第六話 一.東京で過ごした三ヶ月
それから数日後のこと。「胡蝶蘭総合病院」で入院しているじいちゃんから一本の電話があった。それは、退院の日が決まったこと、そして、急用があるからすぐにでも来てほしいという話だった。
嬉しい気持ちの反面、オレは不安に駆られながらじいちゃんのもとへと駆け付ける。その急用とは、退院する日が決まったせいか、病室にある荷物の整理を手伝ってくれという些細なものであった。
「じいちゃん、この雑誌はどうするの?持って帰る?それとも、捨てちゃう?」
「ああ、それはもういらんな。捨てる方にまとめておいてくれ。」
オレとじいちゃんはそんな感じで、戸棚の中で眠っていた雑誌の類を整理していたというわけだ。
ふと思い返してみると、じいちゃんが入院してからもうすぐ三ヶ月が経とうとしている。つまりオレが東京にやってきて、アパートの管理人代行を務めてから、もうそれぐらいの期間が経過したことになる。
アパートで暮らし始めてからというもの、受験勉強ばかりだったしがないオレの生活は一変した。住人たちとの触れ合いや、いろいろな人たちとの出会いが、孤独なオレに親しみのある心の交流を広げてくれた。
長かったような、短かったようなこの三ヶ月。古雑誌の束をビニール紐で固く結びながら、オレは感慨深くそんなことを振り返っていた。
「・・・じいちゃんには、ちゃんと伝えないといけないな。」
心の奥底で、独り言のようにそうつぶやいたオレ。悩みに悩んだ末に決意したあのことを、少なくともじいちゃんにはきちんと話しておくべきだろう。
あらかた荷物が片付き終わると、じいちゃんは一休みしようと言ってきた。お茶を淹れてくれと、このオレに命令口調で指示しながら。
「いやはや、ここまで長く居座ると、お別れするのもまた悲しくなるもんじゃな。」
じいちゃんはお茶をすすりながら、寂しそうな顔で目を細めている。じいちゃんのことだから、寂しさの対象はきっと看護婦のことに違いない。
オレがいつもの調子でそう茶化してみたものの、今日のじいちゃんはいつもと違ってどこか哀愁を漂わせていた。
「住めば都じゃよ。居心地のいい場所との決別というのは、本当に寂しいもんなんだ。おまえにも、そういう経験があるんじゃないか?」
じいちゃんにそう問われたオレだったが、入院生活を経験したことがないせいか、それらしいエピソードもないままこの話はうやむやに終わってしまった。
頃合いを見計らっていたオレは、いよいよあの決意を表明しようと気持ちを引き締める。温めのお茶を一気に飲み干すと、オレは意を決したように、真面目な顔つきで話題を切り替えた。
「あのさ、じいちゃん。伝えておきたい話があるんだ。」
オレの思惑をまだ知らないじいちゃんは、いつもと変わらない表情で耳を傾ける。
「じいちゃんが退院したらさ、ほら、アパートの管理人室に帰ってくるわけだよね。もちろん、管理人の仕事にも復帰することになるだろうし・・・。」
まだ話の途中だったにも関わらず、じいちゃんがいきなりオレの話を遮ってきた。
「何じゃ、部屋の心配をしとるのか?それには及ばんよ。今アパートには、奈っちゃんを含めて住人が五人だから一部屋空いておる。おまえはそこに移ればいいんじゃよ。」
オレの居所がなくなることを懸念してか、じいちゃんはそんな心遣いを示していた。自室の心配事ではないと言いつつ、オレは話題を本筋に戻そうとする。
「じいちゃんがアパートに帰ってきたらさ、管理人代行という目的というか、理由がなくなるわけだよね。だから、オレがその、アパートにいる理由というか、その何ていうのかな・・・。」
なぜか途中でためらってしまい、オレは歯切れの悪い言葉を繰り返していた。伝えるべきことが喉まで出掛かっているのに、どういうわけか次なる言葉に詰まってしまう。
煮え切らないオレを見据えながら、怪訝そうな顔色を浮かべているじいちゃん。さすがに痺れを切らしたのか、オレのお尻を叩かんばかりに嫌味っぽく叱りつけてきた。
「おいおい、マサ。何が何だかさっぱりわからんよ。それじゃあ、わしに伝わらないまま日が暮れてしまうぞ。」
「・・・わかってるよ。もう一度最初から言い直すから。」
オレは今一度仕切り直して、伝えるべく決意について話を切り出す。
じいちゃんという本来の管理人が帰宅すると同時に、代行を務めていたオレの役目も終わる。大学合格を成し遂げるため、これからは受験勉強だけに集中させてほしいという願いを、オレは包み隠すことなく、素直なままにじいちゃんに打ち明けた。
「なるほどな。・・・それで、どうしたいんじゃ?」
「もうすぐ、通ってる予備校で志望校判定テストが実施されるんだ。一応、オレなりに目指している大学があるからさ、それまでに必死に勉強して、オレ自身の実力を試してみようと思ってる。」
じいちゃんは黙り込んだまま、オレの取り留めのない話を聞き入っている。要領をぼかしたような言い方に、少しばかり苛立っているように見えなくもなかった。
「まだ住人のみなさんには伝えてないんだけど。その志望校判定テストで、もし目標ラインに届かなかったらさ。」
オレは居たたまれなくなり、じいちゃんから目を逸らしつつ、悩み抜いた末の決心をついに明らかにする。
「・・・オレ、新潟の実家に帰ろうと思ってるんだ。」
この決断こそが、今のオレの本心そのものだった。
アパートにいることが成績向上の妨げになるとしたら、所詮それは言い訳に過ぎないかも知れない。しかしオレは、それぐらい自分を追い込まなければ、学業成就という勝機を掴むことができないと感じていたのだ。
