第一章16-悪の終焉-
バーンアレス島全ての火山が噴火し、夜の闇を焦がし続けた夜は明けた。
徐々に全貌を露わにしていく太陽は、燻る火山を宥める様に光を照らし、地上に近い位置から差し込む光が相対する三者を祝福するようにキラキラと輝きを放つ。
周囲にいる人間は状況の移り変わりと、クリシュの変貌や交わされる会話の内容に理解が追いつかずにいたのだが、三者が再び戦うという事態になったことに戸惑っていた。
「ジ、ジル隊長。どうしてクリシュ様とラウズ様が、またバーンアレス様と戦うことになるんですか? 私てっきり和解したものだと……」
「えぇ、でも先ほどまでの張り詰めた空気はないわ。多分、今から始まる戦いは、御三方にとって命を奪い合うような戦いにはならないと思う」
火龍の首飾りの隊員からの質問に、ジルは自分が感じた正直な気持ちを話した。だが、それでも先ほどまでの壮絶な攻防や、クリシュの苦しむ姿を見ていた隊員たちがなおも発言しようとするが、それを制する声があった。
「大丈夫だよ」
その声に驚いて周囲にいた全ての人間が、この場にいるサーディアス王家直系の最後の一人ミリエル=シアスカ=イニス=サーディアスに注目した。
「大丈夫。もう、全部全部大丈夫だよ。姉様も兄様も火龍様も、凄く優しい気持ちになってる。これから始まるのは、姉様たちが火龍様に『私達はもう大丈夫です!』って、お伝えする戦いなのっ!」
ミリエルが笑顔で大きく腕を天に突き出すと同時に、戦いの火蓋が切られた。
最初に動いたのはラウズだった。
呪われし龍殺しの魔剣を手に、靴裏に炎を噴出させて一気に跳躍する。ラウズ自身がこの剣をこの戦いで使うに際し、剣を手に火龍に目を向けると黄金の瞳は僅かに目を細め、挑戦的な視線と共に鼻を鳴らして視線を返す。
〈遠慮なく使うがいい。そのような剣一本あったところで、意味がないことを教えてくれる〉
という自信に満ちた意思を視線で受けたからこそ、ラウズは遠慮なく件の剣を持ち空を駆けた。出力を増した炎性魔力を足から噴出させ、僅かながらも空中を滑走し燃え立つ火龍へと間合いを詰めていく。対する火龍は大きな動きを見せることなく、燃え上がる長大な炎の化身の姿をそのままに視線をラウズに定めて悠然と身構える。そしてラウズが鼻先十メートル付近まで接近したタイミングで、巨大な口を開けながら灼熱の炎を吐き出しラウズの視界を紅蓮色の炎が埋め尽くす。だが、ラウズはその渦巻く炎を龍殺しの魔剣で切り裂き、発生する猛烈な気流によって一切の火傷を負うことも無く引き裂いた。
火龍の大火を斬り伏したと思われた直後、ラウズは目を見開く。
炎を突破したその先で、空中に鎌首をもたげた大きく口を開けた大炎龍の奥――赤銅色の鱗を更に黒み掛かった色へと変質させた火龍バーンアレス本体が口を開き、その口腔に滞留させていた真紅の炎を躊躇無く撃ち出した。
先ほど目の前で開かれた街を呑み込みそうなほどのアギトと、そこから溢れ出てくる灼熱の猛火を前にしても一切の危機感を持たなかったラウズだが、その真紅の炎には脳が警鐘を鳴らす。それでも、最早避けてどうこうなるタイミングではないと覚悟を決め、一瞬で目の前に迫る真紅の熱線に剣をぶつけた。
衝突の衝撃で剣を弾き飛ばされるかと思ったが、手首から先で燃える緋色の炎が柄と手の平を結び付けるかのように燃え、剣を手放さすに済んだ。だが、剣と熱線との衝突点では甲高い音が鳴り響き、まるで自動で動き続ける研磨石に剣を押し付けているような気分になる。
その拮抗が破られたのは唐突だった。
ラウズが気力を注いで緋色の炎を一気に燃え上がらせると、炎は柄から刀身へと移り剣圧と膂力を増し一気に真紅の熱線を打ち破った。火龍の力は殺す癖に、火龍によって認められた人間の力には素直に働く辺り、本当に人間の都合のいいように作られた魔剣だと思い、ラウズが一瞬刀身へと視線を滑らせて再度正面を見た瞬間、その表情が凍りついた。
切り払われた熱線が四散して濃い白煙と激しい赤いプラズマが発生する向こう側――先ほどと同様に大きく口を開けた大炎龍の内部で、バーンアレスが口腔に真紅の光を灯し、それが既に撃ち出せる段階に達していることに目を見開く。
(第二撃目の間隔が短過ぎる――ッ!!)
拮抗を切り崩したが、既に体勢を崩して自由落下に入りかけていたラウズが、何とか迎撃のための体勢を取ろうとするが、クロウシスはその暇を与えず第二撃を放った。
迫り来る真紅の煌きにある程度のダメージを負う覚悟を決めたラウズは、突然周囲を囲むように展開された深紅の炎が形成する球状の防御円に守られていた。これを為した相手が誰なのかなどと、ラウズは考えるまでもなく、ふと浮遊感が薄らいでいることに気づいて足元を見ると、そこには直径二メートルほどのリング状の深紅の炎が浮かんでおり、ラウズはその輪が発生させている力場の上に座り込んでいる状態だった。
そして人の気配に視線を僅かに下げれば、そこには足元に同様の炎の天輪を作り出して宙に浮く妹巫女クリシュの姿があった。
「兄様。一撃目を防いだとて油断してはいけません。火龍様は私達よりも、一枚どころか三枚も四枚も上手を行かれる相手なのですから」
口調こそ丁寧だが、その語気にはやはり今までにない明るさと逞しさが含まれている。そして悪戯っ子のような笑みを浮べると、クリシュはラウズに手を差し伸べた。その細い腕に刻まれた発光する深紅の紋様を見つめながら、ラウズは緋色に輝く紋様が浮かんだ手の平を差し出して、優しく引かれて起き上がった。
深紅の炎が灯った瞳を緋色の炎を灯した瞳で見つめれば、クリシュに起きた変化が強大な力を手に入れたことによる増長や慢心ではないことはすぐに分かった。改めて感じるのは、十年前に失った心の強さと天真爛漫だった気質が年齢相応の成長と共に、物怖じせず諦めず屈しない精神となって成長した揺ぎ無い意志だった。
ラウズは本来そうあるべき姿に成長した妹の頭にポンと手を乗せると、不思議そうに見上げてきたクリシュに微笑を浮べた。
「本当に……強くなった」
「……はい。でも、私が強くなったわけではありません。皆さんに強くして頂いたんです」
「そうだな。感謝して、その恩を返していかなければならない」
「はい。頂いた以上のモノをお返していきたいです」
十年前に失った心からの笑顔を浮べる妹の頭をクシャクシャと撫でた。
「に、兄様っ髪の毛クシャクシャになっちゃいます!」
抗議の声を上げる妹の声を聞きながらラウズは、十年前にこの島で――アレス城の一室で――そして十年間感じ続けてきた後悔と苦悩が、その笑顔によって雪がれるような気持ちになり、無意識に込み上がる熱いものを妹に見られないようにクリシュの頭を少し乱暴に撫で続けた。
「も、もうっ! クロウシ――火龍様が見ていらっしゃるのに、酷いです!」
