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第一章10-憎悪の再会-

 大陸から遠く離れた離島であるバーンアレス島には四季は無く、代わりに気候の変化として規模の起伏が小さな雨季と乾季があり、基本的には亜熱帯に近い気候をしている。

 基本的には年中蒸し暑い気候を保ちつつも、この時期の夜は昼間に比べるとわずかな肌寒さを感じる。それが弱った身体ならば、なおさらだろう。


 鬱蒼と茂る密林の中を、心身ともに酷い傷を負いながら――セリス=ロルは歩いていた。


 両腕の手首から先に力の入らないセリスは、先ほど負った右手の捻挫がもたらすズキズキという痛みに耐えながら密林の奥深くへと足を踏み入れていく。

 腰に剣を吊ってはいるものの、鞘から抜刀することすら困難な状況では気休めにもならず、ただ重いだけなのだが、それでも捨てていくという選択を取ることもできず、疲労とともに腰元で揺れる剣の重みに暗い気持ちになりながらも、足を止めることなく歩き続けた。


 アレからどれだけの時間が経過したのか、時計など当然持っていないセリスには正確な時間の推移など分かろうはずもなかった。セリスの体感では、もう数時間ほど経っている気もする。だが、木々の間から見える夜空を見上げれば、夜空の色は深くなるばかりでまだまだ朝を迎える気配など微塵もない。

 体力には余裕があると思っていたのだが、いざ密林の中へと足を踏み入れれば、移動を妨げるように鬱蒼と茂った広葉樹林の葉が行く手を阻み、地面に張り巡らされた木々の根と火山島特有の細かく隆起した地面に何度も足を取られる。


「――ッ!!」


 密林に入ってから、もう何度目かも分からない転倒。最初は気をつけようと気を引き締めて、転倒した回数を数えていたが、十回を超えたところでもう数えることもやめてしまった。顔と頭部を庇って傷ついていない左腕から転倒していたために、左腕は赤黒く腫れていた。

 さらに、今転倒した場所に冷えて固まった溶岩が鋭く突き出していたようで、左腕に裂傷を負ってしまい赤い血が痛みと共に流れ出す。捻挫で腫れあがった右手を震わせながら、左腕の傷口を必死に押さえる。服を破って止血したいが、腱を切られている両手の指には力が入らず、服を破くこともできなければ、傷口を固く結ぶこともできない。

 その思いに至ったところで、自分の命がたとえ助かったとしてもその後のことを思うと、堪らなく怖くなる。切られた腱を直すことは、医療技術では当然不可能で、魔法の力が弱まっている今では王都の王宮魔道師でも不可能なのではないだろうか。仮にクリシュ姫が慈悲を与えてくれたとしても、自分の手はもう元には戻らず何も満足にはできないかもしれない。


 侍女としての仕事。

 掃除も出来ない。

 洗濯も出来ない。

 料理も出来ない。

 料理……妹の――ティリスの好きだったアップルパイを焼くことも、もう出来ない。


 生きて帰っても、もう自分には可愛いティリスに何もしてあげられず、それどころか一生迷惑をかけて生きていかなければならないかもしれない……。

 そう思うと自分がしていることが酷く空虚に思えて、全身の痛みが暗い感情に拍車を掛けて気持ちを折ろうと重く重く圧し掛かってきた。それに耐えられず、血を流し続ける左腕を抱いて我慢していた涙が頬を伝い始めた。

 ここで何もかも諦めて、後顧に憂いもなく死ねたならどんなに楽だろうか。

 だが、セリスがここで何かもかも諦めて自ら命を絶てば、あの牢獄で今も絶望に囚われて心を病んでもまだ生きることを諦めていない二人の仲間を更なる地獄へと突き落とすことになる。


 そんなことはいけない……そう思うことで立ち上がれると思った。


 だが、セリスの足は、腕は、体は――地面に倒れたままピクリとも動いてくれなかった。

 あの牢にいたときよりも救いのある状況にいるはずなのに、セリスの精神は『孤独』という病に侵されていた。この密林の中で、あの下劣な卑劣漢から一人逃げなければならない。

 最初にあった希望の光も、健常な頃の自分が一日中歩いて五日はかかる距離であることを考えると、それは酷く脆い希望に思えていた。

 涙でぼやける視界の隅で、小さな動物がこちらを見ていた。それはこの島に広く分布しているアレス兎という動物で、火山の灰を被ったような灰色をしていて、無害なことから魔物ではなく動物として認識されている。警戒心の強いアレス兎は、まだ若い個体らしくルビーのような赤い目を光らせてジっと倒れたセリスを見ていた。


(ごめんね……怖がらせて)


 これ以上無用な警戒をさせないように、セリスが全身の力を抜きながら目を閉じてしまおうとした時、そのアレス兎の側に一回り小さな個体が現れた。

 それを見た瞬間、セリスは目を見開く。

 大きさから言って親子ではない。だとしたらアレは兄弟なのだろう。

 二羽のアレス兎は鼻をヒクヒクとさせ、しばらくは耳を忙しなく動かしていたがやがて大きいほうの個体が森の奥へと消え、残った小さいアレス兎もセリスをジッと見た後、森の奥へと消えていった。

 その背を見送ったまま、セリスはしばらく固まっていた。

 頭の中で、昔この島の動植物についての勉強会に参加した時のことを思い出していた。


 アレス兎は年に二回の繁殖を行い、生まれる個体は必ず一羽ずつ。

 父、母、子供二羽の四羽で行動する。

 子供二羽のみで行動しているのを見かけた場合、それは特異な状況となる。


 その状況とは――両親を失って子供だけで生きている状況である。



 ――お姉ちゃん。



 思い出せば脳裏に響く妹の声に、セリスは唇を噛む。


 ――諦めてはいけない。


 先ほどまで少しも力の入らなかった四肢に力を込めて、ふらつく身体を叱咤して立ち上がる。傷の痛みは変わらずセリスを責め苛むが、立ち上がるだけの気力を取り戻し、生きるための理由を思い出した。


