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第三話 三.異色な看板娘

 翌日の朝、天気は曇り空だった。さえずるスズメが群れをなして、どんよりとした上空を舞っていた。

 じいちゃんから授かったノートにある通り、オレは毎日の日課である玄関前の掃き掃除をしていた。とはいうものの、オレは怠慢にも二日に一回のペースでやっている。じいちゃんにばれたらきっと怒られるだろうな。

 オレがせっせと掃除に励んでいると、玄関先の道路に一台の赤い自転車が止まった。その自転車から降りて、アパートの方へ歩み寄ってきたのは、弛みない制服を着こなした郵便配達員だった。

「おはようございます、郵便です。」

「あ、どうもご苦労さまです。」

 ここは共同アパートなので、すべての郵便物は管理人がいったん預かり、宛名を確認してから、住人たち専用の郵便受けに入れている。これも管理人の仕事の一つなのだ。

 オレは早速、郵便物の宛名を確認してみたが、電気やガスといった公共料金の領収書関係がほとんどだった。

「あれ。」

 請求書に埋もれている、一通の茶色い封筒を見つけたオレ。

 宛名を見てみたら、住人のあかりさん宛てのものだった。よく見ると、この封筒にちょっと変わっている点があることに気付いた。

「五浦あかりへ・・・って。敬称が書いてない封筒って珍しいな。何だか、果たし状みたいだ。」

 親族からの手紙かなと予想しながら、オレは念のために封筒を裏返してみた。

 封筒の裏には”真倉夜未より”とだけ書かれていた。送り主の名前に間違いないと思うが、苗字からして、あかりさんの家族からではなさそうだ。

 どことなく疑念を抱きつつも、オレは封筒をあかりさん専用の郵便受けに入れた。

「よし、次はリビングルームの掃除でもするか。」

 スニーカーから室内用サンダルに履き替えると、オレはまっすぐにリビングルームへと向かう。

 リビングルーム付近までやってくると、誰かいるのだろうか、高らかな笑い声が聞こえてきた。ノックして入ってみたら、パジャマ姿のジュリーさんと潤が賑やかに談笑していた。

「二人とも、おはようございます。」

「Oh、グッモーニン、マサ。」

「マサ、おはよぉー。」

 ソファーに横たわって、腹筋運動をしているジュリーさん。テーブル席に腰を下ろして、牛乳をラッパ飲みしている潤。ここリビングルームの朝では、よく見かける光景だった。

「これから、ここの掃除始めますけど、いいですか?」

 ニ人に了承を得てから、オレはリビングルームの掃除を始める。モップを手にして床を磨いていたら、ジュリーさんと潤から、すっかり管理人が板に付いたと冷やかされてしまった。

「今度はこっちだな。」

 オレは床磨きを終えて、次はキッチン周りの掃除を始めた。

 ガスコンロの辺りには、最近自炊をしているせいか、油汚れや食べ物のカスが残っていた。台所を汚した者の責務として、オレは流し台をスポンジで丁寧に磨き上げた。

 必死になって掃除しているオレに、いきなり潤が声を掛けてきた。

「ねぇ、マサ、お願いがあるんだけどぉ。」

「ん、何、お願いって?」

 潤は飲みきってしまった牛乳パックを揺らしていた。

「あたしの牛乳なくなっちゃったからさぁ、悪いけど、後でいいから買ってきてくれない?お金テーブルに置いておくからぁ。」

 いくらなんでも、そのお願いに不快感を示したオレ。ところが、そんなことなど気にも留めず、潤はテーブルの上に小銭を置いていく。

「ちょ、ちょっと待ってよ、潤。私用まで管理人代行にさせる気か?」

「違うよぉ、これは単なるおつかい。どうせ、あんた午後買い物に行くんでしょぉ?その時、ついでに買ってきて。」

「おつかいって・・・。それを私用って言うんだよ。」

 そんな会話のやり取りを見ていたジュリーさんまで、ここぞとばかりにわがままを言い出す。

「それなら、わたしの缶チューハイもお願いネ。レモンかウメ割りのヤツでいいヨ。お金、後で渡すネ。」

「もう、ジュリーさんまでー。」

 結局、強引に押し付けられる格好で、オレはおつかいを受け入れることになってしまった。これも、嫌なことをハッキリ断れない、優柔不断な性格が災いしたのだろうか。

 朝刊に挟まった広告チラシを手に取って、オレは”牛乳”と”缶チューハイ(レモンかウメ)”の文字を書き綴り、そのチラシを忘れないように、ズボンのポケットにしまい込んだ。

