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第六話 二.志望校判定テスト

 午前中にやれるだけの管理人業務を終えたオレは、昼食を早々と済ませてから、本格的な受験勉強をスタートさせた。時刻はちょうど、午後1時を過ぎたばかりであった。

 オレはまず、復習を兼ねて得意科目から始めることにした。いつも苦手な科目から始めると、途中で根気が途切れて挫折してしまうことが多い。集中力を維持するには、そういう戦略を立てることも重要なのだ。

 それから二時間ほど、思っていた以上に勉学に励むことができたオレ。電話がうるさく鳴ることもなければ、住人たちみんなが不在だったこともあって、この静かな環境が幸いしてくれたと言っても過言ではない。

「ふぅ、ちょっと一息つこう。」

 大きく伸びをしてから立ち上がり、オレは小休憩とばかりに管理人室を出ていく。

 麦茶でも一杯いただこうとリビングルームへ向かう途中、オレはついでに共用トイレに立ち寄ることにした。このトイレはその名の通り、オレの他にも住人たちも利用することができる。

 実際のところ、自室にトイレがある住人たちがここに立ち入る機会は少なく、このトイレを使っているのは、もっぱらオレか来客ぐらいであった。

「あ、芳香剤がなくなりそうだ。」

 オレは便器の前に立ち、透明になりかけた芳香剤の容器を見ながら囁いた。さらに余計なことに、消臭スプレーまで切れていたことも思い出してしまった。

 いくらオレ以外があまり立ち入らないとはいえ、共用スペースである以上、ここで使う日用品はちゃんと補充すべきであろう。オレは渋々ながらも、買い出しに出掛ける決心を固めていた。

「せっかくだから、リビングで使ってるものもチェックしておくか。」

 リビングルームでよく切れてしまう日用品は、ハンドソープや食器洗剤、ゴミ袋にキッチンタオル、そして住人たちがよく使う割り箸ぐらいのものだ。

 リビングルームに到着するなり、その辺りの在庫状況を確かめてみたところ、補充しなければいけないほどの減り具合ではなかった。オレは心なしか、ホッと胸を撫で下ろしていた。

「出掛けようにも、住人が誰もいないんじゃ出掛けられないし。とりあえずは麦茶だな。」

 そんなことを心に思いながら、オレは冷蔵庫の中から麦茶ボトルを取り出す。そして扉を閉めた直後、冷蔵庫内の収納風景がオレの脳裏をチラッと過った。

「そういえば、ジュリーさんの缶チューハイが入ってなかったな。・・・うーん、あとからお願いされるよりは、前もって買っておこうかなぁ。」

 冷蔵庫そのものは共用でも、そこに保管される飲み物はオレの管轄外だ。とはいえ、もはや管理人の仕事の域を超えてはいても、住人たちの御用聞きがすっかり板に付いているオレなのであった。

 丁度よく一杯の麦茶を飲み干した頃、廊下の方角から女性の声と足音が聞こえてきた。その女性たちはこれまた丁度よく、留守番役のオレがいるリビングルームに寄り道してくれた。

「お帰りなさい。お二人一緒にお出掛けだったんですか?」

 アパートに帰ってきたのは、買い物袋をぶら下げたジュリーさんとあかりさんの二人だった。

 この二人曰く、出発した時は別行動だったそうだが、行った先で偶然バッタリと出会ったらしく、買い物を終えて二人一緒にアパートまで帰ってきたとのことだ。

 まだまだ屋外は暑かったようで、ブラウスの袖をまくり上げながら、ジュリーさんはエアコンのスイッチを投入する。一方のあかりさんも、さすがに耐えられないといった顔で、黒いジャケットを窮屈そうに脱ぎ去っていた。

「それにしても、9月に入ってもまだまだ夏って感じネ。ホントにお洋服に困っちゃうわヨ。」

「そうよね。日中はこんなだけど、夜は夜で結構涼しくなってしまうし。体調管理が大変よ。」

 ジュリーさんとあかりさんは困惑した様子で、買い物袋を置いてからテーブル椅子に腰を下ろしていた。

 オレはこのチャンスを逃すまいと、彼女たちに留守番を交代してもらい、補充すべき日用品の買い出しに出掛けようと考えた。

「あの、お二人にお願いがあるんです。オレこれから、ちょっと日用品の補充に行ってくるので、お留守番をお願いできませんか?」

 オレが両手を合わせてそう頼み込むと、ジュリーさんとあかりさんはお互いの顔を見合わせている。どちらが留守番を買って出るか相談するつもりなのだろうか?

