第一章17-それそれの別離-
2013/1/27
終わり間際の魔族登場部分を加筆しました。
夜は完全に明けきり、太陽はアウレイス山の山頂を目指すかのように徐々に高い位置へと移動する。
英霊精龍『焦熱の火山』バーンアレスの復活に連動し、十年間の鬱憤を晴らすかのように噴火していた火山活動も、今は主の意思に従い活動を沈静化させている。
火山灰や火山ガスはバーンアレスの権能によって操作され、大部分は気流によって空へと巻き上げられ、それに洩れたものは周囲の海に飛散する。流れ出した溶岩も急速に冷えて固まり、これ以上大地を呑み込み森を焼くこともない。
太古より、この島の火山活動は島の主であるバーンアレスによって制御され、数世代前の巫女が願ったことによってアレス城が建てられ人が移り住んだ。それにより、自らを神と崇め信望する人間たちのために、バーンアレスは大規模な噴火を起こさず、起こしたとしても人間たちが住むに窮するような環境には決してしなかった。
首謀者であるサウルの死亡によって、バーンアレス島における事件は一気に終息へ向かった。広場へと投降した兵士については、ラウズが乗ってきた軍艦アウレイスに乗船していた海兵たちによって、現在包囲及び監視されている。城内にいた者は兵士を含めて、現在アウレイス山から下山しこちらに向かっている将軍ジノン=ロックたちの意見を聞き、サウル側に加担していたかどうかの吟味を受けるまでは城内の中庭に集められていた。
悪辣な行為に及んでいる者に関しては、クロウシスの眼で視れば心に溜まる闇を見透かすことが出来るので、後ほどジノンたちによる証言と本人たちの告白の後に、嘘があるかどうかを選別することとなっている。
それでもこの二年間、この城の中は異常な状況下であったことは変わりない。故に判断が難しい場合もあるかもしれないが、出来る限り真実を解明して公正に裁く事が求められている
現在ラウズは海軍兵を率いて城内の捜索を行っている。
目的は人質の救出と未だ城内に潜伏している者たちの炙り出し。通常であれば少数でそれを行うのは骨が折れるのだが、幸いにもラウズの緋色の瞳には、生物を燃える炎として知覚する能力が備わっている。戦闘でも有利に働く能力ではあるが、今回のような隠れている相手を見つけることにも適していた。
クロウシスが火龍から人の姿へと戻ると、ラウズは驚いていたがクリシュが事の経緯とクロウシスが『火龍の力と記憶をその身に宿した人物』と説明して納得した。そしてクロウシスを火龍と同義に敬い、これまでの事について改めて片膝を着き伏して礼を述べた。
そして、現在クロウシスとクリシュはアレス城の地下にある一つの扉の前にいた。
同行しようとした兵たちの同行を入り口までで差し止め、二人は地下へと降りた。すえた臭いが立ち込め、牢屋から感じる視線は怯え、警戒、困惑、不審など様々だった。城を襲った数度の激震は当然この地下牢にも及んでおり、地下牢のいくつかは天井が崩れて土砂と石材が雪崩を起こし、鉄格子を突き破って牢から通路へと洩れ出ていた。
「た、助けてくれ……天井が崩れそうなんだ」
「何が起こってんだよぉ……出してくれよぉ」
「こんな所で死にたくねぇ……」
格子の隙間から助けを求めるように手が出るが、クロウシスはその一切に目を向けずに通路を進み。クリシュは気にする素振りは見せたが、虜囚の扱いは後ほどアレス城東部に位置する演習場を制圧し、そこにある牢屋へと移し変えることが決定している。
二人が立っているのは、その通路の奥にある木製の分厚い扉の前だった。
扉の横には牢番が在駐する簡素な机と椅子があったが、そこには誰もいなかった。鍵束の類もないのだが、クロウシスは気にした様子も無く扉のノブに手を伸ばし、それを捻ると扉の鍵も当たり前にように解錠された。この鍵自体はしっかりしたもので、元々この扉の奥は重要な罪人を閉じ込めておく牢屋だったことからも、決していい加減な鍵ではなかった。だが、クロウシスの解錠魔法にとっては一拍の間すら必要のないものだった。
扉の先に進み、そこには今の牢屋を上回る腐臭にも似た強烈な異臭だった。
そして両側には鉄格子ではなく、厳重な木製の壁がそこに潜むケダモノを押し込めるように牢を塞いでいた。木製の封じ扉についている小窓からは侵入者を値踏みするような視線だけが感じられ、先ほどの牢に居た者達のような動揺や懇願などはない。それだけで、ここにいる人間たちの異常性が窺われた。
二人が通路を歩き、扉と扉の中間辺りまで来たところで牢屋の住人たちがクリシュを見て騒ぎ始める。
「おぃぃぃぃっ! ゼミリオのクソ野郎じゃないって思ってたけど、なんだよぉぉぉぉっ!」
「すげぇ……すげぇいい女だ……」
「あぁ、ウブくて美味そうだ……」
「なんだぁぁぁぁこらぁぁぁぁ! これから奥でお楽しみかよぉ!?」
虜囚の男たちは、クロウシスには大した興味を示さなかったが、その後ろを歩く艶やかなだが清楚さも兼ね備えた真紅の巫女服に身を包み、暗闇の中で光を放っているのではないかと錯覚するほどに美しい銀髪、そして聡明さと意志の強さ磨きが掛かった青眼が人の目を引いて止まない。
クリシュは間違いなく、男たちが生涯を通して見てきた中で最も美しい存在だった。
はやし立て騒ぐ声に混じって、牢の一人が小窓から白濁とした液体をクリシュに向かって投げつける。この男は今までそうやってここに連れて来られる時と、ここから連れ出される女に対して、いつもそうやって自分の穢れた欲望を投げつけて悦に浸っていた。
いつも通りに自分の欲望が、目の前を通り過ぎようとする美しい少女に付着し、それが何であるかを知った少女が悲鳴を上げたり、憎しみの表情を自分に向けるのがこの男の最高の楽しみであり、男はその瞬間を待ちわびた。だが、その思惑は思いもしない結末を迎える。男が手から投げた液体は、少女に触れる三十センチほど手前で塵も残さずに蒸発して消え去った。
「……!?」
何が起きたのか理解することが出来ず呆然とする男の前で、クロウシスが立ち止まりそれに倣って後ろを歩いていたクリシュも立ち止まる。何故そこで立ち止まったのか、意図は分からなかったが男はチャンスだと思い再び少女を汚すためのモノを出そうとした時――男の体が発火した。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