「それじゃあ、よろしくねぇ~。」

 潤は二度寝のため、ジュリーさんはアルバイトのため、それぞれリビングルームを去っていく。ふて腐れる思いで、オレはそんなニ人の後ろ姿を見送った。


 =====  * * * *  =====


 台所周辺の掃除が片付いた頃、リビングルームの壁掛け時計は朝8時を知らせていた。

「よし、台所の掃除はこんなところで、後は後片付けぐらいかな。」

 戸棚から中性洗剤を取り出すと、オレは手を傷めないようゴム手袋をはめる。そして、水を張った洗面器に洗剤を数滴たらし、油で汚れたスポンジを浮かべた。

 次に、溜まっているゴミ袋をゴミ箱から外して、新しいゴミ袋を準備する。このゴミ袋をゴミ置き場に投げ捨てれば、リビングルームの掃除は終了となる。

「あ、あかりさん。」

 そんな最中、あかりさんがふらっとリビングルームに姿を見せた。

「おはようございます、あかりさん。」

「・・・おはよう。」

 覇気のない声で挨拶をするあかりさん。彼女は夜行性なのか、朝見かけるといつもこんな感じだ。

 あかりさんは漆黒の長袖シャツを着て、スラックス風のズボンを履いている。大きい封筒を抱えているところを見ると、彼女はどこかへ外出するようだ。

「これからお出掛けですか?」

「ええ。これから原稿持って出版社へ行くの。」

 あかりさんの職業は漫画家である。通例ならば、漫画の原稿は出版社の担当が受け取りに来るが、それほど有名な作者ではなく、有名な出版社や掲載雑誌ではない場合、作者自らが原稿を届けることもあると、あかりさんは淡々とした口調で話してくれた。

「午前中いっぱい外出するから、その間、留守を頼むわよ。」

 ここは共同アパートなので、住人全員、自室のカギと玄関のカギをそれぞれ持参しているが、面倒なのか、ほとんどの住人は玄関のカギを掛けずに出掛けてしまう。

 そういうこともあり、日中は、外出をすることが少ないあかりさんと、管理人代行のオレどちらかが留守番をしているのだ。

 ただし、夜の場合は開錠したままでは防犯上よくないので、住人が帰宅した際、内側からカギを掛ける決まりとなっている。つまり、最後に帰宅することが多い潤が、玄関のカギ当番と言っても過言ではない。

「了解です。あかりさんが帰ってきたら、オレも買い物に行ってきます。」

 リビングルームを出ていこうとするあかりさん。そんな彼女の後ろ姿を見ていたら、オレは彼女宛てに届いた怪しげな封筒のことを思い出した。

「そういえば、あかりさん宛てに封筒が届いてましたよ。郵便受けに入れておきました。」

「・・・ありがとう。」

 オレのことをチラッと一瞥すると、あかりさんは無表情のまま振り返ってしまった。

 付け加えるように、その封筒の宛先に敬称がなかった点についても、オレはあかりさんに伝えておくことにした。

「その封筒、変なんですよ。宛先が、五浦あかりへって書いてあって。何だか、果たし状みたいな感じだったんですよね。」

 あかりさんの動きがピタッと止まった。振り返った彼女の表情は、明らかに険しくなっていた。

「もしかして、その封筒の差出人は”真倉”と書いてなかった?」

「ああ、そういえば、そうだった気がしますね。やっぱり、お知り合いですか?」

 険しい顔のまま、きびすを返すあかりさん。

「・・・遠い昔の知り合いよ。」

 そう言い残して、あかりさんはそのまま玄関へと消えていった。

「あかりさん、どうしたんだろう・・・?」

 知り合いとは言っていたが、あの表情からして、あかりさんと差出人の間には、何か因縁めいた秘密でもあるのだろうか。あの封筒に中には、その秘密を解き明かす重要なことが書かれているに違いない。

