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第三話 一.楽器店の前で

 今日の天気予報は曇り時々雨。見上げる空は、どんよりとした鉛色の雲に覆われていた。

 オレはじいちゃんが入院している「胡蝶蘭総合病院」に来ていた。お見舞いを怠ると、しつこいほど嫌味を浴びせられるので、オレはできる限りここまで足を運ぶようにしている。

「じいちゃん、元気にしてる?ほら、お土産持ってきたよ。」

 今回は、じいちゃんの好きなスルメイカのあたりめを持参しての訪問だ。あたりめを見るや否や、じいちゃんは大喜びでオレを迎えてくれた。

 細い指先を器用に使いこなし、じいちゃんはあたりめを裂いては口の中へと放り込む。じいちゃんは頑丈な顎を動かしながら、最高の味だ、と目を潤ませていた。

「どうじゃ、マサ。管理人の仕事ちゃんとやっておるか。」

「うん、授けてくれたノートのおかげで、何とかこなしてるよ。」

 東京へ出てくるまでは、受験勉強を基本とした私生活だったオレにとって、アパートでの生活は何もかもが新鮮だった。日々の仕事の大変さや、住人たちとのコミュニケーションなど、この数日間の出来事をオレはかいつまんで話した。

「そうか、そうか。」

 じいちゃんはニコニコしながら笑っていた。オレがちゃんと責務を果たしていることに、ホッとした様子だった。

「失礼します。」

 オレとじいちゃんが他愛もない雑談をしていると、病室のドアをノックする音が聞こえた。

 オレがどうぞと応答すると、体温計を持った看護婦が入室してきた。軽く一礼するオレに、彼女は天使のような微笑みで挨拶してくれた。

「おお、看護婦さん。今日も来てくれたかね。いやぁ、わし、嬉しいのう。」

「もう、おじいちゃんたら。これが看護婦の仕事なのよぉ。はーい、これから検温の時間ですよ。」

 看護婦は手馴れた手つきで、じいちゃんの脇の下へ体温計を差し込んだ。正しく計測できないからと、看護婦はじいちゃんに手を添えて、ベッドの上にゆっくりと横たわらせた。

「あなた、おじいちゃんのお孫さんですね。」

「はい、そうですけど。」

「今、お時間ありますか?少しだけお話を。」

 そう言うと、看護婦はオレを促しつつ病室を出ていく。横になっているじいちゃんに一声掛けると、オレは彼女の後ろ姿についていく。

「ごめんなさい、呼び出してしまって。」

 看護婦は深刻そうな表情をしている。何かをためらうような、戸惑いを隠し切れない様子だった。

 その看護婦の落ち着かない挙動に、オレの鼓動が少しずつ高鳴り出した。もしかして、じいちゃんの病状がよくないのだろうか。

 オレは不安な気持ちを隠しつつ、恐る恐る看護婦へ問いかけた。

「あの、じいちゃんのことで何か?」

「ええ、実は・・・。非常に言い難いことなんですけど。」

 途中で口ごもってしまった看護婦。やはり、じいちゃんの具合のことを伝えるべきか、伝えないべきか迷っているのだろう。

 しばらくの沈黙の後、看護婦は険しい表情を変えないまま、話の続きを語り始める。

「お孫さん、おじいちゃんにお土産持ってきてるでしょう。」

「はい?」

 オレは予想外の話に唖然とする。看護婦は話を続けた。

「特に食事制限があるわけじゃないけど、好物とはいえ、ビーフジャーキーや、スルメイカなんか食べていると、今の病気とは別の病気を併発しかねないんですよ。」

 看護婦は困惑した表情で、さらに話を続けた。

「おじいちゃん、三食残さず食べるし、暇さえあれば、売店で裂きいかやサラミ買って食べてるし、さらに、あなたからの差し入れでしょう。このままでは脂質異常症や高血圧症を引き起こしかねませんよぉ。」

