表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/31

第一章4-現在を生きるということ-

副題は ―現在いまを生きるということ― です。


前書きと後書きを活動報告にて書いております。

よろしければ、本文読後にお読みください。

 どういう因果かは分からないが、人間の体を得てからというもの色々と新たな感動を得ることは多かった。たとえば、その中の一つが睡眠だ。

 ドラゴン一筋でやっていた頃には、眠るという行為は長期的な休眠――冬眠ではないが、限りなくそれに近い行為だった。別に変温動物ではないので、寒さに耐えられずに越冬するためとかではなく。もっと単純に起きている事に飽きたら、『ちょっと数百年寝てみれば、起きたら世の中少しは物事動いてて面白くなってるんじゃないか?』という、見方によっては退廃的というか、かなり適当な理由で数百年間平気で寝たりするのがドラゴンという生き物だった。


 その点、人間の眠りは頻繁かつ規則正しい。夜になれば、守衛や夜番などの夜間に仕事を持つもの以外は大体の人間が寝ている。

 クロウシスも人間の体を持っているのだが、人間は人間でも、人間として異常なスペックを持っているらしく、正直数日間とか数週間くらいは寝なくても活動に問題はないと感じていた。肉体的に寝ることを必要としないならば、その時間を起きて過し能動的な行為に励むほうが合理的だとクロウシスは感じていた。だが、その認識はドラゴン――としての自分が、人間という種族を侮っていた何よりの証拠となってしまう。

 

 クリシュたちとの出会いの後、そのまま使っていいと言われた部屋で手持ち無沙汰となり、首に巻きついて寝ている白龍をベッドの上に適当に投げ捨てて、疲労が抜けない体をシーツの上に横たえると今まで感じたことの無い倦怠感と睡魔が襲ってきた。

 あくまで体感だが、魔界で夢魔と戦ったときに受けた催眠魔法よりもよほど強烈な睡魔だった気がする、と思うほどに抗いがたい謎の力だった。そして陽の匂いがする布団の中で、クロウシスは『睡眠』というものの概念が根底から覆るほどの至福の時間を過した。シャプールの町では結局酒場で寝ることなく過していたから、その感動もひとしおだった。


 そして朝方、まどろみの中で顔を何かが這い回るような感覚に苛まれ、おもむろに手に顔をやり妙にスベスベした手触りのモノを掴んで持ち上げ、ゆっくりと目を開けると――そこには円らな銀色の瞳でクロウシスの黄金の瞳を覗き込み、クロウシスが起きたことに歓喜しているらしく。尻尾を――正確には胴体の後端なのだが、そこを懸命に振りながらクロウシスにすり寄ろうと手の中で暴れる白龍トリヴァリアスアルテミヤことトリヴァがいた。


「何のつもりだ……」


「ピィ?」


 やや迫力を込めた眼力で銀色の瞳を見つめてみるが、トリヴァは小首を傾げつつ掴まれている腕にスリスリを顔をこすり付けて来た。昨夜に続き力が抜けてしまい、手を離すと白龍はクロウシスの首に巻きつき、頬に顔をスリスリとした後に腕へと巻きつき、指をハムハムと甘噛みした。


「白龍に懐かれるなど……始祖アルザードヴァレンシアが聞いたら間違いなく滅ぼされるぞ――我がな……」


 睡眠の大いなる魔力を霧散させた白龍の行いに、多少なりとも言いたいこともあるのだが、きっと言っても通じないだろうし、元より怠惰なる行為に耽ることは精神を惰弱にするという考えを持つクロウシスは早々にベッドから抜け出し、体を軽く捻り関節をゴキゴキと鳴らす。

 カーテンの隙間から窓の外を見ると、朝靄がたち込め朝日を遮断しており日の高さもイマイチ判別がつかない状態だった。

 指に噛み付いたトリヴァをそのままに指でグルグルと回転させていると、不意に侍女が部屋へとやってきた。その拍子にクロウシスの指を咥えたままグルグル回転していたトリヴァが、すぽっと抜けて壁に激突した。


「……」


「……」


 何とも気まずい空気の中、壁に激突して床に落っこちたトリヴァが急いでクロウシスの元へと戻ってくる。何故かその眼は輝いており、明らかに『なに今の!? もう一回やって! ねぇねぇやってやって!』というような意味合いで期待に満ちており、クロウシスの手へとよじ登ってきた。それを慌てて止めようとする姿に、侍女は辛抱たまらないという様子で笑いを堪えながら――水浴びと朝食の用意が出来ている、という旨をクロウシスに伝えると始終クスクスと笑いながら部屋を出て行った。


「……」


 部屋にはかなり疲弊した黒龍と、凄く元気な白龍が残されるのだった。


 

                  ◇◆◇◆◇◆◇



 サーディアス帝国領東海に浮かぶバーンアレス島、その領主にして城を追われし為政者であるクリシュ=リアスカ=イニス=サーディアスの朝は早い。

 日が昇るよりも早くに起床し、水浴びをしてから身支度を侍女と共に整え、朝食までの時間で夜間勤務の報告書と夜間に到着した物資の目録などに目を通す。

 朝餉の時間となり、一人で朝食をとり終えると午前の執務時間で作業現場の視察に赴く。作業は主にずっと行われている砦の改修工事、そして港の防衛機構の増強作業。他にも日替わりで各部署に赴き慰労を重ねている。