耳をつんざく様な絶叫が牢内に木霊し、牢の中で火だるまになった男が苦しみのあまり何度も木製の封じ扉を叩くが、扉はビクともせず全身を焦がす炎に焼かれ男はその場に崩れ落ちて絶命した。
焼死した男の断末魔が途絶えると、牢内は静寂に包まれた。明かり一つ入らない空間の中、一体何が起きたのか理解できずにいた虜囚たちだったが、次第にあることに気づいて戦慄し腰が引けて広くない牢内の壁まで下がる者が続出した。
彼らが見たのは二対の光。
蝋燭による火もカンテラもない牢内は真っ暗だった。
虜囚たちはここでの暮らしているために闇に目が慣れている。
その闇の中に、黄金と深紅に輝く光が浮かび上がる。
何をするでもなく、ただそこにあるだけだが、その光を見ると精神が不安定になり怖気がした。
虜囚たちには、その光がまるで幽鬼じみた死神の眼に思えた。
魂の穢れた罪人を探し出し、業火を灯して焼き尽くし、魂を冥府へと引きずり落とす。
理性や経験ではなく、本能が恐れをなしている。
それと目を合わせてはいけない――それを見てはいけない。
静かになった牢内を二対の光は進み、程無くして二人は最奥にある扉に辿り付いた。
先ほどと同様に分厚い木製の扉。
クロウシスは先ほど動揺にノブを捻るだけで扉を施錠して中に足を踏み入れる。先ほどよりも重々しく、錆びた蝶番の軋む音と共に禁断の扉は開かれた。
石畳と石造りの壁に囲まれた十メートル四方の部屋。
床には鉄球のついた足枷、壁には手枷が取り付けられている。その部屋の奥――壁際に二人の女性が手枷をはめられ、粗末な衣服を着た状態で壁に繋がれていた。
「クエイラっ! エレイン!」
火龍の首飾りの事は全員その顔も名前もクリシュは覚えていた。
クリシュが女性たちの名前を呼んで、その側に駆け寄った。美しい巫女服が汚れるのも構わず、その場に膝をついて二人に触れようとした時、牢内に甲高い悲鳴が響き渡った。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! もう許してぇぇぇぇぇぇっ!」
焦点が合わず理性の光を失い曇った瞳にはクリシュの姿は映らず、ただ何もかもが恐ろしくて堪らなく恐ろしいという気持ちだけに支配され、クエイラは泣き叫ぶ。
「クエイラっ! 私です、クリシュですっ!」
クリシュが必死に呼びかけるが、その声すら届くことは無くクエイラは手枷を揺らして何とかしてクリシュ――他人から距離を取ろうと痩せた体を引きずるように遠ざけ、手枷が細い手首に食い込んで血を滲ませる。
その様子を見てクリシュは悲しみで堪らなくなり、手枷を砕いて外しそのままクエイラを必死に抱きしめた。
「ごめんなさい……っ! 遅くなってしまって……私が愚鈍で力不足だったばかりに、貴方達にこんな仕打ちを受けさせてしまいました……っ」
抱き締められたクエイラは怯え続け、クリシュを突き放そうと腕の中でも暴れる。筋力が落ちている上に、手首の腱を切られており力の無い抵抗ではあったが、必死にもがく手がクリシュの頬を引っ掻き血が滲んだ。それでもクリシュは、腕の中で怯えきっている壊れてしまった心を必死に抱き締め続けた。
「酷いことしないで……もう痛いのは嫌ぁ、助けて……たすけて……」
疲れで暴れる力を失い、徐々に大人しくなるクエイラを抱き締めていると、その横から声がした。
「姫様……」
驚いてクリシュが顔を向けると、もう一人の虜囚であるエレインがクリシュを見ていた。その瞳には理性の光が灯っており、クエイラのように気が狂ってはいなかった。
「エレイン、ごめんなさい。助けに来るのがあまりに遅すぎました……」
「いいえ、姫様……来て下さっただけで嬉しく思います。ここにいた皆も、信じておりました……」
顔を俯かせたエレインの頬に涙が零れ落ちる。その肩にクリシュが触れようとすると、エレインは鋭い声でそれを拒絶した。
「触れてはいけませんっ!」
そのあまりの剣幕にクリシュはビクっと手を止めて、エレインを見た。
「……失礼なことを言って申し訳ございません。ですが、私は体も……そして心も穢れております。姫様に触れて頂くわけにはいきません」
そんなことはないと、首を振ろうとするクリシュにエレインは涙に濡れた顔を向けた。
「私は……私は自分の身を守るために、気が狂れた振りをしていたのです……」
その静かな告白にクリシュは息を呑み、未だ手枷に自由を奪われたまま涙を流しながら己の罪と恥を告げる火龍の首飾りの言葉を聞いた。
「……気が狂れた者は凌辱されることが少なくなるんです。それに気づいた私は、自分が辛い思いをしたくないばかりに……おかしくなった振りをして、他の娘が襲われる声を聞いていました……。最後まで残ってしまった私は、特にクエイラとセリスに辛い思いをさせました……」
声を詰らせたエレインは、噛んだ唇から血を流しながら、まさに血を吐くような声で悔やみ続ける。
「セレスは最後まで気丈に振る舞って、誇り高いあの娘はきっと死ぬほどの嫌悪感を持っていたはずなのに、自分から私やクエイラの分まで拷問や凌辱を受けてくれました……」
その時のことを思い出したエレインが涙を零れ落としながら身動ぎすると、ジャラリと手枷の鎖が擦れる音が室内に響く。クリシュがエレインの手枷も解こうと手を伸ばすと、それをエレイン自身が言葉と視線で制止した。
「お止め下さい、姫様……それよりもお願いがあるのです。どうか、どうか私を処刑なさって下さい」
あまりに予想外の望みにクリシュは目を見開いて動きを止めて、自分に涙を滲ませた瞳を向けてくるエレインを凝視した。元々ショートカットに切っていた栗色の髪の毛は背中まで伸び、目尻の泣きホクロを涙が幾筋も通って濡らしていた。
「そ、そんなこと……できません。気が狂れた振りをしていたことを咎めるつもりもありません。このような異常な環境で、正常な判断を下すことの方が難しいです。それにもう、サウル=パンディアもゼミリオ=カウンティにも神罰が下っているのです。だから――」
