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第一章14-焦熱の火山-

 その夜、既に太陽が地平線から覗くまで僅かな場所へ迫っているにも関わらず、夜の闇は空を焦がすほどに真っ赤に燃え盛る紅蓮の龍によって、赤き炎を映えさせる脇役として闇を一層濃くしていた。

 流れてくる潮風には火山の噴火による硫黄臭と、ありとあらゆるものが燃え、焦げ、溶けていく臭いが島の支配者が誰であるかということを、嗅覚を持つ生物であれば何者であれ認識させるために臭い立っている。


 今や島全体が最盛期の様相を取り戻し、起立する巨大な火龍の長大な姿を守護し、祝福し、全ての存在にその復活を印象付けるかのように、島を構築する火山の全てが赤く湧き立つ大地の血潮を爆発させていた。


 その島から僅かに離れた海上に一隻の軍艦が在った。

 サーディアス帝国三大名艦に数えられるその艦船は、現在陸地からかなり離れた位置に停止して碇を下ろし、乗組員は全員一点を見つめて息を呑んでいた。

 巨大な艦船に乗務する屈強な海軍兵たちが固唾を呑んで見つめる先には、一人の男がいた。

 艦の先端部、艦首の更にその先にある舳先にある台座に立ち、右手には自分の身長と同等の長さを持つ赤い剣を持ち、険しい表情で赤く燃える島――バーンアレス島と、その名の由来となっている島の主たる英霊精龍(カーディナルドラゴン)『焦熱の火山』バーンアレスの姿を見据えていた。


 視線の先で、その巨大で果てしなく長い身体を、自身を出現させているこの艦船の名の由来にもなっている神山アウレイスの麓へと伸ばしていたが、そこからまた頭を上げて見上げるほど高く、一見すれば雲にすら届きそうなほどに長い身体を再び起立させたバーンアレスは、戦艦アウレイスを――その舳先に立つ帝国の第一王位継承者にして、十年前己を殺害せしめたラウズ=レクイア=ウルス=サーディアスの姿を認め、灼熱の炎を迸らせる身体へと火山脈から力を吸い上げて、口腔へと溜めていく。


 攻撃に備えてラウズが剣を構えようとした時、火龍がニヤっと笑みを浮かべた気がして、ラウズは一瞬驚きに目を見開いたが、次の瞬間――夜空を切り裂くような赤く輝く射光が火龍から放たれた。


 長い距離を一瞬にして到達する、その恐るべき熱量を帯びた光の奔流をラウズは剣で受け止めた。自らが持つ力を発現させて攻撃を受け止めると同時に、自分以外の物質に『熱』が届かないように遮断する。

 金属を切断するような甲高い金切り音が周囲に響き、剣との接触点を中心に熱線は消失し(・・・)周囲の人間にとっては永遠にも思える時間の中で、ラウズはバーンアレスの第一撃を難なく凌ぎきった。


 白い煙を放つ剣の刀身に一瞬目を向けて、鏡のように美しい光沢を放つ刀身に傷一つ入っていないことを確認したラウズは後ろを振り向くと、自分の姿を呆然と見つめる艦長のジルドを始めとした部下たちに目を向ける。


「ジルド艦長。アウレイスはこの場にて別命あるまで待機。もし私が死んだ場合、本国へと帰還……と言いたい所だが、諸君らに私の勝手に対する責を取らせるのは忍びない。ゆえに投降し、クリシュのことを助けてって欲しい。どうするかは――」


 そこまで言ったところで、ラウズの言葉を遮ってジルドが声を上げた。


「閣下っ! 見くびって頂いては困りますな! 我々が忠誠を誓い、この戦艦アウレイスの舵を取るのはラウズ閣下を乗せた時のみです。閣下が亡くなったとあらば、我々は閣下が死の河を渡るための艦を出すまでのこと! そして閣下は負けやしません! たとえ相手があの――バーンアレス様であろうと、です」


 ジルドの言葉に同意するように、周囲の海兵の目にも先ほどまであったような不安や動揺の色は無く、じっとラウズを見つめていた。その視線と、そこに込められた想いに頷き、ラウズはラクアを倒したときと同様に靴の裏に炎を噴出させて跳躍し、海の上に何度か着地しながら一気に島に向かって海面を駆けて行く。

 その背に向かって、アウレイスに乗る全ての者が敬礼をしていた。


 背に感じる確かな信頼に感謝しながら、ラウズは靴底に展開した炎性力場と海面との反発作用に自らの脚力を加えて海原を駆けて行く。そこで海上という不安定な場所にいるにも関わらず、バーンアレスが追撃をかけてこないことに対して、予想はしていたが『やはり……』という気分にもなった。

 先ほどの攻撃も、そしてここで攻撃を仕掛けこないのも――全ては十年前と同じ。


 何故今になって復活を――?

 どうして十年前の手順を繰り返す――?

 その目的とは――?


 視線の先、空を焦がそうとしているかのように高く起立し、ラウズを見据える火龍神からは人間のように感情や思考を読み取ることはできず、考えたところで自分如き矮小な存在にその考えが読み取れるわけもないと、ラウズは相手の思惑を探ることは止めて、今自分が果たすべきことを全うするために駆ける。

 

 実妹であるクリシュが『焦熱の火山』火龍バーンアレスの火龍巫女となることを阻止する。


 それこそが十年前、そして今回もラウズがバーンアレスと戦う動機であり、弑逆する理由だった。


 全ての根源は、十年前に遡る。


 きっかけはラウズが帝都で偶然聞いた父――皇帝ヴェスパルの言葉だった。



                  ◇◆◇◆◇◆◇



「――クリシュを贄として、バーンアレスを討伐する」


 十年前のその日、軍総督府にて軍議に出席した後、軍議の内容について早急に新皇帝である父ヴェスパルの耳に入れておきたい案件があった。謁見時間が過ぎていた為に報告書の手渡しを後宮に出入りが許されているラウズが請け負い、後宮へと向かっている途中で偶然通りかかった第二執務室から、その声は聞こえてきた。

 その父の声を聞いたとき、ラウズは自分の耳を疑った。

 そしてすぐに扉を開けて中に入ろうとしたが、次に聞こえてきた会話を耳にして扉のノブに手をかけたところで手を止めた。


「天界への門を開くためには、英霊精龍(カーディナルドラゴン)の龍玉が必要だ。皇国から帝国へと時代を移すことに成功した今をおいて、火龍信徒を抑えてバーンアレスを倒す機会はない」


 ――天界への門?


 聞きなれない言葉に戸惑いを覚え、ラウズは扉の前で気配を殺して中の会話を聞き取ろうとする。すると、中から父ヴェスパル以外の声が聞こえてきた。


「陛下……その為とはいえ、クリシュ様を犠牲にするというのは、あまりにも……」


 その声は皇国時代からサーディアス王家に仕えて来た大主教の声だった。英霊精龍(カーディナルドラゴン)を四精主神とし、取り分けサーディアスを守護する火龍を崇める火龍教の最高指導者である人物だ。そんな人物が火龍神バーンアレスの殺害を示唆する皇帝ヴェスパルと共にいるということに驚きつつ、その真意をラウズは知りたかった。


「余とて何の迷いもないわけではない。だが、今は帝国自体も地盤を固めなければならぬ時期だ。その折に犠牲を最小限に止めてあの火龍を狩れる手段があるのであれば、余は王として決断せねばならぬ……たとえ我が娘を犠牲にしようとも、帝国を――いや、この世界を救うためには致し方があるまい」


 その会話の異様さに眩暈を感じながら、ラウズは頭の中で状況を整理しようとしたが、上手くまとめることが出来ずに片手で顔を覆った。


 ――クリシュを犠牲にする?