 どの現場に行っても基本的には彼女の私兵にあたる近衛隊が主導して作業を行い、そこへ砦町の住民が手伝いにきてくれているという状況だ。近衛隊の面々も全員が女性でありながらも、元々が侍女上がりという特殊な経歴が功を奏しているのか、大体の雑務庶務を問題なくこなしている。


 昼を告げる鐘楼の鐘と共に、執務室で給仕役の侍女は居るがやはり一人で昼食をとり、午後は執務室で報告書や陳情書に目を通して、それそれに承認や部門長会議への見送りなどをクリシュの裁量で判断する。午後の執務は基本的に執務室に篭りっ放しになり、稀に作業場から直接意見を求める者が部屋を訪れる場合に対応する以外は、夜までそのままだ。

 夜の帳が完全に降りた頃に、書類整理の雑務を文官役の近衛兵に引き継ぎ執務室を後にして、自室で夕食をとり湯浴みをしてから就寝する。

 これがこの砦に来て二年間、クリシュが過してきた基本的な日々の過し方だった。



 いつものようにクリシュが自室で朝食をとっていると、部屋に訪問者があった。

 ノックに対して返事をして扉へと視線を向けると、黒ずくめの人物――クロウシスが二人の近衛兵を伴って入室する。その黄金の瞳に見られると、体が少し緊張して思わず姿勢を正してしまう。

 クロウシスの後ろに控える二人の近衛兵が挨拶をして、クリシュもそれに答えてから改めてクロウシスを真っ直ぐに見た。


「先生、おはようございます」


「あぁ、おはようクリシュ」


 名で呼ばれることなど、もう随分久しぶりなので思わずクリシュは笑顔になる。重く威厳のあるその声音は、クリシュを懐かしい気持ちにさせてくれる。

 クロウシスの背後で近衛兵の一人がギリギリと歯噛みしていることに気づき、その理由が今のやり取りにあるのを感じて、即座にクリシュが声を掛ける。


「カーター准騎士。先生には私がお願いして名を呼んで頂いています。いいですね?」


「は、はい! 失礼いたしましたっ姫様!」


 感情を見咎められたエミアン=カーター准騎士が顔を真っ赤にして頭を下げた。その横でユティ=コルベイル准騎士が口元に手をそえてクスクスと笑っている。その様子にクロウシスが肩を竦めていた。


「クリシュ。この二人のことなのだが――」


「はい。砦の案内係と先生の身の回りのお世話をして頂くために、私が選出したお二人です。両名ともとても優秀な方なのですよ? 私の近衛隊の方々は帝都で侍女経験がある方ばかりなので、戦うことにも身の回りのお世話をすることにも卓越しています」


 やんわりとだが、クロウシスが砦内を一人で行動することに対する周囲への影響を抑える為の措置なのだ、という意図を汲み取ってクロウシスは頷いた。


「そういうことであるなら、我に異論はない。気を遣わせるな」


「いいえ、今朝の申し送り時に先生のことは、まだ一応ですが各部門長を通して各所に通達してありますので、どうぞお好きに見て回ってください」


 そう言ってクリシュがクロウシスの後ろに控える二人へと視線を向けると、二人が敬礼する。


「お二人とも、先生がお困りにならないように補佐をお願いしますね?」


「はっ!」


「はい」


 使命感に燃えるカーター准騎士と柔和な表情のコルベイル准騎士の対照的な返事に笑みを浮かべて頷く。するとそこへ、扉をバターン!と開けて闖入者が現れた。

 反射的に剣を構えそうになるカーター准騎士の横を素早く通り抜けた侵入者は、真っ直ぐにクロウシスの腰元にガッチリ組み付いた。


「おじ様おはよぉー! トリヴァーと一緒!?」


 その侵入者――ミリエル=シアスカ=イニス=サーディアスが、天真爛漫な表情でクロウシスの腰に抱きついたまま下から見上げていた。

 その様子に姉として真っ青になりかけるが、自制心をフル活動させて何とか怒りを抑える込む事に成功したのだが――妹の暴走は留まる所を知らなかった。


「トリヴァリアス、妹姫がお呼びだぞ」


 クロウシスの声に反応して、クロウシスの服がモゾモゾと動き襟首から白い頭だけをピョコっと出して、周囲を見渡しミリエルの姿を確認すると小首を傾げた。


「わぁー! そんな所にいたんだっおっはよぉートリヴァ! ねぇねぇそこ居心地いいの?」


 元気なミリエルの声にしばらく頭をゆらゆらっと揺らしていたトリヴァは、質問に答えるかのように一つ頷くとまた服の中へと戻っていく。それを見たミリエルは目を輝かせてクロウシスの服を捲ってそこに自分も入るとばかりに頭を突っ込もうとする。

 その暴挙にクリシュは思わず席を立とうとしたのだが――それよりも早くクロウシスが瞬時に身を引いてミリエルを回避して、服の中からトリヴァを引っこ抜いてミリエルの頭に置いた。そして腰を折り目線をミリエルの高さに持っていき、ミリエルの碧眼をクロウシスの黄金の瞳が真っ直ぐに見つめる。


「ミリエル。一国の王女が軽率な行いをするものではないな。君は頭のいい子だ。ならば、叱責を受けることを自ら行おうとするなど、随分と面倒なやり方とは思わないか?」


 昨日は今まで生きてきた中で向けられたことのない感情に晒されて戸惑いもしたが――このミリエルという少女の境遇と性格を少ない情報から推察すれば、幼い感情と早熟な精神との摩擦ゆえの必要以上の大胆な直接的行為で相手を困らせて気を引こうとすることにも説明がついた。