「――そうではないのです」
王族であり主であるクリシュの言葉を遮り、エレインは首をユルユルと力なく振る。そして悲しみに満ちた瞳でクリシュを見て、次に自分の体を見下ろす。
「私は……身篭っているのです。あの悪魔の――ゼミリオ=カウンティの子を、この身に宿しております」
今までとは一線を画す衝撃的な告白に対し、クリシュは口元を右手で覆い瞳に宿った強い意志をグラつかせた。その様子を悲しげに見つめながら、エレインは自分の体を見下ろす。
「私は今、もしこの手枷を外されれば迷い無く死を選びます。ですが……ですが、勝手で卑怯で下劣な奴だと見下げられても仕方がありません……でも、この上、罪もない命まで道連れにすることが、私は堪らなく恐ろしいのです……ぅっうぅぅ」
我慢出来なくなり嗚咽を漏らす侍女騎士の姿に、同じ人間として、同じ女として胸に詰るものがあった。だがそれでも、クリシュはエレインに対して掛けられる言葉を思いつくことができなかった。処刑を望む言葉に『分かった』というわけにもいかないが、かといって『産んで育てるべき』などということを言うことも出来ない。
「記憶を……消すこともできます」
クリシュがようやく漏らした言葉は、言わば逃げの一手だった。それが根本的な解決にならないことは、クリシュ自身が身を持って体験しているのだから。しかし、それ以外に提案できる事が人生経験のまだ浅いクリシュにはなかった。
「もし……この記憶を失くす方法があったとして、私がこの子を産んだとしても……もし何かの拍子で一瞬でも記憶が戻れば、私はこの子を手に掛けてしまいます……そうでなくとも、疎み蔑み呪うようになります。この子に罪は無くとも……私は、私はこの子にとっての悪魔になってしまう」
血を吐くようなその言葉に、遂にクリシュは掛けるべき言葉を失い伸ばした手を震えながら下ろした。それを見て、今まで黙して見守っていたクロウシスが動いた。
「決は下ったであろう。クリシュ、今のお前にはこの者の意志を折ることも、救うことも出来はしない。ならば、我はこの者の意志を尊重しよう」
「ま、待って下さいっ!」
歩き始めたクロウシスを制止しようと声を掛けようとするが、かと言って掛けられた言葉の通りクリシュにはエレインの考えも変えることも、まして救うことも出来はしない。だからこそ、強く止めることが出来ず腕の中で震えるクエイラを抱き締めることしか出来なかった。
「人間の娘よ。名は?」
「――っ!? エレイン=ファルカ……です。貴方はいったい……」
「我は火龍バーンアレスの代理人だ」
若干濁した言い方ではあるが、聡いエレインはクロウシスが火龍そのものである予想を立て、それを確かめる為に驚きに目を見開いたままクリシュを見ると、クリシュは小さく頷いた。するとエレインは歓喜と安堵に瞳を潤ませて、クロウシスに向かって頭を垂れた。
「火龍様……どうか罪深き私を罰してください」
その様子を黄金の瞳に映し、クロウシスは一度クリシュに視線をやると、僅かに滲む悲しみの色を青眼に宿してクリシュが首を横に振った。
「エレイン=ファルカ。我はドラゴンとしての価値観を持っているが故に、お前たち人間のように生短き者が、精神に治癒不可能な傷を負った場合、それを慰める言葉を持たない。だが、これだけは言っておこう。生きているのであればお前の家族、そしてそこにいる我が巫女を含め多くの仲間がお前の帰参を待っている。そしてその者達は生涯に渡ってお前を守り励まし、共に生きてくれるであろう」
クロウシスの知る強き人間はそうであり、あの侍女騎士たちはそれに当てはまると黒龍は思う。だからこそ、そこで一拍の間を置いて、黄金の瞳に映る傷ついた娘にもう一度問う。
「――それでもお前は、生きることが出来ぬか?」
火龍神が掛ける言葉には気遣いが感じられ、自分如き人間の女に偉大なる火龍が心を砕いた言葉をかけてくれた事に感動し、エレインは本当に久しぶりに悲しみや辛さ以外の理由で熱い涙を流した。そしてしばらく嗚咽を漏らしていたが、やがて顔を上げる。
「ありがとうございます、火龍様。ですが、どうかこの罪深き人間に神罰をお与え下さい……幸い私に家族は居りません。ですが、私の無事を祈り死力を尽くして戦い、待ってくれている仲間と優しい姫様が差し伸べて下さった救いの手を払い、卑怯にも逃げるこの女を……どうか貴方様の炎で焼き尽くして下さいませ」
悲しくも喜びに満ちた瞳を向けてくるエレインに、クロウシスは静かに頷いた。そして側に寄ると、エレインの手を拘束している手枷を触れるだけで破壊した。自由になった手を一度だけ擦ったエレインは、揺れる瞳を自分に向けるクリシュとその腕に抱かれて震えるクエイラを見た。
「姫様。これは私の意思でございます。勝手な事を言った挙句に、優しい姫様の心に穢れとなって残らないように、どうか私のことはお忘れ下さい……」
クリシュはギュっと唇を噛み締めると、涙に濡れた顔を上げてエレインの手をそっと握った。そして無理矢理に微笑を浮べる。
「私は忘れません。エレイン=ファルカという、私の首飾りを決して忘れません……」
クリシュに出来る最大級の感謝の言葉に、エレインは目を瞑りまた幾筋も涙を流して頷く。目を開けてクリシュに抱かれているクエイラの横顔を見つめ、優しく微笑んだ。
「ごめんね、クエイラ……どうか、どうか幸せに」
その言葉を最後に、エレインはクロウシスの前で跪き力の入らない両手を胸の前で結んだ。神に最後の審判を下してもらい、殉教することを心待ちにする信徒のように、エレインは目を瞑りその時を待った。
「英霊精龍に名を連ねる一柱として誓おう。汝の魂が安らかなる場所へ逝くことを――」
クロウシスがエレインの頭に片手を置くと、すぐにその体が淡い真紅の光に包まれる。そしてその光が強く輝くにつれて、エレインの体が光と粒となって蒸発していく。それは肉体を焼くのではなく、幽精体を焼くことで一切の痛みも無く安らかに迎えことができる『死』だった。