 誰にも負けない。

 絶対に諦めない。

 いつもそう自分に言い聞かせて、厳しい世の中を自分の力で生きてきたと思っていた。そして現に生きて来られていた。だからこそ自分は強いと思っていた。

 だが、たった僅かな間に意志は折れかけて、何もかもを諦めそうになってしまった。


 ――なんて弱いのだろう。


 そう思うと同時に、妹の声を思い出すだけで『諦められない』という気持ちが溢れ出す。


 ――なんて心強いのだろう。


 自分は強くなんてなかった……妹の――ティリスのおかげで強くあろう(・・・・・)と思うことが出来ていただけなのだ。だからこそ、こんなところで簡単に諦めてはいけない。

 そう強く思い、セリスが再び歩みを進めようとした時――それを感じた。


 僅かな振動。


 地面を揺らす僅かな振動が足の裏から、セリスに警告を伝える。

 この密林には今、地面を揺らすほど巨大な魔物の類は生息してはいない。十年前ならばバーンアレスの眷属である火龍がいたが、今はもうそれも一頭残らず狩られてしまった。

 ならば自然と、この振動の主は魔物ではなく――龍騎兵(ドラグーン)という結論に達する。

 そしてそれに搭乗しているのは間違いなく仇敵――ゼミリオ=カウンディだろう。


 もうすぐそこまで追っ手が迫っている事実に愕然としながらも、セリスは一歩足を進めるだけで痛む体に鞭を打ち、必死に密林の奥へと足を進めて行く。



                ◇◆◇◆◇◆◇



 モニターの光点が再び移動を始めたことに、ゼミリオはニヤっと笑みを浮かべた。

 隠れていたのか休んでいたのかは分からないが、この移動は確実にゼミリオの乗る龍騎兵(ドラグーン)アレスの接近に気づいたからだろう。

 大人しく隠れていたならば、気づかない振りをしてその周囲を探し回る振りをして、あっちの神経が程よく衰弱したところでアレスから降りて近づき、そのまま不意をついて襲うのがいつものパターンだが、さすがは頭のいい女だけはある。

 隠れてやり過ごすのではなく、とにかく逃げようとするのが正解ではないが、少なくとも隠れて動かない状態でゼミリオが追いつけば、その時点で遊戯(ゲーム)が九分九厘終わったようなものだ。


 予想通り楽しませてくれるセリス=ロルに対して賛辞を送りながら、ゼミリオは歪んだ笑みを浮かべて嬉々としてアレスを前進させていく。両足のペダルを浅く踏んで、出来るだけ大きな動きで足を踏み出して地面に振動を与えて獲物にプレッシャーを与える。

 もうすぐそこまで来ている、という事をわざと伝えることによって相手を焦らせて無様に逃げ惑う様を光点の反応を見て楽しむのが、相手が逃げることを選んだ場合にゼミリオが取る楽しみ方だった。


 案の定、セリスを表す光点も左方向へと進路を変えた。そのことが筒抜けであることを知らず、少しでも逃げようと浅はかな知恵を絞って生き延びようとする様子を見るのが楽しくて仕方が無い。


 しばらくは追いかけっこが出来るかと思っていたが、その予想は外れることとなった。この島の地形と密林は徒歩で歩くには厳しい点が多く、それが健全な状態でない身体を引きずりながらの移動であればなおのことだ。

 すでに光源との距離は大きく縮まり、恐らく向こうはこっちの歩行による振動を全身で感じて絶望に染まっていることだろう。

 その絶望に上塗りをしてやろうと、ゼミリオはアレスの火器管制の安全装置を解除して操縦桿の射撃トリガーに指をかける。すると、背面部にあるエラのような機関が空気と共に魔力を吸収し、内部の機関に火が灯るとアレスの眼光が赤く輝く。発射準備の完了と共に、ゼミリオは適当な位置に狙いを定めてトリガーを引いた。


 アレスの胸部と腹部の間にある火龍の顔を模った口腔が赤く染まり、そこから次々と火球を吐き出して木々の枝を削りながら木の幹や地面に当たって爆発を起こす。静かだった密林の夜は、赤い砲火によって切り裂かれ、立ち昇る火炎と煙が騒乱を告げる狼煙のように天高く昇っていく。


 動体センサーが告げる位置に向かって、直撃しないように狙いを外しながらゼミリオは次々と小さな火球を発射させる。本来はもっと威力の大きい炎弾を飛ばすことも可能だが、あえて出力を落として逃げるセリスの恐怖と焦りを煽ることを目的としているのは明白だった。

 歩を進めながらも火球を放つことは止めず、視界を埋め尽くす紅蓮の斜光を受けながらゼミリオは歪んだ笑みを浮かべて、非力な獲物を追いつめる愉悦に気分を昂ぶらせながらペダルを踏み込んで龍騎兵(ドラグーン)を前進させていく。


 この時のゼミリオは、己の絶対的優位な状況と狩り(・・)のクライマックスを迎える寸前で、正常な状況分析が出来ない状態にあった。その表情は何かに憑かれた様なものとなり、陶然とした目でセリスを示す光源だけを目で追っていた。それゆえに、自分が立つ場所は無意識に確認していても、その光源が地形的にどういった場所にいるのかは目に入っていなかった。


「――ッ!」


 そしてゼミリオがそのことに気づいたのは、今まででセリスに最も近い位置に火球を放つトリガーを引いてからだった。


                 ◇◆◇


 追っ手の足音が迫る中、セリスは必死に逃げようとしていたが、その必死の行為を弄ぶかのような火球が逃げるセリスの背を赤く照らし、爆風が栗色の髪を後ろから前へと揺らし、徐々に近くなる着弾位置によって爆発で生じる熱風が背中をチリチリと焼いていた。


「――っ……はぁーっはぁーっ」


 動かすこと自体で苦痛をもたらす身体を叱咤して、少しでも逃げようとするが、すでに息は上がり足は縺れている。それでも諦めて立ち止まったりはせず、後ろから迫る爆音と足音から少しでも逃げるために必死に震える身体を抱えて縺れる足で走り続ける。