 キョトンとした驚いていた表情で自分を見上げる少女の頭にそっと手を置く。こういった時に気をつけるべきことは、理詰めにしないことだ――無理矢理に事実を突きつけて認めさせることと、ただ受けいれる用意があることを示すことは、まったくの別の対応なのだから。


「会いたい時はいつでも来るといい。ミリエルならば、我はいつでも会って話もするし、して欲しいことがあれば出来る限り要望に副うようにしよう――よいかな?」


 自分の内面を見透かされたミリエルは羞恥から顔を真っ赤にして、トリヴァを抱きしめたままクロウシスから後ずさる。そして部屋の出口へと駆け出し、部屋を出たところで立ち止まると顔だけで振り返り、真っ赤な顔のまま小さな声で呟いた。


「ありがと……おじ様」


 そこで耐え切れなくなったとばかりに廊下を駆けていった。

 その様子に少しだけ笑みを浮かべたクロウシスを見上げながら、今まで見たことのない妹の素を出した素直な態度を目の当たりにし、クリシュは改めて目の前にいる人物が只者ではないと感じていた。


「先生、妹の非礼を私からもお詫びします。そして、ありがとうございます」


 深々と頭を下げようとするクリシュを、クロウシスは手で制してその肩に手を置くとクリシュを真っ直ぐに立たせて、目を合わせる。その黄金の瞳を正面から見てしまい、クリシュはドキドキと自分の心臓が早鐘のように打つ音を大きく感じながら息を呑んだ。



「クリシュ。昨夜の我との対話で、お前なりに何か得られたものがあったのではないかと、我は思っている。無論、一晩で考えがまとまるとも思っていないが――今の気持ちを聞きたい」


 昨日のやり取りを思い出し、そして自分が強く感じた想いを思い出す。


 ――強くなりたい。


 昨夜感じた熱い想いを、今一度噛み締めるように唇に乗せる。


「強く――強くなりたいです」


 真っ直ぐに黄金の瞳を見つめ返し、今度は動揺することなく――言った。

 その真っ直ぐな想いを受け止めて、クロウシスは鷹揚に頷く。そして、今度はクリシュに対し試練を与えるかのように、大仰な仕草で両手を開く。


「お前の決意と望みは分かった。ならば次は、お前が今一番やらなければいけない事を、己で考えることを課そう。どうするかは、お前次第だ――何をどうするか、決めてみるがいい」


 そう言い終えると、クロウシスは身を翻してクリシュの部屋を退室した。立ち竦むクリシュを心配そうにしながらも、ミリアンとユティも一礼をしてクロウシスの後を追い退室した。

 部屋に残されたクリシュは、クロウシスの言った言葉の真意を吟味しつつ、自分のすべきこと『今一番しなければいけないこと』について考え始める――深く深く考え始める。



                  ◇◆◇◆◇◆◇



 クリシュの部屋を退出したクロウシスは、その足で砦内部を見て回ることにした。

 その後ろをミリアンとユティが追従しているのだが、ミリアンは前を歩くクロウシスに怒り心頭といった様子で睨み、対照的にユティはにこにことした表情でその背中を追っていた。


「クロウシス様、ちょっと姫様方に対して馴れ馴れしいのではないですか? 無礼ですよ、あのように頭や肩を気軽にポンポンとお叩きになって……聞いていますか!?」


 我慢ならないと言った雰囲気で憤慨するミリアンの怒号を背中に受けつつ、クロウシスは砦の二層目へと降りてきた。そこでテラスとなっている場所に侍女の格好をした三人組が何やら困り顔で相談をしている姿が目に入った。二人を伴ったままそこへ近づくと、クロウシスたち三人に気づいた侍女たちが慌てて敬礼をした。


「これはお客様に、ユティ先輩とミリアン先輩。お客様のご案内を?」


「あぁ、姫様たってのご希望でな。まったくこの忙しい時に迷惑なお客人だ」


「ミリアン、あまり無礼な事を言わないの。姫様たちはクロウシス様をとても信頼されているのよ? その信頼に泥を塗るようなことを軽率に言うのは感心しないわ」



 二つ年上の先輩であるユティに諭されて、ミリアンはうっと顔を顰めた。

 クロウシスは特段気にした様子もなく、彼女たちが頭を悩ませている原因となっているものに視線を移した。

 そこには巨大な石柱が半ばで折れて倒れていた。周囲に石柱の細かな破片が落ちていないところを見ると、過去に周辺の片付けだけは済ませて重量が数百キロ超はありそうなこの石柱は、元々はテラス部分の庇を支える役割をしていたようだが、その庇が崩れ落ちてしまい重い石柱だけが残ってしまい、場所が二層ということもあって放置されていたようだ。


「これをどうしたいのだ?」


「え? あ、あの……運び出すのは難しいので、解体して片付けようという事になりました。それで今は解体方法について相談をしていました」


 クロウシスの質問に三人の中で一番若い侍女が答えると、クロウシスはふむっと顎に手をやると少し考えるような仕草をしてから、おもむろに石柱を手にかけた。何をする気だ? と見つめるミリアンたちの前で、クロウシスが石柱を両手で掴むとそれをそのまま持ち上げた。