 秘密主義のあかりさんのことだから、オレから尋ねたとしても、まともに答えてくれないだろうし、彼女の機嫌を損ねるのも怖いので、オレはしばらく様子を見ることにした。

「さてと、ゴミ捨てに行こう。」

 オレはゴミ袋を抱えたまま、室内灯を消してリビングルームを後にした。


 =====  * * * *  =====


 その日の夕方、駅東口にある図書館で勉学に励んだ後、オレは駅周辺をぶらぶらと歩いていた。

 濁った雲で空が覆われていたものの、幸い、雨は降っていなかった。時刻も夕方5時に近づいて、曇り空が少しだけ薄暗くなってきた。

「もうこんな時間か。今日はいつもよりも集中できたもんな。」

 アパートの管理人室でも勉強できるが、けたたましく鳴る電話の音や、住人たちの足音が気になって、勉強に集中できない時がある。少しでも静かな環境でと思って、オレはわざわざ図書館まで遠出したというわけだ。

「さて、今日の夕食はどうしよう。アパートに戻ってから料理するの面倒くさいな。」

 そんな気だるさを抱えたまま、オレはお馴染みの駅西口まで戻ってきた。

 ふと、オレは繁華街方面を見渡した。これから元気に営業とばかりに、飲食店が華やかな電飾を点し始めている。今日は土曜日だけあって、繁華街に吸い込まれていく人の群れも多く見受けられた。

 オレはそんな光景を目の当たりにしながら、昨日の夜のことを思い出していた。

「そういえば、浜木綿があるな。」

「串焼き浜木綿」で、麗那さんの親友がアルバイトをしているらしい。昨日海外から帰ってきて、今日から出勤していると、タクシーで帰宅する途中、彼女がそう話していた気がする。

「う~ん、どうしよう。ちょっと挨拶がてら、顔を出してみようかなぁ。」

 オレは財布の残金を確かめつつ、内心迷いながらも浜木綿へ足を向けることにした。

 路地沿いにあるラーメン屋や居酒屋では、店員が通り過ぎる人たちに割引チケットを配っている。その店員たちに呼び止められるたびに、オレは丁重に断りながら先を目指した。

 賑やかな繁華街を歩くこと数分、オレはついに浜木綿の前まで辿り着いた。

「あれ、まだ開店してないみたいだな。」

 お店は暖簾が掛けてあるものの、なぜか店内は薄暗かった。すでに夕方5時を過ぎているので、開店していると思うのだが・・・。

 怪しまれない程度に店内を覗き込んでみたオレ。薄暗いために、店内に人がいるかどうかはわからない。もしかして、開店準備に時間がかかっているのだろうか。

「あの、何か御用でしょうか?」

「わっ!?」

 背後から声を掛けられたオレは、慌てふためいてその場から仰け反ってしまった。

 オレのそばには、エスニック柄の半袖ブラウスを着た女性が立っていた。その女性は疑いの目で、オレのことを凝視している。

「別に怪しいものでは・・・。ちょっとお店に寄っていこうと思って来てみたら、店内が暗かったんで、まだ営業前なのかなぁと思って。」

 オレがうろたえながらそう話すと、その女性は表情を緩めて両手を叩いた。

「なーんだ、お客さんでしたか!ちゃんと営業してますよ。いらっしゃいませ、さささ、中へどうぞ。」

 その口振りからして、この女性は浜木綿の店員のようだ。ということは、この女性こそが、麗那さんの親友ということか。顔立ちからしても、彼女と同じぐらいの年代に見える。

 その女性は店内に入るなり、照明のスイッチを入れる。すると、ぼんやりとした暖かな灯りが店内に広がった。

「マスター、お客さんですよ!」

 店員の女性がそう叫ぶと、カウンターの奥からマスターが姿を見せた。

「いらっしゃい・・・!あら、マサくんじゃないかー。来てくれたのかい。」

 捻り鉢巻を頭に締めたマスターが、オレの顔を見て驚いた顔をしていた。オレが一人で訪れることなど、想定していなかったのだろう。

 本日最初のお客となったオレを、マスターは嬉しそうな笑顔で迎え入れてくれた。

「あれれ、マスター。このお客さんとお知り合いなんですか?何だかおどおどしてたから、初めてのお客さんかと思っちゃった。」

 お店の前で挙動不審だったオレを見ているだけに、店員の女性は唖然とした表情をしていた。

「知り合いも何も、サエちゃん、彼は麗那ちゃんのアパートの管理人さんだよ。」

「マスター、あの、管理人代行です・・・。」

 マスターは店員の女性に、つい先日、オレが住人たちと一緒に来店したことを話してくれた。それを聞いた彼女は、住人たちとも顔見知りのせいか、オレに対して親しみを持ってくれようだ。