 何度も足を縺れさせて倒れ、その度に挫けそうな心と傷だらけの体を引きずりながら立ち上がり、迫り来る絶望に追いつかれることが無いように、セリスは必死に走り続けた。

 身体の痛みと酸欠で次第に意識は朦朧として、後ろから迫る爆音が木々の中を反響して自分の右後方から聞こえていると錯覚したセリスは、無意識の内に左前方に向かって歩を進めていた。


 そして、それは訪れた。

 それはセリスの意識を朦朧としていたことが要因であり、同時にゼミリオが地形の把握をしていなかったことも要因だった。

 奇しくも追う者と追われる者、双方に起因する要因によってその悲劇は生まれた。


 今までで一番近い場所へと着弾した火球によって生じた爆発が周囲を激しく燃やした。そして、その中にあった一本の木を炎が包む。その朽ちた木の中は空洞化しており、それはバーンアレス島特有の現象で、空洞化した木には地表から洩れ出た可燃性のガスが内部で溜まっていた。

 ほどなく木を燃やす炎は内部のガスへと引火し、激しい爆音と共に枯れ果てた木が爆散する。間近でその爆発を浴びたセリスは宙へと吹き飛ばされ、その先は切り立った崖とその下を流れる川があった。爆発の衝撃で意識を失っていたセリスは、吹き飛ばされるがままに密林と崖と境界を越えて、そのまま川へと落ちていった。


                 ◇◆◇


 不用意な射撃をしたことにより、せっかく獲物を追い詰めたにも関わらずそれを川へと落としてしまったことにゼミリオは愕然としながら、操縦桿を乱暴に叩いた。


「ちっ俺とした事が……ついてねぇ」


 愚痴りながら操縦桿の右隣にある計器群を操作すると、正面のモニターに表示されていた半透明の地図が広域化され、先ほどは動体センサーで捉えていたセリスを示す光点が消え、替わりに赤色の光点が表示される。

 龍騎兵(ドラグーン)アレスに内臓されている動体センサーの捕捉距離はあまり長くなく、対象が川に流されればすぐに見失ってしまうだろう。

 そこでゼミリオが表示を変更して新たに表示された赤色の光点は、対象から発せられる魔力を感知して表示している。今回の発信源は、セリスの着ている火龍の首飾り(ガルフィネアス)近衛騎士団の制服に付けられている、騎士団を象徴するエンブレムの裏地に砕けた龍玉の破片が縫い付けられており、それが発する魔力を感知しているものだ。

 たとえ小さく薄い破片であっても龍玉の発する魔力はとても強く、このバーンアレス島程度の広さであれば何処にいても感知することができる。その感知精度によって、通常の人間に比べれば遥かに高い魔力を持つクリシュが島に留まっていることも把握されていた。

 

 ある程度の距離まで近づかなければ感知できない動体センサーだけでなく、身に着けている服に龍玉の欠片をしのばされていたことから分かるように、ゼミリオはセリスを端から逃がすつもりなどなく、仮に動体センサーで見つけられなくても、この魔力感知式のレーダーを使って絶対に見つける算段だった。

 つまりは出来レースだったわけである。


 赤点が今までとは比べ物にならない速度で移動する様子を見ながら、ゼミリオは苛立たしげに眉を顰めながら操縦桿を握り締める。


「死ぬなよ――俺が殺すまではな」


 ゼミリオが自分本位な感情を呟くと、脚部にある推進装置が働きアレスは跳躍態勢を取った。



                ◇◆◇◆◇◆◇



 月が照らし出す巨大な山の陰影が広大な密林に覆い被さり、夜鳥の鳴き声が聞こえて虫の声が静かに耳を打つような夜だった。


 静かな夜の闇が深まる時間。

 それはクロウシスたちがアレス城に対する偵察を行うための拠点作りをしている時に起きた。  


 アレス城に最も近い休火山であると同時に、この島で最大規模を誇る『火龍の神山』とされるアウレイス山に程近い密林で、肩にトリヴァを乗せたクロウシスが地形魔法で周囲を野営に適した更地に変え、ミリアンがトリヴァを肩に乗せるクロウシスに羨望の眼差しを向けながら丘の上から見張りをして、ユティが近くの川に水を汲みにいっていた。

 アレス城ともはや目と鼻の先という位置に迫り、見張り台に立つミリアンには朧気ながらアレス城の灯す明かりが微かに見えていた。


 そんな中で最初に異変に気づいたのは、当然のことながらクロウシスだった。

 クロウシスの知覚神経は現在普通の人間よりはかなり高性能なものだが、ドラゴンのそれに比べればかなり鈍感と言わざる得ない。平時でも常に働かせている魔力探知にしても、ある程度距離が離れた位置にいる龍騎兵(ドラグーン)に対しては、その龍騎兵(ドラグーン)が戦闘態勢――動力である龍玉がある程度の力を発動させていないと感知できない。

 

 最初に感じたのは僅かな震動で、それと共に龍騎兵(ドラグーン)の発する魔力の波長をクロウシスの感覚が捉えた。

 そして丘に立っていたミリアンも異変に気づき、クロウシスに向かって声を張る。


「クロウシス殿っ! アレス城南東方向の森で砲火と思われる爆発がっ! それも連続して行われているようです!」


 火山帯特有の地面が隆起した地形が広がるバーンアレス島は、場所によっては大きな音がするとそれは広く反響し周囲に響き渡る。震動と共に比較的軽い爆音が反響して、クロウシスとミリアンの耳にも届いていた。


「ミリアン=カーター、ユティ=コルベールと合流する」


「はっ!」


 初対面した頃からは考えられないほど従順に、まるで上官を相手にするかのようなきびきびとした応対でクロウシスの言葉に従い、ミリアンは丘の上から滑り降りて戦斧槍(ハルバード)を手に密林へと駆けるクロウシスの後を追っていく。