 そう涙目で訴える看護婦。オレは呆然としたまま、その場で固まってしまった。

「そ、それじゃあ、うちのじいちゃんの具合は・・・?」

「具合なんて快調そのものです。なぜ入院しているのか、わからないぐらいですよぉ。」

 土下座する思いで看護婦に謝罪すると、オレは逃げるように廊下から立ち去った。

 じいちゃんが元気なことは嬉しい限りだが、病院関係者をこれ以上困らせないよう、オレは心の中で願うばかりだった。

「お、もうこんな時間か。そろそろアパートに戻ろうかな。」

 オレの腕時計は、午後2時15分を表示していた。雲行きも怪しかったので、オレはじいちゃんに挨拶を済ませて、早めにアパートへ帰ることにした。

 廊下の窓から雲行きを伺いながら、オレはじいちゃんの病室へと向かう。すると、正面からお見舞いにやってきたと思われる一人の女性とすれ違った。

「・・・すごい花束だ。」

 赤や黄色、ピンクに白など、その女性は鮮やかに彩られた花束を抱えていた。高貴な花の香りと、上品な香水の香りが、オレの鼻腔をほのかにくすぐった。

 不注意にも、その女性に目を奪われていたオレは、この時、正面から近づいてきた人影に気付かなかった。

「わっ。」

 オレはその人影とぶつかってしまった。幸いにも、お互いの肩が触れた程度で、正面衝突という最悪な事態は免れた。

「あ、すみません!」

 オレは慌てて、その人に向かって頭を下げた。オレの目の前には、仏頂面した一人の男性が立っていた。

 その男性は30歳代前半ぐらいで、背が高く端整な顔立ちをしている。白衣を身にまとっていたので、この病院の医師か関係者と思われた。

 オレと接触したことに苛立ったのか、その男性は不機嫌そうな顔でオレを見下ろしている。怒鳴られてしまうと思って、オレは姿勢を低くして身構えた。

「こちらこそ、申し訳ない。考えごとをしていたもので。では、急ぐので失礼します。」

 そう言い残し、その男性は素早く身を翻した。かなり焦っているのか、その男性は足音を響かせながら、オレのそばから歩き去っていった。

 じいちゃんの病室とは逆方向へ姿を消していくその男性。その後ろ姿を見つめて、オレはホッと胸を撫で下ろしていた。


 =====  * * * *  =====


「やばい、降りそうだぞ、これ。」

 見上げる上空は、相変わらずどんよりとした曇り空だ。今にも雨が降ってきそうな、そんな蒸し暑い天気だった。

 湿っぽさ漂う駅東西連絡通路を抜けて、オレはいつもの商店街を歩いていた。

 行き交う人々の手には、色とりどりの傘が握られていた。安いビニール傘や、有名ブランドのゴージャスな傘、そして、ピンクや黄色といったカラフルな傘など、持ち主の感性をそのまま映しているようだった。

「のんびりしてる場合じゃない。オレ、傘ないんだよね。」

 オレは汗ばむTシャツに不快を感じつつ、アパートへの帰路を急いでいた。

「あれ?」

 商店街沿いの店舗の前で、女性が一人、呆然と佇んでいる姿が見えた。歩み寄っていくと、その女性は見覚えのある女性だとわかった。

「ジュリーさんだ。あんなところで何してんだろ。」

 どうやら、ジュリーさんは店舗にある何かに見入っているようだ。

 そんなジュリーさんのもとへ、オレはゆっくりと近づいていく。ハッキリとは読み取れないが、彼女は物思いに耽って、物悲しそうな横顔をしていた。いつもの明朗闊達な彼女とは、明らかに違った印象だった。

 オレが声を掛けようか迷っていると、ジュリーさんはスッとその場から離れていく。あっという間に、彼女は商店街の雑踏の中に紛れ込んでしまった。

「いったい、何を見てたのかな。」

 ジュリーさんが見入っていた店舗の前までやってきたオレ。外壁に掛けてあった看板には、「パンジー楽器店」と書かれている。

「楽器店に、なぜジュリーさんが・・・?」

 そう思いつつ、オレはガラス張りの店内を覗き込む。楽器店らしく、サックスやホルン、それにトランペットといった吹奏楽器が並んでいた。

 営業中にも関わらず、店内には店員らしき人の姿はまるでなく、またお客さんが入っている形跡もなかった。

 店舗のガラス窓には、広告用のポスターが貼り付けてあった。よく見ると、あるジャズバンドのライブ開催を知らせるポスターだった。

「ジュリーさん、このポスターを見てたのかな。それとも、店内を物色してたのかな。」

 少なくとも、オレはジュリーさんが楽器に興味を持っていたり、ジャズに造詣が深いといった話は聞いたことがない。あの思い詰めた彼女の表情は、いったい何を物語っていたのだろうか。

 そんなことを考え込んでいたら、オレの頭の上に冷たいものが落ちてきた。その感覚は、次第に顔や手の甲にも伝わっていく。

「あ、雨だ。」

 見上げると、真っ黒な雲が上空を覆いつくしていた。恐ろしいことに、遠くの方角からゴロゴロと雷が鳴り出している。これは本降りになる前に帰らないと、びしょ濡れになってしまう。

