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時境の砦

作者: 望月

 目を開けると曇天。俺が見ている物が空かどうか自信はない。雲だと思っていたものは、煙だったかもしれない。

 目を閉じていたら雨が降ってきた。

 なんだ、やっぱり、雲じゃねぇか。

 口を開けた。喉が渇いていた。しばらくは止まないだろうと思ってそのまま口を開けていた。

 硝煙と血の臭いが洗い流される。体温が奪われる。しかし雨をよけられる場所まで移動する力もない。

 元戦場に横たわる元兵士。現、死に損ない。

 嘘みたいに静かで、時々地響きがする。その内にきっと手足から腐ってきて、ゆっくりと死んでいくに違いない。

 手が動いたら、苦しむ前に死んじまえるんだがなぁ。

 雨はしばらく降っていたのでそれで、乾きはいやされた。

 情けないことに日が暮れた時点でころっと意識を失ったから、次に目を開けた時がいつなのかわからなかった。次の日か、ほんの一二時間後か。一週間寝続けた可能性もあった。

 ただ空は抜けるように青かったから、季節は夏だろうと思う。

 少し前まで身を置いていた場所というのは、爆発で吹き上がる粉塵で空はいつも曇っていた。空を見る余裕もなく季節も忘れていた。

 これだけ暑ければ、すぐに怪我したあたりから腐ってきて、蠅の奴が卵でも産みにくる。仲間はどこにもいない。置いていかれたか。死んだと思われて捨てられたのだろう。薄情とは思わない。それは普通のことだ。

 例え仲間が居たとしても、まともな医療な設備などある訳もなく、医者もいないあの部隊では、苦しみながら死んでいく様を見せつけて、士気を下げることしかできない。

 それならばいっそ捨て置かれた方が、故国の為になる。

 すっかり静かになったのに遠くから、まだ雷だか爆発だかの音が聞えていた。腹の底に響く音が、ずっとなっているのが心地よくて目を閉じた。また寝るのか、とも思ったが体は動かないし、起きていても体は腐っていくだけだ。

「生きる気はないのか?」

「腹は減っているか?」

 二言めで漸く俺は言葉を理解した。

 そして、それが自分にかけられた言葉だということに気づいたのは、そのしばらく後だった。

 目を開こうとしたが、やめた。とにかく色々なことが億劫で、今にも眠りそうだった。この穏やかな眠りが死に近づくことだとしたら、俺はまだ幸せな方だ。

 夢と現が混ざりあう。返事を返したように思い込んで、まどろんでいると、傍らに誰かが腰掛ける気配がした。

 地響きはいつの間にかしなくなっていた。まどろみの中、火がついたのを感じて、薄目を開けて横をみた。

 ハム、いやベーコンの焼ける匂いがする。いい匂いだが腹が減っているのかどうかはよくわからない。

 何があるのかほとんど認識できなかったが、食事をしているようだ。火を使って食事をできるなら、この場所で戦はとっくに終わってしまったんだろう。

 ひょっとすると、今の俺が徐々に死んでいっている状態だろうか。腐っていく前に死ぬこともある。俺の体力が持たなければ、そうなる。

 俺は死ぬ前にあれがしたい、これがしたいと思わないらしい。

 顔に手が触った。とりとめのない考えは、そこで一段落した。

「肉は好きか」

 それなりに、と口の動きだけで答える。少しの間のあと、口の中にベーコンが入ってきた。小指の先ほどの大きさで食べるのに苦労はなかった。

 誰なのか、わからないが敵ではない。体が腐るのを感じながら生きるくらいならいっそ殺してほしいから、敵であってもかまわないのだが。

 随分長い間を掛けてベーコンと水に浸した柔らかいパンを食べさせてくれる。俺はただそれに甘えていた。

 目を開けていた方が良かったかもしれないが、俺には億劫だった。酷い眠気に教われている人間というのは、大抵がこのように怠惰な物だ。

 眠る前に礼を言ったかどうかは記憶の外だ。懸命に口を動かそうとしていた記憶があるから、きっといったのだろう。

 次の朝、空は抜けるように青い。雲は昨日より多く流れも早さもある。ひょっとすると、このまま生き残るかもしれない。敵も味方も遠い中、敵か味方かわからない奴が一人ここにいる。

