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第一章15-火龍巫女-

 黎明に淡い光を薄く発散させる夜明けの空。

 一時は収まりを見せていた火龍島の噴火は、主の意思に呼応するように再び猛々しく荒れ狂っていた。

 朝焼けを待たずして、白む空を焦がすような紅蓮のよりも真紅の熱線が澄んだ空気を切り裂いた。


 膨大な炎で形成された東洋竜の形をとった防御機構である『火竜の衣』を解いた『焦熱の火山』バーンアレスによって放たれる一撃は、その場で当事者除けば唯一目を開けていたラウズの視界を紅く焼きながら一人の少女――クリシュへと一直線に突き進む。


 クリシュに迫る火龍の力による熱線に呼応して、クリシュが突き出している両手を中心に白い焔が立ち上り、白炎はそれ自体が意思を持っているかのように渦巻き、円状に渦巻く白炎の層を形成して迫り来る紅蓮の熱線を迎え撃つ。

 真紅に染まった槍のような熱線が白炎の盾へと着弾した瞬間、大気が引き付けを起こしたかのように軋みを上げて唸り、熱量の拮抗点から溢れ出した余剰魔力が乱反射して、過剰な熱量を持った光の筋が幾条も拮抗点の後方に向かって放出される。

 反射した魔力光の筋は地面を削り、森を焼き切り、雲を裂き、海すら断ち割った。


 止め処なく放出され続ける真紅の熱線を白炎が余裕で相殺しているように見える。だが、今までに比べれば埒外に膨大な魔力量に圧倒され、相殺しきれない魔力を反射させることで何とか拮抗を保っていた。それを為す少女の表情には一切の乱れも無いが、拮抗点となっている崖の突端は既に圧倒的な熱量と洩れる魔力波によって融解し、クリシュの前は球形に崖が抉れていた。


 両手を前へと突き出した姿勢で白炎を維持するクリシュの後ろには、アレス城下の町に住まう島民と他国からの強制移民者、そしてクリシュを長年支えてきた火龍の首飾り(ガルフィネアス)近衛騎士団たちが、クリシュを信じて両手を胸の前で結び祈りを捧げている。

 今クリシュの力が弱まり、もしこの超高温のドラゴンブレスが白炎を突破しようものなら、クリシュはおろか後ろに控える全ての人間は一瞬にして骨も残らず焼き尽くされ蒸発するだろう。そんな状況に関わらず、精神を魔術による仮装人格によって乗っ取られているクリシュの表情に変化は無い。

 そしてこの拮抗の分が悪くなろうとも、苦悶の表情や焦燥感を浮べることすらない。まるで負けても構わないという姿勢にすら思えた。だが、事実元々はバーンアレスの能力発揮を阻害することを目的としているこの仮装人格は、クリシュ自身の命を守れとは命じられてはいない。それどころか魔術による呪印を掛けた主は、バーンアレスが幼いクリシュに対して手出しをしないことすら読んでおり、本来は自身を守る行動そのものも取らないようになっていた。現在取っている行動も、単に苛烈なまでに放出されるバーンアレスの炎性魔力に過剰反応した仮装人格が、それを吸収するためにクリシュの前に白炎を発生させているに過ぎない。


 白炎による炎性魔力相殺が間に合わなくなり、拮抗は徐々にクリシュから発せられる白炎が圧されるという様相を呈し始める。その様子を見ながらも、クロウシスは躊躇い無く白炎を押し切るに足る炎性魔力を放出し続ける。まるでギリギリまで追い詰めて、その内に潜む何かしらを呼び起こそうとするかのように――。


 時間にしてほんの十数秒の出来事だが、それを永遠にも等しい長い時間に感じている人物がいた。それはクリシュたちのいるアウレイス山の麓に広がる焼け焦げた森に墜落し、クロウシスの魔眼から放たれた不可視の(くさび)によって地面に縫い付けられているラウズだった。

 この土壇場において身動きを封じられている己の愚かさと不甲斐なさに歯噛みすると同時に、傍から見ていても、本領を発揮したバーンアレスが放つ竜殺しの魔剣(ドラゴンスレイヤー)でさえ防ぎ切れないであろう真紅の集束ブレスは、今のクリシュを持ってしても持ち堪えるのがやっとのように見えた。そして現に真紅の長い槍のような熱線は、白炎の相殺力を上回り始め濃かった白炎の濃淡が徐々に薄まっている。


 最早いつクリシュが力尽き、背後でクリシュの為に祈りを捧げる大勢の人間諸共消し飛んでもおかしくない状況となっている。その事が分からない火龍ではないはずだと思うが、それでも忌々しいと感じていた白炎が今や頼りなく朧気になっていく光景にラウズは焦りを禁じえなかった。

 焦りと怒りを力に変えて全身に力を込めるが、背中に刺さった不可視で実体の無い戒めはビクともせず、痛みすらなくただ頑としてラウズの身動きを取らせようとしない。


 その時、大気を震わせる魔力の発散が不可視の波となって光を伴い空を駆けた。

 ラウズの危機感は的中し、真紅のブレスが面積の狭まった白炎を今まさに削りきろうとしていた。そして遂に呪われた白炎は掻き消され、真紅の引き絞られた熱線がその後ろにいたクリシュを呑み込んだ。


「――――ッ!!」


 その光景に、ラウズは声にならない声を上げていた。

 それが悲鳴だったのか、怒号だったのか、それすら覚えていないほどの焦燥感と絶望感がラウズの中に満ちていた。そして、悔恨と失意に顔を伏したラウズの頭上で爆発が起こる。最愛の妹たちと、その妹たちが守り守ってくれていた人々が一瞬にして焼き尽くされる光景を想像し、ラウズは忸怩たる思いで歯噛みする。

 バーンアレスの意図を量りきることが出来ず、この結果こそが火龍の望みだったのだろうか――そう思わざる得ない状況と、それを否定したい気持ちが混在してラウズの思考を白く塗り潰していく。