変わったところと言えば、髪の毛がクシャクシャになったことを気にする程度には色を――もとい、容姿に対して関心を持ったことくらいだろう――などと、聞けばクリシュが抗議の声を上げそうなことを考えながら、ラウズは頬を膨らませて髪を撫で付けるクリシュに対して片手を上げて謝った。
「そう怒るな。お前の成長を私も嬉しく思っているのだぞ?」
クリシュもまた、いつも第一帝位継承権者として過度の重圧を受け、その上十年前に犯した罪に対して懊悩を抱えていた兄が見せた気遣いではない笑顔を受けて、自然と笑顔を浮べていた。
「とはいえ、今優先すべきはこの試練――いや、試験の突破か」
「はい。兄様、火龍様をご覧に――」
妹の言葉に従い、先ほどと同様に自ら先手を打って攻撃はしてこず、ラウズとクリシュが視線を向けると二人から数百メートル離れた場所で燃え盛る大炎龍は長い首をもたげて二人の方を向いている。だが、よく見ればその顔で一際存在感を放つ一対の黄金に輝く瞳は二人ではなく、別のモノを見ていた。ラウズがその視線を追うと、その視線の先には白亜の城――アレス城があった。
「……なるほど。あそこに今回の首謀者が?」
「はい」
「何者だ?」
「名はサウル=パンディア。三年ほど前のバーン中月に帝都より特務騎士ゼミリオ=カウンディと共に部下五十名を連れて、サウルは私の政務補佐、ゼミリオはサウルの護衛騎士兼アレス城近辺の警備兵として着任しました。そして二年前のクラン上月に、私が火龍の首飾りと共に城を離れた際に龍騎兵ラクアとアレスを使ってアレス城を制圧されて今に至ります」
「何とも間抜けな話だな……」
為政者としての顔をした兄にズバリ言われてしまい、クリシュも苦い顔で俯くしなかった。だが、落ち込むことにも後悔することにも十分過ぎるほどに時間を使ってしまったと顔を上げる。その目に宿る深紅の激情を見て取り、ラウズは満足そうに頷く。
「城にはまだ人質がいるのか?」
「います。それに広場に投降した兵が徐々に集まっているようですが、まだ全員というわけではないと思います。首謀者であるサウルが出てこないということは、大方私達が戦って共倒れすることを望んで待っているのではないかと思います」
「妥当な判断だ。もう一人のゼミリオ=カウンディは?」
「ゼミリオはクロ――火龍様が既に神罰を下されました」
火龍のことを口にする度に何故か言いよどむクリシュに僅かに引っかかるものがあるが、ラウズは大して気にせずこの島で起きている不忠――いや陰謀による謀反の終結を優先した。
「その二人を派遣した機関。その任命書にサインは?」
「元老院より派遣されたと言っていました。サインはシミルク議員とエーデリア伯爵、あとルーディス公爵です」
クリシュの口から出た名はいずれも、確かに三年前に元老院に名を連ねていた人物の名だった。
「真相解明には骨が折れそうだ……」
「?」
悪事に対して常に自らの手で調べ上げて必罰を望む兄らしからぬ言葉にクリシュが首を傾げると、ラウズは苦い顔で思考を巡らしていたが、妹の視線に気づき事実を告げる。
「シミルク議員、エーデリア伯爵は一年前に起きた反帝国派によるカザルド離宮襲撃事件の際に亡くなられている。そして残るルーディス公爵は、サーディアス帝国三大公爵家の中でも最も力を持っている御方な上に、我々王家の人間をあまり良く思われていない御仁だ」
「……」
幼少時代からあまり表舞台に立たなかったクリシュでも、ルーディス公爵のことは知っていた。クリシュたちの父ヴェスパル一世が旧体制を討ち滅ぼして帝政国家に移る際に、最後まで異を唱えていた人物だった。そして帝政国家になる流れに大勢が決した後も、王家の監査役としての仕事を担うことを条件に体制を受け入れた。噂ではヴェスパルの力を持ってしても、ルーディス家を敵に回して取り潰すには甚大な被害を被ることになり、それを回避するためにお互いに睨み合いの関係を続けている、と言われている。
〈――後事の事はまた後でもいいだろう。まずはこの島に巣食う虫を根絶やしにすることだ〉
「「!!」」
今まで口を開くことのなかった火龍が、念話を持って二人に語りかけてきた。
〈今城の上層には一人しかいない。それが誰かなどと、説明するまでもあるまい?〉
黄金の瞳に宿る焔がチラチラと燃え、その視線が告げるのは一つの提案。両巫女(御子)はそれを瞬時に理解して即座に頷いた。
『ならば、続けようぞ』
今度は声に出した言葉と共に、クロウシスは身を包む巨大な大炎龍ごと二人に向かって突っ込んできた。クリシュは即座に左腕を掲げ、深紅の輝きを放つ炎が腕に刻まれた紋様から燃え上がり、その炎は一気に規模を増して巨大な大炎輪となり、大炎龍の突進を正面から受け止めた。炎性魔力同士が激しく衝突する衝撃に大気が軋むが、その隙に乗じてラウズがクリシュの背後から飛び出し、緋色の炎を迸らせる剣を横薙ぎに切り払った。
巨大な炎輪に衝突して拮抗していた大炎龍の頭部がラウズの一撃で切り裂かれ、精緻な形状を維持できなくなった炎が横にズレ、火龍の頭部を模していた炎は角とたてがみを残して崩れた。
形を崩して渦巻く火炎から真紅の熱線が撃ち出されるが、それをクリシュが的確に防ぐ。そしてすぐに両腕から深紅の炎を燃え上がらせ、今度はクリシュが一瞬にして精緻な火龍の化身を作り出して、それを顔の潰れた大炎龍に向かって解き放った。火龍が作り出す火山の力を得て形成する炎性防御機構『大炎龍』に比べれば、クリシュの作った火龍の化身は五メートルもない小さなモノだったが、それに込められた効果は絶大だった。
深紅の火龍は、顔を再生させようと炎を猛らせる大炎龍に到達すると、接触点から紅蓮の炎によって形成されていた大炎龍の炎を深紅の炎へと変え始めた。上顎の先端、口先から深紅の炎に染め変えられる炎はのたうつように暴れるが、その深紅の炎が真紅の角に到達した瞬間に動きを止めた。
クリシュも深紅の炎による侵蝕そのものが止まったことに気づき、油断なく炎を操る腕に力を込め続けるが状況は完全に静止した――ように思えたが、一拍の間を置いて大炎龍の顔が爆砕し、中から体表の赤銅色を朱色へと変化させながら火龍バーンアレスが紅蓮と深紅が混ざり合う炎を切り裂いて姿を現し、真紅の炎を纏った拳をクリシュに向かってぶつけてきた。
真紅に燃える拳が迫る中、クリシュの前にラウズが割り込みこちらは緋色の炎を纏わせた拳で、迫り来る火龍の拳を迎撃した。互いの拳の大きさは当然大きく違うが、纏まった炎とそれに生じる力場が互いの質量差を補い両雄の拳は見事に激突した。力と力の衝突に伴う衝撃が風を発生させて、ラウズの髪を激しく揺らした。そして腕に伝わる衝撃は想像通り激しいものだったが、不可視の楔を穿たれる前に同じ拳を腕で防御した際に比べれば幾分緩和されていた。それだけ己の手に刻まれた緋色の炎が、ラウズの心体にもたらした影響が大きいということなのだろう。