薄れる意識の中で、エレインは短い生涯を思い返していた。侍女として過した数年間、侍女騎士となり仲間たちと過した日々を思い返して、そのどれもが輝いて思える。最後の二年は死ぬほど辛く、自分という人間が如何に卑怯で汚い人間かということを思い知った。だがそれでも、自分の命を奪ってくれる神に出会えて望み通りの死を賜ることが出来たのは、彼女にとって最良の幸福だった。
「――……あり……とぅ、さ……なら」
「……エレ、ィ…ン?」
光の粒子となったエレインが虚空に消える間際に残した言葉に、クリシュの胸で震えていたクエイラがほんの僅かな声を漏らした。仲間であり友達だった娘が残した最期の言葉に、僅かながら残っていた正常な精神が反応した。それは彼女の傷が癒える可能性を示唆する現象であり、希望だった。
エレインだった光は虚空へ消え去り、部屋には静けさだけが残る。
「クロウシス様……ありがとうございます。私の騎士の望みを叶えて下さり、感謝に堪えません」
伏した顔には涙が光り、頬を伝って顎から落ちる。その様を見つめ、クロウシスはただ一言確認する。
「大丈夫で、あろうな?」
その一言にクリシュはグイっと袖で顔を拭い、すぐに顔を上げた。
「はい。私は大丈夫です」
「ならば良い。その娘の記憶を消し、外へ出るとしよう」
「……はい」
クロウシスはクエイラに忘却の魔法を掛ける。
精神状態が非常に耗弱しているクエイラは、忘却の魔法に対しても抗うような精神的な力は一切残っておらず、彼女の記憶からこの二年間の記憶が残らず消え去った。しかし手の腱を切られているクエイラが、自身の体の傷と欠落した記憶に違和感を持たないはずもなく、その認識のズレによって苦しむことは明白だった。
記憶を消しても体の傷は消えず、負った心の傷も無くなりはしない。
彼女に深い傷を負わせたのは人間だが、それを癒すことが出来るのもまた同じ人間であることをクロウシスは知っていた。今はただその可能性に期待するしかない。
クリシュからクエイラを預かり、その憐れなほどに軽い体を抱えて、クロウシスは腕の中で眠る少女に願いを託して死を選んだ、潔くも脆弱な魂を持った少女の想いと共にそこを出た。
◇◆◇◆◇◆◇
アレス城の中庭はかつての活気を取り戻すかのように賑わっていた。
アウレイス山から下山していた城下町の住民と移民たちが到着し、城内に蓄えてあった食糧や医療品が解放されて、広い中庭はさながら野営地と化していた。
二年に渡る圧政と抑圧、理不尽な暴力から解放されたことに人々は歓喜し、喜びに満ち溢れている。特に二年間ほとんど満足な食事を摂れていなかった移民者たちは、炊き出しの列に並び配膳されたものから家族と身を寄せ合って涙を流しながら食物を口に運んでいた。
アレス城東部にある演習施設も海軍兵を引き連れたラウズによって既に制圧され、移民集落に集められた兵たちは町長であるアグロ、将軍ジノン、アレス城の侍女長らにサウル側に加担していたかの吟味が行われる予定で、現在は全員が集落跡で拘束されて監視されている。
配膳作業は城の侍女と村の女性が主動していたが、その中には火龍の首飾り近衛騎士団の赤い制服も混ざっていた。村人に止められていたが、彼女達の侍女魂が擽られたのか結局率先して配膳を行い、男たちは美人が多い火龍の首飾りにデレデレしながら食事を受け取っていた。
この二年間、笑うことすら許されず耐え忍んできた人々。
陽光の暖かさを感じながら、人々は解放された喜びと生き抜いた実感を噛み締めている。
不意に城に近いほうからざわめきが起き、それが伝播して波のように伝わってくる。そして不思議なことにざわめきはすぐに静寂となり、立っていた者もすぐにその場に腰を下ろし始めた。何事かと後ろの方にいた人間が視線を送ると、立っている者が座ったおかげで開けた視界の先で、城から二人の人物がこちらに歩いてきていた。それを見て、後ろにいた人々も食事する手を止めて真っ直ぐ前に視線を向ける。
真紅の巫女服を身に纏った火龍巫女にして、このアレス城の主であるクリシュ姫。その隣に肩を並べて、黒を基調とした見慣れない服に身を包み、珍しい黒髪は陽光を反射せず落ち着いた色を放っている。その腕には黒い法衣のような布に包まれた一人の少女が抱かれていた。
「クエイラっ!」
赤い制服を着た火龍の首飾りが数人、少女を抱える男――クロウシスの元に駆け寄った。意識の無いクエイラはそれでも軽く、同じ女である侍女騎士でも何の抵抗も重さも感じることなく抱えられた。そして側に来ていた侍女騎士の長であるジル=カーティスにクロウシスがクエイラの状態を話すと、ジルは手が白くなるほどに強く握り締めて俯いた。
そして深々と礼をすると、クエイラを連れてその場を離れる。
クロウシスは懐を探ると、首の襟元から白く長い白龍の幼生がニュルリと顔を出し、その口には小さなペンダントがくわえられていた。クロウシスは僅かに苦笑して、その白龍からペンダントを受け取った。
「ティリス=ロル」
特に大きい声というだけではないのだが、クロウシスの声は不思議とよく通り離れた位置にいたティリスの耳にもしっかりと届いた。クロウシスがバーンアレスである事については、既にユティとミリアンによって火龍の首飾りたちには明かされており、呼ばれたティリスは竦みあがりそうになる緊張感と共に、自分が呼ばれた意味を理解して転げるような勢いでクロウシスの前に平伏した。
「立つがいい、ティリス=ロル」
地面に頭を擦り付けんばかりに平伏した少女を前に、クロウシスは残酷な事実を告げなければならなかった。その声音と、城から助け出された侍女騎士がクエイラだけだったことからも、ティリスはある程度の覚悟をした――つもりだった。だが、顔を上げるのが――真実を知るのが恐ろしくて、クロウシスに促されても顔を上げることが出来ずにいた。
「セリス=ロルは助けられなかった」
その言葉にビクっと一瞬体を震わせる。
何を言われたのかを理解するために、必死に頭を巡らせようとするが押し寄せる怒涛の感情が脳裏を綯い交ぜにして、目を大きく見開いたまま表情が凍りついたように動かない。
「我がこの島に訪れた時点で、火龍としてお前たちに手を貸していたならば、恐らくセリス=ロルを始め多くの人間を助けられただろう」
その言葉は偽らざる事実なのだろう。