 失意に暮れる青年の頭上から、ブレスの放出を止めた火龍が、遠雷を思わせる重厚な声音で満足そうな声を響かせる。


『――そうだ。そうでなくては、何も始まりはしない』


 耳に届いた言葉の意味を図りかねて、伏していた顔を咄嗟に上げると、その青い瞳に映ったのは烈日が地に落ちたかのように燃え立つ紅蓮の炎。


 ラウズは呆然と目を見開いて、その炎を猛らせる存在――堂々たる態度で立つ一人の少女を見つめた。



                   ◇◆◇◆◇◆◇



 そこはとても暗い場所だった。

 五メートル四方の狭く、物はおろか窓すらない空間。

 そこには光源が何も無く、上を見上げても天井があるのかすら分からない。

 あるのはただひたすらに澱んだ闇の気配。

 そんな空虚な空間の中にクリシュはいた。


 暗闇の中で膝を抱えて座り込み、開いた目に光は無く、ただぼんやりと抱えた膝頭を見ている。

 その横にはクリシュとまったく同じ姿勢で膝を抱えている、十年前の幼いクリシュの姿があった。

 閉塞されたこの非常に狭い空間は、クリシュ本来の自我を奪い閉じ込めるための牢獄であり、それを作り出しているのは幼い頃にかけられた魔術によるものだった。


 魔術の起動は『ラウズとバーンアレスが互いに決定的な攻撃を放った瞬間』に起因しており、魔術の発動と共にクリシュの深層心理に着床していた擬似人格が表層に現れる。その際に意図的に秘匿されているクリシュが元来持っていた火龍巫女としての才覚が共に発現し、仮装人格は予め魔術によって定められていた通りにバーンアレスの炎性魔力が一定域を越えれば、それを無効化・吸収するため能力を使う。


 そしてここは、魔術で作られた仮装人格によって意識の主権を奪われたクリシュ本来の人格が幽閉されている場所だった。クリシュの意識は抵抗力を奪うために魔術の作用によって限りなく希薄な状態にされており、自我を薄められた少女はただ小さく(うずくま)っていた。

 そんなクリシュの前にいつの間にか、一人の少女が立っていた。

 クリシュの隣に蹲っている幼いクリシュと同じ背格好だが、どういうわけか彼女の方が身に纏った雰囲気が大人びていて、表情は相変わらず泣き笑いのような(うれ)いを帯びた表情を浮べている。

 そのクリシュがそっと蹲る現在のクリシュの肩に触れると、瞳に色を失っていたクリシュのまつ毛が僅かに揺れる。だが、意思を取り戻すほどの変化は訪れず、変わらず膝を抱えたまま動きはない。すると、幼いクリシュは肩から手を離し、今度は丸まった背中に両手を添えて目を瞑る。


『耳を澄ませて。貴女が失ってしまった十年が、ただ無為で無駄なモノではなかったと教えてくれる声を聴いてあげて……』


 その幼さがまだ残る声と共に、何も感じず何も聴こえないはずの耳に――声が届く。



『姫様。どうかご無事で』


『クリシュ姫殿下。正気にお戻り下さい』


『我々は信じております。貴女が姫様だからではなく、火龍巫女としての貴女様を信じております』


『クリシュ姫。火龍様を亡くした時、我々の希望は貴女様だけだった。信じています』


『疑っちまった時もあった……だが、火龍様があんた様を助けようとしてるのを見て、あんた様もこの二年――いや、十年を戦ってきたことは伝わってきた。だから、帰ってきてくだせぇ!』


『姫様、我々『火龍の首飾り(ガルフィネアス)』はいつも貴女様の御許におります』


『首の飾りが幾つ砕けようとも、我々は常にクリシュ様と共にあります。ですから――お戻り下さいっ!』



 数百人の献身的な祈りは思念となって集い、届くはずの無い声が耳朶を打ち、それは動くはずの無い冷えた心に熱を放ち、やがて熱く息衝き再び心に火を灯す。

 意思なく色なく漂っていた瞳に色が戻り、青い瞳がはっきりとした意思と共に開かれる。その瞳からは涙が止め処なく零れ落ち、自分の心へと届き続ける人々の声と想いが降り積もっていた。

 深層心理に作られた精神の牢獄の中で、クリシュは立ち上がる。自分を支えてくれる人たちに報いるために、決意を持って自分の力で呪印による支配から脱しようと誓いながら。その耳には今も人々の想いが届き、心根の弱い普段の自分にならば耐え難い重荷と感じてしまそうなその声も、今は不思議と心強く感じさえする。


「――ありがっ……ございます、私はこんなにも――ったなんて……っ」


 止め処なく湧き出る涙と嗚咽で声は不明瞭だが、クリシュの声はとても明瞭なものだった。

 自分が不甲斐ないばかりに、圧政を敷かれ本来受ける謂れの無い理不尽な加虐を受けてきた。そんな人々が自分に対して如何なる感情を向けているのか、そのことを思うと本当はクリシュは怖かった。

 治世を敷いていた時には明るく接してくれていた人々が、自分のせいで苦しみを味わい家族を奪われ尊厳を踏み躙られ、やがてその苦しみと悲しみが怒りへと変わり自分に向けられることを恐れていた。

 王族の血縁者として、そして為政者としてそれを恐れることは本来してはならないことなのだが、それでも人から悪意を向けられることを、まして自分の治める領民からその感情を向けられることをクリシュは恐れていた。

 だからこそ、バーンアレスという比類なき後ろ盾がある状況ではあるが、クリシュには自分を信じる声に想いを乗せて伝えてくれることが嬉しくて仕方が無かった。


 涙を拭って、この閉塞した空間から出るために歩を進め壁に向かって手の伸ばそうとした時、後ろから声が掛かった。


『待って』


 驚いてクリシュが振り返ると、そこにはずっと自分を助けてくれていた過去のクリシュが立っていた。まだ僅かに混濁している記憶を探れば、今も自分に人々の声を届けてくれたのも、この娘のおかげであったことを朧気ながら思い出すことができた。

 そのことに感謝して、お礼の言葉を述べようと口を開こうとした時、それを遮るように少女は言う。


『揺るがない固い決意を持っているのであれば、貴女は過去を清算しなくてはいけない』


 透き通るように青く美しい瞳で過去のクリシュがそう言うと、今まで蹲っていたもう一人の幼いクリシュがすっと音もなく立ち上がる。その姿を見つめていたクリシュの顔が驚愕に染まった。

 この三人の中で最も幼い姿のクリシュは、手をダラリと垂らして顔を俯かせていたが、その顔はまるで闇が張り付いているかのように黒く染まり、目や鼻、口はおろか顔の全てがのっぺりとした底知れない闇に染まっていた。

 息を呑むクリシュの前で、黒い顔の輪郭――その目に当たる部分から赤い赫い雫が零れ始める。闇で顔を隠した小さなクリシュはダラりと垂らした手でスカートの裾を握り締めて、嗚咽もなく赤い涙を流し続ける。

