵略戦争開始から一度も本国領土に対する敵国の侵攻を許してはおらず、帝都は戦火の火の粉すら感じることはなく平穏な日々を過している。


 この三人は仕立てのいい服を着ている一方で、頭上から行動を追っていると三人がやろうとしていることの内容はすぐに分かった。だからこそ、その目的と彼らの着ている服は矛盾した印象をクロウシスに与えていた。

 着ている服は内縁街くらいでしか仕立てられないだろう上等な制服であるにも関わらず、行おうとしていることは彫像の破壊工作。これらの要素から推理すれば、彼らが内縁街の学士であり、帝国に反目している抵抗勢力組織(レジスタンス)であることは容易に推察できた。


 帝都の最も外側に位置する流民街には大小様々な抵抗勢力(レジスタンス)が存在し、そういった組織が活動しているのをクロウシスもこの街に来て何度か目撃している。

 だが、彼らがやっていることの大半は盗みや強盗といった行為であり、それも貴族が住む内縁街ではなく比較的危険の少ない外縁街において、帝都から市民権を与えられている中間層を狙っている。

 最初は確かに崇高な意思があったのかもしれないが、クロウシスに言わせれば形骸化した自称抵抗勢力(レジスタンス)など暴徒や無法者と大差ない存在だった。


 鐘楼の下に広がる小奇麗な広場で、石の彫像に炎性魔力を秘めた首飾りのようなものを掛けているところで、クロウシスは広場が十数人の男たちによって包囲されつつあることを感じていた。

 そのことに気づいていない三人が彫像から離れようとしたところで、広場を包囲している一団の代表者らしき男が嘲笑混じりの声音で三人に向かって声を発した。既に周囲が包囲されつつあることに三人は驚いている様子だったが、会話と雰囲気から三人と相手方は顔見知りらしく、三人にはまだそれほど切羽詰った感じはなかった。


 大小様々な抵抗勢力が流民街には存在するが、この内縁街で事を起こすような組織は年々少なくなっていると情報紙には書かれており、事実クロウシスもこの帝都に滞在し始めてから数えるほどしか耳にしていない。

 英霊精龍を駆逐して帝国が新たな信仰の対象として祭り上げようとしている存在。

 その偶像を破壊しようとする行為は、確かに抵抗勢力(レジスタンス)が誕生した当初の理念に沿うものであり、彼ら三人はその点においては純粋な時代の抵抗者なのだろう。

 だが、若さ故の蛮勇と慣れ始めた行動が油断を招き、内縁街の浅くない位置で待ち伏せに近い形で包囲されるという結果となった。


 抵抗勢力(レジスタンス)を結成した多くの人間は、初めは狼として帝国に牙を剥いたが、より巨大で強大な存在へと変貌を遂げていく帝国という怪物を前に自ら牙を折り、やがては日々生きる糧を得ることだけに腐心する烏合の衆となっていく。

 その点では、包囲されている三人は未だ牙を折ることなく小賢しいやり方ではあるが、帝国に対して組織の存在意義の示すとおりに破壊工作を行っている。


 眼下を見下ろして包囲網を見ていると、どうやら三人の敵方は意図的に包囲の甘い箇所を作り三人を逃がすつもりのようだった。恐らくはこの内縁街に三人が侵入した経路の特定と、居るのであれば協力者の特定と捕縛を狙っているのだろう。

 雰囲気的に三人はその意図には気づいていないようで、仕掛けた爆発物の爆破を突破口に逃げ出そうとしている意図が感じ取れる。ここを突破したところで、恐らくここにいるような未熟な一団ではなく正規の軍による追跡が行われて、最終的には捕まるだろう。


 彼らの気概は買うが、その行動がお粗末であることは否めない。

 事象の繰り返しとその度重なる成功は、人から緊張感を取り去り警戒心を薄め、やがて慢心となり隙を生む。

 自業自得と言えばそれまでだが、それでもこういった若く穢れの少ない若者らが巨大な力に対し危険を冒して挑もうとする姿勢を、クロウシスは称賛する。


 仕方が無い。

 そんな何気ない気持ちではあったが、クロウシスは彼らの手助けをするべく鐘室の手すりに足を掛けたところで、三人が爆発物を起爆させた。

 閃光と炸裂音が周囲を駆け抜けて、砕けた彫像の欠片と余波で破壊された台座と噴水の破片が四散して、炎性魔力の燃焼によって赤い火柱が一度だけ大きく立ち昇り、続いてくすんだ色の煙が立ち昇る。


「――っ」


 爆発の閃光にも一切目を眩ませることはなく眼下を見下ろしていたクロウシスだが、手すりに足を掛けたまま目の前で起こった現象に僅かに目を見開く。

 爆発によって砕け散った石の彫像から白いモヤがスゥーっと出現し、それはあるべき場所へ戻る為に空高く昇り、クロウシスの目の前を通過して王壁――その向こう側へと飛び去った。

 思わぬ事態に支柱に手を沿え、手すりに足を掛けたまま白いモヤが飛び去った方向へと視線を向けていたが、下から聞こえる声に反応して再び眼下を見下ろすと、誘われるままに意図的に包囲の網が手薄だった場所を突破して三人が細い路地に消えるところだった。


 その後ろ姿を見送って、包囲していた一団の代表者らしき若い男がニヤっと笑みを浮かべ手を上に掲げると、他の路地から武装した戦兵の集団が現れて三人の追跡を開始した。

 

 帝都を訪れてから、この都市の資料館や古書館、蔵書館に侵入して書物を読み漁ってきた。

 些か悠長な行為ではあったが、人心によって左右される人の話よりも、書物は自身に記された情報のみをくれる。そこに記された事柄の正否については読み手が吟味して判断すればいいだけのことだ。

 しかし王城に直接乗り込むような短慮な真似はしないにしても、少々慎重になり過ぎている部分があるのはクロウシス自身も感じていた。

 閲覧禁止の書物を読み漁り、広大な帝都を行ける範囲で探索もしてきたが、決定的な何かを見つけることは出来ずにいた。王壁内部への侵入も考えたが、いくらかの問題点によってそれは現状難しかった。

 行き詰ったわけでもないが、多少大胆な手段に出なければならないと思っていた矢先に、思わぬ形で手がかりを掴むこととなった。


 爆破されて四散した彫像から出た白いモヤは、クリシュの意識を乗っ取り支配していたあの白炎と同じ性質を持つものだった。つまり、火龍殺害に関して本質的な加害者である人物が、あの王壁の向こう側に現在もいるということになる。