だが、やはり火龍の膂力や炎性魔力の総量に敵うべくも無く、数秒の拮抗を保って後にラウズはクロウシスに腕を振り切られる形で吹き飛ばされる。それを背後にいたクリシュが抱きとめるが、間髪入れずにクロウシスは口腔に真紅の火炎を迸らせ、重なった二人に向かって近距離から真紅のドラゴンブレスを放った。
「――ッ!!」
咄嗟にクリシュが右腕を上げて深紅の炎を燃え上がらせて、自分たちに向かって放たれた真紅の熱線を受け止めずに、炎性魔力の性質を極めて近い形で練り上げて受け流し、二人から僅かに逸らされた真紅の炎熱は空の彼方に飛んでいった。しかしそこで火龍の攻撃が止むことなく、かわされたブレスの行方など確かめる暇すら必要とせず、再び燃え上がらせた左拳に炎を纏わせてクリシュたちに向けて振りかぶった。
殺気こそないものの、まともに直撃すればただでは済まない攻撃に対してクリシュは、今度は剣を手に迫る火龍に再び立ち向かおうとするラウズを後ろから抱きすくめると、視線を遠くアレス城の正門前にある噴水へと向ける。クリシュが深紅の目に力を込めると、その瞳は深紅の光を放ち輝きを放つ。
真紅の光を放つ火龍の拳が唸りを上げて、およそ無防備な体勢の二人を襲い掛かった。だがしかし、まともに当たれば人間の体など粉々に砕いた挙句に、芥子粒さえ残さず焼き尽くす業火を纏まった拳は空を切り、一瞬前までそこにいた二人の姿は霞のように消え去った。
クロウシスはすぐにその鋭敏な感知能力でクリシュたちの居場所を探し出し、そこへ眼を向ける。その場所とはアレス城の城門前にある噴水だった。今は水が枯れている噴水には火龍をモチーフとしたレリーフが置かれていた。そしてその火龍のレリーフが突如として爆発し、深紅の炎が爆炎となって湧き出るように噴き上がる。その燃え上がる深紅の炎からクリシュとラウズが姿を現した。
火龍像を用いての空間転移をクリシュが行ったことを察し、クロウシスは目覚めたばかりの力を臨機応変に使うクリシュの驚くべき機転と炎性魔法に対する順応力を称賛した。
そしてアウレイス山の山腹に位置する広場でこちらを見上げる数百人の人間たちに目を向けた。目の前で展開される人知を越えた戦いを目撃し、呆然とする人々に眼を細める。そして片腕を払うように薙ぐと、先ほどバーンアレスの熱線が乱反射した際に崩れ落ちた山道の代わりに、子供が抱えられるほどの紅蓮の火球が人々の前に現れる。
『その火が汝らを麓まで導く。汝らが街に戻る頃には全てを終らせておく、安心して降りてくるがいい』
「あ、あのクロウシ――バーンアレス様!」
必要なことを告げて体を翻そうとしたクロウシスに、火龍の首飾りの長であるジル=カーティスが、らしくなく慌てた様子で声を掛けてきた。クロウシスが体を制止させて黄金に輝く眼を向けると、ジルはその迫力に気圧されながらも気を張って言葉を続けた。
「あ、あの……この戦いはいったい」
この期に及んで火龍とクリシュたちが戦うことの意義が分からない、というのは外野から見れば至極真っ当な疑問だった。だからこそ、クロウシスは言いよどむことなく口の端を吊り上げて裂ける様な笑みを浮かべる。
『――意義が無いことに、意義があるのだ。特にあの二人にはな』
既に目の前の火龍がクロウシスであるという事実を知っているジルに対し、クロウシスは偽らざる本音を告げて今度こそ身を翻した。その全身が鱗の隙間から溢れ出る紅蓮の炎に包まれ、黄金の瞳が炯々と輝く。
朝日に照らされる山の景観が火龍が放つ炎によって赤黄色に焼かれ、人々は頭上で燃え上がる火龍に対して、まるでもう一つの太陽が目の前にあるような錯覚を覚えた。
程無く巨大な火球と化した火龍がクリシュたちのいる場所へと、猛烈な勢いで突撃していったのを見送ると、ミリエルが音頭を取り人々は下山を始めた。
その人々の表情には困惑や不安が無いわけではなかったが、明るいミリエルの態度と言葉に励まされ、自分達を護衛するように先頭と殿を務める火龍の首飾りたちの献身的な姿勢に安堵し、抱くことすら許されなかった希望を胸に、疲労しているはずの足取りは軽かった。
◇◆◇◆◇◆◇
アレス城上層階、代々城の城主やその家族が暮らしていた階層。
その一室で割れた窓にしがみついて外を見ていたサウル=パンディアは、血走った目で外で展開する人知を超えた戦いの行く末を固唾を呑んで見守っていた。
つい数日前までは圧倒的有利な状況にいたはずの自分が、何故これほどの窮地に追い込まれてしまったのか? サウルにはそれが分からなかった。
絶対的な勝利が確約されていたはずのバーン砦攻略に失敗し、同志と思っていたゼミリオに手痛く手を噛まれた。そして挙句の果てには、十年前に死んだはずの英霊精龍『焦熱の火山』バーンアレスの唐突な復活。手を噛まれても武力として必要だと思っていたゼミリオの死。そして現れた勧善懲悪を旨として、義を通し不正と不忠を断罪するサーディアス帝国第一帝位継承権者にして、同時に侯爵の地位と上級将軍の籍を持つ傑物――ラウズ=レクイア=ウルス=サーディアスの登場。
まったくもって全てが逆風だった。
自分に有利な材料が何一つ見当たらず、身の破滅が迫り、何度振り払っても火龍の業火に焼かれる己の姿が脳裏によぎる。ガタガタと歯の根が合わない。その上、火龍に直接忠告を受けた際に恐怖のあまり失禁して濡れたズボンが下半身を冷やし、気持ちの悪い感覚と惨めさが増した。
恐怖と絶望に渦巻くサウルの脳裏に唯一閃いた最後の望みは、経緯は分からないが十年前にあの恐るべき火龍を殺したと言われるラウズと火龍が再び戦うこと。そして、その結果火龍が破れ疲弊したラウズをサウルが仕留めることだった。火龍相手に人質は効かないが、ラウズ相手ならば望みはある。
自軍の龍騎兵を全て破壊され、既に城に残っていた兵の八割が武装解除して火龍に指定された広場に投降しつつある状況なのだが、サウルはそんなこと一切考慮せず――考慮する余裕がなく割れた窓の枠組みにしがみついて、片眼の望遠鏡で外の様子を窺っていた。
割れて格子状の枠組みしか残っていない窓に手を掛けて外を見るサウルは、見ようによっては鉄格子の牢内から外を見ている罪人に見えた。
火龍とラウズが激しい交戦をした末に、それが火龍だと誰もが思っていた燃え盛る巨大な蛇のような火龍の中から本当の火龍が出現し、ラウズは地上へと落ちてしまった。そして火龍はどういうわけか島民と移民たちが集い、その先頭に立つクリシュに向かって目が眩むような真紅のブレスを放射した。その光景を遠目から見て、やはり火龍は十年前の恨みを忘れていなかったのだろうか? と思い、その復讐心に何とか付け入る隙がないだろうかと愚かな考えをサウルが巡らしていると、今度はクリシュが深紅の炎を燃え上がらせて、続いて両手に緋色の炎を纏ったラウズが地上から復帰して、再び戦い始めた。