 ――世界を救うため?


 様々な疑念が錯綜した情報となり混乱して頭の中を駆け巡る。

 現実感のない会話だが、徹底して冷徹な決断を下してきた父とその父をいき過ぎた行動に対して常々諌める助言をしてきた大主教との会話だけに、ラウズはその場に己の中に渦巻く感情をそのままに怒鳴り込むような短慮を起こせずにいた。

 すると、まるでそんなラウズを牽制するかのような言葉が父の口から話された。


「ラウズには言うな。アレはクリシュのことを大事に思っている。もしこの事を知れば短慮な行動を起こしかねないだろう。それにアレは元々――だった。その事を気に病んでいらぬ責任を感じられても困る」


 その言葉を聞いた時、まるで鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けて目が眩んだ。

 あの時以来、そのことを努めて考えないようにしてきたが、あの時――島から戻ってきた自分に対して何も言わなかった父から、初めてそのことをについて語られたことがラウズの胸を突いた。


 扉の前で踵を返し、焦点の合わない目で廊下を歩いていく。

 自分がどうすべきなのか、何が出来るのか、どうしたいのか――。

 それが分からず、ただその扉から逃げるように廊下を何処へ行くでもなく歩いた。


 ――すると、声がした。


「ごきげんよう、ラウズ」


 その声はまるで迷える子供を唆す魔女のような、酷く優しげで甘く耳朶をくすぐる。


 ラウズが虚ろな目を向けると、廊下の真ん中に一人の女が立っていた。


「姉上……」


 その人物はラウズの実姉――正確には異母姉なのだが、金色の美しい髪には顔の両端に白いメッシュを入れて、碧眼に高い知性と蠱惑的な揺らめかせ、胸元と背中が大きく開いた扇情的なドレスに身を包み、手には自身の身長よりも大きな白い布に包まれた剣のようなモノを持っていた。


 昔は古代の遺跡を調べることを生き甲斐にしていた地味な雰囲気すらあった考古学者だったが、いつの頃か姉の趣味は突然変わり、考古学に詳しいことは変わらないが服は扇情的なモノを好むようになり、性格も大人しい女性だったものがまるで娼館の女のように扇情的で人を惑わすようなものとなっていた。


 そんな風に変わってしまった姉のことをラウズは苦手としていた。そのラウズの心中を察しているかのように、姉――第二帝位継承権者であるエシャリア=ニアスカ=イニス=サーディアスは微笑む。


「可哀相なラウズ。妹のクリシュちゃんが生贄になることを気に病んでいるのね……。自分が出来損ない(・・・・・)だったことを気に病んでいるのかしら?」


 まるで無力な小さな子供を憐れむかのような態度で、ラウズの頬に片手を添えて優しく撫でる。その感触に僅かに怖気が走ったが、抵抗するほどの気力が湧かずされるがままにされていた。


「ごめんなさい、ラウズは優しい子だものね? でも、男がいつまでも過去に拘ってウジウジとしているのは、お姉様は感心しないわ。ラウズももう騎士の称号を得た男だものね?」


 まるで砂糖を大量に溶かした砂糖水を耳に注ぎ込まれているかのような、ドロドロに甘く不快な声音がラウズの耳の奥を犯すように入り込んでくる。

 振り払おうという気持ちが浮かび上がるが、それをさせない何かがエシャリアにはあるのか、ラウズの手が跳ね上がることは無く纏わりつく不快感と共に言葉は続く。


「これを持って行きなさい。そして――あの火龍神を殺しなさい。それしか、貴方の可愛い妹を守る手段はないわ。あの火龍が本気になれば、今の帝国ではまだ太刀打ちできない。お父様もそれを承知だからこそ、火龍巫女の契約を交わして、最も魂の結びつきが強くなったクリシュちゃんを殺して火龍を道連れにしようというお考えなのよ?」


 その時、ラウズは初めて父が行おうとしていたことの全容を理解した。

 確かにその方法ならば、火龍ではなくクリシュを殺害することで火龍そのものを殺すこともできる。クリシュを生贄にするという言葉の意味も理解できた。


「させない――そんなことは、()が許さない」


 まだ自分のことを『俺』と言っていた少年のラウズは、姉が差し出した白い布に包まれた剣を手に取った。その瞬間、それが放つ禍々しい力を感じて一瞬動きを止めるが、確かにこの武器ならばあの火龍神を討ち取ることもできるかもしれない。

 だが、そうなると問題は武器よりもラウズ自身だった。

 相手はあの絶大なる力を持つ英霊精龍(カーディナルドラゴン)最強の『焦熱の火山』なのだ。

 

 自分自身にそれを倒せるほどの力があるのか、という疑問と共に己の手を見つめているラウズに、エシャリアは微笑みを浮べながらそっと頭を撫でた。


「大丈夫。手は打ってあるわ……貴方は勝てるわよ」


 その姉の言葉に僅かに不穏なモノを感じたが、この時のラウズにはその真意を問うような余裕はなかった。視線ではエシャリアを警戒しながらも、受け取った剣を手にラウズはその場を去った。

 去り行くその後ろ姿を見つめながら、エシャリアがさも可笑しそうに嗤っていたことに気づかずに――。



                  ◇◆◇◆◇◆◇



 ラウズが海を渡りきりバーンアレス島に上陸したことを確認し、バーンアレスは遥か眼下に集う島民移民たちと赤い制服を着た火龍の首飾り(ガルフィネアス)たち、そしてその中で動揺に揺れる瞳でこちらを見上げているクリシュを見て、その黄金の眼を僅かに細めた。

 だが、敢えてそれ以上の言葉を掛けることはせず、バーンアレスは人間としては驚異的な速度でまるで地を翔るかのような速さで移動するラウズへと視線を戻した。足から炎を迸らせながら、さながら煉獄を掛ける地獄馬のような様相で地を駆けるラウズは、あっという間に移民たちの集落があった場所へと到達する。



 城の上層階でバーンアレスの勧告の通りに投降すべきか思い悩んでいた――というよりは、恐怖で一歩も歩けなくなっていたサウル=パンディアは、突然現れた帝国の第一帝位継承者ラウズ=レクイア=ウルス=サーディアスの登場に度肝を抜かれていた。

 自分を罰するためにここへ来たのか――という絶望感がサウルの脳裏を過ぎるが……とあることに思い至って、サウルは目を見開いて震える足で立ち上がり、窓の外をじっと見始めた。

 火龍バーンアレスが再臨し、そこへあの(・・)ラウズ王子がやってきた。

 

 ――これは偶然などではない、必然だ。


 帝都に住まう者ならば、誰だって知っていることだ。あの王子の二つ名を。


 ――竜を狩りし者(ドラゴンスレイヤー)


 お互いのスケールに差があるから、まだ随分距離があるように思えるが、すでに対峙の構図となっている。

 そのことを確認し、サウルは乱れた金髪とキャビネットに突っ込んだ時に負った額の傷口から血を流しながらも陰惨な笑みを浮かべて、宿命とも言える対峙を見せる両雄を呪うように見つめる。

 そして思う。

 まだ、自分はツキから見放されていないと。



 周囲に広がる粗末な造りの集落を見渡し、ここで行われてきたことの大よその事情についてラウズは察しがついていた。四年に渡る長い期間を帝国のグリムディア大陸統一作戦の中でも、比較的初期に征服した地域で過したラウズは、着任当時にこういった光景をよく見ていた。