 と思ったが、いないな。

 当然居ると思っていたが、どこかに去ってしまったのか。

 どこかに寝ていても、気配くらいしそうなものだ。僅かに首を動かす。気にしても居なかったが、ここは古い砦だった。

 隊は交戦中だった。斥候隊で、帰還する途中に敵に見つかった。到底かなうわけはなく、馬と剣で戦っていた時代の建物に逃げ込んだ。既にボロボロで天井は抜けていた。それで空がよく見えた。

 他の連中は見えない。にげたのかどうか、記憶が曖昧でいけない。何か大声で叫んでいた。俺は数発の弾をくらい倒れた。肩と足、胴にも食らっているかもしれない。

「腹は減っているか?」

 からり、と小石が転がり落ちる音がした。入り口は崩れていたが、壁も崩れている。瓦礫を越えれば誰でも入れる。

 砲撃による物だったが、敵は大砲を持っていなかった。持っていたら、壁の崩れ方からしても、俺が生きているのはおかしい。ここが崩れだしたのはもっと前からのことだったのだろう。

「死んだか、きこえないのか、飯は食べるのか、言え」

「ああ、くれるなら」

 瓦礫の上から飛び降りた。それは音から悟ったが、俺は先ほど首を動かしたことで疲れきっていた。荷物を下ろしまた肉を焼いている。

「今日は声がでるのか?」

「ああ」

 昨日と比べて随分と回復しているようだ。傷も痛まない。いや、傷は始めから痛まなかった。もしや、俺は大の字にのびているだけの男なのかもしれない。

「なぁ、あんた」

「起き上がれるか?」

「いや、無理だな」

「飯はかめるか」

「柔らかいものなら」

 今日はスープだった。日は高い。太陽が眩しくて、目を閉じた。逆光で世話をしてくれている人間の顔も、ろくに見えない。

 破壊し尽くされたその中は、風通しが良かった。スープはうまかった。そのあたりからとってきたらしい食べられる草と、ウサギの肉。食べ物を食べさせてくれるが、面倒を見てくれるわけではない。目が覚める時を見計らったように現れる。もしかすると、ずっと近くに居るのかもしれない。

 看病をしてくれている男は、大抵気がつくと消えているのだ。それというのも、食事をしてすぐに寝入ってしまう怠惰な自分自身のせいでもあるのだが。

 戦の結果はどうだったのだろう。他の仲間は無事逃げ延びただろうか。今も命を散らしているのだろうか。

 あの男が看病し続けてくれれば、俺はこのまま生き残る。そのときまで故郷は残っているだろうか。故郷がなくなったらどこに行こう。身を置く大地が、この焼けただれた世界には残っているだろうか。

 外の景色がみたかった。この砦は穏やかだが外もそうとは限らない。男が持ってきてくれる食べ物が野趣溢れるものであることが、一縷の望みでもある。それだけのものを育む命がまだ、この辺りには残っているのだ。

 静かに手を握ってみる。力はでないが物は持てる。気合いをしれて、寝返りを打つ。背中が痛い。肩はこり固まっている。そっと両手をつく。

 一体俺はどうしてしまったのか。死を逃れたばかりか、怪我まで治ったのか。どう考えても腕は動く筈がない。悪くて切断だ。

 寝てばかりいた体はなまりきっていて、起き上がるのも一苦労だ。何度かの失敗の後、上体を起こすことに成功した。手探りで壁を探す。

 ゆるゆると上体を持ち上げていく。歩くことができたら、しばらくの休息をとってこの砦を立とう。もしあの男が、町につくまで面倒を見てくれるというなら、旅は盤石だ。とくに愛想がいい男ではなかったから、期待はしていない。だが同じくらいの割合で、そうはいっても面倒をみてくれているのだからと期待もしている。