では、助けられた命を救わなかったのは、いったい何故なのか――それを理解できないほどに、ティリスの精神は幼くはなかったし、不忠な騎士でもなかった。
「だが、我は火龍としての――いや、我自身の都合によって、結局はお前の姉を見捨てたようなものだ。恨むことを責めはせぬ、我はお前との約束を反故にすることを前提に結んだも同然なのだからな」
降り立つ静かな声に、ティリスは首を振って否定する。だが、ジワジワと実感する姉セリスの死に対する認識がティリスの感情を責め立て、我慢していた涙が決壊寸前となり漏れ出た雫が地面についた手の甲に零れ落ちる。
平伏したまま小さく震える少女の背を見つめ、クロウシスは膝を折って手に持ったペンダントをティリスに見えるように差し出した。目の前に差し出された見覚えのあるペンダントを見て、ティリスは涙を散らしながら顔を恐る恐る上げた。
「我はセリス=ロルは救えなかった。だが、トリヴァリアスがセリス=ロルを連れ帰ってくれた。我には出来ぬ芸当だ……せめて、最期の別れをするがいい」
言葉の意味が理解できず、差し出されたペンダントに震える手で触れた時、ペンダントが眩い光を放ちティリスの意識はここではない何処かへと飛ばされる。周囲の時間が止まったような錯覚を受けるが、それは単にティリスの意識が通常の時間の流れとは異なる場所に移ったからだった。
ペンダントの放つ光は目を開けていられないほどの輝きで、光が徐々に収まってもしばらく目を開けることが出来なかった。光が完全に収まりボヤける視界の向こう側に、人影が朧気に見える。次第に明瞭になっていく視界の中で、ティリスはまだハッキリとは見えない中でも視線の先に立っている人物が誰であるかすぐに分かった。
「お姉ちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!」
まだ回復し切っていない視力のことなど忘れ去り、ティリスは駆け出した。
二人のいる場所は麦畑の中、そこは二人がまだ孤児院に引き取られる前に暮らしていた小さな村の記憶。災害で両親を失い、行き場を失った自分達を引き取ってくれたのは母方の祖母だった。老いた祖母の住むひなびた農村で、セリスはまだ物心がついたばかりのティリスの世話をしながら祖母を助けていた。
その村で暮らしたのは、祖母が亡くなるまでの僅か三年間だったが、貧しくも穏やかで日々だった。そしてここは、二人がよく虫や蝶を追いかけた麦畑だった。
光の残滓と涙でぼやける視界に何度も転びそうになりながら、ティリスは必死に走り、遂に姉セリスの優しい表情も着ている服も分かるほどに近くまで駆け寄り、そのまま抱きついた。
「お姉ちゃぁぁんっ! うっ……っく、あいたっ会いたかったよぉぉぉお姉ちゃんっ」
「ティリス……」
優しく抱きしめてくれる姉の柔らかで温かい体温を感じ、自分の名を呼んでくれる優しい声にティリスは涙が止まらなくなり、ぎゅうっとセリスの背中に回した手に力を込めて泣き続けた。
やがてセリスは、ティリスを抱きしめたまま頭を優しく撫でながら、言葉を紡ぎ始めた。
「ティリス……ごめんね、ずっと一緒って約束したのに」
「どうして……? ずっと一緒にいようよ、お姉ちゃん……火龍様やトリヴァ様にお願いすれば、きっと――」
「ううん。火龍様やトリヴァ様でも、死んでしまった人間を生き返らせることはできないのよ」
「だって、嫌だよ……お姉ちゃんの居ない世界で、私はどうやって生きていけばいいの……?」
「大丈夫よ。ティリスには姫様も、火龍の首飾りの皆も一緒に居てくれる」
セリスの言葉を聞いたティリスは、抱きしめる手に離れないという意思と共に力を込めて、セリスの胸に顔を埋めて嗚咽する。
「でも、お姉ちゃんがいないよ……? もう、抱きしめてもらえない、頭も撫でてもらえない……声だって聞けなくなるんだよ……」
「うん……ごめんね、ティリス。ごめんね……」
「お姉ちゃんは悪くないよっ悪くなんてないのにぃ……っうぅぅ」
理不尽な運命に対して声を上げて泣く妹の背中を、セリスは優しくポンポンとあやす様に叩いた。
「お姉ちゃん、ここでなら……私もここにくれば、一緒にいられる?」
「ダメよ、ティリス。そんなことを言っては絶対にダメ。一緒に居たい気持ちは私も同じだけど、ティリスには生きて欲しいの」
「どうして……?」
「だって……」
言葉を濁した姉の顔を見上げたティリスは、セリスの頬を伝う涙を見て、次に言われた言葉に衝撃を受ける。
「だって、私は生きたかったもの……最後の最期まで、私は生きようと必死だった」
「お姉……ちゃん」
絶望的な状況でも最後まで生きようとした姉の気持ちを感じて、その無念さと悲哀に触れてティリスは涙を流す姉の頬を撫でて涙を拭う。
「――ありがとう。ティリスは信じてくれる?」
悲しげに微笑む姉に、ティリスは自分の無神経さが悲しくなって泣きながら何度も頷いた。
「うん……だから、ティリスにも生きて欲しい。私達の分まで精一杯生きて幸せになって欲しいな。それでいつかティリスがお婆ちゃんになって、幸せな気持ちでこっちに来たら……また一緒にいようね。ティリスの好きなアップルパイをご馳走できるように、お姉ちゃんも腕を磨いておくから――」
セリスは目を瞑りティリスの額に自分の額を寄せて、自分の愛しいと思う気持ちが少しでもティリスに届くように想いを込める。
「優しいティリス……どうか幸せになって、私はずっと一緒にいるから――このペンダントと一緒に、ティリスが幸せになるのを見守ってるよ――」
「うん、お姉ちゃん――」
「またね、私の愛しいティリス――」
「うん、ありがとう……ありがっとぅ……おねぇちゃっ――」
ティリスが目を開けると、そこにはアレス城中庭の地面が目に映り、手にしていたはずのペンダントが首に下げられていた。そのペンダントをぎゅっと握り締めて、ティリスは涙をボトボトと流しながらも、服の袖で何度も顔を拭い真っ赤になった顔を上げた。
そして目の前の光景を見て、息を呑んだ。
赤銅色の巨躯。
全高二十メートル以上はある異形が、長い首を曲げてティリスを見ていた。