 これは元々ラウズの話を聞いた時点で、その黒幕が誰であるかは予想が立てられていたことではあるが、それは十年前の話であり、さらにラウズは四年間帝都から離れて軍事作戦に参加していた。その間に有力な首謀者である人物が雲隠れしている危惧もあったのだが、今目の前を通り過ぎていった異質な魔力光がその心配が杞憂であることを告げていた。


 ――未だにその女(・・・)はあの壁の中、宮殿の奥、帝都の闇の深部にいる。


 そのことに確信を持たせてくれた三人に助け舟を出すべく、クロウシスは鐘室の縁を蹴って空へと舞った。


                   ◇◆◇


 区画が整理された民壁内部の内縁街は一見入り組んでいるが、その実碁盤の目のような分かり易い構造をしている。だから路地の角を頻繁に曲がることを繰り返してかく乱しているつもりでも、最初からその区画を作戦領域として地図を頭に入れている兵士にしてみれば、逃走者三人の行動は稚拙な行為だった。

 この期に及んで警邏隊との鉢合わせなどがないようにしながらも、追っ手を振り切るように路地の角を曲がって大きな通りを避け、それでも着実に臣壁へと接近していくのは及第点だった。だが、軍隊には追跡に長けた兵士が勿論いるわけで、その兵士に言わせれば鼻の利く雌犬(・・)がいることを除けば、彼ら三人は現在自分達の指揮官を気取っている学士上がりのボンボンよりは、多少使える程度のものだった。


 一定の距離を開けて風の流れを意識しつつ、薬液で体臭を消して追跡を行う。その彼らの頭上をクロウシスは更に追っていた。

 火と風の混成魔法で光を捻じ曲げて姿を消す。だが、とある(・・・)事情により本来の効果を発揮することが出来ず、僅かに揺らめきが残る精度となっている。そして気配を断って高い建物が多い内縁街の屋根を伝っていく。

 そして二重の追跡劇は終端に達する。

 三人組が臣壁から程近い一軒の簡素な邸宅の前で止まり、周囲を気にしながら門の鍵を取り出した。

 そこで三人組の一人である少女が異変に気づき、それに続いて先程と既知感を覚える構図で一人の若い男がT字路になっている街路の先で、戦兵を引き連れて現れた。


 単純な包囲ではなく、注意深く気配を探れば北側と北東側にある建物の屋上と窓に狙撃手が配置されていた。作戦そのものは用意周到だが、指揮に当たっている男の言動を耳にしていると、作戦を立案した人物は別にいることが容易に想像できた。

 三人組と軍の部隊を率いる若い男は、どうやら帝都で同じ学び舎で学んでいた学士のようだった。だがそこには互いに情は一切なく、一方は侮蔑と嘲り、もう一方は怒りと焦りに満ちていた。

 出自による階級主義を傘に高圧的な態度を取る若造と、学士時代から抑圧されて糾弾されてきた三人組。その延長線上の出来事が現状目の前で行われている出来事の全てと言える。

 少なくともクロウシスには陳腐な演劇を見ているかのような光景だった。

 人間はいつも小さな世界で暮らし、狭窄した視野で物事を見る。そして間違いを冒し、小さな間違いに固執するあまり大局を見失って、自責に駆られ他責を追求し、やがて崩壊を迎える。

 そういった矮小な精神構造を作るのが、目の前で起こっているような選民的思想に傾倒した人間と、それに糾弾されて鬱屈していく二者の関係だった。

 数千年を過す中で、何度も何度も幾度も見てきた光景。

 そして多くの場合、後者が自暴自棄になるか膝を折り屈することとなる。


 仲間である少女を侮辱されて憤慨する少年を見れば、この後に彼らが取るであろう行動も分かりそうなものだが、それよりもクロウシスには驚いたことがあった。

 クロウシスは今、三人組がいる邸宅門の二軒隣にある同じような邸宅の屋根にいる。そこで先程までは遠目からでは気づかなかったが、三人組は何とも奇妙な取り合わせだということに気がついた。

 それと同時に面白いと思う思考が沸き上がる。


 あまりに滑稽な光景を前にして、冷め始めていた感情に再び僅かな火が灯る。

 安易に人助けをすることが良いことだ、などとは思っていないが、自分にとって助ける相手がそれに値する相手であるならば、むしろ助けない理由は無い。

 クロウシスにとってそれを決定付けるのは、その存在の在り様が自分の琴線に触れるかどうかだった。

 他種族からすれば傲慢とも思える考えではあるが、ドラゴンは他者と相対した時、常に試し、計り、吟味する生き物である。そしてその結果、力を貸すこともあれば逆に殺すこともある。

 果たして、この三人は――。


「黙れよクソ野郎」


 静かな怒気と共に、聴く者にはっきりと分かる強固な意思のこもった声。

 正規の兵士に包囲され銃口を向けられてなお、屈することなく己の意志を明確に告げた少年の姿に、クロウシスは視線を逸らすことなく向けていた。


「この世界は英霊精龍(カーディナルドラゴン)様たちの御力で保たれて来ていたんだ。俺たちの先祖もお前らの先祖も、この国の発祥を辿っても、英霊精龍様たちの加護があったからこそ平穏に暮らしてこられたんだ。それを忘れて帝国は力に溺れている。力を尽くしてきた古き神を悪として、新しい神を善とするならば、俺は――」


 一拍置いた少年は、足元に転がる剣を一瞥すると、遠く離れた場所で己の優位を信じて疑わない男を視線で射抜いた。


「俺は亡くなられた精龍様の名を汚す輩を決して許さない。命と引き換えにしても、口汚く罵ったことを後悔させてやる」


 見事な口上と力強い意志のこもった視線に射抜かれて、見るからに自分の腰が引けてしまったことに気づくと、男は憤慨しながらもなけなしの矜持を持って喚き散らすことは堪えた。だが込み上げる羞恥と怒りに顔を真っ赤にして、戦兵たちに向かって生きてさえいれば負傷させても構わないと言って捕縛命令を出した。