「きゃぁぁぁぁっ!」


 ミリアンが森へと足を踏み入れると、周囲にユティの悲鳴が響き渡った。

 悲鳴を耳にした瞬間、クロウシスは一気に足を速めて後ろから付いて来ていたミリアンの視界から瞬く間に消え去る。

 呆気に取られるミリアンを後方に置き去りにしたクロウシスは、木々の間をまるで道を熟知した獣のような速さで駆け抜けていく。水源の位置は、拠点の位置を決める際に三人で確認していたので迷うことなく密林を駆け抜けた。

 全力で駆け出してから一分と掛からない内に、クロウシスの耳に川の流れる轟々とした音が聞こえてきた。


 この島の川は大きく他の川とは違う特徴を持っている。

 通常『河川』というものは、始まりは山から湧き出し、その傾斜に沿って上流から下流へと流れてゆき、平坦な場所でも上流からの『流れ』によって進み、最終的に海へと流れ込む。それが河川としての定義に従ったあるべき姿といっていいだろう。だが、ここバーンアレス島の川はその定義に当てはまらない。

 バーンアレス島を流れる主要な河川は、海から山に(・・・・・)向かって流れている。つまり自然な流れとは違い、本来あるべき自然な流れが逆流しているのだ。

 しかし、この現象は決して自然の神秘などではなく、人為的に作り出された現象だった。


 十年前にこの島の主である英霊精龍(カーディナルドラゴン)――焦熱の火山バーンアレスを討伐する際に、かの火龍神の力を弱めるために宮廷魔道師を総動員して、強力な魔法結界を構築して島を覆い、島に流れる全ての河川を逆流させて洪水を起こし、火山と地熱を冷却して火龍の力を奪ったとされている。

 激戦の結果、その結界の大部分は破壊されたが、今でもその名残が不完全な形でこの島に残っており、ユティが水を汲みに行った川もいまだに逆流している川で、汲んで来た水をクロウシスが清浄化魔法で真水にする段取りだった。


 不自然な自然である下流から上流へと流れる川へとクロウシスが到達すると、その目に映ったのは幅二十メートルほどの川から少し離れた川原にいるずぶ濡れのユティと、もう一人仰向けに寝かされた女性だった。

 状況からして流されてきた女性をユティが助けたという状況なのだろうとクロウシスは判断し、敵襲を受けたわけではなかったことに安堵する。だが、懸念すべき事項が近づいて(・・・・)きているのを感知していたクロウシスは、ユティの側へと駆け寄った。


 顔面を蒼白にしたユティは、目の前に寝かせている女性――よく見ればユティたちと同じ火龍の首飾り(ガルフィネアス)近衛騎士団の制服を着ており、濡れた栗色の長い髪が顔に張り付き、体はかなり痩せて顔色は蒼白だった。それは海水である逆流川を流れてきたからではなく、その近衛兵の腹部には自身の腕と同じくらいの太さを持った木片が突き刺さっていた。

 衰弱具合からして致命傷といっていい傷を負った近衛兵の顔に、クロウシスは何故か見覚えがある気がして眉を顰めると、ユティが震えながら白く痩せた近衛兵の手を握る。


「クロウシス様……彼女がセリスです。セリス=ロルです」


「――っ!?」


 一瞬その名が誰を指し、そしてそれが何を意味するのかをクロウシスは分からなかった。いや、正確には名を聞いた瞬間に全てを理解出来ていた――理解出来てしまったがゆえに、あの少女の笑顔と悲痛な表情が脳裏を過ぎり、その事実に対して『受け入れ難い』と判断して思考が一瞬混線した。


「この者がティリス=ロルの姉……セリス=ロルなのか」


「……はい」


 青白い表情は苦悶で僅かに歪み、呼吸はか細く出血も止まらない。

 弱った身体に致命傷といっていい深手を負い、その上に冷たい川に落ちて流され、残っていた体力を根こそぎ奪われている。

 誰の目から見てもセリスには死相が浮かんでおり、その首に死神の鎌が食い込んでいるのは明白だった。


「ユティっ! 一体なにが――セリスっ!?」


 遅れて川原に到着したミリアンが荒い息を吐きながらユティの前に横たわるセリスの姿を見ると、目を見開いて声を上げた。

 そしてユティとは逆側に座り込み、傷の状態を確認して脇腹に深々と突き刺さった木片に手をかけると、それをクロウシスが制止した。


「抜くな。抜けば出血が――」


「しかしっこのままにしておくことなどっ!」


 深々と刺さっている木片がどの程度の長さを持っているのかは分からないが、内蔵に達していることは確実だった。そして今これを引き抜けば大量出血を起こし、セリスは瞬く間に死んでしまうだろう。

 だが、それでも体に木片が刺さり衰弱によって体の感覚もあやふやな意識の中で、唯一感じている感覚が痛覚による痛みと苦しみだけだという事実が、ミリアンには不憫でならず何かしなければという思いに駆られていた。


「とにかく傷口の確認と止血だけでも――」


 そう言ってセリスの着ている騎士制服の腹部を裂いたところで、ミリアンは動きを止めて目を見開いた。ユティも震える手で口元を覆い、クロウシスは目を僅かに細めた。

 ミリアンが服を破いたことによって露わになったセリスの白く痩せた腹部には、鞭による幾重もの裂傷痕と、高温の鉄を押し当てられた焼け爛れた火傷の痕が――腹部どころか全身のいたるところにあった。

 服を裂いて止まっていた震える手で服を閉じるように合わせて、ミリアンは自分の手を震わせる怒りと悲しみの混在した狂おしいほどの憤怒と、セリスのように捕まってしまった仲間たちがこの二年間どのような扱いを受けて過してきたのかを知り、堪えようとしても目尻に浮かぶ涙が止め処なく流れ始めてしまう。

 そんなミリアンの様子に、同じく目尻に涙を浮べたユティが肩に優しく手を置いた。

 