 町から焼き出された異国民が満足な物資の提供すらも受けられず、そこの統治を任され勘違いをした愚鈍でつけあがった領主や統治官によって圧政を敷かれ、まるで奴隷のような扱いを受ける様を見て、ラウズは大陸西方という広域を治める領主として、まずそういった地域を救いそれを生み出した者の処罰から始めることとなった。

 ここにはそれを同じ空気が流れていた。


 嫌悪から僅かに奥歯を噛み締め、無言でちらりとアレス城へと視線を向けると、上層の割れた窓で人影が身を隠すように蠢いた気がする。

 常に美しかった白亜の城観も、そこに住まう人間の醜悪さによって陰っている気すらした。


 そのことからも妹――クリシュとミリエルの安否が懸念されたが、この時間を逆行したかのようなあまりに既知感漂う状況から考えれば、クリシュたちは火龍の元に居ることが予想された。そして、その身に危害が加わっていればあの城は既に首謀者と一緒に火龍によって粉砕されているであろう――と、十年前の出来事を思い返せば、それはあまりに楽観的な予想なのだが、ラウズはそう思えてならなかった。


『――我が島へ、何用だ。サーディアスの王子よ』


 不意に空から遠雷のような声が響き耳朶へと届く。

 今一度見上げれば、燃え盛る炎によって形成された巨大なドラゴンが己を見下ろしている。


 ――やはり。


 火龍の自分に対する第一声を聞いて、ラウズは己の確信を確実なるものとした。

 そして皮の手袋に包まれた手が痛み(・・)に疼く。


「偉大なる火龍バーンアレスよ、妹をお返し願いたい」


 十年前とまったく同じ問いに、ラウズもまた十年間とまったく同じ答えを返した。その受け答えに対し、火龍が先ほどの第一撃を放った時と同様に笑みを浮かべた気がした。


『この娘は我が巫女となる者。儀の途中で還すわけにはいかぬな』


「我が妹に貴方様の巫女が務まらぬことなど、既にお見通しになられているはずっ!」


 十年前の一部始終を知っている者が見れば、それはある種の茶番にさえ思えたことだろう。だが、バーンアレスの姿をしたクロウシスはそれを望み、バーンアレスを前にしたラウズはそれに乗った。

 特にラウズはここまで調えられた十年前の再現には何か大きな意味があると感じ、それに対して贖罪の意識を持ち続けていたラウズにとって、これは『何かをやり直せる』もしくは『何かを取り戻せる』チャンスに思えた。


『王子よ。資質ある者が巫女となるのではない。我が認めた者が巫女となるのだ』


 その言葉を聞いて、ラウズはすっと目を閉じて何かと葛藤するように僅かにまつ毛を震わせると、すっと目を開き鼻にしわを寄せてその目にハッキリとした戦意を滾らせた。


「ならば是非もありません。力づくでお返し願う」


 明確な敵対宣言に対して、バーンアレスは何処か満足そうな微笑を浮かべた――ようにラウズには思えた。自らの身体を形成する炎の色を濃くさせ、益々火力を増す炎が一段と火龍の姿を大きく見せる。

 自らの神としてではなく、敵として鋭い眼光を向けるラウズと、強大な存在である己に立ち向かおうとするちっぽけにも思える存在を迎え撃つために、灼熱の炎を轟々と燃え上がらせるバーンアレス。

 既に一触即発にまで高まった両雄の対峙を、この土壇場で制止する声が周囲に木霊する。


「やめて下さいっ!」

『やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!』


 成長したクリシュと幼き頃のクリシュの声が同時に響く。

 ラウズとバーンアレスは同時にクリシュがいるアウレイス山の麓に近い場所にある広場を一瞥する。距離的に考えれば、ラウズにはその姿はおろか声が届くはずもないのだが、ラウズの耳にはハッキリと成長(・・)したクリシュの声が聴こえてきた。

 バーンアレスは聴こえてきた二人(・・)の声を聞きながら、その黄金の瞳に映る二人のクリシュを見つめる。

 純粋な悲しみを涙で揺れる瞳に浮べる幼いクリシュと、悲しみと戸惑いを浮べて動揺に瞳を揺らせる現在(いま)のクリシュの姿を見て、その二人が共有する部分と違えてしまった部分が透けて視えた。


「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」


 クリシュたちのいる方角から視線を切ったラウズが気迫を声に乗せて、手に持った紅蓮の刀身が煌く長剣を翻して駆ける。それに合わせてバーンアレスもまた、二人のクリシュから視線を外して自身に比べれば豆粒のようなラウズに対して、呼気を吸い込む予備動作すら必要とせずに龍騎兵(ドラグーン)アレスとは比べ物にならないサイズの大炎球を次々と撃ち出す。

 頭上から飛来する直径十五メートルはある巨大な火球に対して、それを躱すために駆ける速度を上げると靴底から炎が立ち昇り、獄馬のような異常な速度で密林の中へと突入する。その背後には、空から次々と火球が飛来して着弾し、周囲の木々を一瞬にして燃え上がり同時に地面が爆発して土壌が爆ぜる。


 密林内にラウズが突入すると、感覚を目視から自らと同じ炎性魔力を放つラウズを感知する方法へと切り替えて、入り組んだ密林の中でも速度を落とすことなくこちらに向かって疾駆する赤き力の塊を、体内に充満させた炎性魔力を破壊の力に変えて待ち受ける。


 アウレイスの麓まであと一息というところまで接近したラウズは、足へと力を注ぎ込み踏み切り地点に定めた大きな溶岩に足を掛けた瞬間、自身の足とそれに込めた炎性魔力の力を一気に解放する。硬く冷えた溶岩が粉々に粉砕されるほどの力を爆発させて、ラウズは空へとその身を躍らせた。


 密林から弾丸のような勢いで撃ち出されるかのように飛び出したラウズに向けて、バーンアレスは溜めていた力を一気に解放する。白く輝く燃える光が大気を切り裂いて、ラウズへと一直線に突き進み狂いなく直撃する。しかし、撃ち出された熱線を深紅の刀身で受け止めたラウズには焦りの表情は無く、その余裕とも思える態度を裏付けるかのようにバーンアレスが撃ち出した炎熱の奔流はラウズが持つ長剣に触れたところで掻き消え、それが秘めた破壊の威力も炎の熱さも全てが無に帰す。


 剣の一振りでバーンアレスの撃ち出した第二撃を掻き消したラウズは、そのまま跳んだ勢いを殺されることなく剣を空中で構え直して、バーンアレスの胴体へと突き進み、その胴体を長剣で薙ぎ払った。

 常識で考えれば、直径が数十メートルあるバーンアレスの胴体をラウズの剣で斬ろうとしたところで土台無理な話である――はずなのだが、ラウズの横薙ぎの一撃によってバーンアレスの燃え盛る胴体はあっさりと真っ二つに断ち割られてしまう。

 しかし、それによってバーンアレスは苦しむような素振りを見せることなく。長い身体の途中で裂断されて切り離された頭部が空中で顔の向きを変えて、降下に入ったラウズの頭上から巨大な頭部ごと突っ込んでくる。凄まじい迫力で迫る火龍に対し、ラウズは剣を横向きにして眼前に掲げて身を守ろうとした。迫り来る圧倒的な質量の前にその行為がどれほどの意味をなすのか、見ている人間には疑問だったが、それでもラウズの表情にはいまだに焦りの色は無く、燃えるアギトを開いて迫る火龍に呑み込まれてそのまま火龍の頭部が地面に激突する。