会話が聞こえるわけもなく、そこで起こっていることがまったく分からず苛立ちと焦りに心を焦がしていると、突然城門前で何かが爆発して、そこから深紅の炎が立ち上った。
「――ッ!?」
あまりに突然の脈絡の無い爆発に、サウルが腰を抜かして尻餅をついた。炎は十数秒燃えた後に急激に鎮火して、周囲には痛いほどの沈黙が流れた。ノロノロとした動きで起き上がったサウルは、完全に腰が引けた状態で窓枠を開いて、テラスに出ると崩れた手すり越しに城門の前に視線を向けた。
「なっ――が、え?」
そこには爆発で円形の放射状に崩れ去った噴水の残骸が転がり、その中心には二人の人影が立っていた。一人は巨大な剣を手に携え、サーディアス軍将校の軍服に身を包んだ銀髪緋眼の青年――ラウズ王子だった。そしてその傍らに立つ人物を見て、サウルは己の状況を忘れて魅入った。
風にそよぐ長い銀髪は背中から淡い朱のグラデーションが入り、熱した白銀のように光り輝き風に遊ばれてさらさらと髪が流れると、その流れる髪から火花のような銀朱の煌きが瞬く。真紅を基調とした壮麗な火龍巫女の服に身を包み、大きく口を開いた袖口から覗く小さな白い手は淡い光を放っている。そして染み一つない美しく整った顔の中で、深紅の瞳が一際存在感を放ち輝いていた。
手すりから身を乗り出すように、その美しい人物――クリシュの姿に目を奪われていたサウルは、すっかり印象が変わってより美しくなった少女に目を奪われていた。
だからこそ、気づかなかった。
アウレイス山で激しく燃え上がる力を蓄えた火龍が、轟々と燃える炎を纏い今まさに二人に対して突撃をかけようとしていることに、サウルはすぐに気づけなかった。
◇◆◇
火龍本体が離脱したことにより、大炎龍は再び自身の構成を維持することが出来ず溶ける様に霧散して消え去った。そのすぐ側で、全身に紅蓮の炎を纏った火龍は翼からも炎を噴出させて、まるで空中で静止した隕石のような炎岩となって二人を見据えた。
その姿を遠目で火龍同様に見据えたクリシュとラウズは、背後から感じる邪な視線に気づきつつも後ろ振り返るようなまねはせず、互いに目配せをしてそれぞれに炎性魔力を燃え上がらせ、深紅と緋色の炎を身にまとう。二人は表情を引き締めて、ラウズは剣の柄を両手で握り締め、クリシュは両手を頭上に掲げた。ゆったりとした巫女服の袖が落ち、剥き出しになった両腕に火龍の紋様が輝きを増す。
炎の炎岩と化した『焦熱の火山』の称号に違わぬ姿を見せ、猛々しく燃え盛る火龍を前に、二人は再度真っ向からそれを迎え撃つための準備を整える。
その二人の精神に火龍が再び語りかけてきた。
〈先ほどの転移は見事だ。それに――良いところに出てくれたものだ〉
クロウシスが言葉に一拍の間を置いた意図を悟り、クリシュが苦笑する。
〈咄嗟の判断です。それよりも、なされますか?〉
〈当然だ。今上層には奴しかいない……加減はせんぞ?〉
含んだ口調で言う火龍に対して、ラウズは柄を握る手に力を込めて火龍を正眼で見据える。
〈いつでもどうぞ。真正面から受けて立ちます〉
言葉は硬いが気負いを感じさせない口調にクリシュは微笑み、クロウシスも全身を包む炎の中で口の端を吊り上げた。そして気を一気に張り詰めさせると、自身を覆っていた紅蓮の炎が真紅のそれに変化し、周囲をまるで夕焼けのような赤い光で覆い尽くす。
燃え滾る真紅の炎岩と化したクロウシスは、そのまま砲弾のような勢いで二人がいるアレス城の城門前に向かって突撃した。
向かってくる圧倒的な質量を抱えた真紅の塊に対して、ラウズが緋色の炎を纏って跳び、クリシュの作り出した炎の天輪に着地すると、上段に振りかぶった剣の切っ先から緋色の炎が伸び、巨大な炎剣で迫り来る火龍の突撃とその振り下ろしが激突した。
あれだけの質量に速度を足した突撃をラウズは見事に剣撃で受け止めはしたが、反動で肩が折れるか外れるかするのではないかという衝撃を受けて奥歯を噛み締めた。火龍を包む真紅の炎とラウズが剣に纏わせた緋色の炎は、正確には直接触れてはおらず互いが生み出す力場が均衡状態を作り出していた。その力場の干渉に対して先に破綻したほうが、この場に蓄積されたエネルギーをそのまま受けることとなる。
「――――っっっっぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
そして結果は互いに予測していた通りとなり、まずラウズの持っていた魔剣が根を上げてヒビが入る。
この龍殺しの魔剣は、元来ドラゴンに対して絶大な威力を発揮する魔剣であり、その切れ味は強固なドラゴンの鱗を容易く切り裂き、放たれたブレスに対して剣を振ればそれを掻き消すモノだ。
だが、それでもドラゴンとしての階位が高いドラゴンに対しては、必ずしも無敵というわけではない。確かに神や、それに類する存在が秘儀の製法で創られ鍛えられた魔剣や神剣などは、ドラゴン族としての血統が濃いほどに効果を発揮したり、より強い呪術的な力を持つモノもある。しかし、今回ラウズが手にしている魔剣は云わばレプリカのようなモノであり、本来『業物』止まりな魔剣を『火龍』に対して特化させたことにより、無防備となった英霊精龍に対して致命傷になり得る一撃を与えられたに過ぎない。
ヒビが入っても数秒間の均衡を保ったが、なおも続く均衡に耐え切れず十年前にバーンアレスを死に至らしめた呪われた魔剣は、驚くほど呆気なくヘシ折れて粉々に砕け散った。
魔力を込められた宝具が砕けたととき特有の、純度の高い澄んだクリスタルが砕けた時のような高い音が周囲に鳴り響いた。この音を道具が死んだ断末魔だと言う者もいれば、宝具に封入された魔力が長い年月を経て意思を持ち、それが解放される時に発する喜びの声だと言う者もいる。
魔剣は砕け散ったが、それでも真紅の炎を纏って突撃してきた火龍の突進の威力をほぼ殺しきり、その隙に乗じてクリシュが動いた。
空に掲げた両手から放出された深紅の炎が渦を巻いて空中に堆積し、頭上でラウズの持つ魔剣が砕け散った直後に深紅の炎がラウズを包むように覆い尽くす。そして、均衡が砕かれたことにより放出されたエネルギーが暴走し、ラウズを包む深紅の炎を掻き乱しながら空間を走り抜けて、その後方――アレス城へと向かう。
◇◆◇
見たことが無いほどに鮮やかな真紅の炎を迸らせながら、地獄の門さえ突き破りそうな迫力で突き進んでくる火龍を目撃し、サウルは遂に耐えられなくなり泡を食って逃げ出した。
自室から廊下に出て、階段へと駆け出した瞬間――凄まじい激突音が耳を劈いた。
「ヒッヒィィィィィ!!」
腹に響く爆音と震動が不安を駆り立てて、サウルが転げ落ちるように階段を下りていると、今度は澄んだガラスか水晶が割れるような音が鳴り響く。妙に反響する音に一瞬足が止まりそうになるが、構わず階段を駆け下りて遂に階下へと到達した時だった。