 その時――


「ぅっ……ティ、リス」


 瞑っていた目を僅かに開いて、セリスは弱々しい声音で妹の名を呼んた。その声にミリアンとユティは驚きながらも、すぐにセリスに向かって声を掛ける。


「セリスっ私だっ! ミリアンだっ! 分かるか!?」


「セリス! ユティ=コルベールですっ!」


 二人の呼びかけに、セリスは僅かに目を開けて震える手を宙へと伸ばす。


「ミリアンにユティ……? ティリ……スは?」


「安心しろ、ティリスも姫様たちも無事だ」


「あなたたちのお陰で、反乱時にアレス城から脱出した仲間も全員無事です」


 それを聞いたセリスは、微かに笑みを浮かべた。


「ティ……スも――め様たちも、無事。良かった……」


 その言葉にミリアンは俯き、ユティはセリスの手を優しく撫でながら涙を流す。そんな三人の様子を見ながら、クロウシスは懐から小さなペンダントを取り出して、それを見つめる。

 そのペンダントはクロウシスたちがバーン砦から一足先に出発した時に、後ろから追ってきたティリスがクロウシスに渡した物だった。

 クロウシスはペンダントを見つめながら、これを渡された時にことを思い出す。




「や、やっぱり私も連れて行って下さいっ! おねちゃ――姉さんたちを助けに行くのなら、私も一緒にっ!」


 バーン砦から北へ向かって歩き出したクロウシスたちを追ってきたティリスは、突発的な行動だったらしく背嚢などは背負ってはおらず息を切らせていた。


「ティリス、姫様の許可も頂かずに何を言っているんだ。それにお前にもしものことがあったら、私はセリスに会わせる顔がないじゃないか」


 ミリアンがティリスの事情を知りながらも、生真面目な性格ゆえにティリスを諭す。ユティも真っ直ぐなティリスの心根を愛しく思いながらも、彼女の肩に手を置いて首を横に振る。


「ティリス。私たちは姫様たちが安全に後を追って来て下さる様に、速やかに移動を行ってアレス城周辺部に活動の拠点を設営するのが目的なの。危険な上に、クロウシス様の移動について行くことが出来る者として、私たち二人が選出されたのよ。セリスたちのことを一刻も早く助け出してあげたいと思う気持ちは、私たちも同じだから……ね?」


 ユティに優しく諭されて両手をキュっと握り締めたティリスがクロウシスに目を向けると、クロウシスはゆっくりと力強く頷いた。それを見たティリスは、胸元からペンダントを取り出して首から紐を抜くと、それをクロウシスに差し出した。


「これはお姉ちゃんからお守りにって貰ったものです……クロウシス様、どうかお持ちください。そしてお姉ちゃんを助けて下さい……お願いします。ミリアンさん、ユティさんもどうかお願いします」


 そう言ってティリスは頭を深々と下げた。




 手の中にある二人の天使が寄り添う姿が象られたペンダントを見つめて、クロウシスは自分の愚かさを呪いながらも、少女の想いの込められたペンダントをあるべき場所へと返すこととする。


「セリス=ロル」


 クロウシスの声を聴いた瞬間、セリスの体がビクっと震えた。それはクロウシス自身やその声音に問題があったわけではない。耳にした『男の声』に対して、この二年間で心に刻まれた男への恐怖と嫌悪が反射的に現れたものだった。


「お前の妹――ティリス=ロルから預かっているものがある」


 恐怖に震えていたセリスだが、ティリスの名を聞いてその震えが和らぐ。そして、倒れたまま首だけを声のしたクロウシスが立っている方に向けると、ゆっくりと手を差し出す。ユティは手を握った時に気づいていたが、ミリアンはそこで初めてセリスの手首の腱が切られていることに気がつき、怒りに歯を食い縛って両の拳を地面に叩きつけて涙を流していた。

 差し出された傷だらけの手に、そっとペンダントが乗せるとセリスは自由に動かない指でそれを触る。その仕草からセリスの目がもう見えていないことを悟り、ミリアンとユティはさらに悲しみを深くさせた。

 そのペンダントが紛れもなく自分がティリスに贈ったものであることを確認したセリスは、妹が自分を想い助けるために信頼できる人間に願いを込めて託してくれたお守りを、力を込めても動こうとしない指で必死に握ろうとする。

 その手に触れることに躊躇しながらも、クロウシスがセリスの指を包むようにして握らせると、セリスは穏やかな表情を浮べた。


「――ありがと……ござ、います。最期、出会えた……のが、貴方の――な男性(ひと)で、よか……た」


 その掠れるような声音にミリアンが顔を上げて首を振る。


「何を言ってるんだ! 生きてティリスの元に帰るんだろうっ!」


「ティリ…ス……ごめ――い。で、も――ティリ、スは――だか、ら……ね」


「セリス……? おいセリスっ!? ――どうして、どうしてだ……っ!」


 途切れ途切れの言葉で最期の言葉を言い置いて、セリス=ロルは妹の想いと共に渡されたペンダントを握ったまま息を引き取った。

 その隣でミリアンがセリスの手を抱いて号泣した。

 ミリアンとセリスは同時期に火龍の首飾り(ガルフィネアス)近衛騎士団に入団して、完全努力型のミリアンと天才努力型のセリスは良き好敵手(ライバル)として仕事に務めていた。そして同期で年下でありながらも、セリスはミリアンよりも早く選定騎士に選ばれ、その名に恥じぬ振る舞いと仕事っぷりを見せた。そんなセリスに悔しい思いをしながらも、堅物生真面目なミリアンと素直で真面目なセリスは妙な息の良さを見せて周囲を驚かせていたものだった。


 親友の死に心を痛めるミリアンの姿を見ながら、クロウシスは戦斧槍(ハルバード)を持つ手に力を込めて様々な思いを巡らせていた。


 あの時、ティリスに話を聞いていた時点でクロウシスが単身で助けに行けば、セリスは死なずに済んだだろう。いや、クリシュたち人間だけに任せるようなことをせずに、本来の姿に戻り黒龍クロウシスケルビウスとしての力だけでアレス城を奪還してしまっていれば、こんな結果は招かなかった。いやいや――。


 もしも――たら――れば。


 そんな話をいくら頭の中でしても無意味だということなど、数千年生きてきた中でも初期の初期に意味のないことだと気づき、それ以来考えたことなどなかった。

 それにも関わらず、この少女の非業の死に対してすんなりと事実を受け入れることが出来ないでいる。

 それは人間の姿を取っているが故の、精神の変質なのだろうか――?