 行ってらっしゃいという答えを期待したオレだったが、回答よりも先に、ジュリーさんから反対に問い返されてしまった。

「日用品の補充って、何を買ってくるつもりなノ?」

 オレは真っ先に、ジュリーさんの企みを頭の中で想像していた。きっと、お気に入りの缶チューハイが切れているから、ついでに買ってきてほしいとお願いするだろうと。

「共用トイレの芳香剤と消臭スプレーです。・・・そのついでに、ジュリーさんのお酒も買ってきますから、安心してくださいね。」

 おつかいを見越したオレの発言を聞いたジュリーさんは、突然プッと吹き出すと、あかりさんと一緒に声を出して笑い合っていた。

 何がおかしかったのかわからず戸惑っていると、ジュリーさんが買い物袋から取り出したものを、オレに見せびらかすように突き出してきた。

「マサが買おうとしてる日用品は、これのことよネ?」

 驚いたことに、ジュリーさんの両手には新品の芳香剤と消臭スプレーが握られていた。しかも、現在使っているものと同じメーカーの商品だった。

「ジュリーさん、これはいったいどういうことですか!?」

 オレが慌てふためいて真意を問うと、ジュリーさんはニコニコ顔で経緯を説明してくれた。

 ジュリーさんは缶チューハイ、あかりさんは粉末コーヒーをそれぞれ購入しようとスーパーへ立ち寄った際、たまたま共用トイレの日用品のことを思い出したのだという。

 頭に浮かんだものが同じだったことに共感した二人は、代わりに買ってあげることで、このオレをびっくりさせようと企んだというわけだ。

「これは作戦成功ネ。期待した通りの反応を示してくれたし。帰ってきてすぐだったから、思わず笑っちゃったのヨ。」

「それだけじゃなくて、ジュリーのお酒のことまで出たものだから、ついおかしくなってしまって。ごめんなさいね。」

 そんな企みがあることなど露知らず、オレはたった一人でうろたえていたようだ。それにしても、思いつくタイミングがほぼ同時期というのも、オレたちに不思議なインスピレーションでもあるのだろうか。

「そういうことだったんですか。ありがとうございます、どうもお手数を掛けました。」

 オレは恐縮しながら、したり顔している彼女たちにお礼を告げた。どうにも今日は、住人たちに手間を掛けてしまってばかりで、オレは負い目を感じずにはいられなかった。

 別会計してもらったレシートを受け取ったオレは、お待たせしては申し訳なく思い、彼女たちにすぐさま購入代金を支払った。

 いつも立て替え払いばかりのはずが、その逆に、代金を支払う側に立たされてしまったことに、ぎこちなさを隠し切れないオレだった。

「もし、まだお買い物があるなら、少しの間だったらお留守番してあげるわヨ。」

 ジュリーさんに悪戯っぽくそう言われて、照れ笑いを浮かべるしかなかったオレ。勉強もまだ途中だったこともあり、オレは出掛ける予定をキャンセルして、この場からすごすごと退散することにした。

 管理人室へと舞い戻る途中、オレは共用トイレに立ち寄って、使い古した日用品を新品のものと取り替える。ゴミとなった芳香剤の容器を見たその時、オレの頭の中に一つの疑問が浮上してきた。

「・・・でもジュリーさんたち、どうしてこれがなくなりそうなこと知ってたんだろう?ここに、ほとんど立ち入らいはずなのに。」

 不審を抱くことこそ愚問に思い、オレは住人たちのさりげないお手伝いに改めて感謝する。受験勉強も思いのほか捗って、今夜は久しぶりにぐっすり眠れる夜を迎えられそうだ。


 =====  * * * *  =====


 それから二日ほどが経過した。今日は日曜日、午前10時になろうかという時刻。

 オレはいつになく硬い表情で、リビングルームへまっすぐに足を向けていた。お話したいことがあるからと、住人たちに集合してもらうよう事前に連絡しておいたのだ。

 ここ最近、住人たちの様子がどうもおかしい。笑える意味ではなく、異変という意味合いのおかしさである。どうおかしいかというと、簡潔に述べるならば、オレに対する気配りが半端ではないのだ。

 庭掃除にゴミ捨て、それに日用品の買い出しならまだしも、昨日なんかは、電話や来客の応対まで自発的に買って出る始末だった。これではまるで、どっちが管理人代行なのかわからなくなってしまう。

「・・・やっぱり、あのことだろうな。」

 そのおかげなのか、オレはここ数日勉学に集中することができた。喜ぶべきはずなのに、なぜか素直に喜ぶことができない自分がいる。

 住人たちの心遣いには本当に感謝したい。しかし、このオレにも管理人代行としての意地もある。オレは緊張感で顔を硬直させつつ、住人たちが待つリビングルームのドアを開けた。