 爆発と震動が島全体を揺らして、爆発によって四散した土くれと木々が熱を帯びて周囲に降りしきる。


 ラウズによって断ち切られた火山から伸びる火龍の半身が、それ自体が意思を持っているかのように動き地面へと頭部を埋めている半身に伸びて行き、互いに伸びた形容しがたい炎同士が合流を果たして再び一本の長大な火龍の姿へと戻る。

 地面に顔を埋めた火龍がそのまま動かないことに、見守る人々は一言も声を発せずに見守っていた。すると、火山活動とは少し違う震動が密林の地面を揺らし、麓に近いクリシュたちの足元を揺らし始める。焦る人々がオロオロとする中、凄まじい爆音と共にバーンアレスが顔を埋もれさせた位置から数百メートル離れた地面が轟音と共に爆発した。

 まるで地面に火山が出来たかのように真っ赤な炎が垂直に噴き上がり、爆発によって噴き上がった土塊が火山弾のように燃えながら密林へと落ちていく。

 その爆炎の中から一人の人間が飛び出し、それを追う様にして巨大な火龍の頭部が地面から空へと燃え上がる。空中で姿勢を立て直し、剣を上段に構えたラウズの体には僅かな擦り傷や汚れが見えるが深手を負っているような様子は無く、それを追ってアギトを開くバーンアレスもまた胴体を切られたことなど何の影響もない様子だった。


 空中で足裏から炎を吹き上げて、自由落下以上の速度で降下するラウズは剣を振り下ろし、大きく口を開いたバーンアレスは今度は突撃するのではなく、超近距離での熱線を放出する。しかし、結果は先ほどと同じで距離に関係なく、ラウズの持つ剣はバーンアレスの攻撃を容赦なく立ち消えさせて、そのままその頭部を縦から真っ二つに切り裂く。火龍の顔が左右で上下違う方向にずれて、斬られた部分がグズグズに崩れる。


 その時――頭部を形成する炎が崩壊する火龍の中から、一条の光の筋が空を走り抜けた。


 今までの熱線に比べれば、比較するのも馬鹿馬鹿しいほどの細い光の放射だったが、それを咄嗟に防いだラウズの剣は今までで一番甲高い音を放ち、剣を持つラウズ自身もまた初めて顔色を険しいものにして耐えていたが、遂に力に競り負けて空中から弾かれて地面へと墜落する。


 一条の光が走り抜けた後には、崩れた火炎の頭部が再び形を再建し始めてあっという間に元の巨大な火龍の頭部が出来上がる。


 バーンアレス――クロウシスは一連の戦闘を振り返り、地面に激突する前に炎性魔力で急制動を掛けて体勢を入れ替えて地面に着地したラウズが持つ長剣に目をやった。



 ――見た瞬間に僅かに感じた本能的危機感。


 ――本能に忠実なドラゴンであれば、あれを見た瞬間に背筋が凍ることだろう。


 ――あれはまさに同族を殺すためだけに創られた竜殺しの魔剣(ドラゴンスレイヤー)



 それも火龍が用いる属性的有利性と権能に対する封じ手を込められた火龍殺しの魔剣だった。確かにラウズほどの腕を持つ者が持てば鬼に金棒であり、死神に鎌であろう。


(だが――)


 クロウシスは黄金の瞳を細めて思う。


(それでもなお――この火龍が負ける決定的な要因とはならない。ならば何故――)


 それは問いですらなく、既に答えが出ている自問自答を行ったクロウシスは、チラリとアウレイス山にある広場で怯えた表情でこちらを見つめる二人の少女に目を向けた。


(頃合いであろう。十年前もそうだったように――)


 クロウシス――バーンアレスは地面に潜っている身体を持ち上げ始める。数百メートルに渡って地面が、地中から浮上するバーンアレスの胴体によって焼かれながら隆起し、巨大な震動と轟音が島中に響き渡り、埋没していた火龍の胴体が浮上した跡には、長さ数百メートル、幅数十メートルに渡って激しい隆起と陥没を伴った谷が出来ていた。


 再び長大な身体を起立させたバーンアレスは、火山脈から力を吸い上げて巨大な口をあらかじめ開き、熱線の発射態勢を整えたまま力を溜める。その手順自体は今までと何ら変わらないのだが、その身が纏う空気は明らかに異質なものとなっていた。まるで今までのドラゴンブレスが仮初のものであったかのような、そんな空気さえ感じ得る。

 その様を見上げながら、ラウズもまた剣の柄を固く握って地面に密着させた靴底にあらん限りの力を込める。


 こちらを見下ろして今までで最大の攻撃を放とうとする火龍を前に、ラウズは視界の端に映った妹の姿をようやく目にしていた。成長して美しくなったが、やはり幼い頃持っていた強さが感じられない。だが、それを奪ったのは他ならぬラウズ自身だった。

 絶望と悲哀に心を砕かれた妹を救いたい一心で、彼女が彼女足り得た一切のモノを奪い忘れさせた。

 

 火龍御子と成れなかった(・・・・・・)男に残ったのは、炎性魔力を制御する力とそれを戦う力に変えることだけだった。そんな自分だからこそ、出来損ないの自分の代わりに、父に――帝国に利用されて殺される妹のことを助けなければならないはずだった。

 今までの攻防すらも、本当に十年前と同じ手順を踏んでいた。まるで武術の写し稽古のように――規模は桁違いという他無く、周囲の被害を考えれば本当にバカバカしいとさえ思える――だが、それ故にこの後に起こる出来事さえも同じなのか、それがラウズにとって一番の気がかりであり、間違えてしまった過去をここでやり直せるのではないのか――という僅かな期待感があった。

 だからこそラウズは、自分がここへ導かれて演じている役目の役責をまっとうしようと考えた。


 剣を刺突に構えて、今度こそ――火龍の本体(・・)を狙う。

 十年前に既に知っていた事実だが、今までは敢えて無視して十年前と同じように戦ってきた。そして十年前の自分は、先ほどの空中から叩き落された攻撃の際に、火龍の正体に気づきそれを狙うために刺突を選んだ。

 剣の柄を握る掌は断続的な痛みに疼いていたが、この場面でその痛みは最高潮に達する。だが、それでもラウズは柄を握る手に力を込めて固く握り締めた。


 最後まで忠実に十年前の再現に付き合おうとするラウズの姿勢を称賛しつつ、あの青年もまた恐らくは十年前から時計の針を止めたままなのだと、バーンアレスは思う。

 だからこそ、この一撃を最後に時計の針を進めるための準備が整う――新たなる展開を迎える。


 漲る力とは裏腹に、黄金の瞳は凪いだ海のように静かで落ち着いていた。

 

 そして――ラウズの引き絞った矢のような爆発的な跳躍に合わせ、バーンアレスも今までで最大の一撃を放とうとした――確かに、放とうとした。



                  ◇◆◇◆◇◆◇



 目の前で展開される人知を超えた生身の人間と巨大な火龍の戦いを前に、周囲の人々は息を呑みどちらかを応援する声が上がることも無く、ただただその壮絶な戦いに魅入っていた。


 島の周囲を帝国軍に包囲された十年前。

 一切の説明もないままに、島民たちは上陸した帝国軍によって戒厳令を敷かれて、外で起こる凄まじい爆音と震動に対して、家族で身を寄せ合い恐怖と不安に震えるしかなかった。その時、外でこのような凄まじい戦いが行われていることを知る由もなかったのだ。だからこそ、生身で火龍神に挑むラウズの無謀とも思える勇気にも、火龍の桁違いの力に対しても敬意と畏怖を感じていた。 


 だが、その中でその戦いがあまりに不自然であることを唯一知っている人物がいた。

 クリシュは目の前で展開される兄ラウズと火龍神バーンアレスの戦いを十年前、唯一間近でその一部始終を目撃した生き証人として、掠れた様な断片的な記憶がその違和感を必死に伝えていた。


 全てが終わった後に、兄の優しさによって投与された薬がクリシュの記憶を奪ったが、今それが呼び起こされようとしているのをクリシュは感じていた。


(――本当にお薬のせいなの?)