「うっそぉ……」


「ちょっ……と」


 驚く周囲の人間を他所に、肩に石柱を担いだままクロウシスが侍女たちの方を向くと、三人が思わず後ずさった。


「無傷で持って降りたいならそうするが、解体してもいいのならこの場で砕くが……どうなのだ?」


「あっ! えっと、代わりの柱は既に補強設置済みなので、その柱は解体して頂いて結構でございます!」


 侍女の言葉に頷くと、一度柱を足元へと下ろすして近くに置いてあった柄の細いスレッヂハンマーを手に取るとそれを何の気なしに振り上げて、凄まじい速度で打ち下ろすと石柱の中心付近にメリ込んだハンマーによって石柱が半分に砕けた。


「……」


 全員が驚いたような呆れたような表情をする中で、クロウシスがハンマーを数回打ち下ろすとあっとう言う間に石柱は粉々の残骸に成り果てていた。ハンマーを脇に置いて破片を片付けようと手を伸ばすクロウシスを侍女たちが慌てて止めに入る。


「クロウシス様、お待ち下さい! 後の運び出しと清掃は私たちが致しますので、どうかお任せ下さいっ! お客様であるクロウシス様に何もかもお手伝いして頂いては、我々の侍女精神が廃れてしまいますっ!」


 三人の必死の訴えにクロウシスは手を止めて頷く。


「お前たちの仕事を取ろうというわけではないのだ。では、後は任せるとしよう」



 そう言って廊下へと戻っていくクロウシスに、侍女たちが深々と腰を折ってお辞儀をする。


「ありがとうございました!」


 クロウシスの後姿が廊下の奥へと消えるまで頭を下げていた侍女たちが、頭を上げてキャイキャイと声を上げる。


「凄い凄い! あの人コレを持ち上げちゃったよ! あと本当に髪の毛黒かったねっ! 染めてるのかなぁ?」


「そんなわけないでしょう、お馬鹿。平民が金髪に似せた色に染めるだけで重罪なのよ? 黒になんて染めたら死刑にされるわ、死刑よっ死刑。んぅーそれにしても豪快な壊し方だったねぇー……でも、普通はハンマーの方が壊れちゃいそうなものなのに、どうして壊れなかったんだろう? 」


「細かいことはいいのよ! とにかく、これで作業が半日以上は繰り上がったわね。ここをさっさと片付けて管理部に報告に行けば、きっと管理の眼鏡がズリ落ちるくらい驚くわよっ! とっとと片付けて次の仕事を貰いに行くわよっ」


 おぉー! っと声を上げる三人にユティは楽しそうにクスクス笑いながらクロウシスの消えた廊下へと駆けて行き、ミリアンも釈然としない表情でその後を追った。


 それからもクロウシスは砦の中の設備を確認するためにを歩き回り、立ち寄った先で困っている侍女たちの手助けをしていった。その内容は先ほどのような解体作業から、運搬作業、設置組立作業などほとんど非力な女性しかいない環境なので、クロウシスの活躍は目覚しく行く先々で感謝されていた。

 ユティはそれを頼もしそうな嬉しそうな顔でにこにこと微笑みながら手伝い、ミリアンは仏頂面で手伝いつつクロウシスの後を随行していた。

 やがて三人が一層へと戻ってきた時、廊下の影から何かが飛び出してきた。


「ピィィィィィィィィっ!」


 その白い影――トリヴァリアスアルテミヤが廊下を長い体をスイスイと這わせて、クロウシスたちの方へと近づいてきた。すると、ミリアンが凄まじい変貌っぷりを発揮した。

 

「トリヴァー様ぁぁぁ! 今日も美しくも可愛らしいお姿っ!さぁ、私めの胸に飛び込んできてくださいっ!」


 ダラしなく目尻の下がった表情で両手を開き、トリヴァに向かって叫ぶと、トリヴァはピョンっとジャンプをしてミリアンの胸へ――飛び込むかと思いきや、空中でクイっと長くしなやかな体をクネらせてミリアンの抱擁を回避して、そのままクロウシスに向かって跳んで来た。

 両手を空振りさせるミリアンを余所に、クロウシスは空中でトリヴァを片手で掴む。空中で掴まれたトリヴァは、そのまま自分を掴むクロウシスの手に顔をスリスリとすり寄せる。クロウシスが掴む手の力を弱めると、そのままスルスルと腕から首へと這い上がり、しばらく首の周りをクルクルと周回して、やがてクロウシスの首筋に顔をすり寄せてゴロゴロと喉を鳴らし始めた。

 その光景を心底羨ましそうな表情で見ているミリアンを見て、ユティがクスクスと笑いながら頬を染めてクロウシスの横顔を見つめる。


「ん? どうした?」


 首筋にすり寄っていた白龍が急にその動きを止めたかと思うと、クロウシスの体からひょいっと降りて、まるで自分についてくる様に促すかのようにクロウシスを見つめながら廊下の奥へと進んでいく。その意外な行動に三人は顔を見合わせると、クロウシスを先頭にその後について歩き始めた。


 トリヴァは時折後ろを振り返りながら、砦の地下へと続く階段の前で一度止まり、クロウシスたちがついて来ているのを確認すると、階下へと降りていった。クロウシスは夜目が利くので気にせず降りていったが、ミリアンとユティは階段前に設置してあったランプを手に取り、それに火をつけてから後に続いた。そして白龍が導くままに階段の下りて進むと、薄暗い廊下の中――大きな扉の前でトリヴァが待っていた。


