プロローグ2-黒龍と僧正巫の誓い-
地上連合軍は地上に住まうあらゆる種族の結束と、クロウシスという圧倒的な力を総動員して神族と魔族の戦いに介入しては説得を試みた。
最初は聞く耳をまったく持たなかった奴らも、人間を始めとする地上の種族たちが自分たちに有効な武具や戦術を知っていることに驚き、彼らの元に力で自分たちを凌駕するクロウシスの存在があることに驚愕していた。だが、それでも話し合いに応じることなく戦局は三つ巴の泥沼と化していった。
人間たちとの共同戦線に際して、クロウシスは常にドラゴン本来の姿をとっていた。
レビと初対面の時はあくまで彼女たちを試すために人間の姿を取ったのであり、元来ドラゴン族は自分よりも劣る存在に姿を変え続けることは屈辱だと考えるのが普通だった。ただ、既に仲間のほとんどが死に絶えているクロウシスはそんな考え方は持っておらず、単純にいまや地上連合軍の力の象徴となりつつある自分が取っているべき姿として、常にドラゴンの姿をとっていた。
最初こそレビ=ティアニカという個人への興味からこの戦いに助力したクロウシスだったが、人間たちと過ごす内に、彼らの喜怒哀楽の感情の豊かさや、どんな強大な敵に対しても諦めることなく立ち向かう姿に感じ入るものがあった。
そんな変化した彼の一面を見ることのできる出来事があったのは、ついに神族と魔族の両軍から会談の場を設けたいという打診を受け、その会談へと臨む前夜のことだった。
クロウシスが専用に設営された大テントで体を休めていると、外に人の気配がしたのに気づき五感をそちらへと集中させた。彼の目は透視くらいのことは意識するだけで行えるため、すぐにテントの外の様子が見てとれた。
そこにいたのはまだ年端もいかぬ少女だった。
名はリーザ=メンフィア。
彼女は自分を直接支援する直属部隊に属する付与術師だと、クロウシスは記憶していた。
その付与術師はどうやら泣いているらしく、涙が幾筋も頬を伝っている。この少女は年齢のことを踏まえても純真で、過酷な戦場でも弱音を吐くことなく懸命に付与魔術を仲間にかけ、同時に鼓舞していた。そんな姿を見ていたからこそ、クロウシスは長い首を持ち上げテントの入り口へと伸ばした。
「どうした、リーザ=メンフィア。何を泣いている?」
「!?」
突然かけられた声に驚き振り返ったリーザは、目の前に自軍の最重要人物(?)である偉大なるドラゴンがテントから巨大な顔だけを覗かせて、黄金の眼で自分を見下ろしていることに腰を抜かしそうなほど驚いた。
「こ、黒龍帝様っ……」
リーザが声を震わせて呟いた名は、この軍でクロウシスを敬した名だった。ただ、本人としては帝などと言われても同胞がことごとく死に絶えている現状からすれば随分滑稽な異名だった。
「泣いていたであろう。我は竜ゆえに泣くことを知らぬ。が、事情くらいは聞いてやれるであろう。話してみよ」
彼女は始終恐縮しっ放しだったが、畏怖しながらも敬愛するドラゴンの言葉に頷き、ぽつぽつと事情を話し始めた。
一通り話を聞くと、予想通りと言うべきかクロウシスからすれば実に人間らしい、とても下らないものだった。
その事情とは要するに直属部隊外の人間からの妬みだった。リーザのような歳若い小娘が何故直属部隊に籍を置いているのか、お前の付与術など誰も当てになんてしてはいない、どうせ親の威光で戦後の実績作りが目的なのだろう、などと複数人に囲まれて言われたらしい。
「ふん。ようするに妬みと謗りか。人間というのはその辺りは本当に愚かだな」
直属部隊は人間を主体とした連合軍の中でも選りすぐりの猛者を選りすぐった部隊だ。確かにこの部隊に参加していたことは、後々大きな実績となるのだろう。
リーザはまだ流れる涙をクロウシスの前だからか必死に手で拭うが、涙が止まる様子もなく、自信なく顔を俯かせていた。彼女の年齢は十といくつか、そんな彼女が仲間と信じる大人数人に囲まれて直接悪意に晒されたのだ、ショックは大きいだろう。
「顔を上げよ、リーザ=メンフィア。お前は自身を過小評価しているようだ」
クロウシスの言葉にリーザが顔を上げると、戦場では禍々しい輝きを放つ黄金の瞳が静かにリーザを見下ろしていた。
「模擬戦で我らは幾度か戦っている」