凄まじい轟音と共に城全体が揺れる。火山活動による地震とは違う、まるで建物だけを直に襲う局地的な大風でも発生しているかのように、堅牢な城を支える石積みの基礎が軋みを上げて城内を揺すった。
激しい衝撃に揺さぶられて廊下に転倒し、轟音と共に廊下を駆け抜けてきた衝撃波によって、磨かれた火山岩で出来た壁と床と天井に叩きつけられながら揉みくちゃにされる。
「あ……あががっ」
気が遠くなるほどの衝撃と痛みに体中が悲鳴を上げて、身に着けていた豪奢な服もボロボロになって埃と煤と血で汚れていた。うつ伏せになっていた体に鞭を打ち、手を突いて何とか起き上がり上を見上げたところで、サウルは目が点になった。
先ほどまで自分はアレス城の最上部に位置する尖塔におり、五階建ての塔から階段を転がり落ちるように降りて行き、二階まで降りたところで階段は一度途絶える。これは元々敵侵入時に一直線に最上階まで行かれない様にする為の造りなのだが、先を急いでいたサウルにとっては非常に面倒な造りだった。そして廊下の先にある一階へ続く階段へ駆け出そうとしたところで、先ほどの爆発のようなものに巻き込まれた。
整理して考えればサウルは今、城内の最奥にある後宮に当たる場所のそびえる尖塔の二階にいたはずなのだが、上を見上げるとそこには真っ青な空が見えた。
澄んだ空気と穏やかな風が、埃塗れのサウルを嘲笑うかのように吹き抜ける。
瓦礫らしい瓦礫が廊下に一切落ちていないにも関わらず、廊下に沿って視線をなぞると周囲には部屋の壁はあるが天井が消え去り、それの上にあった一切の尖塔だった部分が消え去っていた。その恐るべき所業に息を呑み呆然としていると、不意に後ろから今までに感じたことがないほどの威圧感を持った視線を感じ、サウルはまるで錆び付いた機械のように硬い動きで首を後ろへと巡らせ、それが視界に入った瞬間――サウルは悲鳴を上げて腰を抜かした。
「ヒッひあァぁぁっ!!」
そこには吹き抜けとなった空を背に城の中庭に降り立ち、そこから身を乗り出して崩れ去った天井から黄金の瞳でサウルを見下ろす火龍の姿があった。
◇◆◇
目の前で無様に腰を抜かして泡を食い、締まりも無く失禁している男を睨みつけながら、その余りに矮小な首謀者を前にして、クロウシスは暗澹たる思いで『人間』という種族の全体での『個』の弱さと『群』の強さに改めて辟易しながらも、その脆弱で醜悪な存在を摘み上げた。
「あっあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! く、喰わないでぇぇぇっ! イヤだぁぁ死にたくなぃぃぃっ!!」
涙と鼻水でグシャグシャになった顔で、喧しく命乞いを繰り返すサウルを無視して、そのままそれをブラブラさせながら乗っかっていた城から身を翻し、中庭を歩きながら前を遮る渡り廊下を気にせず破壊しながら通り抜ける。その雄大で力強い姿と遭遇した城に残っていた侍女や使用人たちは、しばらく呆然としながらもすぐに膝を折って涙を流しながら祈りを捧げていた。
正門に至るまで都合二つの渡り廊下と城内壁を破壊した。そこでクロウシスは片手に摘んでいたサウルを無造作に放り投げた。五メートルほどの高さから落とされたサウルは、受身も取れずに足から着地して右足首を折り悲鳴を上げながら転げ回った。
「うぎゃぁぁぁぁぁぁっ! い、痛いぃぃぃぁっ足がぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
折れた右足首を抑えてしばらく地面を転がっていたが、いまだ自分のすぐ側に火龍が佇んでいることに気づくと、また醜い悲鳴を上げながら逃げようと立とうとするが、足に走る激痛に耐えかねて無様に這いずりながら逃げようとした。そのまま正門に向かって這いつくばって逃げようとするサウルが、不意にその動きを止めた。
アレス城の城門は、城壁を囲うように掘られた堀の上を渡れるように跳ね橋になっている。普段この時間閉じているはずの跳ね橋が下りており、そのこと自体は逃げるサウルには好都合だったのだが、その橋を渡って今二人の人影が城内に入ってくるところだった。
城内に入城してきたのは、他でもないラウズとクリシュの二人だった。軍服を着たラウズの後ろを歩くクリシュはまさに騎士を従えた姫君という姿だった。中庭に出ていた城に仕える人々も、二年振りに見るクリシュの見違えるほどの変化を見て、高齢の従者の中には感涙に咽び泣く者すらいた。
サーディアスでも五指に入る武勲の持ち主であるラウズと、二年前とはまるで別人の風格と雰囲気を持つクリシュの登場にサウルは後退ろうとするが、その後ろで火龍が尻尾を石畳に叩きつける音が鳴り響き、その音に身を竦ませて遂に前にも後ろにも行けなくなり、恐怖で震えながら目の前に立つクリシュとラウズを見つめる。
そんなサウルの様子を見て、ラウズが拘束しようと前に出ようとするとクリシュが手でそれを制した。意外なその行為にラウズがクリシュの顔を見ると、そこには為政者としての冷静な表情があった。ここはクリシュが治める領地であることを尊重し、ラウズは足を止めてクリシュにこの場を任せた。
兄の配慮に感謝しつつ、クリシュは地面にへたり込み痛みと屈辱で顔赤くし、同時に恐怖と絶望で顔を青くさせる自分の元政務補佐官を見下ろした。対面するのは二年振りであり、裏でこの男に指示を出していた存在がいるのは明白ではあるが、それでもこの男が二年間に渡ってこの島を不当に支配し、人々を恐怖と暴力で悲しませてきたことも、また事実だ。そしてそれを防ぐことが出来ず、またすぐに打開出来なかったことによってこの地獄を二年間も長きにわたって継続させたのは、クリシュ自身の責だった。
「う、うひひぃー! ひゃぁぁぁぁぁっ!!」
クリシュが後悔と悔恨の思いを巡らせていると、突然サウルが猿のような奇声を上げて懐から何かを取り出して、それをクリシュに向けた。震える手に握られた無骨で無粋なそれは、人を殺傷するためだけに作られた小さな拳銃だった。
咄嗟にラウズが動こうとするが、もう一度それをクリシュが手で制した。僅かに後ろを振り返り、目線でラウズに謝るクリシュに対して、ラウズは小さく嘆息するとその場で足を止めた。
「う、動くなっ! 動けば撃つぞ!」
手にした銃がこの状況がどれほど有効な武器なのか、それが分からないほどサウルも本来は愚かではないのだが、追い詰められたこの状況下では正常な判断など出来るはずもなかった。そして手にした小さな銃と、目の前に現れた二年前は無力でひ弱な姫を人質に取ることが、この状況を逆転できる最後の手段だとサウルは自分に言い聞かせた。
だが、銃を突きつけられてもクリシュには怯えもなければ、引くような態度すらなかった。
「サウル=パンディア政務補佐官。撃ちたいならば撃ちなさい。もちろん他の方には手出しはさせません。私は貴方を倒して、私が失った大切なモノを返して頂かなければいけません。だからこそ、私と貴方だけで決着をつける必要があります」