 床は石畳だが、長く放置されていたせいか砂が堆積していた。周辺を見ても荒れ果てていないところ見ると、何度か掃除は行われていたようだ。ただ、優先度の問題でおざなりになっていた部分があったのだろう。

 トリヴァは扉の前からクロウシスの足元へと這い寄ると、円らな銀の瞳でじっとクロウシスを見上げてくる。仕方がないと、クロウシスが右腕を差し出すと頭から尻尾までをピーン!っと伸ばして、嬉しそうに腕へと這い上がり、そのまま首に巻きつくとスヤスヤと眠り始めた。

 相変わらず奔放な白龍にため息をつきながら、クロウシスは目の前の扉へと視線を向けた。

 重厚な作りの扉だった。見た目は鋼鉄製といった具合だが、果たして見た目通りなのかどうかは分からない。触れると僅かに魔力の残滓を感じる。この砦内で魔力を伴う気配を持ったモノと遭遇するのは初めてだった。


「この扉は?」


「はい。発見された砦の地図には無い部屋でした。ただ砦そのものの設計図には表記があり、そこには『第三武器庫』と記載されていました。押しても引いても、叩いても一向に開かないので探索の途中で諦めて、現在は開かずの間として放置しています」


 ユティの淀みの無い説明に頷き、両開きの扉に触れる。透視の魔法で部屋の中を見ると、内側の扉の前面――こちら側から言えば扉の背面に閂がはめ込まれ、そこに巨大な錠前が付けられているのが見えた。部屋の深部までは阻害されて確かめることができない。


 手を内部の錠前がある位置に置き、魔力を込めてグっと力を込めて押すと、中で錠前が弾けて落ちる音がした。その音にミリアンとユティが驚いたが、クロウシスは気にせずそのまま扉に手を置き軽く押すと、その仕草とは裏腹に重い音と共に扉が開いた。


「嘘……」


「開いた……」


 呆然と呟く二人を残して中へと足を踏み入れると、そこは広い倉庫になっていた。床や壁には武具の類が置いたり掛けたりしてある。確かにそこは武器庫のようだ。武器は不思議とどれも劣化どころか埃すら被っておらず、今すぐにでも使える状態だった。


「恐らくこれは皇国時代のかなり古いものですね。武器に皇国中期に使われていた意匠の紋章があります。それにしても、全然痛んでいないだなんて……」


 剣の一つを取り検品していたユティが不思議そうに呟き、ミリアンもいくつかの武具を手に取り確かめていた。

 立ち並ぶ武具の中で、扉からの正面最奥に布を掛けられた巨大な何かが安置されていた。二人には『視えて』いないようだが、その布の中には強力な魔力を放つ何かがあった。

 クロウシスがそれに近づき布をバっと取ると、後ろから覗き込んだ二人が息を呑む声が聞こえた。

 それは二メートル超はある巨大な戦斧槍(ハルバード)だった。

 赤を基調とした簡素な意匠に、戦斧部分は肉厚で鋭い光を讃えている。先端の槍部分は巨大な力による刺突攻撃に耐えうるように、長く幅の広い槍刃が取り付けてある。柄の部分も太く頑丈な作りで、いかなる衝撃にも耐え得ることを念頭にした作りとなっているのだろう。だが、真に驚くべきはその材質だった。

 刃部分から柄に至るまで、全てに魔力が込められている。恐らくこの槍は火の英霊精龍(カーティナルドラゴン)であるバーンアレスの遺骸から作られたものだ。

 ここが封印されていた経緯と経過した時間を考えれば、恐らくは遥か昔に代替わりした際に先代バーンアレスの遺骸を使い制作されたものだろう。刃は牙、柄は骨といったところだろうか……何にしろ強力無比な武器だが、こういったモノにはリスクや呪いが付き纏うものだ――同じドラゴンであるがゆえにクロウシスにはそれが分かっていた。


「この戦斧槍(ハルバード)には誰も触れさせるな。恐らく火龍の呪いを受けている。触れば焼き尽くされるぞ、よいな?」


 その厳しい声に二人は頷き、恐る恐るその赤い戦斧槍(ハルバード)を見ていた。

 開かずの武器庫から退出しつつ、自分をここへと案内した白龍の意図を単純な方向で捉えて納得していいものかと少し考えるが、耳元で聞こえる小さな寝息に邪推するのも馬鹿馬鹿しくなってしまい、クロウシスは白龍の頭をポンポンと叩きながら階上へと登って行った。

 


                 ◇◆◇◆◇◆◇



 バーン要塞四階部にあるクリシュの執務室は、一国の王女にして辺境伯であるクリシュが執務を行うには手狭で簡素な作りだった。もっとも、ここは砦の一室であり執務内容も彼女が本来行うべき領地であるバーンアレス島全体の事柄ではなく、砦内で行われる事柄の内々的な処理を形式的に彼女の許可を得て行うという、意味があるようで無いような仕事だった。


 書類に目を通すと、砦町に住む元職人の老人が作ってくれた石判に紅染料を付けて判を押すという作業を繰り返していた。これらが無駄な作業だとは思わない。だがクリシュは昨夜クロウシスと交わした会話を思い出し、今自分が本当にやるべき事が何なのかを考えていた。

 書類の一枚を手に取り内容を確かめると、そこには『‐第二十二次砦改修作業における作業危険区域の注意喚起について‐ 砦内に出入りする砦町の関係者にも作業区域への注意喚起を徹底して行って貰いたい』という旨が書かれていた。