「さーて、お仕事始めましょうか。さささ、お客さん、どうぞ座ってくださいね。」

 頭にバンダナを巻いて、アジアンチックなエプロンを身に着けた店員の女性は、カウンターに腰を下ろしたオレにメニューを差し出してくれた。

「わたしは九峰紗依子。浜木綿の看板娘でーす。これらもよろしく。」

 人懐っこく自己紹介してくれた店員の女性に、オレも応えるように自己紹介する。

「オレは一桑真人です。こちらこそ、よろしくお願いします。九峰さんのこと、麗那さんから伺ってます。」

「あらら、麗那から?どうせ、ろくなこと言ってなかったでしょうね。」

「そんなことないですよ。話し相手が少ないから、仲良くしてあげてって。」

 オレがそう答えると、やっぱりろくでもないじゃないと、店員の女性は苦笑しながら口を尖らせていた。

「それじゃあ、わたしとも仲良くしてね。わたしのことも、麗那みたいに気軽に名前で呼んでいいから。」

 そう言いながら、紗依子さんは愛敬ある笑顔を振りまいていた。

 紗依子さんは気取ってる感じではなく、親しみやすくて好感が持てた。しかも、麗那さんに負けず劣らず、スラリとした美人だった。

「マサくん、ドリンクはどうする?まずは、生ビールでいいかい?」

「あ、はい。お願いします。でも、今日は夕食なんで、一杯で勘弁してください。」

 メニューを拝借して、オレはごはん向きの料理を選ぶことにした。焼き鳥がおいしいので、無難にそれを選ぶのもいいけど、今夜は、この前とは違う料理にしてみたい気分だった。

 オレがしばらく迷っていると、マスターがとびっきりのお食事プランを提案してくれた。

「今日ね、いい甘鯛が入ったんだよ。甘鯛の塩焼きに、小鉢と漬物と味噌汁、そしておにぎりニ個で、ジャスト税込890円でどう?」

「あ、いいですね。それでお願いします。」

 注文が入った途端、マスターは真剣な面持ちで、甘鯛のさばきに取り掛かった。見事な包丁捌きで、活きのいい甘鯛があっという間に卸されてしまった。

「はいはいはーい、生ビールお待ちどうさまー。」

 生ビールジョッキを手にして、紗依子さんがカウンターへと駆け込んできた。

 まず一口、冷たい生ビールを流し込むオレ。蒸し暑さで渇いた喉を潤すその一口目は、言葉では言い表せないようなおいしさだった。

「でもマサくん、あのアパートの個性的な住人たちのお世話なんて、結構大変でしょう?」

「ははは、そうですね。始めてから一週間過ぎたけど、住人のみなさん、パワフルというか、ワンダフルというか・・・。でも、みんな素敵で、愉快な人たちだから、なんだかんだ楽しんでやってますよ。」

 オレと紗依子さんは、住人たちのいろいろな話題で盛り上がった。住人たちの失敗談から恥ずかしい話まで、彼女は遠慮なく言いふらしていた。もちろん、他言無用の条件付きだったけど。

 そんな雑談めいた話の流れから、オレは紗依子さん本人の意外な過去も聞くことができた。

「紗依子さんも昔、麗那さんと一緒にモデルしてたんですか?」

「あれれ、何か意外そうな顔してるじゃない。どういう意味かしら?」

 ペコリと頭を下げるオレに、紗依子さんはモデル時代の昔話を聞かせてくれた。

「わたしと麗那は、地元の短期大学出身でねー、たまたま短大在学中にね、ニ人で東京の街に遊びにきたらスカウトされちゃったの。こともあろうか、なぜか麗那だけねー。」

 ちょっとだけムスッとした紗依子さんは、そのまま話を続ける。

 そのスカウトの後、麗那さんは一人だと心細いからと、紗依子さんを誘って一緒にモデル事務所を訪れた。紗依子さんは付き添いだけのつもりだったが、たまたま事務所の社長の目に止まって、麗那さんと一緒にモデルデビューを薦められてしまったそうだ。

 そんなわけで、彼女たちは雑誌モデルのアルバイトという形で、一緒に活動することになった。

 しばらくの間、順調に撮影などの仕事を続けていたが、紗依子さんだけが、一身上の都合で仕事を辞めることになった。忙しさのあまり、ご両親の世話ができなくなってしまったため、致し方ない決断だったという。