 その姿を呆然と見つめるクリシュに向かって、もう一人のクリシュは真実を話す。


『この子は、貴女がここへ閉じ込めた十年前の貴女』


 その言葉にクリシュは目を見開き、口元に震える手を添える。


『私は十年前、亡くなられた火龍様の記憶の中で生かされていた貴女』


 続く言葉にクリシュが視線を向けると、幼いはずのクリシュはまたあの年不相応な大人びた表情で、泣き笑いのような表情を浮かべる。


『そして十年前、貴女が悲しみと後悔に押し潰されそうな心を守るために、全ての悲しみと後悔をこの子に背負わせここへ閉じ込めた。その上で、乖離しかけていた精神と記憶を兄様が持ってきた忘却の秘薬で完全に分けた存在――それが貴女』


 その言葉が意味するところは、つまり十年前に受けたあまりに大きな心の傷によって、痛ましい記憶とそれを拒絶する精神が反発し合う事態に陥り、毎夜繰り返す悪夢のように脳裏に過ぎる後悔の念とそれを受け入れることが出来ず悲しみに押し潰されそうになる精神が拒絶し合うあまり、遂に精神が肉体から乖離して廃人になりかけた。それを救ったのは、兄ラウズが持ってきた『忘却の秘薬』だった。


 秘薬により記憶を忘れ去ることにより、精神を保とうとした。

 そしてそれは成功し、記憶は忘却の彼方へと過ぎ去り精神は安定する。

 だが、薬には副作用があった。

 それは精神を虚弱にして、意志を薄弱にさせるというものだった。

 結果的にクリシュは別人のように弱々しく、頼りない存在となった。その変化に対して周囲の人間は、信望していたバーンアレスが討伐されたことに心を痛めた結果、まだ幼かった少女の性格が変容してしまったのだと思った。

 ジルたち古参の火龍の首飾り(ガルフィネアス)が出会った頃のクリシュは、人見知りで常にビクビクとして泣き虫で塞ぎ込むことが多かった。それでも現在のクリシュまで成長したのは、(ひとえ)に今に至るまでクリシュを支え教え導いてきた周囲の人間の力によるものが大きい。


 そして今、目の前にいる絶望と悲哀に満ちた小さなクリシュは『忘却の秘薬』によって記憶の奥底へと追いやった十年前の記憶に対しての云わば自己防衛本能による精神的生贄だった。秘薬を用いて忘れはしても、その記憶は消え去ったわけではない。何かの拍子で思い出すことがないようにと、クリシュは精神を分断してもう一人の自分を作りだし、その小さな自分をここへ幽閉し絶望と後悔の全てを背負わせた。


 そうして十年間にも及ぶ絶望と後悔の念による悪夢に囚われ続け、幼い七歳のクリシュの精神は程無く崩壊した。だが、それでもなおこの閉塞された空間で見せ続けられる(・・・・・・・)悪夢の記憶に苛まれ続ける内に、病んだ心はどうしようもないほどに壊れ、何かを誰かを怨むことすら知らない無垢な心は砕かれ裂かれ血飛沫を上げながらも、ただひたすらに己を責めて堕ちていった。


『十年前、貴女の代わりに絶望に堕ちたこの子を救ってあげて……。この子は貴女があの時失ったモノの全てを持っている。だからこそ、この孤独と絶望に堕ちても人の形を失わず、塩の柱となって消え去ることもなく、貴女がここへ訪れる日を待つことが出来た』


 クリシュは自分が目の前に佇み、血の涙を流して十年間もの間苦しみ続けた存在を前にして、心が張り裂けそうになる思いと共に、それをさせたのが自分自身だったことに衝撃を受けていた。帝都での折衝や最後の火龍巫女となったことによる心労、そしてこの二年間の自分が抱えていた苦悩など、この幼い心が強いられた絶望に比べれば何と生温いことだろうか――。


 無意識にクリシュは膝を折り、地面に膝をついて目線を同じ高さにする。そして赤い涙を流しながら、スカートの裾を握って震えるその小さな体を抱きしめると、小さな体はクリシュの首を絞めるような真似さえをすることもなく、ただされるがままに抱きしめられていた。

 それがクリシュに更なる悲しみを募らせる。

 責められるべきは自分であり、殴られても、首を絞められても、殺そうとされても文句を言えない立場に自分はあり、復讐しようとしてもいい立場に彼女はありながらも、自分を責めようとせず――人を真に責めることすら知らないほどに無垢な心を前にして、クリシュは嗚咽を漏らしながら泣き続ける。


「ごめんなさいっ……貴女一人に全てを背負わせてしまって、ごめんなさい……」


 抱きしめられるクリシュの胸の中で、小さなクリシュの体が光を放ち始めその足先から燐光を放ちながら、まるで花びらが散るように光の断片となって散り融けていく。そして小さな体の胸辺りまでが散り消えたところで、不意に今まで垂れ下がっていた小さな手が上がり、クリシュの胸に手を添えてそっと押した。互いの体に僅かな距離が生まれたところで、クリシュは少女の顔を見て目を見開く。

 黒い闇に縁取られ、闇を張り付かせていた顔にはもうその名残すらなく。幼い子供特有の柔らかそうな肌色が見え、その中に可愛らしい年相応の微笑を浮べた七歳のクリシュがいた。その顔を前に必死に言葉を紡ごうとするが、震える唇は上手く言葉を発することが出来ず、口を震わせるクリシュを前に、今度は小さなクリシュがそっとクリシュの頭を抱きしめた。

 そのあまりに優しい抱擁にクリシュが声を上げて小さな胸の中で泣いていると、やがて胸から肩、肩から首と頭に光の欠片となる光の波は上がってゆき、微笑を浮べたまま小さなクリシュは消え去った。


 閉鎖空間は再び暗闇に戻り、その中心で抱きしめていたものを失って自分自身を抱くように体に手を回していたクリシュがその手を解き、自分の手の平を見つめる。そして自分の胸に片手を添えて、己の中に浸透し遂に還ってきた十年間分の記憶の痛みを噛み締めた。



 ――それは圧倒的な絶望。

 ――それは絶望的な孤独。

 ――それは救いの無い死。



 幼さ故に非情な現実を受け止め切れずにただ自分を責め続け、この暗闇の中で枯れ果てた涙の代わりに血の涙を流し続けることを強いられたもう一人の自分。受け入れて感じたのは、どれも心を刺す様に冷たく暗い陰鬱な記憶ばかりだった。

 自分を強く持たなければ胸が押し潰されてしまいそうな感情と記憶が渦巻き、固く閉じた瞼から熱い雫が流れ始める。それが涙なのか、血なのかは目を閉じているクリシュには分からなかったが、今までに感じたことのない熱い雫の涙滴だった。