 砦の改修は二年前にここへ逃げ延びてきた時から急ピッチで行われ、それから今に至るまで今回で二十二回目の改修となる。八年前に放棄されてかなりあちこち痛んでいたので、改修することは必要だったし、何よりまだ何も頼るものがなかったクリシュたちにとって攻められたら一番危険な時期だっただけに、元々籠城することに優れている砦を再建することは急務だったのだ。


 砦はすでに十分にその機能を回復させている。

 港の防衛設備も何度となく小規模ながら敵の攻撃を退けており、港そのものの整備は砦町の人が中心となって行ってくれたおかげで十分に果たされている。 

 食料や武具の類も、大陸沿岸の港町に住む漁師たちが中心となって物資を届けてくれるおかげで潤沢とは言いがたいが、困っているわけでもない。

 近衛隊たちの士気もまだ一定の高さを保っていると、近衛隊をまとめる長から報告を受けている。


 砦にはもう大きく足りないものはないのかもしれない。

 少なくとも決戦に対して必要な基本的な備えは出来ている。クリシュは軍運営や戦争に明るいわけではないが、若くして軍籍に身を投じていた兄に多少なりとも手ほどきを受けていた。

 防衛戦で必要なのは、堅牢な建物、長い籠城に耐えられるだけの食料や武具弾薬の確保、水源の確保、脱出路の確保などなど……考えうる限りでは、それらはこのバーン砦には備わっている。


 ならば――?

 クリシュは改めて確信する。

 それならば、今足りていないのは自分――クリシュ=リアスカ=イニス=サーディアスだ。


 こうやって砦の奥で変わらず庇護を受けて、取り留めのない作業をこなしている。これでは昨日までの自分と、何も変わっていないではないか。執務室の机で書類に目を通して許可を与えるだけの日々。実地の作業場に赴いて実情の検分なども積極的に行ってはいるが、今クリシュに求められていることはそんなものではないはずだ。

 そこでクリシュは四年前まで、常に自分を支えてくれた一人の老将兵の言葉を思い出した。


 ――姫様。何かをしよう、したいと思われた時は、決して立ち止まって考え込んではいけません。思慮深いことは美徳ですが、必ずしも考え込むことが大切とは限らないからです。考えるよりもまずは行動を起こしてみること、その一見無計画な行き当たりばったりに思える行動が、時として状況を打開し、新たな展望を成すことがあるのです。

 

 老将兵は皇国時代に武勲で得た恩賞で、先代の皇王より平民の出でありながら領地を賜った傑物だった。領主としての家督を娘婿へと譲り、前王妃――後の皇太后からの求めにより姫殿下であるクリシュの後見人として、幼少のみぎりより仕えてくれた忠臣だった。


 あの時、本国から来た二人組によってアレス城が乗っ取られたという報告を受けた時から、きっとクリシュの時間は止まっていたのだ。

 自分の存在を邪魔に感じ疎み、本国から刺客とも言うべき二人組を寄越した黒幕。その正体について考えることを、きっと自分は心の何処かで拒否していた。だが、自分一人のそんなちっぽけな感傷が事態をここまで引き伸ばし、悪化させてしまったのだ。


 そう――事態は悪化している。

 でも――どれほどまでに?


 その問いに至った時、クリシュはようやく自分が今すべき事、その本質を理解した。


 クリシュはガタンと音が鳴るほどの勢いで執務机の椅子から立ち上がり、廊下に続く扉へと駆け出した。扉を開けると、椅子の音に驚いて扉を開けようとしていた衛兵と鉢合わせになる。


「ひ、姫様? 如何なさいました?」


「せんせっ……クロウシス様がどちらにいらっしゃるかご存知ですか?」


「あのお客様ですか? いえ、カーターとコルベイルの両名を伴って砦の中を回っていたようですけど――あっ姫様!?」


「ありがとうっ!」


 礼を言って呆然とする衛兵を残して廊下を駆ける。王都にいた頃に、こんなスカートの裾を振り乱して走ったりしたら、きっと世話係をしてくれていた婆やは激昂して、教育係をしてくれていた老将兵は――快活に笑ってくれたかもしれない。今でも侍女長兼近衛隊長をしているイルミス辺りが見たら卒倒するかもしれなかった。

 だが、そんな恥や外聞や作法などは今はどうでも良かった。廊下を走る自分に砦内の人間が気づくたびに驚きに目を剥くが、そんなことはいっこうに気にならない。

 とにかく自分の出した答えを少しでも早く『先生』に――昨日出会ったばかりだが、ここに居る皆と同じくらいにクリシュが信頼してしまっているあの人に、一刻でも早く自分の出した答えを聞いて欲しかった。



                   ◇◆◇◆◇◆◇



 砦の屋上は下の建物の広さだけその面積を有して、石質のザラザラした表面を可能な限り平坦に削った作りをしている。そこに投石用の瓦礫が分散して積まれ、四隅に設置された見張り台にはそれぞれ一人ずつ近衛兵が立っていた。

 そこから砦の背後にそびえる巨大な火山を見ていると、背後で扉がやや乱暴に開く音がした。そちらをクロウシスが振り向くと、そこにはいつもよく櫛の通った美しい銀髪を少しボサボサにさせたクリシュが肩で息をしながら立っていた。

 主である少女の突然のらしくない(・・・・・)登場と様子に、見張りをしていた近衛兵が何事かと少し焦った顔を浮べるが、それを手で制してクリシュがお辞儀をすると、それぞれに少し引っかかった表情をさせつつも頷いて、見張りへと戻っていった。