 ――違う、そんなことはどうでもいい。

 

 クロウシスが自分の手を見つめていると、クロウシスの懐に隠れていたトリヴァが服の間から顔を出して周囲をキョロキョロと警戒し、そしてクロウシスを見上げる。シュルシュルと服から抜け出して、クロウシスの首を何度か周回してから顎に顔を寄せてスリスリと顔を擦りつけると、クロウシスが優しい力加減でその頭を撫でてやるとゴロゴロと喉を鳴らす。だが、クロウシスの黄金の瞳を自身の白銀の瞳で見上げていたトリヴァは、クロウシスの瞳が横たわっているセリスを映しているのに気づき、トリヴァもまた白銀の瞳でセリスを見つめた。

 何度かセリスとクロウシスの顔を視線で往復すると、またジッとクロウシスの顔を見つめていたトリヴァの体が淡く光り始める。


 異変が起こったのは、その直後だった。


 セリスの遺体が淡い銀光を放ち始め、その光は急激に輝きを増して――ある一転へと収束する。

 

「な、なに……?」


「トリヴァリアス?」


 クロウシスの首に巻きついていた白龍の幼龍が体から白い光を放ち、瞳からは神々しき白銀の輝きが音もなく光り続け、その視線の先には輝くセリスの遺体と――その収束点に定められていた。

 やがてトリヴァとセリスの放つ光は収まり、セリスが放っていた光が収束した物だけが淡い光を放っている。それは――あのペンダントだった。

 クロウシスがセリスの手から淡い光を放つペンダントをそっと受け取り、手の中で優しい光を放っているペンダントを見つめると、横合いからスルスルとトリヴァがクロウシスの腕に巻きつきながら移動してきて、そのペンダントに鼻先をつん(・・)とつけると、そのペンダントに起こった現象の正体がクロウシスに伝わってきた。


「そうか……すまないな、トリヴァリアス」


 トリヴァの頭を撫でてからぎゅっとペンダントを握ると、セリスの遺体を見つめて一度目を閉じる。

 そして次に開いたとき、その黄金の瞳には意思と力が漲っていた。


 ペンダントをトリヴァリスの首にかけて、手をすっと伸ばしミリアンの額に人指し指と中指を当てると、困惑した表情を浮べたミリアンが一瞬の内に気絶して、その場で横に倒れる。


「ミリアンっ!? クロウシス様、なにを――」


 突然気絶したミリアンとそれをやったクロウシスに、さすがのユティも動揺の声を上げた。だが、クロウシスはそんなユティの声を無視して、手にしていた戦斧槍(ハルバード)の石突きを地面に叩きつけ、石突きから数十センチにかけて柄が地面に埋もれた。

 地面に突き刺さった戦斧槍(ハルバード)に両手をかざすと、装飾部の赤い宝石が輝き始め、その輝きから生まれた光が戦斧槍(ハルバード)の装飾を赤い光の線となって複雑な軌道を描きながら走り抜け、柄から地面へと到達すると、地面に座るユティと倒れているミリアン、そしてセリスの遺体を覆うほどの魔法陣を形成した。

 当惑するユティを他所に、クロウシスは身に纏っていた黒いローブを脱ぎ、それを横たわるセリスに被せた。そして立ち上がる時に不意に動きを止めて、ローブの中で横たわるセリスの騎士制服から紋章を剥ぎ取り、さらに剣帯から剣を外して手に持った。そしてユティを真っ直ぐに見つめて口を開く。


「あと数分でここに敵が来る。ソレ(・・)はセリス=ロルをこのような目に遭わせた人間だ。恐らくソレを前にして、ミリアン=カーターは理性を保てずに襲い掛かるだろう。だが、ソレを殺すのは我の役目だ」


 その説明でユティは、クロウシスがミリアンの為を思って気絶させたことを理解し、自分たちを囲うように張られた魔法陣が、自分たちを守るためのモノだということにもすぐに思い至った。

 理解の色を示したユティの目を見て、クロウシスは頷いて言葉を続ける。


「我はここから離れるが、この陣内にいれば絶対に安全だ。そして敵もすぐに我を追ってここを離れる。その後は、お前はミリアン=カーターが意識を取り戻し次第、セリス=ロルをこの陣内に残しここを離れてクリシュたちと合流せよ」


 そこまで言うと、クロウシスはユティに背を向けてアウレイス山の方角に歩き始めた。その背をユティが何も言うことができずに見送っていると、不意にクロウシスが立ち止まり、首を巡らせて振り向いた。


「――ティリス=ロルにはセリス=ロルのことは何も言うな。我の口から伝える」


「――はい」


 ユティの返事に頷くと、クロウシスは一気に足を速めて密林の奥へと消えていった。



                ◇◆◇◆◇◆◇



 夜が深まるバーンアレス島の密林の中を、一機の龍騎兵(ドラグーン)が跳ねる。密林の切れ目から着地点の安全具合を視認して、脚部の推進装置で制動を掛けながら、搭乗者のゼミリオはモニターに表示されたマップ上に再び出現した反応を追って、密林内を移動していた。

 この島は英霊精龍(カーディナルドラゴン)の聖地ということもあり、島の所々に地下水脈や洞窟などが点在している。そういった場所には通常よりも強い魔力がいまだに残っており、今回のような発信機代わりの龍玉がそこへ入るとレーダーで感知できなくなることがある。恐らくはセリスの落ちた川が何処かしらの洞窟内を流れて、再び地上へと出たのだろう。