 劇的な変化もなければ、強烈な拒絶反応もない。

 だが、クリシュは変わった。

 確かに変わった――いや、戻ったと言うべきが正しいのだろう。


『ありがとう……。あの子が笑顔で終わりを迎えられたのは、貴女の覚悟が本物だったから』


 部屋に残ったもう一人のクリシュが嬉しさと悲しみを同居させた表情で、目尻から一筋の涙を流す。その涙が暗い床に落ちる頃には、あの泣き笑いのような表情は穏やかな笑顔に変わっていた。


『あの子を受け入れて取り乱さない心があれば、もう貴女は大丈夫。だから……』


 先ほどのクリシュと同じ七歳の小さな体で、クリシュはクリシュに指を揃えた手の平が見えるような形で両手を差し出す。それに対して目を閉じたまま、クリシュも同じように両手を同様に差し出し二人の手の平同士がそっと合わさった。

 合わさった場所から伝わる温かさは、やがて熱さに変わり二人の周囲を炎が取り巻き始める。


『火龍様の思い描いた。ううん、火龍様が愛して下さった私達(・・)のクリシュ。その成長した姿の完成……火龍様が私に残して下さったのは、貴女への案内役としての使命ともう一つ――契約紋章の受印』


 渦巻く炎はやがて二人を包み込むように燃え上がり、狭い空間を朱に染めてその全てを燃え立つ炎が満遍なく覆い尽くしていく。


『契約の可否は、あの方に委ねられている。だからこれは単なるきっかけ……そして始まり。でも、ようやく私達は――私はあの十年前から進むことが出来る』


 今まで物音一つしなかった空間が、ガタガタと音を立てて揺れ始める。まるで早く出てくるように囃し立てるかのように、外圧によってこの精神空間が悲鳴を上げていた。



『あの方が呼んでる。さぁ、一緒に行こう』



 炎の中に揺らめく二つの影が合さり、その影は一つとなる。


 一際激しく燃え立った炎が、天井へと吹き上げ閉塞的な空間を天井から壁を伝い炎が舐め尽す。


 そして、まるで吸い込まれるように全ての炎が一点に集中し、一瞬の内に炎は消え去った。


 後に残ったのは、一人の少女。


 静かに振り向き、壁に向かって固く閉じていた瞼を開き、その目を向ける。


 その瞳の色は――深紅。

 


                   ◇◆◇◆◇◆◇



 明確な変化が訪れたのは、白炎がクロウシスの予想よりも早い段階でガクっとその放出量を減らした時だった。そして、まるで故障をきたした機械の様に白炎の形態維持が不安定になる。

 それは明らかにクリシュの内面において、何かが起こっている証拠だった。しかし放出し続ける炎性魔力を緩めるような真似はせず、焦れた思いを伝えるかのように力を上げて白炎をさらに削り取る。


 少女の中で起きた劇的な変化が表に現れる瞬間に合わせ、偽りの白炎を消し去るがためにクロウシスは放出する炎性魔力の威力を高め、全てが適合し符号するタイミングでクリシュに掛かった呪いを焼き尽くした。そして機は熟し、十年に及ぶ呪縛を焼き尽くす紅蓮の炎が目覚めの咆哮を上げる。

 かくして、呪われた白炎は余すことなく火の粉の一片すら残さず、真紅の業火と紅蓮の炎熱によって滅却された。そして少女は立つ、深紅の瞳に紅蓮を纏い炎が栄える銀髪を靡かせて、威風堂々としたその姿には頼りなく弱々しかった印象はまったく感じられない。


 その姿を認めたクロウシスは、再び全身の細胞に魔力を送り込み始める。血流と共に流れる魔力が発光し、鱗の隙間から垣間見える幾筋もの紋様が再び明滅を始める。圧倒的な熱量を胸下部にある魔力炉へと集めると同時に、黄金の瞳が爛々と輝きを増していく。



〈お前の力で守ってみせろ、クリシュ〉


〈はい、バーンアレス様――いえ、クロウシス(・・・・・)様〉



 それは火龍とその巫女、両者のみに通ずる意思疎通だった。


 そして黄金と深紅の瞳が交錯した瞬間、クロウシスは一切の手加減なく再び真紅の熱線を放出した。

 一瞬の内に迫り来る真紅の集束されたドラゴンブレスに対し、クリシュは白炎が行っていたような力の相殺ではなく、自らに火龍巫女として備わっている元来の力――紅蓮の炎による真っ向勝負を挑んだ。

 その無謀ともいえる――いや、誰が見てもはっきりと無謀と分かるその行為に対して、異を唱えられる者も止められる者も居はしなかった。クリシュの背後には、未だに時間が停止したかのように祈りを捧げる人々がおり、その命を背負う覚悟と、彼らを守り通す信念を見せる為に、クリシュは絶対的な決意と十年前の己の力不足を贖罪する覚悟で真正面からの真っ向勝負を挑んだ。


 一直線に押し寄せる真紅の稲妻のような苛烈なエネルギー放射は、並みの魔道師では受け止めることさえ出来ずに消し飛ぶ威力を持っている。その力の奔流に対して、クリシュは紅蓮の炎を巨大な盾状に展開して受け止めた。


「……っ!!」


 予想を超える衝撃と圧力に炎を展開する体が悲鳴を上げるが、それでも炎の一片、熱量の片鱗すら後ろに控える人々に届くことはなく。クリシュはバーンアレス(クロウシス)の一撃を受け止めてみせた。だが、紅蓮の炎は魔力そのものを分解相殺していた白炎と違い、真紅のドラゴンブレスが持つ威力をそのまま受け止めているために、クリシュへの負荷が尋常ではないものになっていた。

 数秒の内に紅蓮の炎は、真紅の熱線が持つ尋常ではない熱量によって圧されていく。

 炎を支えるクリシュの表情にも苦悶が浮かぶが、負けることなく両手に更なる力を込めて耐えようとした。その行動を見て取ったクロウシスは、ブレスをさらに集束させていく。

 互いに炎性の性質を持つ魔力の衝突は、金属同士が高速で擦れ合うような甲高い音を響き渡らせて、クリシュの後ろに座する人々が僅かに顔を歪めていた。


 その光景を呆然と見つめていたラウズは、クリシュの変容が意味するところを察して熱いものが込み上げてくるのを感じると同時に、目の前で起こる妹の正気とは思えない行動に対して絶句していた。

 あの真紅の炎は、人間の――それも一個人の力で受け止められるような代物ではない。まさに『焦熱』を文字通りに表す、この世で最も苛烈にして容赦のない炎だ。

 だが、それでも崖の下から見上げるクリシュの横顔は決意と覚悟によって固められ、如何なる試練にも立ち向かうという気概に満ちていた。そんな顔を見せられては、ラウズにはそれを制止する声を掛けることも出来ようはずがなかった。