神族と魔族は高度な魔法を行使する。それに対応する戦い方を教えるために、クロウシスは直属部隊と何度か模擬戦をしていた。無論、このリーザも参加している。
「前衛の連中は何も言っていないようだが、お前の対障壁付与がなければ連中の武器は我に触れることすら出来ていないだろう」
クロウシスの言葉にリーザはきょとんとしていた。自分の役割と力に無自覚な少女にクロウシスはやれやれと思いつつ言葉を続ける。
「俯くな、顔を上げろ。胸を張れとまでは言わぬが、お前が今日まで研鑽してきた力とお前に今の役割を与えた者を信じることだ。そして――」
少女を見下ろしたままニヤっと鋭く生えた牙を見せて笑う。
「このドラゴンがお前のような小娘を相手に世辞を言わない、ということもな」
その言葉にリーザは驚いたように顔を上げる。
他の人間が同じようなことをリーザに言っても、確かにリーザはそれを慰めや気遣いだと取っただろう。だが、今その言葉をくれたのは目の前に鎮座するドラゴンだ。彼は相手が将軍であろうと大僧正であろうと態度や言葉を変えることはない。どこまでも不遜――世辞など言わず言いたいことを言い、機嫌を取ろうなんて絶対にしない存在。
だからこそ今の言葉は、この偉大にして強大なドラゴンの本心だったのだということがリーザの胸に染み渡っていった。
誰に褒められるよりも嬉しいことだった。
だからこそ、囲まれて貶されたことなんてもう気にならなかった。
「黒龍帝様、ありがとうございます!」
満面の笑みで顔を上げると、その目尻にはまだ涙が浮かんでいたが、それがさっき流していた涙とは別の意味を持つのは確かだろう。
額が膝に着きそうなくらいのお辞儀をして駆け去っていく後ろ姿を見送り、クロウシスがやれやれと首をテントの中へと引っ込まそうとした時、別の声をかけられた。
「クロウシス様」
その涼やかな余韻を残す声は、クロウシスにとって馴染み深い声だった。
「レビ=ティアニカか」
引っ込めかけた首を再び出すと、そこには僧正巫の衣装をまとった少女が佇んでいた。
レビは嬉しそうにリーザが去っていった方を優しい眼差しで見つめたあと、クロウシスに丁寧にお辞儀をした。
「あの子の心をお救い下さり、ありがとうございます」
「大したことではないであろう? 我は事実を述べて、リーザ=メンフィアの誤った認識を正したに過ぎない」
その本当に大したことではない、という口ぶりにレビはまた嬉しそうに笑う。
「他ならぬ貴方様に認められることは、あの子にとって何よりの励みになります。気の弱いあの子が自分からこの戦に志願したのは、貴方様に憧れたからなのですから」
「随分と気にかけているのだな、リーザ=メンフィアのことを」
クロウシスの問いにレビは照れくさそうに頬を掻く。
「大事な妹ですから……」
意外な答えにクロウシスの首がわずかに動き、黄金の眼がレビに正面から向けられる。その仕草にレビは手を前で揃えて握った。
「私が僧正巫になるための修行を始めたのは五歳の時です。その時あの子はまだ1歳だったので、世俗から離れて暮らしていた私のことを、あの子は知りません。ずっとしきたりで教えられなかったのです。でも軍の志願者の中にあの子を見つけた時はすぐに分かりました」
「ほぉ、最後に会ったのはレビ=ティアニカが五歳で、リーザ=メンフィアが一歳の時であったのだろう? よく分かったものだな」
クロウシスの感心を含んだ声の響きに、レビは嬉しそうに合わせた手の指を組んだり離したりした。
「私はあの子のお姉ちゃんですから」
それは血族――家族どころか、同族すら恐らく存在しないクロウシスにとっては理解できない類のものだった。だが、その一言に妙な説得力があるのは確かに感じることができた。
「貴方様が心優しい御方で本当に良かったと思っています」
両手の指を組んだ手を胸の前で祈るように握り、レビはクロウシスを見つめた。
その様子にクロウシスは鼻を鳴らした。
「別に我が優しいわけではなかろう。今回のことに関しても、他のことに関してもだ。我は独りだった故に動機が欲しかったのだ。天魔の連中に向けるべき感情が何であるべきか、我にはそれを自分で見つけることができなかった。そこへお前たちが訪れて、我の欲しかった動機をくれただけのことだ」