 戦兵たちは軍規に正しく行動し、無能な指揮官の命令でもそれを実行するのが兵士の務めであると理解しており、文句の一つも発することなく銃を構えて包囲網を狭め始めた。


 そこから彼ら三人が取った行動もまた、クロウシスの琴線に触れるものだった。

 茶色い平民然とした少年が囮を買って出て、唯一の脱出路があると思われる邸宅の門を閉ざす鍵をもう一人の少年に渡すが、深い蒼に白い白波が混じっているような髪をした少年は受け取った鍵を即座に門の内側へと放り投げてしまった。

 そのあまりの暴挙に一瞬思考が停止したようだが、すぐに怒気に満ちた瞳で蒼い少年を睨んで掴みかかろうとしたが、その間に少女が入り込み少女の視線と茶色い髪の少年の視線がぶつかった。

 すると諦めたように掴みかかろうとしていた手を緩め、すぐにやや高い位置にある蒼い少年の瞳を視線を交錯させると、まるでそれだけで全ての意思疎通が完了したかのように、二人は弾かれたように行動に映った。

 銃撃を浴びることを覚悟して、地面の剣を拾い上げながら抜刀して指揮官の少年に向かって遮二無二駆けて行く。その後ろで蒼い少年は防御の呪文を詠唱し、その少年を守るために少女が少年の前に身を投げ出して盾となろうとする。


 ――まったくもって度し難い。


 勝算は限りなく少なく、成功してもまず五体満足ではいられない。

 それでも自暴自棄ではなく、安易に膝を折って屈することもせずに、圧倒的不利な状況においても希望を捨てずに命を賭けて勝負に出る潔さ。

 そんな姿を見せられて、この黒龍が見捨てられるはずがなかった。

 

 茶色い髪の少年――レオリス=ケリンが駆け出したときには、クロウシスも動いていた。

 現在とある事情によって使用できる魔力を制限されているが、それでも二軒隣の邸宅の屋根から屋根を伝って駆け抜け、最後の踏み足に力を込めると魔力によって増強された脚力によってレンガ造りの屋根を砕いて跳躍する。そのまま空中を滑空し、地を駆けるレオリスの前に着地すると同時に抜刀、土のある地面に足が着いたことによって風の精霊力(エレメント)が減退して姿を消していた混成魔法が解除される。


 ――かくして場面は再びあの時に戻る。


 周囲の人間には突然何もない空間から男が浮かび上がってきたように見えたことだろう。そしてクロウシスは三方向から射撃された銃弾のこと如くを斬撃で弾き落とし、後方の二人――ラナルゥ=クルペコナ=スワナミュラとレゾ=ケルゲレンを狙った弾丸を魔力の障壁で防いでいた。


 そこにいる誰もが一言も言葉を発せず身動ぎ一つ出来ずに、突如として現われ人間技とは思えない方法で銃弾を弾いた行為に理解が追いついていなかった。

 人間の限界を超越したことが出来るのは、魔法や秘儀を会得した者のみ。

 英霊精龍(カーディナルドラゴン)が死亡したことにより、この世界の魔力は希薄となり魔法は衰退しつつある。そんな中で、剣で銃弾を弾き落とすような事が出来る人物はとても希有であり、同時に銃を扱う兵士たちにとっては脅威そのものだった。


 クロウシスは剣先と共に身を翻すと、後ろで自分を呆然と見上げている少年の首根っこを掴む。突然首根っこを掴まれて持ち上げられたレオリスは、驚いて『なにを――っ』と叫ぼうとした。だがそれよりも早く急激な加圧が全身に掛かって舌を噛んで言葉を呑み込む破目になった。

 頭一つ分低い程度の身長差があるとはいえ、レオリスを掴んで持ち上げたまま恐るべき高さに跳躍したクロウシスに対して、その場にいる全員が呆気に取られて見上げることしか出来なかった。

 だが、その場から離れた位置にいた狙撃手二人は、その場にいた者たちよりも己を取り戻し、冷静な判断を行うことが出来ていた。そして彼らは空中に跳躍したクロウシスが跳躍の最高点に達し、上昇と下降が入れ替わる一瞬の静止点を狙って狙撃を行った。


 狙撃手として数多の任務と狙撃を行ってきた二人の狙撃手は、一切のズレなく目標物である黒づくめの男――その頭部に照準を合わせて射撃されたのだが、二人の会心の射撃は無情な結果を迎える。

 地上二十メートル付近まで跳躍したクロウシスの頭部めがけて寸分の狂い無く撃ち出されたライフル弾は、黒いフードを引き裂いて頭部に着弾し、頭蓋を砕き脳を破壊して丸い頭部を歪な形に変えるはずだった。

 だが結果はそうはならず、くすんだ陽光の下で鈍い煌きが翻った瞬間、甲高い金属音が一度――正確には二度鳴ったのだが、二発の弾丸は高速の斬撃によってほぼ同時に弾かれたため、金属音が一つに聞こえた。

 優秀な腕を持っており、遠目による視覚的な感覚のみだが、クロウシスの異常性を目撃しながらも冷静に狙撃を行った。その点は称賛に値する行動だったが、さすがに百メートル近く離れた地点からの狙撃までも難なく剣で弾かれるとは思いもしなかった。

 仮に同じことを通常の人間がやっても、奇跡的に弾丸に剣を当てられたとしても弾道を僅かに逸らせただけで身体の何処かを被弾するか、剣への着弾によって生じる衝撃に剣を手放して被弾するかだ。しかし普通に考えて、そもそもそんなことをしようとする者もいなければ、考える者も普通いない。


 空中で狙撃手の弾丸を弾いたクロウシスは、そのまま落下して邸宅の門前で硬直しているラナルゥとレゾの前に降り立った。そして二人に向かって片手で掴んでいたレオリスを放り投げる。

 首根っこを掴まれたまま突然の跳躍、そして急速な降下を見舞われてレオリスは目を回していた。そんな無事なようで無事ではない様子のレオリスを見て、ラナルゥが抱きつきレゾが拳骨を喰らわせる。

 親友二人の熱烈な歓迎にやや青い顔をしたままレオリスが笑った。


 そんな様子を尻目に、クロウシスが鋼鉄製の門扉に向かって片腕を向けると、その手の平に一瞬にして直径五十センチほどの火球が生まれ、躊躇無くそれを解き放つ。

 三人の横を燃え盛る火球がすり抜けて、門扉に着弾すると同時に爆発し、巨大な火柱が上がって庭の芝生を舐めて焼き尽くしていく。

 詠唱も無しに放たれた魔法に三人が呆然としていると、再び甲高い金属音が連続して周囲に響き渡る。慌てて門扉から視線を戻すと、三人に背を向けたクロウシスが振り返り様に戦兵たちの放つ弾丸をまたも剣で弾き飛ばしたところだった。