その物怖じしない発言に対して、サウルは大いに動揺していた。二年前にこの城に住んでいた時は、自分に自信の持てない人柄で、人に庇護欲と加虐心を持たせる気弱な姫だった。だが、今目の前に立つ人物からはそれらが感じられず、王族の名に恥じない強さと気高さを兼ね備えた強さを持つ姫の姿だった。
「な……何を偉そうなことを……っ」
その姿を見て、サウルは己の過去と重ね合わせて歯噛みした。
◇◆◇
帝都において大貴族からの覚えも悪い弱小貴族の三兄弟、その次男に生まれた。
兄は家督を継ぎ、末の弟は軍属に入り家の格式を考えれば十分な出世と言える中級騎士となった。その一方で、気弱で要領が良いわけでもなかったサウルは城に仕官することを認められず、最終的に帝都を分ける区画首長の補佐官となった。曲がりなりにも帝都の一部を統治する者の下で働くのであるから、忙しく人によっては十分に遣り甲斐のある仕事だっただろう。
だがサウルにとっては、家督を継いでうだつの上がらない家を少なからず再興させた兄と、中級騎士となり名誉と武勲を家に持ち帰る弟に対する劣等感だけが積もり、目に見えた実績も上げられず名誉も持ち帰れない己の不甲斐なさと無力さを嘆く内に、サウルの心は歪み始めた。
やがて不甲斐なさと無力さを嘆く気持ちは、己の出自と境遇を呪うことに変わり、日々鬱屈した思いを溜めながら気弱だった性格は攻撃的なものに変じていった。
そんな時に出会ったのが、ゼミリオだった。
ある日サウルが管轄する帝都の区画内で一人の騎士が強姦致傷事件を起こした。
その日たまたま三名の衛兵と共に賃貸の集合住居に視察に訪れていたサウルは、偶然にもその一室で女を貪るゼミリオに遭遇した。その光景を見たサウルは、力で物事を屈服させて、己の勝手な我を通しているゼミリオの様にある種の憧れを抱いた。
サウルの存在に気づいたゼミリオが剣を手にしようとしたのを見て、サウルは狂ったように嗤った。そんなサウルの様子に意表を突かれ、訝しげな視線を送ってくるゼミリオに向かって、サウルは嗤うのを止めて突然一つの提案をした。
『ねぇ、君。殺して欲しい人間がいるんだけど。僕の代わりに殺してくれないかい?』
『あ? 何だお前、俺は殺し屋じゃねぇぞ?』
『分かっているさ。でもその代わり、君が僕の頼みを叶えてくれるなら、僕は前払いで報酬を払うよ』
『なんだ、その報酬ってのは?』
『僕はこの区画を治める首長の補佐をしていてね。ただ、首長は表立った政務に忙しくて、こういう比較的治安の悪い場所の管理は僕任せなのさ。だから、君がこれから半年間この区画でどれだけ人を殺そうと、僕が揉み消してあげるよ……あーでも、出来ればここみたいな場所に住んでる金を持ってない人間がいいな』
その常軌を逸した提案に対して、ゼミリオはまず疑った。だが、サウルの目に宿る狂気の片鱗は紛れもなく自分と同じ人でなしの色をしていた。だからこそ、その頼みを引き受けた。
手始めにゼミリオは、サウルを試す意味も含めて他の階を視察していた衛兵二人を惨殺した。それに対してサウルは呆れたような表情で頭を掻いた。
『やれやれ、衛兵とかは結構面倒なんだよ?』
そう薄ら笑いを浮べて部屋を出て行った。その態度に満足して、ゼミリオはその住居を根城に半年間帝都の端に位置する区画で犯罪を重ねていき、その全てをサウルが隠蔽していった。
帝国は中央集権であり、同時に帝都の発展と治安もまた中央集中だった。ゆえに外縁に等しい区画で起こることに対しては動きが鈍く、半年間の間に偽装された殺人事件や行方不明者が出ても騒ぎになることはなかった。
そして半年後。
ゼミリオはサウルの頼みを果たした。
その標的とは、サウルの家族だった。
一年の終わり、シルク月の下月。
家族が一同に会する日の深夜に、それは決行された。
祖母、父、母、兄、弟、兄の妻、兄の幼い息子、弟の恋人。
サウルの家族全員をゼミリオは惨殺した。
その過程で、目の前で妻と恋人をゼミリオによって辱められた挙句に殺された兄と弟の表情を見た時、サウルは言いようのない高揚感と満足感を得た。
使用人たちは労いにと振舞った酒に毒を入れて、やはりその全員を殺した。
全てが終ったあと、高揚感は過ぎ去りあとは身の破滅を待つだけだった。
貴族殺しは重罪であり、一族以外の人間にも手を掛けている。その家族の他に使用人の家族も、ここで死んでいる人間が戻ってこなければ不審に思うだろう。そしてここに衛兵や運が悪ければすぐに軍が殺到し、瞬く間に包囲されてサウルは逮捕、抵抗すればこの場で殺されるだろう。唯一の生存者を演じることも出来るが、恐らく第一容疑者として疑われるだろうし、捜査の手が管轄している区画に及べば、今は隠蔽出来ているゼミリオの犯してきた事件の数々が明るみに出て、結局はそれを隠蔽したサウルは身を滅ぼす。
どう足掻いても詰んでしまった人生だが、サウルは家族が死ぬことで何もかもから解き放たれたような気分だった。今ここで死んでも構わないという、この世に対する未練の無さからくる潔さ――それがこの時の何もかも捨て去ったサウルにはあった。
死んだ家族たちと先ほどまで一緒に食事をしていた食堂、その隣の暖炉のある客間で父が気に入っていた安楽椅子でサウルが冷めた表情で身を揺らしていると、ゼミリオが返り血を風呂で洗い流し、サイズの合うサウルの兄の服を着て酒を呷りながらやってきた。
『ありがとう』
『あ? なにがだよ』
『君は別に実行しなくても良かった。前払いだったからね、僕の報酬は』
『へっ、お前の頼みってーのが思ってたより面白そうだったからだ。クソ面倒くさくて、面白くもないことだったら迷わずトンズラしてたさ』
『そうか、そうだよね……』
そう言ってサウルは安楽椅子を前後に揺らした。その姿を見ながら、ゼミリオはこの自分と同様に狂っている男に何故自分が最後まで付き合ったのかについて、彼にしては珍しく真面目に考えていた。
サウルの頼みは『今日、この屋敷にいる全ての人間を殺して欲しい』というものだった。その中には当然サウルの肉親も含まれおり、むしろそれがメインだったのだろう。そして関係のない使用人たちも含まれていた。
没落した貴族が情けで賜った騎士の身分にしがみ付き、何とか中流階級に踏みとどまっている。それがゼミリオの生家だった。父の後を継いで騎士となり、戦場にも出て戦った。だが時代は、剣を手に誇りを胸に戦う騎士ではなく、銃を手に龍騎兵を駆って戦場を蹂躙することこそが名誉になりつつあった。重く非効率な剣を手に、地べた這い蹲るように駆け回るしかない自分に嫌気が差していた。
鬱屈した思いと吐き出し口のない鬱憤を溜め込んでいたそんな時、ゼミリオは最前線において制圧した村で行われる略奪と凌辱を目撃した。力を持たない弱者を一方的に踏み躙るその行為を目撃し、ゼミリオは堪らない興奮を覚えた。