 突然聞こえたその声に、クリシュは咄嗟に横に立つ幼いクリシュを見るが彼女は目に涙を浮べて、今もまだ必死に戦う二人を制止させようと声を上げていた。先ほどまで自分も彼女と同じ行動を取っていたはずなのに、今は彼女だけが十年前の行動を取り、自分はただ呆然と立っているだけだった。


(――違うよね。私たちは忘れたかったんだよね)


 今度はより鮮明に聞こえた声にクリシュは自分の背後を振り返った。

 そこには一番最初にクリシュと手を繋いだ五歳の幼いクリシュの姿があった。彼女は後ろに両手を回して左手で右手を掴んだ姿勢で小首を傾げて、最初に出会った時にも浮べていたその幼さにそぐわない泣き笑いのような表情を浮べてクリシュをじっと見つめる。


「あなたは――」


(もう止めよう? 嘘をついて生きるのも、本当の自分を殺し続けるのも、罪から逃げるのも――)


「違っ私は――」


 胸に突き刺さり抉るような幼い自分の言葉に、クリシュは狼狽した。だが、幼いクリシュは一切の容赦をすることなく言葉を続ける。


(これが最後の機会。火龍様が残してくれた遺産を、あの方が引き継いで下さって起こった奇跡――私たちが赦しを頂ける最初で最後の試練……火龍様は、私たちに何の試練もお与えにならなかったもんね)


 寂しそうに呟くその声に、クリシュは声にならない息を漏らした。

 そう、火龍は火龍巫女である自分に何一つ試練を与えず、ただ自由にさせていた。そしていつも一緒に居てくれた。まるでそれ以上のことを望まないかのように――。

 だが、その優しさすらも自分達は火龍を殺害するために利用したのだ。


(さぁ、始まるよ。乗り越えよう……私も一緒に、頑張るから)


 今の自分にはとても出来そうにないほどの、優しく穏やかで温かな表情を浮べて幼いクリシュは笑った。


 ――キィィィィン。


 そんな甲高い音金属を掻き毟ったような音によってクリシュは現実に立ち戻った。振り返るとそこには、今までとはまるで違う凄まじい力を今まさに放出しようとするバーンアレスと、その火龍へと刺突の構えをとったまま地面を爆発するような勢いで蹴った兄ラウズの姿があった。

 お互いに渾身の一撃であり、この戦いの決着を着ける可能性を秘めた一撃を互いに放とうとしている。


 その激突を目前に、クリシュは手を伸ばして声を上げようとするが――記憶の光が筋となって混線する。

 十年前にも確かに見た光景。

 火龍神と兄のお互いに限りなく全力を発揮した、決定的な攻防。

 この後の展開を思い出そうとしても、まったくその情景が浮かんでこない。今までは崩れてないまぜとなった記憶が、それでも断片的に浮かんでいた。だが、この激突がどのような結果を生んだかがまったく思い出せない。


 まるで、そこから先の記憶を頑なに封印しているかのように――。 


 決定的な場面が訪れたことを自覚して凍りつくクリシュの横で、その答えを幼いクリシュが解き明かす。

 今まで喉が裂けるほどに叫んでいた幼いクリシュがピタりと声を上げるの止めて、両手を前へと突き出した。その姿を恐る恐る横目で見ていたクリシュも、自身が無意識の内に幼いクリシュとまったく同じ行動を取っていることに気づく。混乱する頭の中で、必死に突き出した両手を下ろそうとするが自分の体であるにも関わらず腕はビクともせず、自身の意識が内側から急速にせり上がってくる別の何か(・・)によって侵蝕される感覚に怖気が走った。

 意識がそれによって乗っ取られていく中で、クリシュの耳にはずっと同じ声がしていた。



(役目を果たせ。役目を果たせ。役目を果たせ。役目を果たせ。役目を果たせ。役目を果たせ。役目を果たせ。役目を果たせ。役目を果たせ。役目を果たせ。役目を果たせ。役目を果たせ。役目を果たせ。役目を果たせ。役目を果たせ。役目を果たせ。役目を果たせ。役目を果たせ。役目を果たせ――ッ!)



 その異変に最初に気づいたのは誰だったのだろうか。

 島民と移民、そして赤い制服を着た侍女騎士たちの先頭に立って、仕えるべき火龍神と実兄である王子の戦いを固唾を呑んで見ていた巫女であり王女であるクリシュに起きた異変に――。


 聡明な青き瞳は曇った蒼に堕ち、額には見慣れない呪印が浮かび上がる。突き出された手の前には陰を含んだ焔色の炎を灯し、その炎はやがて眩いほどの白炎となって大きく膨れて溢れ出し、その全てが今まさに口腔から漏れ出す焔と共に絶大なる攻撃を放とうとするバーンアレスへ殺到する。


 大気を焼きながら飛ぶ白熱の炎は、まるで白い炎の竜のように長い形態を取りバーンアレスへと喰らいついた。その瞬間、バーンアレスが火山脈より吸い上げて溜め込んだ力が怒涛の勢いで白い炎によって吸収されていく。そして火龍は直前まで放とうとしていた熱線のために変換していた炎性魔力を失い、同時に防御機構(・・・・)である火竜・・の衣を毟り取られる。


 横合いから(もたら)された白炎による火龍の力の吸収。

 攻撃のために蓄えていた力を一瞬で奪われ矛を折られ、自身を守っていた炎の衣を剥がされて最強の盾までも砕かれる。

 十年前は驚いたその光景を瞳に映しながら、ラウズは渾身の力を込めたが故に既に制動を掛けられない状態であり、鋭く光る竜殺しの魔剣(ドラゴンスレイヤー)による必殺の刺突がバーンアレスへと吸い込まれていった。



                   ◇◆◇◆◇◆◇



 ――これは記憶であり記録。

 ――十年前の真実。

 ――厳然たる事実。

 ――過酷な現実。



 白い炎によって力を奪われて、無防備となったところをサーディアスの王子が持つ竜殺しの魔剣(ドラゴンスレイヤー)で突き刺された。

 魔剣から侵入する文字通り竜殺しの呪因が体内に侵入し、毒よりも苛烈に細胞を殺してその傷口は塞がることなく強烈な痛みとともに魔力炉の機能を不全にする。


 様々なことが一気に起きたことによって、驚愕の表情を浮べたまま剣を火龍から引き抜いて地面へと降下した王子は、足に力が入らなかったのか地面への着地に失敗して転倒する。そして火龍の返り血を浴びた両手が、その高温の血液によって焼けて爛れた。


「うっ……ぐ……っ」


 痛みに呻いて剣を取り落としそうになるが、それをしないのは少年ながらも戦士の意地だった。そして震えを起こした体を叱咤しつつも、その視線はアウレイス山下層部の広場にいる一人(・・)佇む少女に向けられた。

 火龍もまたその視線を追って、少女に真紅の眼を向ける。


 聡明快活でいつもクリクリと楽しげに揺れていた青い瞳は、見る影も無く陰り暗く蒼い色に堕ちて、少女自身から発せられる巨大な炎性魔力が、内部から湧き上がるおぞましい何かによって白く空虚な色に換えられて虚ろな炎が光となって燃えている。