「――何をしている、行け」


 自分の背中を見つめて固まっている三人にフードの中から声を発すると、三人はビクっと身体を奮わせてカクカクと首を縦に振り立ち上がった。

 僅か後方にある門扉は火球の直撃を受けてグシャグシャになり、その上高温の炎に晒されたことによって飴細工のような歪な塊となっていた。その門扉の残骸を横目に、まだチリチリと火の粉が燻る芝生を踏み越えて三人は邸宅の中へと入っていく。

 その後ろ姿を見送って、三人が逃げ遂せるだけの時間を稼ぐために視線を正面に戻そうとした時、後ろから声がした。戻しかけた視線を再び後ろに戻すと、開け放たれた扉の前に立って心配そうな表情でクロウシスに向かって手を振る少女の姿があった。


「こっち! あなたも早くっ!」


 一緒に逃げようという意思表示のようだが、些か考えの無さ過ぎる行動に思えた。少女の後ろに少年二人の姿が見えない辺り、二人を振り切ってクロウシスを呼び込みにきたらしい。

 低くない塀に囲まれた邸宅なので戦兵たちの攻撃は大丈夫だが、ラナルゥの立つ位置とその無防備さは茫然としていた狙撃手の目に新たな獲物を与えるには十分すぎた。


 正面の戦兵から撃たれる弾丸を片手で持った剣で弾きながら、クロウシスは急ぎ振り返ってラナルゥの周囲に魔力による障壁を展開する。

 ラナルゥの周囲に半透明な障壁が構築されると同時に、水晶に硬い金属がぶつかったような高く澄んだ音が周囲に響き渡る。それはラナルゥを狙って狙撃手が撃ったライフル弾を、魔力の障壁が間一髪のところで防いだ音だった。

 目の前、鼻先十数センチの位置で不可視の障壁に当たって回転を緩め、やがてポトリと落ちた弾丸を目で追う事も無く。ラナルゥは驚きのあまり立ったまま気絶していた。

 またも無防備な姿を晒すラナルゥに、クロウシスはすぐさま地を蹴って玄関扉に向かって駆け込む。そしてそのまま気絶しているラナルゥを小脇に抱えると、気配がする方へ室内を進む。

 邸宅の奥へと進み手入れのされた形跡のないキッチンに入り、そのまま地下へと続く階段を見つけてすぐさま降りていく。小脇に抱えたラナルゥは目を開けたまま身体を硬直させて気絶しており、まるで冷凍した巨大魚でも抱えているような様になっていた。


 キッチンの地下はワインセラーになっていた。

 僅かに湿り気のある空気を感じつつ、樽で貯蔵されているワインセラーを早足で奥へと進むと、巨大なワイン樽を押して退かそうとしているレオリスとレゾがいた。

 二人はクロウシスの姿を見るとビクっと一瞬身体を震わせ、その脇に直立不動で硬直したラナルゥを見て目を見開き、そしてラナルゥが『様子だけ見てくる、絶対危ないことしない』という言葉を見事に反故したのだと悟って大きな溜息と、その無事なようで無事ではない姿に安堵の息を吐いた。


「退いていろ」


 クロウシスは一言発すると、二人はさっと巨大なワイン樽から離れる。それと同時に残像を残すほどの剣閃が横薙ぎに振るわれ、返す刃で更に一閃薙ぎ払う。

 見上げるほどに巨大なワイン樽が中腹部から切り崩され、均衡を失った木の板と鉄製の(たが)が外れて中から大量のワインが溢れ出る。むせ返るほどの酒気が広くない部屋に充満し、溢れ出した赤ワインが床に溜まっていく。

 レオリスとレゾが何の為にこの大樽を動かそうとしていたのかは明白だったので、クロウシスは小脇に抱えていたラナルゥを二人に放り投げて部屋の中央へ進み出る。

 無造作に放り投げられたラナルゥを二人は慌てて受け止めながらも、視線はクロウシスの背中に釘付けになっていた。迷いの無い足取りで中に残った酒を吐き出す酒樽の前まで来ると、斬撃で割れ箍が外れたことにより歪な形に潰れた大樽の中に入っていく。

 息を呑む二人の耳に潰れて歪んだ大樽の中から金属を蹴り込む打撃音が二度三度と聞こえ、四度目の打撃音で頑丈な鉄製の地下扉が蝶番ごと破壊されて地下に転げ落ちる音が聞こえてきた。それと同時に、階上で複数の足音が聞こえて二人は身を硬くする。


「早く来い」


 歪に潰れた怪物のアギトの様な形をした大樽の中から鋭い声が聞こえ、レオリスとレゾは一瞬見合わせて互いに頷くと、レオリスがラナルゥを背負って樽の中へ足を踏み入れた。

 そこで二人が見たものは、大樽の下に隠されていた隠し通路の入り口。その鋼鉄製の扉の無残な姿だった。

 大樽の下、周りの床よりも窪んだ位置に取り付けられた鋼鉄製の扉は、通常三個の頑丈な錠前を取り付けているのだが、今はその全てが尋常ではない力を受けて破壊されている。

 観音開きの扉に取り付けられていた錠前が砕けて、その残骸が扉の左部分にぶら下がり、片割れの右部分は蝶番から千切れて、その残骸は地下へと通じる四角い闇の底だった。


「娘を起こして降りるがいい。じきに追っ手が来る」


「あ、あぁ。おい、ラナ起きろっ!」


「ラナルゥ、起きてっ!」


 大声を上げれば居場所が特定されてしまう状況なのだが、二人はそれよりも目の前の人物を怒らせるほうが恐ろしいのではないか、という思いに至って必死にラナルゥの肩を揺さぶる。二人の思いとは裏腹に目を回して気絶しているラナルゥに意識を取り戻す様子はなく――否。

 それどころか、口をモニュモニュと動かしてあろうことか寝息を立てていた。


「おいレゾ、こいつ寝てるぞ……」


「信じられない……信じられない」


 青い顔をして二人はそう呟くと、恐る恐る後ろを振り返った。

 だが、フードを目深に被ったままのクロウシスは、剣を片手に手狭な部屋の外へ視線を向けて警戒していた。その姿を見て二人はすぐさま頷くと、レゾがラナルゥを抱えたまま呪文を唱え始め、レオリスは一度クロウシスの横を通り過ぎて崩れかけている大樽から出ていく。その姿を眼だけで追うが、クロウシスは何も言わず再び視線を部屋の奥、正確には地下へ降りてくる階段がある通路に向けた。