そして戦地で捕虜や制圧下の村にて鬼畜な振る舞いをして、あまりにいき過ぎたその行為に対して告発を受け、ゼミリオは軍籍と騎士の称号を剥奪された。身元の引き受けにきた足の悪い父には、杖が折れるまで殴られた。母は泣き崩れていた。だが、それでもゼミリオは己のしたことを悔いる気持ちなどは一切無く、その日の夜に父と母をその手にかけて帝都の闇に、その身を隠した。
そして二人は出会い、互いの持つ『人でなし』である部分に共感し、この夜を迎えた。
無言で椅子を揺らすサウルと、酒瓶を傾けるゼミリオ。
二人の間に流れる沈黙を引き裂くような、呼び鈴の音が鳴った。紐に引かれて三つベルが鳴り、その音が反響して二人のいる客間にも響いていた。
ゼミリオが銃と剣を手にサウルを見ると、サウルは首を素早く横に振った。来客の予定は入っていなかったし、何より今は夜更けもいいところであり、通常貴族の家にこんな時間に訪ねてくる者はいない。
客間の窓から門を窺うが、門の前にも玄関の前にも人影はなかった。
二人は息を潜めて玄関に向かい、サウルが声をかけても返事はない。痺れを切らしたゼミリオが顎で扉を開けるようにサウルに促した。そしてサウルが玄関の扉を開けると、そこにはただ静かな夜が広がっていた。扉から顔を出して周囲を窺うか、人の気配はない。
顔を見合わせた二人が連れ立って客間に戻ると、先ほどまでサウルが座っていた安楽椅子に何者かが腰掛けていた。驚きのあまりサウルは腰を抜かし、ゼミリオは咄嗟に銃で撃とうとした。だが、銃口から銃弾は発射されることはなく、サウルが見上げるとゼミリオは驚愕の表情で引き金に指を触れさせたまま固まっていた。その全身が細かく痙攣していることから、ゼミリオが何かの力で自由を奪われているのだと理解し、そんなことが出来るのは魔道師やそれに連なるものだ。
床に座り込んだサウルと、銃を構えたまま硬直するゼミリオの前で、その人物は椅子を揺らして立ち上がると血に濡れたように赤い唇に笑みを浮かべた。
『はじめまして――良い夜ね』
その人物から、今回の計画は持ちかけられた。
請け負えばこの夜の後始末もするという提案に対し、サウルとゼミリオは拒否する理由が見つからず承諾した。そして下級貴族などという地位ではなく、領主として領地を支配できるという提案と、あのクリシュ姫を己の自由にできるという特典にサウルは飛びついた。ゼミリオも閉塞的場所で好き勝手ができるという提案を受けて、深く悩むこともなく承諾した。
そもそも二人にとっては、数日後には落としていた命ゆえに迷いはなかった。
そして恐れもなかった。
あの夜から帝都内のとある場所に匿われ、サウルは政務補佐に必要な知識を学ばされ、ゼミリオは龍騎兵の操縦と運用について学ばされた。何故かその時の記憶が酷く曖昧で、何人かの人間と会っている筈なのだが、思い出そうとしてもいっこうに顔が思い出せなかった。
そしてサウルとゼミリオは、ゼミリオと共に戦場で心を歪ませて畜生へと堕ちた兵士たちを連れて、バーンアレス島にやってきた。二年の間でゼミリオは暴力で徐々に兵を恐怖を染み込ませ、サウルは弱腰なクリシュの態度に昔の自分を重ねて合わせ、強者となった自分がクリシュを凌辱し踏み躙ることを望んだ。
――だからこそ、クリシュが瞬く間に強く、何者にも屈しないほどに強くなったことが許せなかった。
◇◆◇
目の前で歪むことも無く整然と立つクリシュを前に、まるで自分の精神の弱さと愚かさを突きつけられているかのような錯覚に陥る。優秀な兄を持ち、不遇な境遇で能力を発揮する機会を与えられずに僻地に押し込まれ、気弱な性格が災いして言いたいことも言えない。そんな自分と同じだったはずの存在が、あっさりと至高の存在となって再起する。
それを認めてしまっては、サウルはやってきた事の正当性が失われてしまう。
「二年前までオドオドとして他人の顔色を窺って、自分のやる事なす事全てに自信がありませんって顔をしていたじゃないかっ! それなのに何で急にそんな、今まで苦労してきましたっ今までの自分が全て嘘だったみたいな顔してっ……過去は無くならないんだぞ! お前が今更強くなっても、お前が弱かった事実は消えやしないんだ!!」
血を吐くような叫びを上げるサウルからクリシュは一切目を背けることなく、その叫びを聞いていた。その態度がまたサウルの癪に障り、傷だらけの埃だらけになって砂上の楼閣から焼け出された自分を蔑んでいるように思えてならなかった。
「見下すなぁぁぁっ! お前だって僕たちと同じだっ! 強さを手に入れたから急に態度を変えて、今まで自分を踏み躙っていたものを、今度は自分が見下して踏みつけることが出来るのが嬉しいんだろ! やれよ! そうすれば晴れてお前も僕たちの同類というわけだ!」
両手を大きく開いて笑みを浮かべるサウルに対して、クリシュは一度だけ目を瞑る。そして開いた時には、深紅の瞳には強い意思が静かに燃えていた。
「力を授かったことによって、私の精神が大きく変化したことは事実です。今私が持つこの力が、私が元から持っていた力だった……などと自惚れてもいません、勘違いを起こしてもいません」
そこで一度言葉を切り、クリシュは自分の手に刻まれた火龍の紋様――その刻印を見る。
「ですが、私はこの力を望まれて得たと思っています。自身で得た力でないのならば、私は私にこの力を与えてくれた方々に、力を得る資格を私に授けて下さった人々の為に使います」
曇りのない燻りもしない。
深紅の瞳に灯った小さな火は、今も美しく燃えている。
「綺麗事を言うなぁ! お前だって、いつかはその力に溺れて、自分にとって都合の悪い人間を消すためだけにその力を使う日がくる!」
「たとえそうだとしても――私にはそんな私を止めて下さる、信頼に足る方々がいます」
そう言ってクリシュは、自分の後ろに立つラウズと前方――サウルの後ろに佇み自分たちを見下ろす火龍を見上げた。黄金の瞳は三者を見下ろし、フンを鼻息を吐くと鼻から炎が噴出した。
先ほどの戦いを見れば、この火龍が加減をしなければクリシュはひとたまりもなく滅ぼされるだろう。そして、その時になればこの火龍がそれを躊躇しないことも窺えた。
自分の言葉が論破され、サウルはガックリと地面に両手を着いた。その様子を見届けて、クリシュはサウルに対する処遇のみを告げる。
「サウル=パンディア。ここで貴方を罰することはしません。司法の元で然るべき裁判に掛け、正当な手順で審判を下してもらいます。帝都に護送するまでは、牢に入って頂きます」
うな垂れるサウルにクリシュが背を向けた瞬間、サウルがバネ仕掛けの玩具のように『ガバッ!』と顔を上げた。その目は狂気に満ち、ゼミリオの目によく似ていた。右手に持った銃をクリシュの背に向けて今度は躊躇なく引き金を引いた。
――パンッ!