 その後、一人残った麗那さんだけ事務所と専属契約し、現在に至るといった話だった。

「まぁ、今となってはいい思い出よねー。フフフ。」

 遠くを見つめる感じで、紗依子さんは物思いに耽っていた。モデルにまだ未練があるのか、彼女は少しだけ羨んでいるような表情をしていた。

「お待たせ、マサくん、甘鯛の塩焼きとおにぎり定食だよ。」

「おお、すごい。それでは、いただきます。」

 両手で合掌してから、オレはおいしそうな定食をごちそうになる。香ばしく焼けた甘鯛をつつき、鮭入りのおにぎりを頬張ると、いつもと違った贅沢さを味わえた。

 大げさかも知れないが、今夜の夕食は至福のひと時すら感じさせた。それには、マスターや紗依子さんとの楽しい語らいも含まれていたのだろう。

 それからしばらくの間、おしゃべりしながら和やかな時間を過ごしたオレ。ごちそうを平らげると、オレはマスターにお愛想を告げた。

「そうそうそう、マサくん、麗那に会ったら、ちょっと相談したいことがあるから電話するよう伝えてくれないかな。」

 お会計をしているオレに、紗依子さんがそうお願いしてきた。

「いいですけど・・・。でも、紗依子さんなら麗那さんの電話番号知ってるんじゃ?」

「恥ずかしい話なんだけど、こっちに帰ってきた途端、携帯電話のメモリーを誤って消しちゃったみたいで。だから、彼女の番号がわからなくなってしまったのよー。わたし、どうも機械が苦手でね。」

 そういう理由ならばと、オレは紗依子さんからのお願いを快諾した。

 それはそうと、携帯電話のメモリを消し去ってしまう誤操作とは、いったい何をしてしまったのだろうか?いくらメカ音痴にも限度があると思うけど。

「どうもごちそうさまでした。また近いうちにお邪魔します。」

 後ろ髪を引かれる思いで、オレは二人に別れを告げた。

 この先、どうやって節約するかと頭を悩ませながら、オレは繁華街の雑踏を掻い潜っていった。


 =====  * * * *  =====


「串焼き浜木綿」を後にしてから、オレはブラブラ散歩しながらアパートへ向かっていた。

 いつもと違う帰り道を一人歩くオレ。大通り沿いの店舗から明かりが消えていき、道路を通り過ぎる自動車も少なくなっていた。ざわついていた街並みが、ようやく休息のひと時を迎えたかのようだった。