 情に厚いのか厚くないのか、何を考えているのかどころか、行動さえ読めない。そのくせ妙な親近感がわいた。

「怪我は癒えていない」

「何?」

「気をつけろ」

 夜ならば、逆光に阻まれずに男の顔が見えるだろうか。振り向く前に足から力がぬけ、視界がくるりと回った。

「お?」

「いったろ」

 腕をつかまれても痛みはない。腹にも痛みはない。体を支えて立つことができた。

 男が手を離すと、地面に転がった。

「なんなんだ。俺は一体どうしたんだ」

「手が動くのなら、死ぬのは簡単だろう」

「死にたいと、言っているわけじゃない」

 空は晴れ渡っている。だが、どこかであの雷の音が鳴っていた。

「いつまでたっても変わらないのさ」

 足音が砦の外に出て行った。恐ろしさに体が震えた。何かがおかしい。体はいずれ癒える。だが癒えて、始めの一歩を踏み出した時、目の前には何があるだろう。

 記憶にあるより緑の深い砦。

 横たわる静けさ。

 仲間を見捨てて敵を殺した、その現世の罪でこんな所に身を置くはめになったのだろうか。全て本意ではなかったとしても、罪は消えないのか。

 ここは地獄か。あいつは悪魔か。

 口に出して問うには、あまりに馬鹿らしい質問であるように思ったし、核心をつきすぎているように思った。

 男の言った通り、何も変わらないことが更に恐怖させた。傷は順調に癒えていた。

 時々、雷がどこかでなっていた。時折雨が降り、どこからか男が現れて俺を雨がよけられる場所に動かした。雨が上がると俺は、空がみたいので、元の場所に戻してくれるように言った。地面は湿っていた。

「一体、どういうつもりなんだ。お前は俺をどうしたいんだ」

 思い切って尋ねるも、男は何も答えなかった。元々、まともに会話をしたことなどなかったが、すり切れた神経にその態度は酷く癪に障るものであった。さんざん口汚く罵り、蔑んだが、男は眉一つ動かさなかった。唾を飛ばしたときだけ、少し眉根を寄せて拭った。

 それだけのことしか、俺に身には起こらなかった。

 ここが現実でないというのは、ますます確信をもって俺に迫ってくる。

 影を潜めていた死の陰が、またちらつき始めた。

「いい加減にしろ」

 それは、何日も過ぎた後のことだったように思う。

 男の声には感情が伴わない。どこから話しているのか。首を巡らせると、壁から僅かに体が覗いていた。

 随分遅いと思ったが、それくらい言われることはしていたので俺は口をつぐんでいた。

「生きて帰ったら、何がしたい?」

 いきなり、質問の質が変わった。

「家族は?」

「いない」

「・・・」

 長い沈黙があった。男が、俺自身のことを聞いてくるのは初めてだった。だが、語るような背景を持ち合わせていなかった。

 帰らない男を待ち続け、嘆いても詮無いことを嘆き続ける女たちを見続けてきたら、家族を作る気などしない。

 男は、歳を尋ねた。答えると、そうか、とだけいった。

 男は俺の横に座った。日暮れ時、横顔を斜光にさらす男の顔はよく見えた。

 よく考えれば、男の顔をみたのはこれが初めてだった。

「お前は・・・?」

「この北の、お前の本隊がいる町に、一人の娘がいる」

「どこかでみたことがある。あったことがないか?」

「ただの娘だが、歌がうまくて、パイを作るのがうまい」

「なあ」

 どこで見かけたのだろう。記憶に妙に引っかかる。何かの面影を持っていた。誰かの親族だろうか。だが、その顔には心当たりはない。ひょっとすると敵兵かもしれないし、そうするとばつが悪い。深く考えるのはやめた。