 大樽を出たレオリスは、資材置き場になっている棚から樽を固定する縄を引っ掴んで大樽に引き返す。再びクロウシスの横を通り抜けて戻ってきたレオリスは、背中にラナルゥを背負ったまま縄で固定する。そして固定が完了すると、レゾがラナルゥの肩に両手を置いて二人に後ろに立つ。


「うしっいくぞ!」


「うんっ!」


 二人は同時に地面を蹴って、ラナルゥを背負ったレオリスが先に穴へと落ち、その後ろからラナルゥの肩に両手を置いたレゾが引きずられるように落ちていく。

 地下通路に続くその穴は狭い縦穴で、三人の鼻先数センチのところに錆びの浮いた梯子があり、鼻先を擦りそうなほどの圧迫感の中で、三人は縦穴を落ちていく。三秒ほど落下したところで、レゾが唱えていた魔法を展開する。薄緑色の光が狭い穴を照らすと同時に、三人が感じていた落下の感覚は浮遊感に変わった。

 レゾが落下中に唱えた『浮遊』の呪文により、三人は落下速度の緩んだ状態で降下し、ゆっくりと下へと降りていく。この穴は縦穴が民壁のモノより遥か深く掘られており、その深さは五十メートルはあった。

 浮遊落下を開始してから十秒ほどが経ち、三人は無事に地下通路へと降り立った。

 ラナルゥを背負ったレオリスが先に降り立ち、それに続いてレゾが足を着ける。三人を包んでいた薄緑の光が静かに消えると、代わりにレゾが片手に薄い緑光を放つ光球を浮かび上がらせた。

 レゾの灯す明かりが周囲を照らす中、二人が上を見上げると三度銃撃音が鳴り響き、それと同時にやはり甲高い金属を立て続けに聞こえ、狭い縦穴で反響した音が三人の耳をつんざく。


「ふぁっ!? あれ、なんでおんぶ? レオリスなんで?」


「ちょっとお前は黙っててくれ」


「ラナルゥ、今ちょっと取り込み中だからそのままね」


「う? うん……」


 二人が固唾を呑んで広くない縦穴を見上げていると、遥か上の入り口を示す小さな光が陰った。それが何を示すかをレオリスはすぐに思い当たり、慌ててレゾの背を押して穴の下から飛び退いた。すると、三人が穴の直下から退けて二秒とかからない内に、縦穴から黒い人影が速度をほぼ緩めることなく落下してきた。

 落下の衝撃は見ている側からは感じられなかったが、ほぼ墜落に近い速度で降りてきたにも関わらずクロウシスは地面に両足で着地し、膝を折った姿勢は取ったものの変わった様子もなく平然と立ち上がった。

 その姿をまたも呆然と見つめる三人を前にして、クロウシスは右腕を縦穴に向けて垂直に掲げると、掲げた右腕に魔力を集中させ始める。その魔力濃度と呪文構成の大きさを見て、三人の中で唯一魔法に明るいレゾが顔を青くにした。


「出口に向かって走れ。 ――あの建物は破壊しても構わないな?」


 短い言葉には言い知れぬ迫力があり、確認された事柄も所在地がバレてしまった地下通路への入り口をそのままにするのは得策ではないし、もう使えないことを考えれば当然と言えた。

 しかし、それでもレオリスは僅かに逡巡した。

 その様子に背中に背負われたラナルゥとレゾが心配そうに眉を寄せた。

 僅かながらの葛藤はあったが、それでもレオリスは顔を上げて、フードの奥で光る黄金の瞳を正面から見て大きく頷いた。


「構わない。やるなら徹底的にやってくれ」


 迷いの無い言葉を聞いて、クロウシスはフードの中で口を僅かに吊り上げて笑んだ。

 そして一人を背負った二人が出口に向かって走り出すと、その背はすぐに闇の中へと消えていった。それを見送ってから上を見上げると、穴を三人の戦兵が見下ろして銃を構えていた。

 広くない縦穴は音をよく反響させ、火薬が爆発して鉛の銃弾を撃ちだす音が鬱陶しいくらいに反響してくる。

 クロウシスは腕に滞留する炎性魔力を躊躇なく解き放ち、腕から呪文の構成によって具現化した紅蓮の炎が縦穴の狭い壁を舐め尽くしながら駆け上がる。

 勘の良い戦兵が迫り来る炎の渦を見て『退避っ退避ィー!』と叫んでいるようだったが、その声をも呑み込んで狭い縦穴から噴出した紅蓮の炎は、ワインセラー内に波及しながらも術者の意に従って地下室の天井を突き破り、そのまま一階天井部、二階天井部を越え、小さな子供の玩具が転がる屋根裏部屋から屋根を突き破って、遂には紅蓮の炎が帝都の空を焦がすかのように噴き上がる。

 そしてそれに続いて、各階を順繰りに舐め尽した炎が逃げ場を探して駆け回り、こぢんまりとした邸宅の窓や扉を突き破って紅蓮の炎が噴き上がり、やがてその炎の勢いによって焼き尽くされた建物の各基部が炭化して、程無く邸宅は崩れ落ちた。



                   ◇◆◇◆◇◆◇



 広大な流民街の一角、外観は小さな倉庫に似た建物だが、その中は小奇麗な内装の居住空間となっている。

 倉庫の中は大部屋一つだけで構成され、木目の板張りの上に簡素なソファーとテーブルが配置されている。そして今、そのソファーに一人の男が腰を下ろしてティーカップを手に紅茶を飲んでいた。

 ここは精龍の加護(ドラグリーペ)の隠れ家。


 クロウシスは目深に被っていたフード付きのローブを今は脱ぎ、黒い髪と黄金の瞳が人目を引く顔を出して、紅茶を啜る姿にも何処か凄みのようなものが感じられた。

 そしてここの主である三人はと言えば、レオリスとレゾはクロウシスの向かいのソファーに座り、無言で目の前で静かに紅茶を飲んでいるクロウシスの様子を窺っていた。

 

 あの後、無事に外縁街に脱出した三人はクロウシスが出てくるのを待ち、しばらくして追いついたクロウシスに礼をしたいと頼み込んで同行を願った。そしてそれを承諾したクロウシスを連れて、例の『ケリン武具店』の地下道を通って流民街へ戻り、今に至る。