「せ、先生……こた……え、答えが出ました」


「聞こう」


 息を整えながら喋るクリシュに、クロウシスはいつも通りの落ち着いた声音で短く答えた。クリシュは頷き、背筋を伸ばして大きく深呼吸をした。


「私が今すべきことは……この砦の防備を固め、その管理運営に費やすことではありません。現状を維持することに率先して精を出すなんて、愚の骨頂でした。この現状は私たちにとって本来不本意な現状なのですから……そんな現状を維持することは『現在(いま)を生きている』とは言えません」


 そこまで言って、クリシュはぎゅっと服の胸元を掴むと、震えだしそうになる手と縮こまる心臓を懸命に奮い立たせた。


「私はずっと逃げていました。戦いからも、自分の立場からも――そして、この島で起きている全ての現実から……今出来ることをやっている、と言いながら、本当は『本当にしなければいけない事』から逃げていました。だから、私は……私が今すべきことは――」


 震える手をもう一つの手で包んでグっと力を込めて、もう一度真っ直ぐにクロウシスと目を合わせて、クリシュははっきりとした声で自分の言葉を言った。


「私のすべきことは、現実を知り向き合うことです。自分に逃げ場を与えず、たとえそれがどれほど残酷な現実であっても私が過したこの二年間で、何がどれほど酷い状況なってしまったのかを確かめた上で、今度こそ自分のすべきことを正しく皆に伝え――共に行きます」


 クリシュの持つ、その真っ直ぐな瞳には覚えがあった。

 自分の長命な寿命の中でも、さほど古くない記憶だ。

 意志と決意に燃え、その実凪いだ海のように静かで深く――澄んでいる。

 だからこそ、そんな目をしているからこそ、彼という存在は力を貸したくなるのだ。


「現実を直視する覚悟があるのだな?」


 クロウシスの静かな、しかし厳しい声音にクリシュは顔を上げて、その青瞳で黄金の瞳を見つめる。厳しさと力強さの果てに――恐ろしいほどの深淵を持つ、高潔なる色。

 その色に導かれ、クリシュは頷いた。

 すると、クロウシスが嵌めていた黒い手袋を取りさり、その手をクリシュへと差し出した。一見握手を求めているように見えるが、硬い表情をしたクロウシスの顔からそんな単純な理由ではないことはすぐに分かった。


「手を取るがよい。そうすれば、お前が望む現実を『視せて』やろう」


 少しだけ震えが残る手をゆっくりと、だが怯むことなくクリシュは差し出しクロウシスの手を握った。その瞬間、クロウシスの魔眼によって超距離遠視された感覚がクリシュへと浸透して、意識が精神と共に肉体から乖離して遥かアレス城近辺へと飛ばされた。


 幽精体(アストラル)となったクリシュとクロウシスが一瞬の内に移動した先は、アレス城とそ城下が一望できる空の中だった。


 クリシュは初めて感じる浮遊感と幽精体(アストラル)となった自分に困惑し、それを為したクロウシスに驚きと畏怖を感じ、そして眼下広がる光景に絶句した。


 赤銅の城壁と白を基調とした外観は変わっていないアレス城。しかし、その城下町である町は二区画に整備され、城に近い高台には綺麗な建物が立ち並び中には王都のそれに近いような豪奢な作りの邸宅すらあった。

 その高台の下に元々の町が広がっているのだが、町に活気はなく町内には巡回する武装した兵士の姿しか見当たらない。

 そして、その更に森へと近い場所に――それは広がっていた。

 森を無理矢理に開墾した痩せた土地に、難民や浮民が暮らすような荒ら屋が無計画に立ち並び、そこには粗末な服を着た人間が必死に――かろうじて生きていた。

 険しい密林の開墾と痩せた土地での農作業を強制され、抵抗する者は勿論のこと疲労から倒れこむ者にさえ、女子供でも容赦なく銃底による殴打と鞭が打たれる。監視は歩兵だけではなく、荒ら屋の中と農地にそれぞれ一体ずつの龍騎兵(ドラグーン)アレスが常駐している。

 クリシュの体は瘧がついたように震え始め、両手で体を抱きしめるが震えはいっこうに止まらない。そして視線を農地の隅には堆く積まれた何かを捉えた時、口から悲鳴が出掛かった。そこには四角い深い穴が掘られており、その中には死んだ人間が大量に積まれていた。恐らくは、抵抗したり過労や飢餓、病気で死んだ者たちだろう。そこへ龍騎兵(ドラグーン)アレスがおもむろに近づくと、備わっている武装である火炎放射を放ち、疫病防止のために死体の山を焼き始めた。

 クリシュが思わず目を背けてしまうと、今度は兵士の一人が若い娘の髪を掴み、荒ら屋村と城下町の境界に建つ兵舎のような場所へと引きずっている。必死に抵抗する娘を殴りつけ、なおも連れて行こうとする兵士に村の男――恐らくは娘の父親が駆け寄り跪いて赦しを乞うが、兵士はその父親の頭を銃で撃ち抜き、半狂乱になって暴れる娘を銃底で殴りつけ黙らせると、そのまま兵舎へと引きずり込んでいった。その中で何が行われているのかなど、クリシュは考えたくもなかった。

 

「目を背けずに直視しろ、クリシュ=リアスカ=イニス=サーディアス。これがお前が逃避した二年間の『結果』なのだ」


 突き刺さるようなクロウシスの言葉にクリシュは身を竦ませた。

 これが――自分が逃げた結果?