鮮烈な赤の中で一際輝く黄金の瞳に間近で見つめられて、ティリスは息が止まりそうになる。
ただでさえ巨大な身体を広げた翼がさらに大きく見せ、頭頂部から後頭部に向かって生えた真紅の角が炎を噴き上げ、合流した炎がたてがみとなっている。そして後頭部から背骨に沿ってヒレが生えており、それは尾まで続いている。
英霊精龍『焦熱の火山』バーンアレスがそこにいた。
目の前にいるティリスはもちろん呆然としているが、クロウシスが人の姿から火龍へと転じるのを目撃した人々もまた呆然としていたが、先に自分を取り戻したものから胸の前で手を結ぶ。
『ティリス=ロル。セリス=ロルを迎えに行こうぞ」
「え……?」
『弔ってやらねばなるまい。別れは……済ませてきたのだろう?』
火龍の言葉にセリスの遺体が残っているという意図を読み取り、ティリスは顔を上げて自分を見下ろす火龍の黄金の瞳を見つめ、一度だけ目を瞑ると自分の胸の前で揺れるペンダントを握り締めると目を開く。
「――はいっ!」
葛藤と悲しみに押し潰されず、再び歩き出すことを選んだ少女の意思に敬意を払い、クロウシスは手を差し出しそこに乗るように言った。ティリスが驚いて、目の前に差し出された大きな火龍の手と顔を何度か往復させた後、クリシュに視線を送ると、クリシュは優しく微笑んで頷いた。それを見てティリスは恐る恐るクロウシスの手に――乗る前に靴を脱いで、更に自分の足を洗わないといけないのではないかとオロオロしていると、頭上から声が響いてきた。
『靴を履いたままで良い。そもそも裸足では火傷をする』
という至極当たり前な意見を火龍に言われてしまい、中庭にいた人々が一斉に大爆笑した。真っ赤になったティリスがもう一度靴を履いて、胸の前で手を結んでからそっと火龍の手に上がった。そしてクロウシスが身体を起こすと、視界が一気に高くなりティリスは慌てて側にあった大きな指にしがみついた。
そして大空へと羽ばたき舞い上がる火龍とティリスに向かって、人々は歓声を上げた。
人も城もあっという間に小さくなり、吹く風は強くとも温かくさわやかだった。
見回す限り途方も無く青い空と地平線の先まで続く青い海を見て、その壮大さと果てしない世界の大きさを感じながら、ティリスは胸のペンダントを握り締めて、誰にも聞こえない声で囁く。
「お姉ちゃん……私、頑張るよ――だから、そこで見ていてね」
手の中の少女が、これが最後と決めて流す涙が枯れるまで、クロウシスは空を舞った。
◇◆◇◆◇◆◇
アレス城を奪還した日より半月が経った。
既にサウル一派とそれに与した者たちの選別は済んでおり、アウレイスは一度出航した港であるモルデリクに帰港し、輸送船を連れてこちらに着くのが三日後を予定している。
後宮扱いだった主塔部をクロウシスが消し飛ばしたので、その部分の修理や地下牢の閉鎖及び放棄。移民者たちの正式な受け入れを整えるなど、やることは山積しておりクリシュと侍女騎士たちは毎日忙しそうに駆け回っていた。
ラウズもアウレイスが移民船と共にこちらに戻るまではクリシュの補佐をする事にして、兄妹であーでもないこーでもないと意見を出し合ってはバーンアレス島の統治に関して意見を交わしていた。
一方で一躍火龍として持て囃されてしまったクロウシスはと言えば、アレス城の書庫で文献を読み漁ったり、ラウズから現在の世界情勢についての説明を受けたりと、情報収集を優先して行っていた。その側にはミリアンとユティが警護として付き(※断ったが押し切られた)、さらに相変わらずトリヴァが付きもつれ、おまけでミリエルも暇を見つけてはクロウシスのところへやってきていた。
ミリアンは崇拝する偉大なる火龍の警護をしている――という至高の喜びに打ち震えている様子で、ユティも相変わらず『閣下』と言って気安い態度(クロウシスの許可済)で接していたが、出会った時に寄せていた思慕の思いは自らを説き伏せて諦めていた。自分程度では分に余り過ぎる御方だという理由と、主の恋路を邪魔するほど切羽詰っていないと笑うと、それを聞いたクリシュが顔を真っ赤にして首をブンブンと振って否定していた。
月夜の美しい空の下、クロウシスはアレス城の北側の海辺に来ていた。
周囲には材木や石材が並べられ、ここで日中行われている工事の資材が積まれていた。
ここは元々港であり、クロウシスの一撃で崩壊した港の修理が現在行われいる。破壊することは一瞬だが、それを直すには多大な労力と時間が必要となる。だが、それを厭わず働くのは人間という種族の美徳の一つだろうと、壊した張本人は思っていた。
海を見ているクロウシスの背に声がかけられる。
「ここにいらっしゃいましたか」
「クリシュか」
「はい」
出会った時とは違う快活な受け答えをして、クリシュはクロウシスの横――正確には僅かに半歩ほど下がった位置に並んで月に照らされる海を見つめた。何を話すでもなく二人で海を見つめていると、クロウシスがちょうど言っておかなければならないことがあったので、それをクリシュに告げることにした。
「我は明日の朝、この島を出る」
「――そうですか。どちらへ行かれるのか、お聞きしてもよろしいですか?」
「帝都サルディアだ」
その返答はクリシュにとって予想通りと言えば予想通りだったのだが、改めて本人から告げられると思っていたよりも衝撃的だった。
「帝都へ……どうかお気をつけ下さい。帝都には軍本部もございます。それに兄様と同じように『龍を狩りし者』の名を冠した人物が二人います」
『龍を狩りし者』。
それはつまり、英霊精龍を討伐した者ということだ。ラウズは結果的に祭り上げられただけだったが、今のラウズならば条件さえ揃えば不可能とも言い切れない力は持っている。
さらに今回の事件と十年前の出来事を裏で操っていた黒幕も、恐らくは帝都にいるだろう。それを考えれば確かに危険な場所ではあるが、同時に危険を冒してでも訪れる価値がある場所でもある。
「忠告は受けよう。だが、どんな存在であろうと我は負けはしない」
「はい。私もそう信じています」
真っ直ぐな思いを言葉と視線に乗せて、クリシュははっきりとした口調と態度で表す。その強さを人間のありようとして好ましく思い、クロウシスは頷いた。すると不意にクリシュは少し何かを迷うような様子で口をモゴモゴとさせた後、意を決して尋ねた。