乾いた音が城門内の広場に響き渡る。
広場に集まっていた侍女や使用人たちは咄嗟に手で目や口を覆ったり、クリシュの盾になろうと――あるいはサウルを取り押さえようと間に合うはずもない状況で駆け出そうとしていた。だが、彼らの心配は杞憂だったことが目の前で証明される。
銃口から鉛の弾は確かに発射されたが、弾丸はクリシュに触れる前にクリシュの全身を被うように展開されている炎性魔力の層に接触する。それが触れた瞬間、クリシュの体から深紅の炎が噴き上がり鉛は力学的な力を失い、弾丸は一瞬で融けて形を歪に変えた後、すぐさま蒸発した。
炎が収まるとクリシュが再びサウルの方を振り返った。だが、クリシュが口を開く前にクリシュとサウルの間を遮るように巨大な赤い尾が横から滑るように両者の間を別った。
『我が巫女よ、話はそこまでだ。我もこの男に問わねばならぬことがある』
火龍の口から発せられる言葉に、クリシュの言葉も遮られた。
それはクロウシスからの配慮であり、問わねばならないことがあるのも事実だった。
深紅の目が赤い巨体を見上げ憂いを帯びた視線を向けると、火龍は静かに視線だけで頷きこの場を任せるようにと促した。その意思に従い、クリシュはその場から数歩下がった。
『サウル=パンディア。今回お前たちが起こした一連の騒動。お前たちに龍騎兵と兵士を提供し、裏で指示を出していた者は、何者だ?』
巨大で恐ろしいまでの力を持った火龍に目の前で直接問われ、不意を突いた自暴自棄の攻撃さえもクリシュ自身の力で防がれたサウルは追い詰められていた。口篭ろうとするが、黙秘や嘘が通じるような相手ではないことなど分かりきっている。そしてサウルの脳裏には今も、アレス城の自室で聴いたゼミリオの絶望と恐怖に染まった悲鳴が木霊していた。
無意識に震え出す身体をそのままに、サウルは石畳の地面を見つめて口を開いた。
「ぼ、僕たちは……」
若干の躊躇はあったが、遂にサウルが黒幕について口を割ろうとした時、異変は起きた。
サウルの頭が急にガクっと下に下がり、その身体がガクガクと震え出す。
クロウシスはサウルと対面した時点で、魔眼を通してサウルの中に呪印があることを確認していたが、敢えてそれを取り除くことはしなかった。この事件に絡んでいる相手が、仮に十年前に発現したクリシュの呪印を仕込んだ人間と同一人物であれば、呪印に外部から干渉した瞬間に被呪者を殺すくらいの狡猾さを持っていると思ったからだった。
そしてサウルの頭が下がった時点で、クロウシスは呪印の解呪を行った。だが、打ち破られた呪印はそれに対応するように砕けた呪の因子が素早く組み変わり、致死性の毒となってサウルの脳に着床する。魔法の範疇から抜け出した毒は、クロウシスを嘲笑うかのように脳で毒素を振りまき、サウルの脳をグズグズに融かした。
「――あぁぁ、うぁーぇぁぇぇぇあ……」
脳を破壊されたサウルは意味不明な呟きを残しながら、頭部を変色させてその場に崩れ落ちた。石畳に突っ伏した際に『グチャリ』という熟れ過ぎた果実が落ちて潰れるような音を発し、二年間に渡ってバーンアレス島を支配してきた男は、口封じの呪いによって息を引き取った。
呪印を破壊せず消し飛ばす方法を取れば、少なくともサウルの口を封じられることはなかっただろう。だが、呪印が張られた場所が脳である以上、呪印を消し飛ばすほどの魔力を送り込めば記憶や人格さえも一緒に消し飛ばすリスクがあった。それを見越しての事なのであれば、やはり相手は相当に狡猾であり残忍な相手であると言える。
土下座のような姿勢で地面に倒れ込み、肉の腐る臭いを発するサウルの姿を見てクリシュは目を細めた。その肩にラウズが手を置いて、ゆっくりと首を横に振った。その思いを察して、クリシュもゆっくりと首を縦に振る。
そして二人はクロウシスに向かって膝を折った。
結果的に事件の首謀者についての情報を実行犯から直接得ることは難しくなったが、それでも主犯格であるサウル=パンディアとゼミリオ=ガウンディ両名の死亡によって、このバーンアレス島の戦いは終幕を迎えたと言える。
強き心を取り戻し、発揮することが出来なかった力を遂に手にした巫女。
後悔と贖罪意識に取り込まれながらも、迷いと悔恨を打ち破った御子。
この両者を正しき道へと戻し、この火龍が望んでいた姿に導けたことは、クロウシスにとって何よりの成功だった。この二人を見ていれば、クロウシスはまだ人間の『素晴らしさ』を実感出来る、そんな気がした。
太陽が空に昇り、柔らかな陽光がアレス城を浄化するように照らす。
その日差しの中、火龍が翼を広げて咆哮を上げると、周囲にいた城の人々が歓声を上げる。
歓声は鳴り止まず、二人と一柱にはいつまでも感謝と祝福の声が降り注いだ。
※校正・修正報告
2013/01/27誤字脱字等修正しました。