事件
緑色の光が消えると、教室の風景はとうに消え失せた。かわりに現れたのは、どこかのいわゆる市民体育館のような場所についた。ワックスがけしたテープの貼ってあるフローリング、隅に見られるバスケットゴール、上には観客席もある、普通の体育館だ。
「おい、ここになにがあるっていうんだよ」
辺りを見回すが特に何もない。状況が理解できていない桐生は戸惑うばかりだ。
「いや、今ここにはないんだ」
黒髪の青年は少し言いづらそうだ。
「……まずこの場所について君たちに説明しなければならないね」
会話に割って入ったのは久遠だ。
「ここには学校の生徒と教員たちがワープしてくる予定だった避難場所だ。あの緑の魔法陣によってね」
久遠は淡々と説明を終えた。
「そう、そしてここには全員避難してきたんだ、予定通りね」
そして視線を落とす黒髪の青年。
「だけど……、敵にここの場所がばれていたんだ。そして……一人の生徒が連れ去られてしまった……」
苦虫を潰したような渋面である。
「ッ!! な、なんだって?! ここの場所は我々と一部の教員しか知らないはずだぞ?! なぜだ!!」
この怒りも当然かも知れない。こういう事態を避けるために、極力誰にも知らせないようにしてきたのだから。当然、味方にも。
「し、知らないっすよ。と、とりあえず落ち着いてください。この状況じゃちょっとむずかしいかもしれないですけど……」
宥めるように言った。
「……あ、ああ。すまない。私が取り乱してはいけないな……。それで、犯人はどこに向かったかわかっているのか?」
息を深く吐き、意識を落ち着かせると、そのまま聞いた。
「えっとでね、連れ去られたときに一応追いかけたのですが……」
少し間、沈黙が出来る。
「……逃げられてしまいました。今、全力で捜索中です」
「そうか……」
その時、小さな、バイブ音が鳴った。その音の主は神谷の携帯だった。そこに表示されていたのは神童 大樹とあった。今朝のあの少年だ。
「そ、その子です! 連れ去られたのは!」
目を見開き驚愕している黒髪の青年。そして神谷も目を見開いた。
(な、なんだって?! 大樹が連れ去られただって?!)
「……とりあえず出てみろ」
久遠に促されるまま、通話ボタンを押す神谷。
「……もしもし」
平静を装ったつもりだが、声が少し震えてしまった。
「……神谷、翔、だな」
お決まりの音声変換。低い、どこか人工じみた声だ。
「もう聞いたとは思うが、お前の親友、神童大樹は預かった。助けたければ、今から指定する場所に一人で来い」
多少は予想していたが、これもお決まりの台詞。だが神谷の心には突き刺さるものだった。
「……はい」
ここではこう言うしかなかった。肯定の言葉に神童の命がかかっているかもしれないのだから。
「場所はメールで指定する」
唐突に電話は切れた。神谷はそのまま固まってしまい動かない。そしてその直後に微かな振動音。携帯電話の着信がメールを着たことを知らせる。それで神谷の硬直は解け、携帯電話に目をやった。内容はこういうものであった。
神童を助けたければ港の廃工場に来い。そこには詳しい地図の画像も添付されてあった。
「行かなきゃ……!」
「おい、落ち着け」
今すぐにでも駆け出しそうな勢いの神谷を久遠が厳しい口調で制止する。
「お前一人で行ったら確実にお前は殺られるぞ? それでもいいのか?」
「……いいわけ、ないだろッ!! いいわけないけど……俺のせいであいつが巻き込まれてるんだぞ!」
神谷の肩は震えていた。おびえいるのは明らかだった。
「落ち着け。時間はないが作戦くらい立てている時間はあるだろう」
「作戦って……。お前ら来られないんだろ? 作戦なんて立てられないじゃないか!」
明らかに苛立ちを見せる神谷。色々な感情にさいなまれてしまっているのだろう。冷や汗で顔が濡れている。
「……時間がない、移動しながら考えようか」
「……はい」
唾液をのどを鳴らして飲み込んだ。どうやら覚悟を決めたようだった。
車内は沈黙の音が聞こえるくらい静かであった。聞こえるのはエンジンの音と車がすれ違う音くらい。作戦は思った以上に進んでいないようだ。助手席に座っている神谷の表情はまるで苦虫を噛み潰したように歪んでいるが、運転している久遠は涼しい顔のままだ。後部座席に座っている面々は神谷に似たようなものだった。
「あ、あのっ……、作戦って、なんですか……?」
あまりの沈黙に耐えかねたのか、運転席の後ろに座っていた前口が問いかけた。
「うむ、それなんだが、やはり神谷君一人で行ってもらうしかないと思うんだ」
やはり涼しい顔で、無謀なことを言ってのけた。隣に座っている神谷は驚きに目を見開き身体が少し前に浮き上がったが、それはシートベルトによって阻まれた。
「え、えっ……? そ、それ、本気で言っているのですか? 久遠さん」
前口は予想だにしなかった言葉にさすがに動揺を隠せなかったようだ。
「ああ、もちろんだ。我々が何かしたところであの子は確実に殺されるだろうな。すこしでもあの子の生存の確立を高めるためには神谷君一人でその場所に行くしかないだろうな」
表情一つ変えずにハンドルを握るその顔に神谷は寒気すら覚えた。
「…………」
神谷は押し黙っている。ただ、顔から滴る汗の量は増えているようだ。呼吸もすこし荒い。
それから十数分後、外の景色はビル群が遠ざかり辺りは工場が多くなってきた。海も近いようだ。車どおりもトラックなど、大型車が心なしか多くなっている。
「……そろそろ……ですね……」
恐る恐るだが、神谷が言葉が沈黙を破った。相変わらず汗は止まっていないが呼吸は落ち着き覚悟を決めたようだ。それにもう場所が近いようだ。
「ああ、もうこのあたりになるな」
相変わらず顔色一つ変えず、ハンドルを握っている。
「ん? ここのようだな」
あれから少し車を進めると、画像と同じ所に到着し、車を止めた。そこはかなり廃れた工場だった。ゴミやドラム缶などが捨てられ、窓は朽ち果て、割れ、くすんでいる。壁も錆で変色、破損している。ここだけ空気がよどんでさえ感じる。
「ここ……ですね。ここに大樹が……」
今にも走り出したい感情と死に向かっているかもしれないと言う感情がない交ぜになって複雑な感情になっているだろう。視線に落ち着きがなく、表情も百面相している。
「おい神谷、落ち着けよ」
そんな神谷を見かねてか桐生が声をかけたが何も聞こえない風で、何も変わらなかった。
「神谷、冷静になれ。お前が冷静にならなきゃ神童君は助けられないぞ。それでもいいのか?」
久遠が神谷の目を見つめながら厳しい口調で言い放った。
「お前がやらなきゃいけないんだ。誰も他に神童君は助けられないんだ。落ち着かないと、周りが見えないと全てが終わってしまうぞ。だからしっかりしろ」
すると、神谷の不安定だった視線は自然に戻り、久遠を見つめ返していた。それに少し目に光が戻ってきたようだ。
「行けそうか?」
今度は少し優しく問いかける。その言葉に神谷は小さくだが、首を縦に振った。
「よし、じゃあさっさと神童君を助けて戻ってこい」
神谷の後ろに回って背中を叩いて送り出す。それに反応し神谷は久遠の方を首だけ回し、久遠の顔、みんなの顔を見て頷き、そして前を向いて歩き始めた。