「貴方様にとっての戦う理由が如何なるものであろうと、貴方様が私たちの先陣をお切り下さることは、全軍にとってこれ以上ない勇気と闘志を下さるのです。感謝に堪えません……」
レビの真っ直ぐな思いと相変わらない澄んだ瞳を向けられて、クロウシスは「ふんっ」と鼻を鳴らすと、顔をレビに向けて正面からそれを受け止める。
「そこまで買い被られてしまっては、我もその気にならねばなるまい。レビ=ティアニカ」
「はい」
いつにも増して真剣なドラゴンの声音にレビは背筋を伸ばした。そして目の前の敬愛するドラゴンが口にした言葉は、彼女にとって予想外の内容だった。
「我はお前を気に入っている。あの我が根城での振る舞いと、何よりそなたの眼だ」
「私の眼、でございますか?」
レビが指摘された自分の眼を気にして頬に手をやる。
「そうだ。我はもはや絶滅しかけている竜族の末裔ゆえに、他者との交流は積極的には行ってこなかった。だからこそあのような辺境の峡谷に根城を構えていたのだ。だが、それでも数千年を生きる間にはお前たち人間が一生の内に関わる他者よりも多くの多種多様な種族と出会ってきた」
クロウシスが今までの半生を反芻するように夜空へと目を向ける。空気が澄んだ大地の夜空は星が大きく眩き大地を照らしていた。
「だが、お前ほど澄んだ瞳を持った者と出会ったのは初めてだった。元来人間は他の種族よりも知恵が回る、ゆえに善よりも悪へ傾倒しやすい。以前我の元へ訪れた修行僧や辺境巡回士といった手合でさえも苦悩や恐怖といった感情を瞳に浮かべていた」
過去を追憶するように黄金の眼をしばらく瞑り、再び開けてレビをその瞳へ映す。
「お前に負の感情といったものが存在しないわけではないだろう。知能を持っている以上、大なり小なりそういものを持つように我々は種族を問わず作られているはずだ。だが、少なくともお前は我が見てきた中で最も――美しい存在だ」
その言葉にレビは頬を朱に染める。
「も、もったいないお言葉です……」
赤くなった顔を隠すように俯き、両手を胸の前で落ち着き無く合わせたり離したりする。
「我々ドラゴン族は古来より金銀宝玉を収集する習性を持っている。集める理由は知識階級で若干違うのだが、特に気に入っているものは身に付けたり、秘匿し守ることは共通だ」
クロウシスが地に伏せていた首を急に持ち上げて大テントの中へと引っ込めた。唐突な動きにレビは驚いて目を瞬かせたが、慌ててテントの中を覗き込んだ。すると、そこには身体をいわゆる伏せの格好にして、長い首をもたげてレビを見下ろすクロウシスの姿があった。
「クロウシス様……?」
「我は宝石や宝玉を集めることをあまりしない。随分昔にそういうことを余暇を潰すために行ったこともあったが、今にして思えばあまり意味のない行為だったと思っている。だが、まったくの無駄だったわけでもなかったようだ」
レビが目を凝らすとクロウシスの口元で何かが光っているのに気がついた。クロウシスが長い首を伸ばしてレビの前へとそれをかざし、牙に紐を引っ掛けるようにしていたそれを受け取らせた。
それは漆黒の宝玉を主としたペンダントだった。手の平に握れるほどの大きさで、完全な新円を描く造形、黒真珠とは違う鉱物に近い光沢を持っていた。見つめると吸い込まれてしまいそうなほどに深い深淵の輝きを持っている。
「クロウシス様、これは?」
「我が持つ唯一の宝飾だ。今日まで守り続けてきたが、お前に託そう」
宝玉の美しさに見惚れていたレビだが、クロウシスの言葉を受けて顔を上げる。
「そ、そのような大切なもの受け取れません!」
「よいのだ。レビ=ティアニカ。我はその宝玉がこの世で最も美しいものだと思っていた。だが、我はもっと美しいものを見つけた。ゆえにそれはお前に持っていてもらいたいのだ」
クロウシスの真摯な言葉にレビは目頭が熱くなるのを噛み殺すように俯き、宝玉をぎゅっと抱きしめた。そして目元を拭うと顔を上げ真っ直ぐにドラゴンへと向ける。
「今日この時ほど、生きていることを嬉しく思ったことはありません。私はいつまでも貴方様に――そのように思って頂けるように生きていきます。そして私の命に代えても貴方様をお守りします」
「ならば、私はお前の瞳が永久に翳らぬ限り、お前の敵を全て打ち砕いてやろう」
その夜、世界最後のドラゴンと一人の巫女は誓いを結んだ。