「――ぅっくぅっっ!!」


 腕から全身へと伝わってくる過剰な過負荷に、クリシュの口から苦痛の色を含んだ呻きが洩れる。

 この一撃を単体で受け止めて、十秒以上持っただけでも称賛に価するのだが、やはり持ち得る力の総量が違いすぎるために、クリシュが生み出す紅蓮の炎は徐々に真紅に熱せられた業火の侵入を許し始める。そして、魔力同士がぶつかり合う拮抗点に生まれた力場から気流が発生し、クリシュの長い銀髪が激しくなびかせた。

 そして遂に紅蓮の炎は真紅の猛火を防ぎ切れず、突破した焦熱がクリシュの腕を焼き始めた。火龍巫女として元来持っている炎性魔力に対する非常に高い耐性と、まだ僅かに展開している紅蓮の炎を自身に纏わせていなければ腕は一瞬で炭化するほどの火傷を負っていただろう。

 だが、それでもクロウシスはブレスの放出を一切緩めることはせず、黄金の瞳に映る少女に対して苛烈なる試練を与え続ける。

 その結果、必死に抑え込んでいた真紅の焦熱がクリシュの指先に触れた瞬間、その腕が発火した。


「――ッ!! ぅっくっあぐぅぅぅぅぅぁっつぅっぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 生きたまま腕が焼ける痛みに、クリシュは遂に悲鳴を上げた。

 その悲痛な声に、今までどんな激しい音が響いても微動にせず祈りを捧げていた火龍の首飾り(ガルフィネアス)たちが目を開けて、目の前で展開されている光景に目を見開いた。

 目の眩む光の光芒が瞬く中で、強大な火龍の放つ真紅の炎光を、紅蓮の炎を纏って受け止める小さな少女の姿。その少女――クリシュの腕が苛烈過ぎる真紅の炎を受けきれず、発火して美しい白い肌が焼け爛れ、それでもなお炎は彼女の腕を焼き続ける。


「バーンアレス様っ! お止め下さいっ! 姫様が死んでしまわれます!」


「このような仕打ち、あんまりでございますっ!」


「どうかお止め下さいっ!」


 侍女騎士たちが目の前で主の腕を焼かれる光景に驚愕し、ある者は絶句し、ある者は涙を流し、ある者はすぐさまクリシュの元へ近寄ろうとした。その気配を察知したクリシュが声を上げる。


「近づかないで下さいっ!!」


 その彼女らしからぬ強い口調と声量に怯み、何よりもその言葉には今まで感じたことのない強い意志が込められていた。驚きに身を固める騎士たちに向かって、クリシュは痛みに耐えながら告げる。


「こ、これはっ私の試練です……だから、私がっいっ――私が乗り越えます」


 そこにはもう、彼女たちが支えなければならない(・・・・)少女の姿はなく。火龍という巨大な存在が与える、文字通りその身を焦がすほどの過酷な試練に立ち向かう火龍巫女の姿があった。呆然とその後ろ姿を見つめていたが、すぐに火龍の首飾り(ガルフィネアス)たちは再びその場に膝をつき、両手を固く胸の前で結び祈りを捧げ始めた。


 ――我らの主が、どうかこの試練に打ち勝つようにと、信じて祈らずにはいられなかった。


 その祈りを感じながら、クリシュは心中で『ありがとう』と頭を下げながらも、発火する腕はまるでクリシュを試すかのようにジワジワと肌と肉を焼き、見た目の凄惨さとは裏腹に非常に遅い速度で燃えていた。だが、受ける痛みはその分大きく長く、瞳から零れる涙が周囲の熱で蒸発するほどだった。


『――苦しいか? クリシュ』


 痛みに耐えるクリシュの向かって、口から絶えず真紅の奔流を放出しながらも、クロウシスは明瞭な声で尋ねてきた。その問いに対して、クリシュは『苦しい』と答えることを拒否して耐え続ける。


『――痛いであろう、クリシュ』


 今度は断定した言葉だった。

 それでもクリシュは返事することはせず、悲鳴を上げないようにすることに集中する。その様子を見て、クロウシスは眼を細める。


『だがな、クリシュ。この島でこの二年間死んでいった者達、傷ついた者達の痛みに比べれば、お前が受けている痛みなど取るに足らないものなのだ』


 その言葉を聴いた瞬間、紅蓮の炎が主の動揺に影響を受けて僅かにたわみ、それによって発火しているクリシュの腕を焼く炎は二の腕にまで火の手を広げた。


「うぅぅぅっぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 熱さが骨にまで浸透し、骨を伝って体の芯すら焼かれているような感覚にクリシュは悲鳴を上げる。その声に火龍の首飾り(ガルフィネアス)たちは肩をビクっとさせて祈りを捧げる両手に力を込めた。


『十年前に英霊精龍(カーディナルドラゴン)としての使命よりも、お前を救うことだけを選択したことについては、火龍(・・)に責がある。だからこそ、逃げる選択肢すら放棄して帝国の兵や魔道師を大勢殺した『悪龍』の汚名を着る覚悟で、死ぬまで戦い続けた』


 静かに、だが重く告げられたその言葉を耳にして、苦しみに洩れていた声さえ呑み込んで息が詰まった。今もなお、気を抜けば真紅の炎に呑み込まれて焼き尽くされ、後ろに控える数百人の人間が蒸発してしまう状況にあっても、動揺を隠し切れない言葉を耳を打つ。


『その決断に踏み切れたのは、お前がその受けた呪いを打ち破り、自らこの島へと戻ってくると信じていたからだ』


 火龍の想いは、あの空間で最後に一つとなったこの島に定着していた火龍の記憶――残存思念の中で生きていたもう一人のクリシュから得たと思っていた。だが改めてその当人と記憶を共有していると思われる存在から受ける言葉はクリシュにとって衝撃的だった。


『その想いは重荷だったか? 勝手な期待だったのだろうか?』


 容赦なく浴びせられる火龍の言葉に、クリシュは首を振ってそれを否定する。

 力を封じられていたから、幼さゆえに恐怖と後悔に押し潰されそうだったから、薬で記憶を消したから、いい訳なんて何通りでも浮かんでくる。だがその実、クリシュは自ら都合の悪い――辛い記憶を分裂したもう一人の自分に押し付けて、あの深層心理の奥深くにある暗く狭い部屋へと閉じ込めて蓋をしたのだ。