 反応が消えてからゼミリオは苛立ちを募らせていたが、再び反応が出たことによって何とか気分を取り直し、今はセリスが生きているかどうかを考えながら操縦桿を握っていた。


(死んでいれば死姦でも構わないが、水死体ではなぁ……)


 という下劣極まりないことを考えながら、反応が示す地点に近づいていくと、赤色の光点が再び消えた。今まで動かなかったことから、浅い川原にでも流れ着いたか、川の端で木の枝にでも引っかかって止まっているものだと思っていたゼミリオは、その不審な反応に眉を顰めながらも反応が消えた地点へと急いだ。


 跳躍と共に自身も僅かに操縦席に沈み込む感覚を覚え、跳躍の頂点部から落下にかけて今度は僅かに身体が浮き上がる感覚と共に地面に着地して感じる振動を腹に感じ、目的の地点に向けて再度跳躍をする。

 同じ手順と同じ感覚を感じながら、落下中にモニターに映し出される光景を見てゼミリオは意外な顔は見せずに口元を僅かに吊り上げた。


 石の多い不安定な地面へと着地する今までよりも大きな振動を感じながら、目の前の光景を映し出すモニターを前にして、ゼミリオはニヤニヤといやらしい笑みを浮かべた。

 何の変哲もない(・・・・・・・)川原には、黒い布を掛けられたちょうど人の大きさをした盛り上がりがあり、その隣には火龍の首飾り(ガルフィネアス)近衛騎士団の制服をきた栗毛をショートカットにした気の強そうな女が倒れ、その側に同様の格好をしたウェーブのかかったブルネットを首の高さで纏めて結び、肩から前へと流した意志の強そうな女が、突然現れたゼミリオが乗るアレスを睨みつけていた。


 周囲を見ても他に人影はなく、恐らく斥候として先行した二人組なのだろうと考え、これは美味しい展開になったものだとゼミリオは唇をベロリと舐めて笑った。そして自分の声を外に聞こえるようにする操作をして、外に居る新たな獲物に向かって話しかける。


「そいつ死んじまったのか。使えないヤツだな……まぁでも、代わりに獲物が増えてるじゃねーか。ツイてるなぁ俺ってやつはよぉ」


「獲物……貴方は誰ですか?」


 セリスが受けた仕打ちは見た上に、それを追ってきた龍騎兵(ドラグーン)を前にしても怯えた態度を見せず毅然とした態度を取る近衛兵に対して、ゼミリオはセリスと同じく高潔な意思を持った人間であることを悟り、本当に幸運に恵まれたと思った。そして絶望を与えるために、自分の名を名乗る。


「俺はゼミリオ、ゼミリオ=カウンディだ。今日からお前の新しい主人になる名だ、よーく覚えろよ?」


「ゼミリオ=カウンディ……貴方がセリスたちを……」


 彼女たちには、忘れもしない名だろう。

 三年前に帝都からやってきた二人組の一人で、城主クリシュの留守に反乱を起こしてアレス城を乗っ取った張本人の一人なのだから。


(そして――これから二度と忘れられない名にしてやる)


 そう考えて、内に湧き上がる欲望を口にする。


「命が惜しければ、そこで服を脱いでみせろ。言っておくが、俺が言ってるのはお前の命だけではないぞ。そこに倒れているお仲間の命も含まれている」


 ゼミリオの経験から言って、この手の性格の人間は自分以外の人間を――家族や仲間だけでなく、たとえ自分とは無関係の人間であっても、それらを引き合いにすると呆気なく折れる気質を持っている。

 ゼミリオにはまったくもって理解できない感性なのだが、それを逆手に取ることで強固で高潔な意志を持つ人間を無様に這いつくばらせて、いたぶることが出来ることことに関しては嬉しい限りだった。

 嗜虐的な笑みを浮かべて近衛兵の様子を見ていたが、すぐにその顔は曇ることになる。


「お断りします。貴方の様な人の皮を被った醜いケダモノに、私たちが屈することなどありえません。やるならばやりなさい、私も私の仲間も覚悟は出来ています」


 その予想外の言葉に少し呆気に取られたが、別にここでそういった反応を受けたことも初めてというわけではない。口ではそう言っても、いざ本当に自分や仲間が傷つく光景を目にすれば嫌でも反応は変わる。


「はっ! いつまでそんな綺麗事を言っていられるか楽しみだぜ。なにせ――」


 アレスの顔を僅かに巡らせて、黒い布に覆われたセリスの死体を顎でしゃくるように指す。


「――その女もいつも大層な綺麗事で俺に講釈垂れていたが、最後はいつも俺を求めていたぜ? 本当にお前らは滑稽な連中だよ、どんなご大層な志を掲げても最後は暴力と快楽に屈するんだからなっ!」


 ゼミリオには勝算しかなかった。

 ここでいくら反抗されても、とりあえず龍騎兵(ドラグーン)で脅し怯んだところをもう一度恫喝する。それでも折れなければアレスから出て、ゼミリオ自らの力で屈服させてこの場で犯せばいいだけのことだ。

 そう考えて歩を進ませると、アレスの足が川原に転がる丸い石を砕きながらゼミリオを睨みつける近衛兵に迫る。それでもなお、その近衛兵の表情に焦りや怯えは浮かぶことはなく、まるで自分達を守る確固たる信じるべき何かがあるとでもいうような顔をしていた。


「気にいらねぇーぜ……その顔」


 ゼミリオの駆るアレスの足が、あと一歩で近衛兵たちの誰かを踏み潰せる位置まで来ても、その近衛兵の表情は変わることはなかった。それを見たゼミリオは、自分の中に嗜虐的な暴力的願望が沸々と湧き出すのを感じて、その衝動のままに意識を失っているもう一人の近衛兵をセリスの遺体ごと踏み潰そうと足を上げると、近衛兵が二人を守るように覆い被さる。それを見て更に苛立ちを深めたゼミリオは、後先を考えずそのまま思いっきり足を下ろした。