 ――火龍の巫女として耐えうる資質がない。


 その見解は甚だ間違いだった。

 この少女は恐らく初代――始まりの火龍巫女に匹敵する才覚を秘めていた。ただ、それを何者かによって厳重に封じられ、火龍ですらそれを見抜けないほどに巧妙に秘匿されていたのだ。

 そしてこの決定的な場面に際してその封印は解かれ、火龍の力を削ぎその攻撃の(ことごと)くを妨害すること命じられていた。この少女が火龍の見立て通りの力を持っているのであれば、火龍の王子に対する攻撃はそのほとんどが無効化されるか、限りなく軽減されるだろう。

 

 限りなく不利な状況ではあるが、この条件を打開する方法はいくつかはある。

 だが――火龍は虚ろな表情で自分を見つめる少女を見る。

 その曇った瞳には何も映さず、光も無く希望もなかった。


 小賢しい相手だ――と、火龍はこれらを仕組んだ相手に対して思った。

 現状の状況を打開する方法はあれど、それを火龍自身が行わない状況が事前に作り上げられていた。

 この場合では、力を削がれるのであれば、まずはそれを用いる相手を滅ぼせばいい。


 だが――しかし――それをするには手遅れなほどに、火龍はこの少女のことを慈しんでいた。


 自身の火龍たちの長としての存在と、『火』の英霊精龍(カーディナルドラゴン)として帯びた使命の重さを考えれば、このちっぽけな少女の命一つなど比べるまでもなく軽い。

 しかしそれでも、バーンアレスはこの少女の純真で無垢な魂が、その輝きを永遠に失うことを――ましてその輝きを自らが奪いさることを許容できなかった。

 自分同様に生まれながらに背負った運命に翻弄されながらも、朗らかな明るさを失わなかったこの少女は、運命に準じて生きてきたバーンアレスにとって眩しくも儚い存在だった。だからこそ、たとえ何の力も才も無くとも側に置き共に生きることを望んだのだ。


 バーンアレスの真紅の眼に映る少女クリシュの姿は、やはり痛ましいものだった。

 秘めていた力を抑制され続け、それを急激に解放したことによって『仮初にして真なる火龍巫女』である少女の体は悲鳴を上げていた。力の扱い方すら教わらず、ただ他人の意思によって刻まれた呪法を強制的に発動させられて、その制御を強いられている。全ての根源である生身の体そのものはまだ幼く脆い。だが、無理矢理に放出される力はそんな事に構いはせず、このままバーンアレスが力を発揮し続けようとすれば、少女の体が壊れることすら厭わず火龍の力を封じるために力を使わせ続けるだろう。


 決断を迫られていた。

 何者かによって呪われた巫女の王女と、当て馬として利用された元御子(・・・)候補の王子。

 その二人を見つめて、バーンアレスは一つの決断を下した。

 それは英霊精龍(カーディナルドラゴン)としては確実に間違った選択だが、本能に刻まれた使命に対して彼は彼自身の矜持を持って反抗することにした。


 巨大な力を扱ってクリシュにこれ以上の負担を掛けないために火山脈との再接続を放棄し、バーンアレスは上空へと浮上していく。その深紅の瞳に映るのは、彼が心を許した唯一の少女の変わり果てた姿。

 だが、それでも――あの少女が全てを乗り越え、自分の死さえも乗り越えていつの日か、あの笑顔(かがやき)を取り戻して自分の事を思い出すことを願いながら空へと昇っていく。

 そのバーンアレスを見上げながら、ラウズは青ざめた表情で『何故、俺を殺さないのですか……』と呟いた。そして、自分たち兄妹が最初から最後まで完全に利用されていたことにようやく気づいたラウズは、悔恨に打ち震えながら呻き、焼け爛れた手で地面を掻き毟った。


 バーンアレスは上空から自分の島を包囲したサーディアスの艦隊を睥睨する。

 長年に亘り守護してきた国は新たなる支配者によって、その形を変えて古き盟約を棄てた。だが、それは相手が人間である以上はいつか来るだろうと、バーンアレスたち(・・)は思っていた。


 竜殺しの魔剣(ドラゴンスレイヤー)によって刻まれた傷口からは血が噴出し、体内に入り込んだ呪法の因子が今も細胞を殺し続けている。大きな力を行使することは出来ず、膨大な魔力が供給出来る火山脈との繋がりを断って、もはや今の火龍が発揮できる力は本来の力に比べればほんの僅かな力でしかない。

 その上、バーンアレスは周到な計画によって巨大な結界によって隔離され、さらに地形操作魔法を応用した大規模魔法によって河川を海水が逆流して火山と地熱を冷却して、バーンアレス以外の火龍たちの力さえも奪い島外に出ることを封じていた。


 だが、元よりバーンアレスに逃げるという選択肢などあろうはずもなかった。

 この島にはバーンアレスの眷属である火龍たちが住まう場所。

 己の眷属たる彼らがそうであるように、バーンアレスもまた彼らと運命を共にする義務がある。

 深手を負った身で力を封じられた火龍神は、それでもなお誇りと闘争心を失うことはなく戦い続けた。



 その後、バーンアレスは帝国が配備したバーンアレス討伐艦隊の約九割を壊滅させ、宮廷魔術師の半数を殺して島を覆っていた結界を打ち崩し、帝国の兵士を数千人殺した末に――遂に力尽き海へと没した。

 バーンアレスの死後、すぐに島に残っていた火龍狩りが行われ、火龍たちは絶滅するまで狩り尽くされた。バーンアレスの遺骸も、海中から引き上げられて帝都に持ち帰られたとされている。


 あとに残ったのは、茫然自失した王子ラウズと虚ろな視線を空へと向けた王女クリシュだった。

 生存者が余りに少なかったことと、後の情報操作によってバーンアレスを討ち取ったのはラウズ王子であると公式の記録として発表され、真実を知る者に対しては魔法による記憶操作までもが行われ、ラウズは竜を狩りし者(ドラゴンスレイヤー)裏切りの竜殺し(ルグ・ベトレイヤー)という、文字通り二つの不名誉な二つ名を与えられ、英雄にして大罪人という存在に祭り上げられた。

 これに対してラウズは勿論猛烈に抵抗したが、クリシュの扱いを引き合いに出されて折れざるを得なかった。


 そしてあのアレス城で自室で心を壊したクリシュと、その妹を救おうと記憶を消す薬を持って、その部屋を訪れたラウズへと物語は繋がる。



                 ◇◆◇◆◇◆◇



 そして――世界は新たなる展開を迎える。


 急速かつ絶望的に奪われた火龍としての力と、目前に迫る竜殺しの魔剣(ドラゴンスレイヤー)の切っ先に対して、バーンアレス(・・・・・・)はやはりなす術がなかった。

 その切っ先を遮るものが一切無くなった凶刃が、バーンアレスへと吸い込まれるように突き立つと思われた瞬間、『ガキィィンッ!』という甲高い金属音が鳴り響いた。


 ラウズは驚きのあまり目を見開き、目の前の光景を見ていた。

 竜殺しの魔剣(ドラゴンスレイヤー)による必殺の刺突は、いつの間にそこへ現れたのかまったく分からない一振りの戦斧槍(ハルバード)によって受け止められていた。

 目の前で魔剣を受け止めた戦斧槍(ハルバード)は、装飾が施された戦斧部分の中央に象眼された巨大な赤い宝石が、まるで火龍の瞳のように赤い輝きを放ちながら光り、ラウズを睨みつけた。