『お前によって苦しみの全てを背負わされたもう一人のお前は、お前を責めたか?』


 その事実を目の前の火龍が知っている事実に一瞬身体が硬直して、恥ずかしさとバツの悪さで顔色が青ざめそうになるが、そういった事を隠したり後ろめたくなる自分ではもう無いと、心中で咆えて顔をグイっと上げて再び真正面から火龍を見つめる。

 これ以上ない程に痛いところを責められてもなお、自分を真正面から見つめる『強さ』を示したクリシュに対して、クロウシスは目を細めて密かに笑んだ。


『――そうだ。 感情を発露させ、苦しい事辛い事を乗り越えて――強くなれ』


 それはクリシュとクロウシスが出会った日に、クロウシスが弱さゆえに泣き始めてしまったクリシュに向けて言った言葉だった。

 つまりそれは、己の強さを示す時は今だと言われているのだと悟り、クリシュは奥歯をギリっと噛んで焼きつく痛みで意志を折ろうとする腕の痛みを噛み殺し、紅蓮の炎を再度燃え上がらせる。その姿と意思を汲み取り、クロウシスもまたカっと眼を見開き、放出する炎性魔力の威力を上げた。

 完全にクリシュを押し潰さんばかりに膨れ上がった真紅の奔流に対して、紅蓮の炎は頑として抵抗を続け、拮抗点から放出される真紅の赤い放電が瞬き、周囲の森に火災を起こしていく。その力と意志の激突を目の当たりにして、森で伏すラウズは言葉を失い眩い赤光の中で、度重なる不慣れな魔力の全力展開によって内臓を傷つけて出血し、唇の端から血を流しながらも諦めることを知らない妹の姿に釘付けとなっていた。


 長いようで短かった炎同士の攻防は、遂に終わりを迎える。

 強大な火龍から放たれる真紅の炎と、小さな人の身であるクリシュが放つ紅蓮の炎の最後の衝突は、黎明の空を焦がすかのように朱に染めて、火山の胎動よりも激しく燃え盛り、全ての島に住む全ての生物が見守る中で赤く紅く赫く燃えて――終わりを迎えた。


 今まで島中に響き渡っていた逼迫した力と力がぶつかり合う音は止み、ぶつかり合っていた力が拡散したことによって、空気中の水分が蒸発したことによる靄が周囲に立ち込めていた。

 その場に張り詰めていた空気が変わったことに気づき、火龍の首飾り(ガルフィネアス)たちを始めとする島の人間たちが目を開けると、その目に映った光景に息を呑む。

 広場の端クリシュが立っていた崖の突端から、祈りを捧げていた人間たちを避けるようにして放射状に崖が削り取られてなくなり、崖から下も麓までなだらかな斜面だったはずだが、登り口の山道を含めてその全てが消し飛び断崖と化していた。そして、その崖の突端に立つ人物――クリシュの姿にその場にいた人間全てが注目し、息を呑み声を殺していた。

 いつも綺麗に整えられていた銀髪は乱れて乱雑となり、着ていた火龍巫女の服も所々が焼け焦げて無残なものとなっている。そしてダラりと垂らされた腕を見て、周囲の人間は声を失い所々からはすすり泣く声すら聞こえて来る。クリシュの腕は真っ黒に焦げ果て、放っておけば敗血症などの感染症を引き起こすほどの火傷を負っていた。


 白く染み一つなかった美しい細腕のあまりの有り様に、火龍の首飾り(ガルフィネアス)たちは口元に手をやりクリシュが感じているであろう痛みに、まるで自身も痛みを感じているかのように顔を歪めて涙を滲ませていた。

 当のクリシュは荒い呼吸を繰り返し、局部への重度の火傷によるショックを起こしかけていたが、火龍巫女の火に対する耐性がギリギリの位置でそれを押し止めていた。


『――よくぞ耐えた』


 頭上から聞こえる声は、いまだ硬く厳しい声だった。

 それでもクリシュは、息を整えようと呼吸を繰り返しながら空を仰ごうとする。その姿を見て、クロウシスは構わず言葉を続けた。

 

『クリシュよ、お前は強くなった。いや、強いお前に戻ったのだ。ならば、あの時言えなかった言葉を今のお前ならば言えるはずであろう』


 あの時言えなかった言葉とは、クロウシスと出会った夜のこと。

 初対面で話をして数分の相手に向かって突拍子もなく、自身と島の内情を開けっ広げに話し、その現状を冷静に分析し、周囲の人間が自らの立場と自分を気遣った末に誰も言えなかった現状を、クロウシスはクリシュに突きつけた。脈絡のない突然の打ち明け話を聞いて、すぐにそれを叱るというのは、二人に何の関連性もないことを考えれば、傍から見れば何とも奇妙な構図だったのではないかと、クリシュは思う。


 ――だが、違った。


 ――関連性がない? とんでもない。


 ――十年間の……いや、生まれた時からの因縁が二人にはあったのだ。


 ――だからこそ、無意識に心を許してしまったのだと思う。


 ――恐れ多く不遜ではあるが、クリシュは十年前からあの火龍に恋心を抱いていたのだから。


『帝国に――お前の兄に向かって、お前がしたいこと、出来ることを宣言せよ。お前はいったい この世界をどうしたいのだ? クリシュ=リアスカ=イニス=サーディアス』


 これもまた、あの時クリシュが答えられなかった問いだった。

 自信もなく力もなく、それを認める勇気すら乏しかった。

 だからこそ付け入る隙を与えてしまい、事態はここまで悪化してしまったのだ。

 だが、今ならば言える。

 いや、いまだからこそ言わなくてはいけない。


 クリシュは姿は見えずとも、確かに存在を感じる兄に向かって声を張り上げた。


「兄様っ!」


 以前会った時とは別人のように変わった妹の声は、力強くも切迫した悲痛なものではなく、大きくよく通るその声には重度の火傷を負っているにも関わらず生気に満ちていた。


「私は祖国サーディアスによって行われる性急な世界の統一化という名の侵略行為を止めさせます! たとえその結果――」


 そこで一度言葉を切り、クリシュはグっと息を呑み込んで、これから言葉にする事柄の重大性を自身に言い聞かせながら、それを口にする勇気と決意を奮立たせた。


「――父様を、サーディアスの皇帝ヴェスパルに歯向かうことになろうとも、私はこの島で起きた悲劇をこれ以上起こさない為に、火龍バーンアレスの巫女として戦いますっ!」


 今や世界を手中に収めようと版図を延ばすサーディアス帝国の皇帝ヴェスパルは、まさにこの世界で今最も力のある人物であると同時に、クリシュやラウズにとっては父ヴェスパルは絶対的な存在であり、父の意向に逆らうことなど一切考えることさえ無く育てられてきた。