「おはようございます。」

 オレは朝の挨拶とともに、住人たちに集まってくれたことを感謝する。この場に集結してくれた住人たちは、それなりに多忙であっただろうが、不平不満を口にする者は誰一人としていなかった。

「おはよう、マサくん。わたしたちにお話があるみたいだけど、どうかしたの?」

 住人たちのリーダー役である麗那さんは、そわそわしながらも弾んだ声で尋ねてきた。彼女の声の雰囲気からして、オレの話が明るい話題だろうと思い込んでいるようだ。

 テーブル付近を見回してみると、目をパッチリ開けている奈都美、今にも眠りそうな表情をした潤、手持ち無沙汰で髪の毛をいじるジュリーさん、そして、瞑想に耽るような顔をしたあかりさんの姿もあり、このリビングルームに全員が集まってくれていた。

「せっかくのお休みの日曜日なのに、午前中から集まってもらって申し訳ないです。」

 そう前置きしてから、オレはいよいよ本題に入ろうと、深呼吸して気持ちを落ち着かせた。住人たちの視線を一手に受けながら、オレは重たくなりかけた口を開き始める。

「みなさんが、オレの仕事を手伝ってくれてること、すごく嬉しいです。ものすごく助かってます。みなさんがそうしてくれるのって、オレが勉強に集中できなくて悩んでいることを、麗那さんから聞いたからですよね?」

 オレが一人一人に目を向けながらそう尋ねると、住人たちは一様におぼつかない視線を空に飛ばしていた。そんな中、きっかけの当事者である麗那さんだけは、ばつが悪かったように顔をうつむかせてしまった。

「オレはそんなつもりじゃなかったんです。もちろん、結果として勉強に打ち込めたことは事実です・・・。でも、みなさんに手間や苦労を掛けさせてまで、勉強に集中したかったわけじゃないんですよ。」

 いつしかオレの感情は高ぶり、気付かぬうちに嘆かわしくそう叫んでいた。

 これには黙っていられないとばかりに、麗那さんは挙手しながらオレの名前を呼び上げた。しかしオレは、最後まで話をさせてほしいと、彼女の異議申し立てを制止してから続きを語っていく。

「だから、みなさんには、これまで通りでいてほしいんです。オレ、管理人の仕事も、勉強も精一杯がんばりますから。だからみなさんには、住人らしくというか、住人としてあるべき姿で・・・。」

「待って、マサくん!わたしたちの気持ちも聞いて。」

 麗那さんはもう耐え切れなかったのか、オレの話を遮るように怒鳴り口調でそう言い放った。

「わたしたちが手伝ってるのはね、マサくんに、ただ恩返しがしたかっただけなの。」

「・・・恩返し?」

 唖然としているオレを見つめながら、麗那さんは真面目な顔で大きくうなづく。そして、周りにいる他の住人たちも、彼女に続くように黙ったままうなづいていた。

「マサくんは、わたしたちことをいつも気遣って、みんなの苦悩や悲痛な思いを解消してくれたでしょう?だから今度は、マサくんのことを手助けしようって、住人みんなで話し合ったのよ。」

 オレのことを思いやる麗那さんの言葉に、同調するように相槌を打っている他の住人たち。それは、彼女たち全員の気持ちが一つであることを物語っていた。

「わたしたちはね、マサくんを困らせる気なんてないの。ただ少しだけでも、勉強に集中できるよう手助けがしたいだけ。それだけは、わかってほしいの。」

 麗那さんがそう締めくくると、他の住人たち一人一人も、このオレを労うメッセージを発信していく。

「あたしはさ、ご厄介になっている限り、積極的に手伝うつもりだよ。練習の合間になっちゃうけどね。」

「あたしもさぁ、ニャンダフルの面倒みるついでにさ、リビングのゴミとかできるだけ片付けるよぉ。」

 奈都美と潤の二人はそう言いながら、ちょっぴり恥ずかしそうにはにかんでいた。

「わたしは洗濯場によく行くから、その辺りの在庫補充ぐらいなら、アルバイト帰りにでもできるわヨ。」

「わたしもリビングの戸棚はよく見てるから、気付いた時は、原稿届ける時にでも買いに行けるわね。」

 ジュリーさんとあかりさんも、お互いに顔を向き合わせてそう話していた。

 ここは共用アパートであり、共用する場所は、オレだけではなく住人みんなで責任を負うべきもの、つまりは、ここに住まう全員で受け持つことが道理だろうと、麗那さんが最後に心意気を持ってそう締めくくった。