「クロウシス様。貴方様の中にあるのは――バーンアレス様の記憶なのですか?」
「違う。我の中にあるのはバーンアレスとしての力のみだ」
「では、どうして私達のことを……」
「クリシュよ、覚えておくといい。ドラゴンの根源たる意志は『力』に集約されている」
「力に……」
「そうだ。純然たる生物ゆえに、ドラゴンは云わば『力』を崇拝している。この島そのものが、この火龍にとって因縁深い地だったことも起因しているだろう。そして我は人の身で力を振るう内に、火龍の意志と記憶が力と共に発露され明確な形となって我を導いた」
クロウシスの言葉を整理するように黙したクリシュは、胸の前で手を結び祈りを捧ぐ。それはきっと、人間によって謀殺されてもなお自分たちを信じてくれた火龍に対する感謝の祈りだったのだろう。
「ありがとうございます。得心がゆきました」
「そうか」
再び沈黙が訪れる。
二人の間には寄せては引く波の音だけがしばらく流れ、先に口を開いたのはクロウシスだった。
「すまないと思っている」
「え……?」
何を謝られたのか分からず困惑するクリシュが横を向くと、クロウシスは海を見つめたまま言葉を続けた。
「セリス=ロルを始めとする囚われていた侍女騎士たち。そして砦を守るために命を落とした者たちも、救うことの出来た命だったかもしれない。我は仮定の話をするのは好まぬ――が、そうすることが必要だったという考えは変わらずとも、肉親を失い悲しみに暮れるティリス=ロルや仲間を失い失意する侍女騎士たちを見れば、必要な犠牲だったと割り切って考えるのも正しいとは言い切れぬ」
一般的なドラゴンの観点から言えば人の命など儚く容易く消えるもの。その代わりに彼らは繁殖することに容易く数を増やしているのだ。だが肩を並べて戦い、劣勢の中でも懸命に足掻き、絶望的な状況でも肉親を思って諦めず懸命に生きようとする姿を見れば、それが取るに足らない存在だと唾棄するのは早計だと黒龍は思う。
単に知能が高くそれ故に生への執着が他の生物よりも強いのだと、人間を評した他のドラゴンが書いた書物を読んだこともあったし、それもまた一つの結論としては間違っていないだろう。
人間とは他の種族以上に醜い部分と潔い部分が明確に分かる種族だといえる。寿命が短い故に、どちらかに傾けば一気に染まるし、得てして闇に染まりやすいのも特徴だろう。だが、そういう存在だからこそ光を求めて必死に生きる人間を、クロウシスは好ましく思う。
「いいのです、先生」
クリシュがクロウシスをバーンアレスと認識してからはずっと『クロウシス様』と呼んでいたのだが、突然その前に呼んでいた『先生』という呼び方をしたことに驚いて隣に視線を向けると、クリシュは胸の前で手を結び祈りを捧げる姿勢で目を瞑っていた。
「セリスもクエイラもエレインも、砦で散っていった皆も悲しくて無念だったと思います。でも、これは生きている者が勝手に描く勝手な幻想ですが、私たち生き延びた者たちは命を亡くした者たちの思いを背負い、それを重荷と感じずに生きていくことを課せられています。そう思えば、今後の人生でとても恥ずかしい生き方なんて出来ません」
「それは……随分乱暴で都合の良い捉え方だな」
辛辣な言葉にクリシュは苦笑しながら、だが真っ直ぐに夜空を見上げる。
「はい……。残された者、生かされた者は、助けられたかもしれない命に対して嘆くのではなく。これから救える命に対して、もう二度と後悔しない選択を取るしかありません。まして、貴方様は神にも等しい存在。どうか――どうか彼女たちの命を憐れに思うならば、次なる悲劇を生まぬために御力をお振るい下さい」
晴れた日の静かな湖畔を映す空のように、曇りなき日の空を映す海のように、澄み切った青い瞳にクロウシスを映してクリシュは願った。その願いと言葉は確かにクロウシスの胸に届き静かに溶けた。
黄金の瞳には一切の揺れはない。いったいどんな景色を、どんな情景を映せばそんな深さの底知れない瞳となるのかクリシュには想像がつかなかった。ただ、今分かっているのは、一時の別れが近づいているということだけ。
「先生」
「ん?」
「私、クリシュは先生の巫女です」
その告白にも似た宣誓にクロウシスは僅かに困惑し、同時に否定しようとした。
クリシュを愛し、クリシュが愛したのは自分ではない。十年前に命を賭けて目の前にいる少女を守り、全てを託して死んでいった火龍バーンアレスはもういない。自分は力によって伝わって来た記憶と意志を出来る限り忠実に演じた偽者でしかないのだから。
「クリシュ、我は――」
全てを理解しているはずの少女が、この期に及んで勘違いはしないようにと言い含めようとしたが、その言葉を続ける前にクロウシスの唇に小さく柔らかな少女の人差し指が触れて、続く言葉を遮った。
指先で口を封じられたまま黄金の瞳が映す視線の先で、クリシュは柔らかく微笑む。
月夜の下、闇の中でも栄える銀髪が風に流れるその姿は美しいものだった。
クロウシスをじっと見つめていた透明な青色の瞳が、瞬きをした瞬間に華麗な深紅へと転ずる。そして一瞬で変化した瞳が映すのは、クロウシスの黄金の瞳。
時間にすれば僅か十数秒だが、二人は静かな波の音を聞きながら見つめあった。そしてクリシュがクロウシスの唇から指を離すと、その指を自分の唇に当てて赤い顔でそっとなぞった。
行動の意図がクロウシスにはよく分からなかったが、クリシュはその場から顔を赤くしたまま逃げ出すように走り去り、仮設防波堤に上ったところで振り向いた。
「先生。どうかご無事で、良い旅をっ! 私も私の意志を貫いて、必ず達成してみせます!」
そして大きく礼をすると、そのまま城の方角へ走っていった。
後姿を見送ったクロウシスは、強くなった巫女との出会いを思い出しながら、夜更けの海を見つめていた。
その背後に再び気配を感じるが、その気配は人のモノではなかった。
「魔族か……」
「ご明察。はじめまして、火龍様」
どこかすっ呆けたような口調で、闇の中から現れたのは二人の魔族だった。