 だからこそ妹のクリシュから、その父に歯向かい帝国の王女ではなく火龍巫女として帝国と戦うことさえ厭わないという宣言は、ラウズにとって何よりも衝撃的な言葉だった。

 いつも周囲に負い目を感じていた弱々しい存在、自分が守ってやらなければならない存在だと思っていた。だが、その妹は今や火龍が放つ全力の攻撃を大勢の人間を背にして重傷を負いながらも守りきり、その上で自分の祖国であり王家である帝国に敵対してでも非道を許さない、と宣言したのだ。

 それはクリシュよりも一回り近く年上であるラウズが、今まで考えはしても決して表に出さなかった事だった。それを面と向かって言われたことは、ラウズにとってはある意味クリシュに人間として先を行かれたような気持ちになり焦りにも似た心情と、その高潔なる強さと姿勢に憧憬すら感じた。


『よくぞ言った。これでもうお前は弱き者ではない。我との誓いを果たし、お前は強く――強くなったのだ。ならば我も誓いを果たそう』


 クロウシスの言葉に嬉しさが込み上げてくるが、それと同時にクロウシスが自分に立てた『誓い』というモノが何を指すものなのかがクリシュには思い当たらず、重度の火傷による激しい痛みに気を失いそうになりながら、蒼白く汗が浮いている顔を僅かに傾げた。


『あの時言えなかった言葉を、お前が堂々と言える日が来たならば――我は今のお前に一番必要なモノを与えると約束した。お前が今一番必要としているモノは――力だ』


「力……」


 実感のない呟きを漏らすクリシュに向かって、クロウシスは空中で静止したまま自分を見上げる巫女に対して、鷹揚に巨大な顔で頷く。


『その大言に真実味を持たせるため、そして自分の身を守り、自分を守ろうとする者をも守れる力。往々にして過ぎた力は持ち主の身を滅ぼすが、大きな使命を背負う以上はそれを御して使いこなす器を持たなければならない』


 言葉と共にクロウシスの黄金の瞳が輝き始め、その輝きは色を変えて真紅の輝きを煌かす。その真に(あか)い輝きを放つ瞳に魅入られた瞬間、突如燃え上がった真紅の炎がクリシュを覆い尽くした。その突然の出来事に、周囲の人間から悲鳴が上がり、火龍の首飾り(ガルフィネアス)たちの中には失神しそうになる者までいた。


 だが、炎に包まれているクリシュはそれ以上の驚きを感じていた。

 自分を包む込む様に燃え上がる真紅の炎は、先ほどまでの攻撃的な炎ではない。むしろ温かく包まれていると安心感すら覚えるものだった。そして先ほどまで意識が遠のきそうなほどの痛みを訴えていた腕から痛みが消え去り、替わりにピリピリとしたくすぐったい様な感覚を腕に感じていた。それはまるで、腕に何かの証を刻んでいるかのような感覚だった。


 クリシュが真紅の炎に包まれ、十数秒。

 周囲の人々が固唾を呑んで見守る中、不意に渦巻くように燃えていた炎が急速に終息し、小さくなってやがて消えた。そしてそこから現れた一人の少女――クリシュの姿を見て、その場にいた全員が目を見開くこととなった。


 真紅を基調とした古式ゆかしい意匠の元、金糸によって火龍が刺繍が施されている。そのワンピース型の服には全体に白地のラインが入っており、袖は手に近づくほど袖口の大きなゆったりとした作りになっている。火龍の刺繍はスカートから体に始まり、体に巻きつくように意匠されて胸部に顔が来るように誂えてある。背中には火龍の紋章が、より色合いの濃い赤で描かれていた。

 その服の見事さも然ることながら、人々の目を釘付けにしているのはクリシュ自身の変化だった。焼け焦げてみるも無残だった腕は、火傷などなかったかのように元の白く美しい状態に戻り、その腕から淡い燐光が筋となって淡く輝いていた。近くに寄ってみれば分かるのだが、それは服に意匠されている火山の力を得ている状態の火龍の刺青だった。そしてクリシュの美しい銀髪にも変化があり、長い髪の途中から淡い朱のグラデーションが入り、サラサラと髪が流れる度に銀朱の輝きが火花のように瞬いた。


 その姿はまさに火龍巫女として崇められるに相応しい荘厳さと神秘性を持ち、取り戻した記憶と気質によって静かに――だが、確かに燃える炎熱を秘めた火龍巫女の完成形だった。


 自身に起きた変化を信じられないという面持ちで確かめながら、クリシュは空から自分を見守るクロウシスへと目を向けた。すると、距離を置いた空中に静止しているクロウシスが、アウレイス山の麓に広がる森に視線を向けていることに気づき、クリシュもそちらに視線を移すと、そこには焼き枯れた密林の地面に倒れ伏した状態で顔だけを上げてこちらを見つめている兄ラウズの姿があった。

 今のクリシュは兄に対する宣言をした時よりも精確に、元火龍御子候補であった兄ラウズが持つ炎性魔力を感知することが出来るようになっていた。その結果、先ほどは正確な位置までを特定出来なかったラウズの位置をすぐに見つけることが出来た。


 まるで事象の全てを見通しているかのように、物事を何もかもを正しい方向へと導く火龍。その火龍に真っ向から立ち向かい、絶対的な力の差を跳ね返して火龍に認められ、真なる力に目覚めた火龍巫女であるクリシュに見つめられて、ラウズは自分が酷く矮小な存在に思えた。

 両者の視線を真っ向から受けることが出来ず、未だクロウシスによって放たれた不可視の楔に縫い付けられているラウズは、顔を伏したまま顔を上げることが出来ずにいた。


『王子よ、お前はこの十年間戦ってきたのであろう。ならば何故、顔を伏せる必要がある。毅然とした態度で臨めばよかろう。堂々たる振る舞いで、今一度我が前に立ち塞がってみせよ』


「……」


「兄様……」


 ラウズが顔を上げないのは、矜持が傷ついたなどという安っぽい理由ではないことは、クリシュも分かっていたが、それでもいつも堂々と自分を――周囲にいる全ての人間を先導して行く兄の背中が、今は酷く弱々しいものに感じてならなかった。


『――立て。そのような体たらくで、我が御子を務めようとしていたなどと、我を落胆させるつもりか』


 その言葉にラウズは一瞬自分の時間が停止したような錯覚を覚えた。

 それは十五年も前の話だ。

 ラウズの体にも火龍の刻印があり、ラウズは幼少より火龍の御子となる為の修行を受けて育った。そして十歳の時に、慣例に従いバーンアレス島に赴いたのだが、最初の『認可の儀』の際に他ならぬ火龍から『この者に御子の資質なし』と告げられて、ラウズは火龍御子となれなかった。