 こんな、こんな――。


 その先に続く言葉をどうしても言うことのできないクリシュに対して、クロウシスは何処までも容赦がなかった。


「この世界には大なり小なりこういった場所は確かに今も存在する。特に人間は得てして悪意と欲望に染まりやすい。その末に生まれるのがこういった――地獄だ」


 地獄。


 そう、確かにそこは地獄だった。

 何一つ救いがない中で人々がもがき苦しみ、何よりも尊いはずの生命がまるでゴミのよう扱われ、慈しむべき女性の尊厳が意図も容易く踏みにじられ、女子供が慈悲もなく容赦もなく殺される。

 何が正常で何が異常なのかすら曖昧な狂った精神状態が兵士たちを支配し、その中で行われる残虐な行いの数々が、全て歪んだ正義によって肯定される世界。


 この地獄を作ったのはクリシュではない。

 だが、この地獄を作るきっかけを与えたのは他ならぬクリシュだった。

 

 耳を塞いでも聞こえてくる人々の呻き、嘆き。

 泣き声と怨嗟がいつまでも脳裏に木霊し、クリシュはその場に崩れ落ちるように倒れて耳を塞ぐが、人々の魂から出る悲鳴と叫びは、耳朶を通り越し脳内へと直接聞こえてきた。


 今まで体験したことのない人々の負の感情を直接感じ、クリシュは心を押し潰されてしまいそうな衝撃と苦しみに悶えた。悪意を過敏に感じる心が精神を痛ませて、吐き気を催すが幽精体(アストラル)では吐くことも出来ず、眩暈に似た感覚が断続的に襲い意識が遠のく。


「クリシュよ、お前が望むならここにいる人間全てを我が殺してやる。お前を罠にハメた人間も含めて全員だ」


 ガタガタと震える体を抱きしめるようにして、真っ青になった顔を上げると、焦点が定まらないブレる視界の中で、クリシュは巨大な影を背負うクロウシスの姿を見た。


「我がお前の代わりをしてもよい。だが、我に任せるというなら、我はここにいる人間の善悪を問わず全てを殺す。さぁ、どうする?」


 この悪夢のような光景を終わらせてくれる……?

 ならば、それが天使でも悪魔でも任せるべきなのではないだろうか?

 ここにあるこの世の地獄を終わらせてくれるなら、全てを犠牲にしてでも終わらせるべきではないのだろうか?


「おね……がぃ……」


 残酷な現実に直面し、クリシュは考えることを放棄してただ自責の念による苦しみから逃れるために、目の前の強大な存在に懇願した。

 その悲痛な想いに答え、黒い影が町へと降りようとする。


「そうか、ならば叶えてやろう。ここにいる全ての人間を――」


 いつしかそこに男の姿は無く、ただ巨大な黒い何者かの陰影が、この悪夢を終わらせるべく行こうとする。

 

 良かった、これで悪夢は終わる。

 全てが消え去って、後には何も残らずもう一度やり直せる。

 やり直す?

 いったい何を?

 どうやって――?


 そこで、クリシュの失いかけていた精神と理性を僅かに取り戻した。


 ――違う、そうじゃない。


「ぅ……ま、まって……く、だ……さぃ」


 巨大な影が振り返った。

 長い首をもたげて空中に倒れ伏すクリシュを見下ろしている。

 恐ろしさは感じない。だが、とても巨大なその姿と存在感にクリシュは覚えがあった。


「わた……しが、やります。み、皆……私がた、助け出して……みせます。だか、ら……止めて下さい……かな、らず……私が、助け出してみ……みせますから」


 朦朧とする意識の中で、クリシュはもう一度黒い影に懇願した。だが、今度は考えを放棄した想いではなく、強く――強く――願った末の想いだった。


「よいのか? たとえお前がここの人間を救うことが出来たとしても、感謝されるどころか恨まれさえするかもしれないのだぞ?」


「構いません……私はここの領地と領民に対して、全ての責任を持つ義務があります。だから、私が見捨てないと決めた以上は、誰にも手出しはさせません……」


 空中に浮遊したまま、不可視の地面に倒れ伏していたクリシュは顔を上げ、黒く巨大な影を真っ直ぐに見つめて思いを吐露した。


「ですから、どうかお止め下さい。私が……かな、らず……」


 

 気を張りつめ続けた末に、クリシュは気を失い幽精体(アストラル)の体が歪む。その体を黒龍の陰影を霧散させたクロウシスが抱きとめた。


 幽精体(アストラル)の消耗は、直接的に精神を消耗させる。

 今まで見た事がない人間の醜悪さと、この世の地獄の片鱗を見せられて衰弱した精神が一度は確かに折れかけた。だが、この少女は自分で立ち上がり、あえて巨大な姿を晒したクロウシスに怯むことなく自分の想いを言ったのだ。


 少女は言った――強くなりたい、と。

 


 そして少女は強くなろうとした――。

 


 少女は強くなりたいと願っている。



 だが、まだ足りない――。

 


 でも――――。



「よく頑張ったな……」



 クロウシスは強くなろうと願う――まだ弱い少女の頭を優しく撫でた。



前書きと後書きを活動報告にて書いております。

よろしければ、本文読後にお読みください。


※修正情報

2012/09/30 誤字修正&表現調整

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