 その赤い輝きに虚を突かれ、また自分の攻撃が防がれたことに対し喜びを感じるという、奇妙極まりない何とも形容し難い思いを抱いた瞬間、横合いから凄まじい風圧と共に炎をまとったドラゴンの拳が唸りを上げて襲い掛かり、気が抜けかけていたラウズは片手を咄嗟に上げて防御しようとしたが、巨大なドラゴンによる殴打を受け止められるわけはなく、腕が砕けるような衝撃と共に吹き飛ばされて地面に向かって落下する。


 地面に墜落したラウズは受身もまともに取ることが出来ず、爆音と共に地面に墜落した。陥没した地面の中で無様な格好で仰向けに倒れながらも、ラウズは知らず知らずの内に笑みを浮かべて、頭上の薄闇の中で燃え上がる火龍の姿を見上げた。


 全長は首の先から尾の先までで約三十メートル超ある。

 全高は二十メートルほどだった。

 主の呼吸に合わせて体表を覆う赤銅色の鱗がより濃い緋色へと変じ、絶えず色を変えることによって体全体が発光と消灯を繰り返している。その鱗の隙間には血の様な真紅の紋様が走り、鱗の明滅に合わせて複雑な紋様が巨大で強靭な体躯に現れていた。

 四足歩行を前提とした骨格だが、二足で起立することも可能で強靭な筋肉と頑強な骨によって巨躯を支え、大きく広げられた翼膜の翼がよりその者を巨大に見せる。頭部には後方へと伸びる一対の深紅の角、その角から炎が燃え上がり合流した炎がたてがみとなっている。後頭部からヒレが始まり、それは背骨に沿って尾へと続いていく。

 体表から発せられる熱によって周囲の空間に陽炎のような揺らぎを生みだし、その揺らぎの向こう側で黄金の瞳が周囲を睥睨していた。


 この姿こそが、英霊精龍(カーディナルドラゴン)『焦熱の火山』バーンアレスの真の姿だった。


 その場にいた全ての人間が、初めて見るその姿に言葉を失っていた。

 そんな中で、ラウズは仰向けとなったまま空を見上げ、十年前とはまったく違う傷を負っていない万全なる火龍神の姿を目に焼き付けていた。


 バーンアレス――クロウシスが宙に浮く戦斧槍(ハルバード)を一瞥すると、赤色の宝武は音も無く虚空へと掻き消える。過去の火龍神の遺骸で作られたあの武器は、人為的に力を送り込んで力を発動させなければ火龍の体の一部を使って作られた極めて強力な単なる頑丈な武器でしかなく、竜殺しの魔剣(ドラゴンスレイヤー)の持つ火龍の力に対しての絶対的有利性とも戦うことが出来る。


 燃え立つ黄金の瞳は、不意にギョロリと向きを変えて一人の少女を捉える。

 両手を胸の前で突き出した姿勢のまま、色を失い陰った瞳をそのままに虚空を見つめ、額に浮かんだ銀色に輝く呪印が戒めのように浮かび上がり、かざした手の先には少女以外の思惑によって人為的に生み出された白い炎が、夜明け前の薄暗闇の中を神秘的に燃え輝いていた。


 黄金の瞳をカっと見開いたクロウシスが内包する炎性魔力を猛らせると、クリシュが顕現させた白い炎が白い渦となってクロウシスに纏わりつき、放出される赤い魔力を食い尽そうとする。


 その様子を見ていた島民や移民たちの間には動揺が広がっていた。

 火龍に仕えるはずのクリシュが行っているのは、魔法に対して知識のない彼らから見ても火龍の力を奪いその行動を阻害するものにしか見えなかった。


「クリシュ様が火龍様の御力を――?」


「どういうことなんだ。姫様は火龍様の味方ではなかったのか?」


「ま、まさか十年前も――?」


 僅かな動揺はさざ波のように端まで広がり、やがて疑念と憶測と伴って返って来る。


「姉様っ! どうしちゃったの!?」


 妹のミリエルが焦りを顔に浮べて姉に触れようとするが、あと数歩という距離まで近寄ると真っ赤になるまで熱せられた鉄がそこにあるかのように、クリシュは人間では到底耐えることができない高温を放ち、何人(なんびと)も自分に近寄れないようにしていた。

 その異様な状況に火龍の首飾り(ガルフィネアス)たちは不穏な気配を感じて、咄嗟にクリシュを守るように周囲を固めるが、その行動が更に群衆を刺激する悪循環となる。古参の将軍ジノンも周囲で上がる疑念の声を抑えようとするが、敬虔な火龍信徒である彼らが苦境から自分達を救ってくれた火龍を厚く支持し、間接的にではあるがその苦境を作った原因の一端であると考えられても仕方が無いクリシュを、完全に信じ切れない者が出てくるのも無理の無い話だった。

 まして、クリシュは今現在進行形でバーンアレスの妨害をしているのだから。


 俄かに騒乱の気配さえ感じられる。無害な群衆を有害な怪物へと変える心理が目を覚まそうとした時、頭上から重く低くだが聴く者を高揚させる静かな声が響いた。


『クリシュ=リアスカ=イニス=サーディアス。刻が来た』


 この場でその声を注聴しない者はいないし、その言葉の重みを知らない者もいない。ざわめいていた声はピタリと止んで、全ての人間が空を見上げていた。


『お前の奥底に眠っていた、十年前のお前を再び呼び起こすために随分と回りくどい手段をとった。だが、それこそがお前が乗り越え、打ち破らなければならない最大の敵だ』


 そこまで言うと、クロウシスは一度言葉を切って少女を見つめる。

 火龍の巫女にして帝国の王女。 

 ここへ来たのが五歳ということを考えれば、恐らくは『火龍の刻印』が見つかってすぐに、火龍巫女としての力を巧妙に隠蔽されて、無能な巫女と陰で囁かれながら育てられたのだろう。そして、火龍と魂の器が限りなく密接に重なった状態となる契約直後に帝国の手で殺害し、火龍を道連れに殺すために火龍の元へ送られた。 

 無能な火龍巫女として騙された火龍が、それでもなおこの少女を側に置こうとすることまでを読みきったのであれば、これを仕組んだ存在は大した策士だろう。


 結果的には、バーンアレスがクリシュと契約する前に事前の計画を妨害するためにラウズが先陣を切って乗り込み、決着が着く決定的な瞬間に呪印による精神操作でクリシュの火龍巫女としての力を急速に解放し、そのクリシュ自身を人質とした状況で火龍の力を限りなく削ぎ、竜殺しの魔剣(ドラゴンスレイヤー)による傷を負わせて死に至らしめた。


 ――見事なまでに狡猾で底意地の悪い策略だ。


 称賛すると共に、クロウシスは十年を経て成長してもなお、呪印によって体を擬似人格に乗っ取られ火龍の力を削ぐために力を使う少女を見下ろす。


 そして――始める。


『我は十年前のバーンアレスほど、甘くはない』


 その言葉と共に、クロウシスは体内にある溶鉱炉のような熱い魔力炉に命令を飛ばし、黒龍としての膨大な魔力を精製して全身に張り巡らされた龍脈に魔力を浸透させていき、鱗の隙間から覗く真紅の紋様が心臓の鼓動に合わせて駆け巡る血液と魔力で明滅する。