月光の元に姿を現したのを感じ振り向くと、そこにはクロウシス同様に黒を基調とした服に身を包んだ二人組が立っていた。姿形は人間と大差ないが、肌が異常に白く耳が尖っている。
声を返してきたのは前に立つ男の方で、糸のような目を更に細めて笑みを浮かべている。髪の色は青み掛かった灰色で、それを背中まで伸ばし首の辺りで紐状のリボンで結んでいる。
もう一人の男は長身で鋭い眼光を放ち、鋼のような灰色の髪を短く切って後ろに撫で付けている。そして冷淡さの窺える無表情で、じっとクロウシスを見つめていた。
「いやはや、一連の騒動の一部始終を見させて頂いておりました。何とも心躍る痛快な見世物でしたよ」
心底楽しかったという様子で笑みを浮かべる魔族に対し、犠牲となった者達の顔を思い浮かべて僅かにザワつくものがあったが、魔族はドラゴン以上に人間という種族を蔑む傾向にあることを知っているので、こちらの世界の魔族も同様なのだろうと達観した考えでザワついたものを精神の底へ沈めた。
「まさか英霊精龍を宿した存在がこの世にいるとは。我々も世界の動向には常に目を光らせているつもりなのですが、いやはや……恐れ入りました」
ニコニコと笑みを浮かべて話す魔族の真意を探るべきかと思い、クロウシスが自身を黒龍へとシフトさせようとした時、まるでそれを察したかのように糸目の魔族が一歩退く。
「――バーンアレス様、いえクロウシス様でしたか? 遅ればせながら、私はヴァリミシアより参りましたネロと申します。こちらの彼はとても無口なので、失礼を承知で私が代わりに自己紹介をさせて頂きますが、私の同僚でアゼキウスと言います」
名を名乗ったネロはニコニコとした表情を崩さす、アゼキウスという魔族は名を紹介されても表情一つ動かすことなく、ただ無言でクロウシスを見つめていた。
「先ほどの王女様とのお話、失礼ながら聞かせて頂きました」
「盗み聞きとは悪趣味だな、魔族」
クリシュの純真さを汚す行為に思え、言葉尻に僅かな怒気を含ませる。それを察したのか、ネロは胸の前で両手を慌てた様子で振る。
「聞いてしまったことは謝罪します。ですが、帝都にいらっしゃるのであれば好都合です」
「どういう意味だ?」
既に察しはついていたが、敢えて尋ねたクロウシスにネロは再び慇懃な態度で笑みを浮かべる。その糸目の奥に光る怪しい輝きは底知れないモノを感じさせたが、クロウシスは一切動じることなく黄金の瞳を僅かに細めた。
「もうじき帝都では、我ら魔族と帝国の友好を祝した宴が開かれます。我々はその宴に貴方様をご招待させて頂きたく、こうして姿を現したのでございます。どうぞ、こちらが招待状となります」
白い手袋に包まれた手が差し出したのは、上質の羊皮紙で誂えられた招待状だった。封蝋を施されたおり、刻印されているのは大鎌に巻きついた茨。
「……」
手を伸ばしたクロウシスにネロが笑みを深くして手紙を手渡そうとした瞬間、真紅の炎が燃え上がり手紙を一瞬にして灰にした。
「……っ!?」
「招待状など無くとも行ってやる……戻って飼い主にそう伝えるがいい」
月が雲で隠れ闇が増した海岸で炯々と光る黄金の瞳は、輝きを放っているにも関わらず底知れない闇のようだった。まるで周囲の光を引きずりこみ、奪った光によって何よりも輝きを放つ魔星のようだ。
その光に呑まれそうになり、ネロは慌てて視線を切り冷や汗を掻きながら手元で燃えた手紙の残滓を火の粉と一緒に払うように手を引っ込めた。
「いやはや、これは手厳しい……ですが、お返事は確かに賜りました。今宵はこれにて退散させて頂きます」
再び笑みを浮べるとネロは虚空へと消え去り、それに続いて終に一言も声を発しなかったアゼキウスも闇の中へと溶けるように消えていった。
クロウシスは二人の魔族が消え去った空間をしばらく見つめていた。その瞳には既に先ほどまでの底知れない輝きは無く、すぐそばで揺らぐ波と同じで凪いでいた。
「魔族と帝国の友好……面白い」
月夜に照らされたその影は、人間でありながら裂けるような笑みを浮かべていた
◇◆◇◆◇◆◇
太陽が昇る僅か前の時間。
まだ闇が残る黎明前に、一艘の船が寄航していたバーンアレス島の臨時港を出航した。
木造の粗末とは言わないにしても簡素な船。
その船には頭の先から足の先まで大体黒い男が乗っていた。
船長の男がガハガハ笑いながら近づいて一言二言言葉を交わすと、その黒い背中バシバシと叩いてまたガハガハと笑う。すると、他の船員が次々と飛んできて船長を羽交い絞めにして『火龍様なんだぞっ!』、『ダバンのアホたれっ! 罰が当たったらどうする!』と怒鳴って船室へとズルズル引きずっていった。
その様子に少しだけ肩を揺らした男が船の進む先に視線を送ると、不意に背中の辺りが僅かに膨らみ、モゾモゾと動くと白い蛇のような銀色の瞳を持った生き物が袖口から顔を出して、男の顔にグイグイと頬ずりをする。男が無言でその白い生き物を引きずり出し、片手で握ったまま顔の下十センチ当たりの腹側をクリクリと擦ると気持ちがいいらしく、ゴロゴロと喉を鳴らして胴体の終端にある尻尾の先を激しく左右に振っていた。
しばらく白い生き物の相手をしていたが、指を動きを止めて握りを甘くすると、腕をスルスルと這い上がって首に巻きついたところでスヤスヤと眠り始める。
その自由すぎるほどの奔放さに男が苦笑しつつ嘆息すると、立ち上がり一度だけ島を振り返った。
来た時は厚く暗い雲に囲まれた嵐だったが、今は突き抜けるような青空の下、白煙を放つ火山の煙すら雄々しく見える。
その美しい島に火龍の咆哮が轟き、響いたような錯覚を覚える。
しばらく島を見つめていたが、男は再び船首の進む先へと目を向けた。
――火は破壊と再生を司る。
島に破壊と再生を齎した黒龍は、連れ合いとなった白龍と共に、帝都を目指して旅立った。
後書きを活動報告にて書いております。
よろしければ、本文読後にお読みください。
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とても励みになります。
ありがとうございました。
※校正・修正報告
2013/01/27誤字脱字等修正しました。
加筆修正しました。