 流民街に少なからず存在する地下水路から、この扉の無い隠れ家にクロウシスを案内して急ぎ紅茶を淹れてもてなしたまでは良かったのだが、二人には礼を言って頭を下げてから続く言葉がなかった。


 第二学院に通っていた学士時代には、第一学院のボンボン連中相手に大立ち回りを演じて、その度に教師一同に呼び出されては説教を受けていたが、その如何なる時よりも二人は緊張していた。

 レオリスは人間業とは思えない剣技に、レゾは英霊精龍(カーディナルドラゴン)死によって魔法は衰退しているはずなのに、まったくそれを感じさせない手腕にそれぞれ文字通り度肝を抜かれ、尊敬と同時に畏怖に近い感情を持っていた。


「出来たよぉー!」


 そんな二人の緊張を他所に、キッチンでお礼にと昼食を作っていたラナルゥが大皿に炒め物をよそい、ホカホカと湯気の立つ料理を三人の間にあるテーブルに置き、続けざまにパンやスープをテーブルに置くと最後に自分用の紅茶をティーカップに注ぐと、二人が座っているソファーにドッカリと座る。


「それで、お話できたの?」


 あっけらかんと聞いてくるラナルゥに、二人は口元をヒクヒクとさせながら苦しげな笑みを浮かべる。そんな二人の反応に小首を傾げながら、ラナルゥは目の前の料理を静かに見下ろしているクロウシスに視線を向ける。


「えっと、自己紹介はさっきしたよね。私はラナルゥ=クルペコナ=スワナミュラ、十六歳!」


「なんでまた自己紹介してんの!? あ、レオリス=ケリン十六歳……学院では騎士目指してた……ました」


「ちょ、レオリスまでラナルゥに流されてるってば! ――レゾ=ケルゲレンです。十六歳、学院では魔道師目指していました」


 謎の流れを見せる三人にクロウシスは料理から視線を上げて、三人を見渡してからおもむろに口を開いた。

 

「クロウシスケルビウス。年齢は数えるのを随分前に止めている。今は放浪者のようなものだ」


 乗っかってくれたクロウシスに胸を撫で下ろしながら、レオリスとレゾの二人が息を吐いていると、ソファー右端に座っているラナルゥが二人の心配を他所に積極的に会話を試みる。


クロウシス(・・・・・)ケルビウス(・・・・・)さん。助けてくれて、本当にありがとうっ! 今までああいうこと無かったから、本当にもうダメかと思ったんだ」


「ほ、本当に感謝してる……ます」


英霊精龍(カーディナルドラゴン)の信徒として、必ずこの恩はお返しします」


 三者三様の感謝の意にクロウシスは僅かに眼を細めて、大仰に頷いた。


「お前たちを助けたのは、こちらにも利あってのことだ。だから気にする必要は無い」


 利があってのこと、という言葉にラナルゥを除く二人の顔に一瞬緊張が走ったが、目の前の人物がその気になれば自分達など煮ることも焼くことも自由なことに思い当たると、開き直って緊張を解いた。そしてそれを察したかのようにクロウシスが言葉を続ける。


「利というのはお前たちが行った石像破壊だ。アレを偶然見かけて、我が直面している問題を解決するに当たって助けとなった。故にその礼も兼ねてお前たちを助けた」


 三人にとっては、その説明を信じることしか出来ず、だが不思議とクロウシスの話に嘘を感じるようなこともなかったので、その話を自然と受け入れていた。

 それ以上は互いの事情を探り合うような会話はせず、昼食をとり始めた。


 本来であれば三人とも、もっと目の前にいる人物のことを根掘り葉掘り聞きたいところではあるのだが、クロウシスの纏った只ならぬ雰囲気に気圧され気味であるのと、通常こういった時に空気を読まずに質問をぶつけるラナルゥまでもが、ここにきて空気を読み始めるという珍事によって会話は途切れていた。

 だが沈黙の続いていた食卓は、意外にもクロウシスの言葉でその沈黙が解かれる。


「――起きたか」


「「「?」」」


 黙々と振舞われた質素ながらも温かい食事を食べていたクロウシスが不意にそんなことを言い、三人はスープを飲んだり、紅茶を飲んだり、パンを齧ったりしたままクロウシスの顔を見た。

 するとクロウシスの服が内側でモゾモゾと動き出すと、中にいる何か長い蛇のようなモノの膨らみがズズっと上がってくると、クロウシスの胸の襟元から白い生き物が顔を出した。

 その白い生き物が何であるか三人はすぐには理解できなかったが、敬虔な精龍信仰の信徒である彼ら三人はその生き物を小さい頃から絵本や書物でずっと見てきていた。だからこそ、その正体を悟った瞬間、レオリスとレゾは驚きのあまり嚥下していたモノを気道に入らせてしまった。


「ブホッ!! ゲホっゴホッ!?」


「ブフゥゥゥゥッ!! ゲホッゴホッゲホッ!?」


「え、あれ? 嘘、違うよね? ねぇねぇ二人とも、あれって白龍様じゃないよね?」


 レオリスとレゾが盛大に咽てスープと紅茶を噴出し、唯一パンを齧っていたラナルゥが顔面爆発を起こしている二人の肩を揺さぶりながら、クロウシスの襟元から顔を覗かせている白龍の幼生を見ている。


 賑やかな三人に小首を傾げているのは、白龍――トリヴァリアスアルテミヤ。


 一点の穢れも汚れも許さない純白の体色はツヤツヤと輝き、長く流麗な胴体の先にある頭部には、精霊銀(ミスリル)よりも美しく複雑な紋様を持つ銀の瞳が、まったく感情の読めない視線を向けている。

 曇りの無い銀色の瞳で咽て咳き込む二人と、キラキラとした瞳で自分を見つめるラナルゥをしばらく見つめたあと、トリヴァはシュルシュルっとクロウシスの襟元から長い胴体を這わせて出てくると、テーブルの上にある料理を間近で見つめ、もう一度三人の顔を見つめる。