 それに伴い体表の温度は急激に上がり、大気の水分を蒸発させて白い霧を薄く発生させる。充填する魔力の総量が徐々に臨界へと達していき、攻撃への準備を調えていく。


 勿論その最中もクリシュは一切の動揺はおろか、感情すら浮べることなくバーンアレス(クロウシス)の魔力を奪うために白い炎を迸らせるが、元々の総量が桁違いな黒龍の魔力を吸い切ることが出来ず、僅かにその進行を遅らせるのが精一杯だった。


「一体何を……まさか――っ!!」


 恐ろしいほどの魔力を蓄えていくバーンアレス(クロウシス)に危機感を感じたラウズは、地面から身を起こして咄嗟に竜殺しの魔剣(ドラゴンスレイヤー)を持とうとするが、十年前にバーンアレスへと剣を突き立てた時の返り血で負った火傷が急激に激痛を発し始め、柄を握ることが出来ず呻く。だがそれでも、妹の盾となってでも助けようという一心で走り出そうとするラウズの姿を上空から見ていたクロウシスは、魔眼の力でその背を射抜いた。

 何か恐ろしいものが体を通り抜けた――という曖昧な感覚を感じた直後、ラウズは体から一切の力を失ってその場に倒れこんだ。


「……ぐっ」


 声も出せないほどの衝撃が精神体を貫通し、不可視の槍となって地面へと縫い付ける。体に痛みは一切ないが、逆に体から一切の感覚を奪われることとなる。


 上空の火龍が周囲の大気が煮え滾るような力を集束させる様を見上げながら、クリシュの後ろにいる島民たちはザワザワとざわめき、これから何が始まるのかを薄々感じながらも、その場で恐慌に陥るようなことはなく火龍を見つめるその目に宿るのは、義理や信頼ではなく祖先より長年に亘って培ってきた『信仰』という恐ろしく強固な精神的主柱だった。

 移民たちには若干の動揺はあったが、島民たちに一切の動揺がないことに加えて、これ以上何処へ逃げるというのか、という諦観めいた心情でそこから動こうとはしなかった。


『この地に集いし者達よ。我と我が巫女を信じる心に偽りが無ければ、願って欲しい。これから起こる出来事に際して、目を瞑り祈りを捧げてもらおう』


 それを聞いて、これから起こるであろう事態を予測できない者は少ない。

 直視すれば身震いするほどの、まるで火山が爆発する直前のような力を溜め込んだ火龍が、これから行うことなど一つしかなかった。


 だが、それでも――強固な信仰は人から恐れや疑いすら払拭させる。


 最初にその場に跪き、胸の前で手を組み祈りを捧げたのは、あの双子の姉妹リゥとルゥだった。

 そして、その姿を見た周囲の大人たちも次々と膝を折り、祈りの姿勢を取り目を瞑っていく。その荘厳とも異常とも取れる光景に、移民者たちは最初は戸惑いを見せていたが、やがて決心した者から膝を折り始めた。

 ほどなく広場にいた島民と移民、全ての人間が跪き祈りを捧げていた。


『問おう。汝らはクリシュ=リアスカ=イニス=サーディアスを信じているか?』


「わ、分かりませぬ……いえ、今の姫様を見て分からなくなったのです』


 答えたのは、町長のオグロだった。手を胸の前で組み、目を瞑り深く頭を下げたまま言葉を続ける。


「ですが、今の姫様の尋常ではないご様子を見れば、火龍様が姫様をお助け下さるのだと我々は信じております。ですから、どうぞ――御心のままにお振る舞いを」


 その言葉を聞いて、自分達の立場故に最後まで火龍の言葉に従うことが出来ず、クリシュを守ろうとしていた火龍の首飾り(ガルフィネアス)たちに衝撃が走った。

 互いの顔を見合い立ち竦む彼女たちの中で、その長たるジル=カーティスは葛藤していた。

 相手はあの火龍であり、その言を取ってもこれから火龍が行おうとしていることは、確実にクリシュの身を危険に晒すこととなる。だが、島民たちはそれは『クリシュ姫を助けるための行為』として受け入れている。そして彼女たちの大半も、恐らくは同様のことを考えているだろう。

 クリシュの様子がおかしいのは見れば分かるし、火龍がここにきてクリシュを殺そうとするとも思えない。だがそれでも、彼女たちは敬愛してやまない主がこれから受ける行為に対して、簡単に膝を折ることが出来ないでいた。


 そんな葛藤を繰り返すジルの肩を優しく叩く手があった。

 ジルが驚いて振り返ると、そこにはあのクロウシスと共に先行しているはずのユティとミリアンの姿があった。


「ユティ! ミリアン! 無事だったか! そうだ、クロウシス様は?」


 二人の生還喜ぶと同時に、何故かここに至るまであの驚異的な力を持ち、それと同時にあの何事にも動じない恐るべき精神力を持つ人物の存在を忘れていたジルは、この状況下でも適切な判断を助言してくれるであろう人物の登場に期待したが、あの真っ黒い装いをした人物の姿は何処にもなかった。


 ――まさか!?


 慌てて二人の顔を見ると、二人は互いの顔を見合わせると苦笑してすっとジルの後ろを見た。その意図に沿って振り向くと、そこには上空からこちらを睥睨する火龍が在り、偶然にもその黄金の瞳(・・・・)の瞳と目が合った瞬間、ジルは全てを理解して二人を振り返る。

 ジルの驚いた表情にゆっくりと二人が頷くと、ジルの中で様々な思いが怒涛のように押し寄せてきたが、今はそれらを整理することを諦めて、二人にしっかりと頷き再び振り返ってクリシュの背を見つめる。


 出会った当初、七歳のクリシュ姫は気弱で周囲全てのモノに怯えていた。

 そして悪夢を見ては泣き、夢すがら何かを求めるように手を彷徨わせていた。

 まるで、とても大事なモノを失い、今でもそれを探し続けているかのように。

 

 そんな弱い姿を見てきたからこそ、いつも孤独を感じさせないように誰かしら側にいるようにしていた。

 その成長を見守ってきた。

 城を略奪されてから陰りがちだった表情。

 頼りなげに揺れていた瞳。

 そんな少女の前にその人物は突然現れて、光りを与えた。

 彼女がその人物に時折見せる明るい表情は、まるで別人であるかのようにさえ思えた。


 今だからこそ分かる。

 少女が夢すがら求めていたもの。

 少女があれほど簡単に心を開き、頼りにした理由。


 ――十年間前に失い、十年間悔やみ、十年越しに起きた奇跡。


 少女――クリシュを本当の意味で救える存在。


 ジルは知らず知らずの内に涙を流しながら、膝を折り祈りを捧げる。


(どうか、救って欲しい――)


 願う。

 願ってやまない。


 その姿を見て、他の火龍の首飾り(ガルフィネアス)たちも迷いを捨てて、祈りを捧げる。

 遂にその場にいた全ての人間が膝を折り、目を瞑り手を組み祈りを捧げるに至った。

 後に残るのは、白い炎に支配された巫女と対峙する火龍のみ。


『さぁ、クリシュ=リアスカ=イニス=サーディアス。いや、ただの(・・・)クリシュよ。お前は今、この島でお前が守ろうとし、お前を守ろうとした全ての人間の命を背負った』


「……」


 空虚な蒼い色は、ただ黙って火龍を見つめる。

 だが、クロウシスは構わず続ける。



『守りきって見せろ。ただし――そんな有り様で守れるのであればな』



 その言葉に一瞬、クリシュのまつ毛が揺れる。

 

 そしてクロウシスは、数百人の命を背にしたクリシュに向かって、火龍として持ちうる全力の攻撃を放った。



後書きを活動報告にて書いております。

よろしければ、本文読後にお読みください。


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