 この結果を受けて王家は落胆し――当時の第一皇位継承権者だったラウズの父であるヴェスパルは一切非難することもなければ、慰めの言葉を口にすることもなく、ただ『そうか』という一言のみだった。


 期待を背負っていただけに、ラウズはこの結果と周囲の対応に落ち込みはしたが、御子としての道が断たれた以上は、軍人として――そして為政者として祖国に貢献できるようにと、血を吐くような努力を重ねて現在の力と地位を自ら築いていった。

 だが、それでも物心ついた折より信望してきた存在に『無能』であると告げられたことは、ラウズの心に大きな傷となって残っており、妹のクリシュが火龍巫女として火龍に寵愛され、その上で起きた悲劇を目の当たりにして心の傷口には大きな瘡蓋(かさぶた)が出来ていた。しかし、目の前で起こった一連の出来事を目の当たりにして、瘡蓋はあっさりと剥がれ傷口から再び出血をきたしていた。それでも、ラウズは己の中に渦巻く醜い嫉妬心をこの両者にだけは悟られたくなかった。


「……」


『王子よ、誤解をしてくれるな。我が十年前にお前を御子として選定しなかったのは、お前が無能だからではない。あの判断は云わば適正の問題であった』


 他ならぬ火龍自身から語られる言葉の重みは他に無い重みがあった。だからこそ、年甲斐も無く頑なな姿勢を見せてしまったことを恥じると同時に、その言葉に耳を傾けた。


『お前が持つ炎性魔力は御子となる性質ではないのだ。お前の火は戦火に渦巻く破壊の炎。我はお前の持つ火が、サーディアスに背く敵を滅ぼす炎に成長することを望んだ』


 ラウズは自分を見つめる黄金の瞳に揺らめく真紅の焔を見つめ、そして無力感と焦燥感に駆られて地面を掻き毟っていた自分の手を見つめた。空中で真紅の炎を纏った拳を腕で受け止めた際に、威力と熱量を殺しきれずに左腕の袖と手袋は消失していた。そこから見えるのは、十年前に刻まれた罪の証である爛れた掌。

 不意にその手が真紅の炎に包まれる。静かに燃える炎は、まるでその手に残る後悔と悲しみを溶かすかのように優しい色をしていた。

 呆然とその炎に目を奪われていたラウズの耳に、険の無い静かな声が流れ落ちる。


『その手に刻まれた刻印は、もう罪の証ではない。それは十年に渡ってお前が背負った贖罪の証だ。受け取れ王子よ。そして立ち上がれ、勇者よ』


 力が入らなかった四肢に力が戻り、冷たかった体が体温を取り戻す。まるで己の中に炎が宿り、心臓の鼓動と共に大きく燃え上がる。

 地面に手をついて、両手両足に力を込めて立ち上がろうと力を込める。背中に刺さった幽精体(アストラル)の楔が軋みを上げて、ラウズ自身の幽精体(アストラル)が悲鳴を上げる。


『地に這い蹲り辛酸を舐めたのならば、再起せよ。大いなる存在に立ち向かえ、人間であるならばっ!』


 その言葉と共に、ラウズの腕から別の色の炎が燃え立ち、楔を引き千切りながらラウズは咆えた。


「うぉぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 魔眼の力で穿たれた楔を自身の力で引き千切り、ラウズは再び自らの足で立ち上がった。その両手、手首より先は炎を包まれている。そしてラウズは火龍と火龍巫女から受ける視線を、今度は真っ向から受け止めていた。その目もまた両手に宿った炎と同じ色をしている。


 その眼の色は――緋色。


 深紅に燃える炎と緋色に燃える炎を宿した兄妹を見つめ、火龍――クロウシスは裂ける様な笑みを口の端に浮べて、火龍より託された頼みの九割を達成したことに満足した。そしてその巨大な翼を大きく広げて、最後の頼みを実現すべく言葉を紡ぐ。


『お前たちはようやく現在(いま)を生き始めた。そんなお前たちに、我は最後の試練を与えよう』


 そう言うと、大翼を開いていることによってより大きく見える火龍の体が、主の命に従い魔力が体中を駆け抜けて、真紅の輝きが鱗の隙間で明滅する。僅かに開かれた口からは白い呼気と共に、炎がどろどろと漏れ出し火龍の高ぶりを伝えていた。

 クリシュが背にしているアウレイス山の山頂。そこから凄まじく巨大な炎が噴出し、太く長大な形を形成した炎はまるで意思があるかのように物理法則を無視した動きでうねり上げながら空を行き、火龍を目指して空を駆ける。


『十年前の決着をつけようではないか。お前たちの力を、我に示せ』


 ラウズとクリシュが見つめる中で、クロウシスの元まで辿り付いた炎の先端が二つに割れ、まるで目の無い巨大な蛇のような炎がクロウシスを呑み込んだ。火龍を呑んだ炎は先端付近の造形が一気に変わり、頭部に当たる部分から炎が放射状に燃え立ちたてがみを形成し、そのたてがみの中から真紅の角が現れる。そして炎は先端から一文字に裂け、そこから白熱に輝く白い牙が出現し、最後に黄金の瞳が灯った。


『さぁ、かかって来るがいい。自分たちの神が負けたままでは、お前たちも格好がつくまい』


 どこかおどけたニュアンスのある口調に、クリシュとラウズは一瞬視線を交わして頷くと、クリシュは両腕に刻まれた火龍の刻印から深紅の炎を燃え上がらせ、ラウズは近くに落ちていた龍殺しの剣(ドラゴンスレイヤー)を引き抜くと、両手から燃え立つ緋色の炎が剣に伝わり、激しく燃え上がる。


 その二人の姿を見て、クロウシスは獰猛な笑みを浮かべて真紅の炎を大きく燃え上がらせた。



 全ての歯車が再び噛み合い、動き出した三者を祝福するかのように水平線の彼方から太陽が姿を現し、美しい遮光が朝焼けとなって空を焼き尽くした。

 遂に長かった夜は明けて、新たなる日が産声を上げる。

 そんな美しい朝日の下で、憎しみも、後悔も、怒りも、悲しみもない気持ちで三者は戦う。

 敬愛と、思慕と、憧憬と、親しみを込めて互いの力をぶつけ合う。



 ――長い夜は、確かに明けたのだ。



※校正・修正報告

2013/01/27誤字脱字等修正しました。

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