 オレは心の中が喜びで溢れているのに、なぜか声を出すことができずに呆けたままだった。あまりの嬉しさに絶句したのか、あまりの意外さにショックを受けたのか、この時のオレにはその答えが見つからなかった。

「マサくん・・・?どうかした?」

「・・・あ、いえ、何でもないです。ただ、どういうお礼を言ったらいいのかわからなくて。」

 麗那さんに声を掛けられて、オレは咄嗟にそんなありきたりな弁解を口にした。

「志望校判定テスト、もうすぐだよね?」

「は、はい。そうですね。」

 そのいきなりの質問に、志望校判定テストは四日後の木曜日に実施されて、その結果発表が同じ週の土曜日の予定だと、オレはありのままにそう回答した。

 麗那さんはクスッと微笑みながら席を立つと、オレの肩にそっと手を触れて優しい眼差しを向ける。

「それだったらね、そのテストの結果が、あなたにとって満足できるものだったら。・・・わたしたちにその報告を兼ねて、感謝の気持ちも伝えてほしいな。」

 愛らしい仕草でそう要望してきた麗那さん。そんな彼女に触発されたように、他の住人たちも一斉にイベントを開催しようと要求してくる。

 テスト当日に決起集会を開こうだとか、結果発表当日に報告会を催そうだとか、住人たちはすっかりお祭り騒ぎであった。結局この人たちは、オレを話のネタにして盛り上がりたいだけなのだろう。

「ちょっと待ってくださいよ。報告会ならまだしも、決起集会はいくらなんでも大げさですよ。」

 住人たちは残念そうな顔をしながらも、オレの否定的意見を尊重してくれて、報告会のみ開催する運びとなった。ちなみにその報告会だが、今週の土曜日の夜、ここリビングルームで執り行うこともこの場で決まった。

「マサくん、お話というのはこれでおしまいかな?」

「え?・・・あ、あの。」

 麗那さんの問いかけに、即答することができず口をつぐんでしまうオレ。彼女の優しい笑顔や、他の住人たちの楽しそうな雰囲気を肌で感じた途端、オレは喉元まで出掛かったあの決心をつい押し殺していた。

「・・・はい、これでおしまいです。貴重なお時間を割いてもらって、本当にすみませんでした。」

 オレは目一杯頭を下ろして、お手を煩わせたことにお詫びの気持ちを示す。そんなオレのことを勇気付けながら、住人たちはぞろぞろと自室の方へと引き上げていった。

 リビングルームを最後に出ていこうとした麗那さんが、オレの方へと振り向きながら、住人たちと勝手に相談してしまったことを謝罪してきた。

「ゴメンね。あなたに了解もなく余計なことしたばかりに、嫌な思いをさせちゃったみたいで。」

「いいえ、もう気にしてません。今となっては、住人のみなさんの親切さが痛いぐらいに嬉しいです。」

 照れくさく笑うオレを見て、ホッとしたような顔をした麗那さん。勉強も管理人業務もしっかりねと、暖かい激励メッセージを一言残して、彼女は軽やかな足つきでリビングルームを後にした。

 住人たち全員が集まってくれたこの機会にも、オレは結局、あの決意を表明するには至らなかった。ここまで来てしまったら、もうオレには、隠し続けるという選択肢しか残されていなかった。