「うわぁー! うわぁー! は、白龍様だよっ! 本物だよっ! 凄いっ凄いよっ! 父様にも母様にも、じっちゃにもばっちゃにも、ルナにも自慢できるよっ!」


「お、おっおっおおおお落ち着きたまえラナ君。白龍様の御前だぞっ! 敬虔なる精龍信徒であるならば、恥ずかしくない態度で接しなければならないだろっ!?」


「――――」


 はしゃぐラナルゥ、動揺の極致に達して人格が崩壊しつつあるレオリス、両手を合わせ組んで祈りを捧げるレゾ。トリヴァの登場によってその場は一瞬にして混沌と化した。

 しかしそれも無理の無い話で、根っからの英霊精龍(カーディナルドラゴン)を崇める精龍信仰の信徒である彼らに、崇める神々の頂点に位置する聖龍(・・)を前にして冷静でいろという方が無理な話だった。

 三者三様の反応を見せる三人をしばらく見つめていたが、やがてトリヴァはテーブルから顔を離して再びクロウシスの元へと戻ると、左の背中から右肩に身体を巻きつけるように移動すると、おもむろにクロウシスの耳をハムハムと甘噛みし始めた。

 くすぐったいその行為が空腹の合図であることを知っているクロウシスは、懐から小さな麻袋を取り出すと、中から木の実を取り出す。すると、肩から腕に身体を這わせてクロウシスの手まで移動し、そのまま差し出された木の実を啄ばむように小さく齧り始めた。

 バーンアレス島にいた頃は潰したものを食べていたのだが、今は少しずつだが自分で齧るようになっていた。その光景を見つめていた三人は、あの白龍が完全に心を許している相手に尊敬の念を感じると同時に、尚更目の前にいる人物が何者なのかという疑問に駆られていた。


「あ、あのっあのっ……白龍様を触っていいですかっ!」


「なっ――お、おまっおまぁー!」


「な、なんて恐れ多いことを……」


 レオリスとレゾの呻きを無視して、ラナルゥがキラキラとした表情でクロウシスを見つめると、その熱心さに苦笑してクロウシスが右腕に巻きついて木の実を懸命に齧っている白龍に眼を落とす。


「こいつは我の所有物ではない。ゆえに、触れたいのであれば本人に訊くといい」


 確かにいくら精龍信仰が急速に衰退しているとはいえ、白龍を飼うなどというだいそれた行為をする者がいるわけがない。と分かっていても、どういう経緯で共に行動するようになり、白龍にここまで心を許されているのか三人は不思議でならず、思わず聞きそうにもなるが白龍の神格と神秘性を思えば、不躾に尋ねるのが不敬で恐れ多く感じてしまう。


 ラナルゥはクロウシスの言葉に頷き、トリヴァが食事を終えるのを待つことにした。

 そして食べ終わるのを待つ間も、美しい白龍の幼生が小さな口で木の実を齧る姿に、瞳をキラキラとさせながら見つめていた。その後ろではレオリスとレゾも一緒になって、興味深そうにトリヴァの食事の様子を見つめる。


 やがて二つの木の実を平らげたトリヴァは『ケプッ』としゃっくりのようなゲップをすると、目の前で自分を注視する六つの瞳に気づくと、大きな銀瞳をパチクリと瞬きさせる。

 すると待ってましたとばかりにラナルゥがシュタっと立つと、ジィーっと自分達を見つめるトリヴァにそーっと手を差し伸べる。


「白龍様――あ、お名前は、えーっと……」


 差し出した手を引っ込めてクロウシスの顔を見ると、クロウシスがその名を告げる。


「 トリヴァリアスアルテミヤだ」


「トリヴァ……リアス様、凄いお名前。で、ではっ失礼しますっ!」


 名前を呼んで、白い体表にスっと手を差し伸べる。伸ばした先は顔の少し下、ツルツルとした光沢を放つ美しい体にラナルゥの手が触れる――ことはなかった。

 伸ばしたラナルゥの手が触れる直前で、トリヴァはヒョイっと長くしなやかな体を捻ってラナルゥの手をかわす。(くう)を撫でた手に呆然とし、諦めずもう一度手を伸ばすがその手もやはりかわされる。段々ムキになって何度か手を伸ばすが、その全てをヒョイヒョイと避けてしまう。


「レオリスっレゾ君も手伝って!」


「えっあ、お……おぅ?!」


「ま、まずいんじゃないかなぁ……」


 涙目で振り返ったラナルゥの協力要請に、レオリスとレゾは戸惑いながらも立ち上がった。それを見ると、トリヴァはスルスルっとクロウシスの服から抜け出すと、部屋の中を逃げ始めた。

 すかさずラナルゥが追いかけて飛びつくが、寸でのところでかわされて観葉植物に頭から突っ込んだ。ラナルゥをかわしたトリヴァを側面からレゾが掴もうとするが、長い体をヒョイっと振るとあっさりとそれを回避してしまう。たたらを踏んでいるレゾから離れるトリヴァに、レオリスが頭から突っ込むような姿勢で飛び掛るが、トリヴァは床に体を這わすように身を低くしてそれをかわした。


 顔面から床に激突して赤くなった顎と鼻を擦りながらレオリスが起き上がると、同じく起き上がったラナルゥと既に姿勢を正しているレゾに目配せする。

 そんな三人を遠巻きに見つめながら、トリヴァはテーブルを挟んだ部屋の反対側で銀色の瞳をクリクリと動かす。沈黙が流れ、ジリジリと間合いを測るように動く三人とユラユラっと体を揺らす白龍。

 その間にあるソファーで紅茶を飲んでいたクロウシスが、手に持っていたティーカップをソーサーに置く『カチッ』という陶器が触れ合う音がした瞬間、三人は一斉に飛びかかった。

 ドッタンバッタンと広くない部屋の中を走り回り、あの手この手を駆使して三人はトリヴァを捕まえようと走り回るが、白龍は三人の少年少女を翻弄し続けた。


 数時間前まで抵抗勢力(レジスタンス)として破壊工作を行い、失態から窮地に陥って命の危機に瀕したばかりの三人の若者。

 それが今は白龍を相手に、まるで童子に返ったかのようにはしゃいでいる。

 ざわつき震える心――恐怖。

 恐怖とは一瞬の場合もあれば、時間を経て考えることによって改めて実感するものもある。


                    ◇◆◇


 元世界での戦争では今目の前にいる三人よりも遥かに若い――いや、幼い戦士が多くいた。劣勢の中で志願を募り、その呼び声に応えて戦列に加わった十年もまだ生きていない子供たち。