 三人の柔らかな肢体を踏み潰す感触を感じられると、狂った期待に顔をほころばせたゼミリオだったが、その笑顔が今度こそ完全に硬直した。

 足を踏み下ろしたアレスの足は地面に接する前に、赤い半球状の結界に阻まれて止まった。そしてその半球結界は赤い波動を波立たせ、アレスの足を不可視の力で弾いて吹き飛ばした。その力に腕がなく上体のバランス制御が難しいアレスはたたらを踏んで危うく転倒しそうになりながら、ゼミリオが予想外の展開に歯軋りしながら正面を向くと、その目が見開かれる。


 そこは確かに何の変哲もない川原だった。だが、いつの間にか三人のいる地面に複雑な赤い魔法陣が浮かび上がり、その中心には一本の巨大な戦斧槍(ハルバード)が地面にそそり立ち、それぞれの刃部分を繋ぐ装飾部に埋め込まれた赤い宝石が禍々しいほどの赤い光を放って、まるで血に飢えた怪物の眼のようにゼミリオを睨んでいた。


 その戦斧槍(ハルバード)には見覚えがあった。

 忘れもしない、忘れるわけがない。

 数日前に味わった、今まで生きてきた中で最も屈辱的な出来事。

 それをゼミリオにもたらした人物が持っていた得物、それがあの戦斧槍(ハルバード)だった。

 瞬時に緊張感がドッと高まって周囲を油断なく見回す。だが、あの闇に紛れるのに都合の良さそうな黒い服を見つけることは出来ず、慌てて作動させた動体センサーにも反応がなかったために、その他のセンサーに切り替えていくと、その中の一つに不意に反応があった。

 捉えたセンサーは先ほどセレスを使うのに使っていた魔力感知センサー。

 反応は真後ろに聳えるアウレイス山へと続く丘の上を示していた。


 ――そしてそれを感じた。


「――ッ!?」


 見えていないはずなのに、あの黄金の瞳があの時とはまるで違う飢えた獣のような眼光で、自分を睨んでいるという感覚と錯覚に襲われて背筋を凍りつかせたゼミリオは、脂汗を掻きながらゆっくりとアレスを振り向かせた。そしてその姿を見つける。


「……」


 見上げるほど高い切り立った丘の上で月を背に――それは立っていた。

 月明かりを浴びているはずなのに、その身体はまるで影のようにシルエットしか浮かんでおらず、表情はおろか顔の全貌すらまったく分からなかった。ただ――その中で一点だけ見えている部分があった。

 それは――眼だ。


 黒い人影の中で黄金の輝きを放つ瞳が、禍々しいまでの凶暴な光を放ってゼミリオを見下ろしていた。

 自分を見下す存在に、あの時の怒りが激しく燃え上がったゼミリオは、すぐさま近衛兵たちの方へを振り向くと発射機構のトリガーを引いて、無茶苦茶に炎球を撃ちまくり三人のいた空間を火の海にした。その光景に引きつった笑みを浮かべて、再度後ろを振り向こうとした時、視界の端で起きた異変に気づいて身体を止める。

 周囲を火の海にしている炎が急速に消えてゆく、まるで何かに燃える力を奪われているかのように急速に鎮火されていった。その原因は、あの戦斧槍(ハルバード)だった。赤い宝石が燃えるように輝き、周囲の炎を凄まじい速度で吸収していた。勿論三人も無事で、先ほどアレスによる踏みつけを防いだ赤い半球状の障壁が三人を火球からも、その後の炎から完全に守っていた。


 必殺の威力を誇る火球が何の成果も上げられなかったことに呆然としながらも、錆び付いた機械のような動きで首を巡らせて丘の上へと顔を巡らせると、人影は変わらずそこにいた。

 操縦桿を握る手を離したり、握ったりしながらその姿を見上げていたゼミリオの前で、その人影は右腕を前に突き出すと、そこには赤い光を放つ龍玉の欠片があった。

 それがセリスの服に細工をして取り付けていたモノだとゼミリオが思い至ると、まるでそれを察したかのようタイミングで手にそれを握り込むと、何の躊躇もなく握り潰した。

 本来龍玉は破片であっても、帝国の粋を結集した機械でようやく変形や加工が可能なものであって、人間の握力では曲げることすら出来ず、ましてや破壊することなど出来るはずがない。


 砕いた龍玉の欠片を下へと反した手の中から、まるで燃える星の砂のように赤い光の帯となって宙を流れて落ちていく。そして、黄金の瞳がゼミリオに視線を向けると、ゼミリオの身体がビクっと震え目を大きく見開いて操縦桿を握る手がブルブルと震え出す。

 人影は丘の向こう側へと消え、後に残ったゼミリオは操縦桿に震える両手を叩きつけた。


「クソったれがぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! また俺を見下しやがったなっ……許さねぇぞ。あのクソ野郎っ絶対にぶっ殺してやる!!」


 怒りに震える身体と真っ赤にした顔に青筋を浮べて、狂おしいほどの怒りを孕んだ目で人影が消えた丘の向こうへと視線を投げると、脚部の推進機構に命令を飛ばして一気に跳躍する。

 この時、ゼミリオの頭には近衛兵――ユティたちのことなど一切なくなっており、あのバーン要塞での敗北時に感じたゼミリオにとって耐え難く許しがたい、侮蔑と嘲笑を含んだ圧倒的な上からの目線に対して理性が働かなくなるほどに怒り狂っていた。


 クロウシスを追って我を忘れて行ってしまったゼミリオを見送って、ユティは安堵の息をつきながらも二人が向かい消えていったアウレイス山の巨大な黒い陰影を見上げて、妙な胸騒ぎを覚えながらもクロウシスの指示に従って、セリスの手を握って祈りを捧げた後、意識の無いミリアンを起こすために肩を揺さぶった。



後書きを活動報告にて書いております。

よろしければ、本文読後にお読みください。


ご意見・ご感想はお気軽にお寄せください。

とても励みになります。

ありがとうございました。

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