「住人たちみんなが応援してるんだ。絶対、何としても目標ラインを越えなきゃ。よし、これから木曜日当日まで猛勉強してやるぞっ!」

 目標ラインを越えられなかった暁には、オレはこのアパートから・・・。敗走する自分の残像を振り払うように、オレは自らの闘争心に真っ赤な情熱をたぎらせる。

 オレは気付くことができなかった。この時の過信こそが、最終的に自分自身の首を締め付ける結果となってしまうことを・・・。


 =====  * * * *  =====


 それからの三日間、オレは予備校の行き来と自己学習の私生活に追われた。

 住人たちはみんな、オレにとても協力的だった。掃除清掃も、ゴミの片付けも、共用日用品の補充もすべて、率先的に手伝ってくれた。

 すごく嬉しかった。とてもありがたかった。住人たちみんなのおかげで、この上ないほど勉強に打ち込むことができた。

「これだけやれば、何も怖くはない。きっと、納得のいく結果を出せるはずだ。」

 オレはできる限りのことをやり遂げたつもりだ。もう迷いも後悔すらも言っていられない。あとは、いざ本番に向けて体調管理を整えるだけだ。

「それじゃあ、行ってきます。」

 早起きした住人たちに見送られて、オレは意気揚々とアパートを出掛けていく。

 志望校判定テスト当日は穏やかな秋晴れだった。澄み渡るような青空まで、オレのことを応援しているかのようだ。

 ちゃんとした朝食を摂り、早寝早起きを実践したせいか、オレの体調は思いのほかバッチリである。これはいい結果が出せるだろう。オレはそんな予感がしてならなかった。

 いざ予備校に到着すると、オレと同じ志を持った若者たちがぞろぞろと群がっていた。いくつもの緊張した顔を見ていると、このオレの気持ちまでも緊張感に包まれてしまう。

「大丈夫、ここまでやってきたことを試すだけだ。落ち着いていこう。」

 オレは大きく息を吸い込み、そして思い切り吐き出す。そんなありふれた動作を数回繰り返してから、指定された座席に腰掛ける。

 机の上に受験票を置き、もう一度座席番号に間違いがないか確かめてみた。よし、合っている。これも落ち着いてきた証拠だろう。

 愛用してきた筆入れから、シャープペンシルと消しゴムを取り出して、それを机の上に並べてしばし待つ。

 ついに答案用紙が配布されると、静まり返った試験会場が異様な空気に覆われていく。聞こえるはずのない時計の音が、オレの鼓膜をチクチクと突いてくる。

「それでは、始めてください。」

 試験監督の凛々しい声を皮切りに、いよいよ志望校判定テスト、オレにとって一つの節目となるテストが幕を開けた。

 答案用紙をめくる音や、机の上を叩くペン先の音が響く中、オレの鼓動までもがやかましく鳴り響いた。一問目を黙読した瞬間、その鼓動は躍るような高鳴りに変わっていた。

「・・・わかる、わかるぞ。これなら解ける!」

 それは幸運なスタートダッシュであった。二問目、そして三問目を目で追うごとに、オレの不安は自信へと移り変わっていった。

 もちろん途中でつまづく問題もあり、そのすべてを解くことはできなかったが、それでも、オレは予想以上の達成感を得ることができた。

「それでは、試験開始1時間が経過しました。途中退席が可能ですので、解答用紙を裏返してから速やかにご退席ください。」

 試験監督の事務的な声が会場内に響いた。解答用紙を埋めたのであろう受験生たちが、何が忙しいのか知らないが、慌ただしく離席して会場から姿を消していった。

 退席する足音が聞こえる中でも、オレは立ち上がることなく居残り続けた。何かを悟ったように目を閉じて、オレは心の中で余裕の笑みを浮かべている。

「うん、これならきっと何とかなるだろう。目標ライン越えも現実味を帯びてきたぞ。」

 心の奥底でそう確信していたオレの顔は、きっと傍目から見たら、怪しくほくそ笑んでいるように見えたに違いない。オレの心境はそれぐらい、緊張から解放されて緩みに緩み切っていたのだ。

 テスト終了10分前となり、オレは最終確認するように解答用紙を睨みつける。ちゃんと受験番号と名前は記入したか?マークシートはずれて塗り潰していないか?慎重に慎重を重ねてチェックを済ませていった。

「それでは試験終了時刻となりました。解答用紙を裏返してから退席してください。みなさん、大変ご苦労さまでした。」

 ポーカーフェイスの試験監督が労いの言葉を投げかける中、オレは安堵の吐息を漏らしながら離席する。そして、さまざまな顔色を浮かべる戦友たちを横目に、ざわめき立つ試験会場から離れていった。

「うーん、ようやく終わったぁ!結果発表までは、ちょっとばかりのんびりさせてもらおうかな。」

 オレは予備校の正面入口を背にして、大きく伸びながら唸り声を上げる。しばらく根詰めて勉強していたせいか、テストを終えたオレの気分はまさに、今日のすがすがしい天気のように晴れやかだった。

 すっかりルンルン気分のオレは、ストレス発散とばかりに、駅周辺の店舗を散策していくことにした。ゲームセンターやDVDショップ、駅構内にある本屋などに立ち寄り、久しぶりに束縛されない自分を楽しんだ。

「でも、住人たちにはどう言おう?やっぱり、結果がわかるまでは謙遜しておこうか。」

 きっと住人たちから、どんな手応えだったか根掘り葉掘り問い詰められてしまうだろう。ここで出来栄えが良かったと思わせるよりは、少しばかり自信なさげにした方が、いざ結果が良かった時の喜びも大きいはずだ。

 不本意な顛末など一寸たりとも考えることなく、オレはそんな意地悪な目論見をニヤニヤしながら思い浮かべていた。

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