 初陣で昨日まで隣に寝ていた仲間が消え、寝床にしていた大テントは随分と余裕を持って両手足を広げれるスペースが出来ていた。だが、そんな快適さなどよりも、昨日まで日中の訓練や自己鍛錬の成果、そして迫る戦いに対する恐怖を共に分かち合い、幾度も夜を乗り越えてきた仲間を失ったという事実。その喪失感と自分が生きていることに対する喜び、自分が生き残ってしまった罪悪感。

 そして減っていく仲間、明日という終らない終わり(・・・・・・・)が来続ける恐怖を徐々に孤独になりながら耐え、乗り越えていかないといけない過酷さ。年端もいかない少年少女の中には、精神に異常をきたす者もいた。


 日に日に明るさを失い、瞳に宿す光は輝かしい童心ではなく鋭利なモノとなっていく。それは強くなった証ではあるが、同時にどうしようもない弱さを隠そうとする虚光だった。

 そんな子供たちを集めて、あの僧正巫は戦地であるにも関わらず遊びに誘った。軍団の中でも最高位に位置する存在である僧正巫に集められた子供たちは緊張していた。

 だが、僧正巫の口から出た言葉は彼らにとってまったく予想外のものだった。


 ――これから私と遊びましょう。


 そう言われた時の子供たちの素の顔は、今思い出しても愉快だった。

 死ぬ為に生きるため、無理やりに戦士の仮面を被り、死ぬ瞬間まで自分ではない自分であり続けようとする子供たちは、見方によってはこれ以上ない素晴らしい戦士だったことだろう。だが、あの僧正巫はそれを良しとしなかった。

 戸惑う子供らの前で、膝を折って目線を同じ位置まで下げた僧正巫は少年ら一人一人の顔を見て、ニコッと微笑むと腰を上げて両手を広げた。


 ――鬼ごっこをしましょう。まずは私が鬼です。


 そう言ってニコニコと微笑む僧正巫を前に、自分達がどうするべきか――命令に準じて、それを果すことだけに腐心して命を削ってきた彼らにとって、命令とは思えない僧正巫の提案にただただ迷って動けないでいた。

 すると僧正巫はクルッと後ろを向くと、自身に呪法を掛ける。そして再度振り返り、少年たちに向けた顔は――恐ろしく精巧に出来た黒い龍の頭部だった。

 あまりの変わり様に言葉も出ない子供らを睥睨するように僧正巫が顔を動かすと、その竜頭から黒い炎が噴き上がり黒く美しい僧正巫の長い髪が逆立つ。


 それは誰が見ても自軍の象徴的存在である、黒龍の姿だった。


 あまりに恐れ多い、そして恐れ知らずの行為にその場にいた数千人の兵士が丘の上――野営地にしていた小高い丘陵の上でこちらを見下ろしている黒龍に視線をやった。

 事の成り行きを見ていた黒龍は、その場にいる全ての人間を睥睨し、やがてその視線が最後に行き着いた僧正巫に向けられると、フンっと鼻を鳴らす。


 ――許す。 


 ただ一言で場の空気は安堵に満ち、同時に大人たちから子供らに向かって檄が飛ぶ。


 ――しっかり逃げろよっ!

 ――僧正巫殿に捕まると、頭からバリバリと食べられてしまうぞ。

 ――イーダっ! 第五十六歩兵分隊の意地を見せてやれっ!


 大人の身勝手な、だが温かな応援が寄せられるが、少年らにとってはそれどころではなかった。

 なにしろ竜頭の出来があまりに良すぎるゆえにその恐怖は半端ないもので、少年らは僅かに後退り必死に自分の武器を探るが、彼らの武装は緊急時の暗器ものも含めて、先程全て没収されていた。


 ――捕まらずに逃げ切ると、私がお菓子を作って差し上げますよ。


 恐ろしい姿とは裏腹に、穏やかで鈴を転がすような声音。

 大人から見ればそのギャップも怖いのだが、少年らは久しく聞いていなかった『お菓子』という単語に反応し、仲間と互いに顔を見合わせると、やがて蜘蛛の子を散らすかのように四方八方へ逃げ出した。

 そして僧正巫もまた動きだし、加減した動きで存分に少年少女らを追い回し始める。

 最初は後ろから迫り来る竜頭の僧正巫に死に物狂いで逃げていた子供らだったが、捕まると言っても背中を優しく触れられるだけで、次々と他の子供らを追いかける僧正巫の姿に段々と警戒心は解けていき、最初は硬い表情をしていた子供たちも徐々に警戒を解いて相好を崩してゆき、やがて年相応の笑顔を見せて楽しそうに逃げ回っていた。


 途中で鬼を交代した際、子供たちの顔が突然黒龍の竜頭に変わり、場が大きくざわめいた。その場にいた全員がそれをなしたのは僧正巫だと思っていたが、当の本人である僧正巫自身はそれをなした本当の主を知っていた。

 軍団の長として憧れの存在である黒龍に成れたと子供らは大いに喜び、目を輝かせて僧正巫を追い回す子供らから逃げ回りながら、僧正巫は丘の上で自分達を見下ろす黒龍に微笑んだ。


                     ◇◆◇


 恐怖を乗り越えるには二つの方法がある。

 一つはより恐ろしい恐怖を自ら仮定し、その恐怖と直面しないために今目の前にある恐怖に打ち勝つこと。この方法は恐怖を上書きすることで強くなれるが、その実蓄積される心痛が肥大化していき、やがて精神がその重みに耐えられず異常をきたす。

 もう一つの方法は、笑うことだ。

 陳腐なことだが、喜びや楽しみは恐怖を払拭し、それを共有した者とは強い絆で結ばれ、生死の掛かった恐ろしい状況であろうと、ある種の余裕を持って行動することができる。


 あの時、僧正巫は行ったのは後者だ。

 目の前で白龍を追いかける三人は、今は先程味わった死の恐怖を忘れて純粋に楽しんでいる。

 それでも夜、寝る間際になれば恐らく昼間の恐怖を思い出して身を震わせることだろう。

 だが、同時に今している白龍との追いかけっこを思い出し、クスりと笑うことができる。


 そうであれば、もう恐怖のみに支配されて心が折れるような心配は無い。


 三人と一匹の追いかけっこは、結局日暮れ間際まで続くこととなる。

 その間、クロウシスは過去の出来事に思い出しながら、互いの気が済むまで静か見守っていた。



後書きを活動報告にて書いております。

よろしければ、本文読後にお読みください。


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