 なにより、男は俺を言葉を頑なに無視し続けている。例え心当たりがあっても、言えない事なのだろう。

「髪は長い。よく三つ編みにしていて、さっぱりとした男勝りな人だ」

 男はそこで口を閉ざして、食事の用意を始める。最近は自力で上体を起こして食事ができる。やはり、肉というのはうまいものだった。

「お前の彼女か?」

「違う」

 器用にウサギをさばく手つきはいつみても見事で、ナイフも切れ味が良い。彼の両親の教え方が良かったのだろう。

 男の横顔は思っていたより随分と若く、戦場にいたなら少年兵と呼ばれていただろう。

「たぶん」

 夕日が地平に消えた。すぐに砦は暗い影に包まれる。

「・・・あんたも気に入る」

 冷やかすような声色ではない。妙に親愛に満ちた言い方だった。それが年相応に微笑ましく感じ、俺はその言葉に乗った。

「美人か?」

「けど、裁縫が下手だ。刺繍も」

「ははは、そうか」

 男も、口の端で薄く笑った。息子というには、歳が近すぎ兄弟というには歳が離れすぎていた。

「なら、生きて会いに行かないとだな」

 心をざわめかせる面影を持った男。その泣きそうな微笑みを正面から見た。生きて帰ったら、その娘に会いにいこう。

 男は、何か言った。それはとても小さな声で、たき火で薪が爆ぜる音にかき消されそうだった。

「俺も、会いにいく」

「そういえば、お前名前は?」

 二人の言葉は重なって、俺には男が何をいったのか聞き取れなかった。

「イエル」

 男は答えた。

 イエル。

 口の中でその名前を反芻する。とても大切な名前のように思えた。

「イエル」

 柔らかい赤い光に縁取られた顔がこちらをみた。


『大丈夫か?! 気をしっかりもて』


 唐突に、夕食の匂いが硝煙と血の臭いに塗りつぶされた。

 体に走る激痛にうめくと、肩が力強い手につかまれる。

(痛い、はなしてくれ)

 叫びは言葉にならない。言葉を発したとして銃声にかき消されて人の声など殆ど聞きとれはしないのだ。

 轟音。

 耳が聞えなくなる。懐かしい感覚だった。

 銃を持つ者が、分けもわからないままに決死の突撃を試みて、砦を出ないうちに倒れる。

 砲弾は砦にあたりはしなかったようだが、その威力は凄まじい。こちらはしがない斥候部隊。そんな大掛かりな装備は持っていない。

「援軍が! 応援が来ました!」

 その声だけ、妙にはっきりと砦のなかに響いた。

 本隊がくれば、戦力はこちらの方が上。敵陣に退却のラッパが鳴り響いた。

 敵が居なくなった後、緊張を解いた仲間が話しかける。

「いや、しかし死んだと思ったぞ」

「ああ、我ながらすごい生命力だと感心するよ」

 肩の下に手を入れると、体を持ち上げた。痛いが、担架などない。文句はつけられなかった。

「実際のところ、俺はどれくらい気を失っていた」

「五分かそこらだ。夢を見る暇もなかっただろう」

「そうだな」

 こんな状況では、夢を見た所でろくなものではなかっただろう。被弾して倒れてから目覚めるまで、意識はすっぽりと抜けている。

 目を覚ましたときに、長い夢から覚めたような気分になったのは、やはり一時天国に行きかけたからだろうか。どちらにしろ、積極的に味わいたい気分ではなかった。

 死ぬなら独身のままが良いと思っていたが、案外寂しいものだ。俺も身を固めるべきなのかもしれない。事実、今回も生き延びることができた仲間は、とても生き生きとしている。

 勝つたびに喜びが近づいている。

 軍が駐屯している町で、手当を受ける。面倒を見てくれたのは、手伝いで医者の所に来ていた町娘だ。

 男勝りな美人だった。


 古い砦の北にある町で、夫婦が暮らしている。夫は身重の妻を気遣って、家事をすることをかってでた。怪我を負って退役し、その少し後に戦争も終わった。どちらが勝ったということもない。ただ双方の国が疲弊して、妥協しただけのことだ。

 洗濯物を干しながら、椅子に座って休む妻に声をかける。

「考えたんだ」

「何を?」

「イエルはどうだ」

「え?」

「生まれてくる子供が男だったら、イエルにしよう」

 口にするほど、それがぴったりであるような気がした。

「そんな事言って。女の子だったらどうするの」

「その時はそのときだ。もっと素敵な名前を考えてやろう」

 口では文句をいっていたが、妻もその名前が気に入ったようだった。

 どこか懐かしい響きを持った名前を、胸の内で何度も繰り返す。

 覚えはない。だが、胸のそこに萌す懐かしさがある。きっと大切な何かの名前なのだろう。

「腹が減ったなぁ」

 男は妻に笑いかけた。

 家事はうまくなったが、料理だけは妻に敵いそうにない。

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