 なんだかんだで遠回りして、オレがアパートの玄関に辿り着いた頃には、時刻はすでに夜9時を回っていた。

「あれ、リビングに誰かいるな。」

 リビングルームの窓から、明かりが漏れているのが見えた。ジュリーさんか麗那さんが、日課である晩酌をしているのかも知れない。

 オレは挨拶だけでもしようと思って、リビングルームへと足を向けた。

「ただいま帰りました。」

 リビングルームのドアをそっと開けると、テーブル席やソファの辺りに人の姿はなかったが、キッチンの辺りから小さな物音が聞こえた。

「あれぇ、おかしいな。確かに、ここにしまっておいたのに・・・。」

 独り言を言いながら、キッチンの辺りで探し物をしている女性の姿が見えた。探し物に集中しているらしく、オレの存在に気付いていないようだ。

 その声と格好からして、この女性が麗那さんとすぐにわかった。彼女はテーブル椅子の上に乗って、流し台の上にある食器棚の中を覗き込んでいた。

「麗那さん、何を探してるんですか?」

「あ、マサくん!ここに入れてあった、チーズ鱈知らない?」

 いつもの晩酌のお供に、しまっておいたチーズ鱈を出そうとしたら、なぜか、それがどこにも見当たらないのだと、麗那さんは困り果てた顔で訴えていた。

「もしかして、そのチーズ鱈って、最近テレビでCMしてるやつですか?」

「そう!”コミネの珍味、チ~ズ鱈~♪”でおなじみの。」

 オレの記憶の一部から、少し前にこのリビングルームで起きた、ある一コマが蘇ってきた。チーズ鱈のCMソングとともに。

「・・・そのチーズ鱈、たぶんもうないと思います。」

「え!?それどういうこと?」

「昨日の夕方前だったと思うけど、ジュリーさんと潤がここで、おいしいおいしいって、チーズ鱈つまんでいるの見た気がします。CMソング、二人で口ずさみながら。」

 悲鳴にも似た声を張り上げて、麗那さんは肩をガックリと落としてしまった。

 チーズ鱈と生ビールのコンビを余程楽しみにしていたのだろう。ジュリーさんと潤の名前を叫びながら、彼女は恨み辛みをぶちまけていた。

「ふえー、今日のおつまみどうしようかなぁ。買ってくるの面倒くさいし。はぁぁ・・・。」

 溜め息をつきながら、テーブル椅子へと腰掛ける麗那さん。しぼんだ風船のように、彼女は身を縮めて小さくなってしまった。

 少しでも麗那さんの助けになればと、オレは冷蔵庫の中身をチェックしてみた。残り物ではあるが、それなりな食材が保存されていた。これなら、簡単なおつまみぐらいは作れそうだ。

「麗那さん、簡単な冷菜感覚のおつまみでよければ、オレ作りますけど?」

 事情がよく理解できなかったのか、麗那さんは呆然とした顔をしていた。

「作るって、マサくんがおつまみを作ってくれるの?」

「ええ、本当に簡単なヤツですけどね。何もないよりはいいかな、と思って。」

 オレは冷蔵庫に残っていた食材の中から、豆腐、ちりめんじゃこ、玉ねぎ、そしてプチトマトを取り出して、料理の仕度を始める。

 まず手始めに、水を切った豆腐を四等分にカットしてお皿に盛り付ける。玉ねぎとプチトマトを細かく切って、ちりめんじゃこと混ぜ合わせた後、豆腐の上に乗せる。

 続いて、ポン酢醤油に塩と砂糖を軽く混ぜて作ったタレを、その豆腐の上にかける。最後に香り付けとして、ゴマ油を少量かけて完成である。

「できました。名付けて、中華風冷奴です。」

「すごーい、ちゃんとした料理になってるー!」

 麗那さんは豆腐を一切れ箸で摘むと、こぼさないようにそっと口元へ運ぶ。そして、口の中でゆっくりと味わう。

「うん、おいしいよこれ!マサくん、すごいね、こんなの作れちゃうなんて。」

「ありがとうございます。これ、玉ねぎの辛さとトマトの酸味、あと、ちりめんじゃこの香ばしさが、意外と豆腐に合うんですよ。ゴマ油の香りが、いいアクセントになってるんです。」

 感動しながら、オレにお礼をする麗那さん。冷蔵庫から缶ビールを抜き取って、彼女は中華風冷奴を肴に待望の晩酌を始める。そんな彼女にお付き合いしようと、オレも冷えた麦茶を持って、彼女の向かい側に腰掛けた。

「あ、そうだ。麗那さん、オレ今日の夕食、浜木綿に行ってきました。紗依子さんともお話してきましたよ。」

「そう、行ってくれたんだ。紗依子、元気そうだった?」

「お元気でしたよ。紗依子さんも個性的ですよね。いろいろお話してたら愉快な人だなぁって。」

 親友が元気だったと聞いて安堵したのか、麗那さんは穏やかな表情をしていた。

 その後、麗那さんは愚痴るように、紗依子さんのことをいろいろと暴露していた。仲睦まじい親友同士なのか、彼女たちはお互いに罵り合えるほど、気の合う旧知の仲だったようだ。

「あと、紗依子さんからの伝言で、麗那さんに相談したいことがあるから、電話が欲しいって言ってました。彼女に電話してあげてください。」

 その伝言と一緒に、紗依子さんの携帯電話メモリ消去事故のことを麗那さんに話したら、麗那さんは呆れ顔で渋々了解してくれた。

 缶ビールが底を突いたのか、麗那さんは晩酌終了とばかりに、空き缶とお皿を持って流し台へと向かう。

「食器はオレが洗っておきますから、麗那さんはもう休んでください。」

「いいの?・・・それじゃあ、お言葉に甘えて、よろしくお願いします。」

 小さくお礼をした麗那さんは、空き缶を捨てて、お皿を流し台に置いていく。交代するように、台所へ向かうオレとのすれ違いざま、彼女は艶やかな唇でつぶやく。

「マサくん、今夜はありがとう。また、おいしいおつまみ作ってね。おやすみ♪」

 麗那さんは赤らんだ頬でウインクすると、さよならしながらリビングルームを出ていった。

 オレは内心嬉しさを隠しつつ、お皿を擦るように磨いていた。今度はどんなおつまみを作ろうかなと、オレは頭の中で料理レシピを紐解いていた。

第三話は、これで終わりです。

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