 冷たい雨が降りしきる中、傘の花が咲き誇る商店街を、オレは猛ダッシュで駆け抜けていった。


 =====  * * * *  =====


 アパートの管理人室の窓から、オレは薄暗くなった外の風景を見つめていた。

 雨は土砂降りとなっていた。路面はすっかり水浸しで、至るところに水溜りができている。雨音と雷鳴が交錯し、激しい轟音が静かなアパート内に響き渡っていた。

「しかし、こんなに降ってくるとは。早く着替えなきゃ。」

 ずぶ濡れになったシャツとズボンを脱ぎ捨てると、オレはすぐさま、冷え切った体を温めるためシャワーを浴びることにした。

 いくら6月とはいえ、これだけの雨に打たれては風邪をこじらせかねない。オレはどうも、風邪をこじらせるとなかなか完治しない体質らしく、そのたびに苦労させられているので、余計に気を遣う必要があるのだ。

「ふー、体も温まったことだし、そろそろ夕食の準備でも始めるか。」

 身軽なトレーナーに着替えてから、オレはリビングルームへと向かう。

 食事代を少しでも節約しようと、オレは今晩の夕食は自炊することにしていた。その献立とは、豚肉の生姜焼きとキャベツサラダである。

 リビングルームの流し台へ到着するなり、オレは気合とともに、トレーナーの袖をまくり上げる。冷蔵庫にあった食材をまな板に並べて、オレは三徳包丁片手に下ごしらえを始めた。

 豚肉を生姜醤油に漬け込み、一緒に炒める玉ねぎを細切りする。そして、サラダ用のキャベツは、軽く洗浄してから千切りにした。

 次に、ガスコンロの上にテフロン加工のフライパンを乗せる。コンロに火をかけて、サラダ油を注ぎ入れてから、熱したフライパンへ豚肉を放り込み、玉ねぎを投入してから強火で炒める。

 仕上げに、残っていた生姜醤油で絡めると、おいしそうな音をさせながら、香ばしい臭いが辺りに充満した。

「うん、おいしそうにできたぞ。あとはお皿に乗せれば完成だ。」

 オレが手頃なお皿を探していると、住人がふらりと、リビングルームへと姿を現した。

「あれぇ、マサ、何してんのぉ?」

「うーん、グッ、スメル、いい臭いネ。」

 びっくりした顔をしている潤と、鼻を嗅ぐ仕草をしているジュリーさんだった。

「見ればわかるでしょ。今日のオレの夕食のおかずだよ。」

 潤とジュリーさんが、フライパンの中身を覗き込んでいる。

「わぁ、おいしそうだね。何これ?」

「豚肉の生姜焼きだよ。これなら、手軽に作れるし、ごはんのおかずにはもってこいだよ。」

 そう言いながら、豚肉の生姜焼きを洋風皿へと盛り付ける。アクセントとして、乾燥した鷹の爪の輪切りと、炒りゴマを振りかけたら、オレ流豚肉の生姜焼きの出来上がりである。

 おいしそうに出来上がった豚肉の生姜焼きに、住人二人は手を叩いて感心していた。

「Oh、ちょっと味見させて!」

「あたしも、試食してあげるぅ~!」

 飛びつくように、二人はオレの手料理をつまみ食いする。しかも、おいしそうな豚肉をしっかり選んでいた。

 味を吟味しようと、口の中でゆっくりと賞味する二人。数秒後、困り顔のオレに向かって、二人は声を揃えて叫んだ。

「おいしいじゃーん!」

 他の人に食べてもらったことなどなかっただけに、オレは生まれて初めて、自分の手料理を褒めてもらった。作り手としては嬉しい限りで、ちょっとだけくすぐったい気分だった。

「うんうん、これならさぁ、ごはんのおかずにバッチリじゃん。」

「そうネ。でも、わたしならお酒のおつまみでもいいワ。」

 そう称賛しながら、オレの手料理をつまみ食いし続けるニ人。彼女たちを見ていると、味見とか試食とかそういうレベルの話ではなかった。

 散々食い荒らした二人は、仕事へ出掛けるためリビングルームを出ていく。また作ってねーとオレに言い残して。

「・・・今度は材料代金と調理代金、しっかり請求するぞ。」

 そう嘆きながら、オレは豚肉の生姜焼きとキャベツサラダをテーブルの上に並べた。電子レンジで暖めたインスタントごはんとともに、オレは待望のディナーをいただく。

「うんうん、いける。」

 オレは誇らしげにうなづく。今度の夕食は何にしようかと考えながら、オレは一人きりの食事を楽しんだ。

「それにしても、ニ人とも食い過ぎだよ・・・。ぜんぜん、おかずが足りない。」

 侘しさいっぱいで、オレは真っ白いごはんを口いっぱいに頬張っていた。

ご意見、ご感想など、お気軽にお寄せください。

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