自分勝手かも知れないオレの胸のうちを聞いても、じいちゃんは眉一つ動かすことなく口を閉ざしていた。驚いているのかも、喜んでいるのかもわからない顔つきのまま、じっとオレのことを凝視していた。
「もちろん、帰りたいからそうしたいわけじゃないんだ。成績が上がる努力は惜しまないつもりだよ。オレだって、住人のみなさんとこんな形で別れたくはないし。」
その気持ちも、オレの本心であることに違いはなかった。だからこそ、受験勉強と住人たちとの楽しい生活を天秤にかけて、オレは迷いに迷い、そして悩むだけ悩み抜いたのだ。
伝えるべきことをすべて話し終えると、オレは疲れ切ったように黙り込んでいた。
無言を貫いているじいちゃんの表情は思った以上に硬い。張り詰めた雰囲気に包まれた病室で、オレは息苦しい空間を彷徨うような気分だった。
「・・・本気で言っておるのか?」
久しぶりに口を開いたじいちゃん。それは重みがあって、気迫すら感じさせる問いかけであった。
「うん、もう決めたことだから。それにこんな大事なこと、嘘で言えるわけないよ。」
オレの本気の度合いをどう感じ取ったのか定かではないが、じいちゃんはようやく表情を少しだけ緩めてくれた。
「そうか・・・。」
そう一言だけつぶやき嘆息すると、じいちゃんはお茶を一口飲んでから語り始める。
「申し訳なかったな、マサ。わしはどうやら、おまえに随分苦労を掛けてしまったようじゃな。わしの代わりによくここまで管理人を務めてくれた。本当に感謝しとるよ。」
そんな謝罪と謝礼の言葉を口にしたじいちゃん。いつもだったら、オレのことを冗談半分で褒めるところだろうが、今日に限っては、しわくちゃの笑顔すら見せない寂しいものだった。
「マサ、わしはおまえを引き留められる立場ではない。これからのことは、おまえ自身が決めることじゃ。」
「じいちゃん、ありがとう・・・。」
オレの主張を暖かく受け止めてくれたじいちゃんだったが、人差し指を一本だけ突き立てて、管理人としてこれだけは怠るなと注文を付けてきた。
「いいか。ここで話したことは、住人のみなさんにも必ず伝えるんじゃぞ。絶対に秘密のままにするんじゃないぞ、わかったな?」
たやすいことだと言わんばかりに、オレは意気揚々と胸を張ってうなづいた。しかし、この時のオレには、住人たちにこの決意を打ち明ける勇気などなかった。
正直、住人みんなの反応が怖かったのだ。そして何よりも、喜ばれたり悲しまれたりといった彼女たちの思いを、今のオレに受け入れるゆとりがなかったからだ。
だからこそ、オレは無我夢中で勉学に励むつもりだ。志望校判定テストの結果が良ければ、これまで通りアパートで暮らしていける。じいちゃんに申し訳ないと思いつつ、オレはそんな願望を思い描いていた。
「それはそうと、マサ。管理日誌はちゃんと書いておるか?」
じいちゃんの言う”管理日誌”とは、オレから管理人業務を引き継ぐための、これまでの出来事を記録したノートのことだ。
「もちろん書いてるよ。まだ終わってないけど、じいちゃんが退院する頃には書き上がると思う。さすがにノートが真っ黒になるまで埋めることはできないけどね。」
退院してアパートに帰ってから渡されても意味がないと、退院前には書き終えるようじいちゃんに約束させられてしまったオレ。これも管理人の仕事の一つと思えば、否が応でも従うしかないのかも知れない。
それから十数分ほど雑談した後、ゴミに分別されてしまった雑誌類を手に抱えて、オレはじいちゃんの病室に別れを告げた。
病院の廊下の窓から、明るくて眩しい日光が射し込んでいる。少しでも心を晴れやかにしたいオレは、その日差しを全身に受けながら廊下をゆっくりと歩いていった。
===== * * * * =====
翌日の朝は、澄み切った青い空が目に眩しいすがすがしい朝であった。
心地のよい穏やかな朝7時過ぎ、オレは管理人室の机の上に勉強道具をいそいそと並べていた。いよいよ、志望校判定テストに向けた集中学習の幕開けである。
とはいえ、じいちゃんが帰ってくるまでは管理人を代行しなければならない。オレは一通りの準備を済ませると、朝一番の日課となる庭掃除から始めることにした。
「何だかんだ、庭掃除が一番面倒で、時間がかかるんだよなぁ。」
オレはそう愚痴をこぼしながら、玄関のドアを開けて優しい陽光が降り注ぐ庭先へと赴く。
庭掃除用の箒を握り締めて、いざ掃き掃除を始めようと思った瞬間、オレはとある異変に気が付いた。
「・・・あれ、盆栽が濡れてる。」
どういうわけか、じいちゃんの大切な盆栽たちはすでに散水された後だった。この濡れ具合からして、ついさっき水遣りしたばかりのようだ。さらによく庭を見渡してみると、目にするはずの、風で落ちた葉っぱや花びららしきものも見当たらない。
すっかりやることを失ってしまったオレは、庭先でただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
「マサ、おはよー。」
首を傾げたまま突っ立ているオレに、背後から朝の挨拶してきた人物。オレがすぐさま振り返ると、そこにいたのは、朝早くからさわやかな笑顔をこぼす奈都美であった。
奈都美はこれから練習に出掛けるのか、上下ともトレーニングジャージを着用している。
「おはよう、奈都美。サッカーボール持ってないけど、今から練習に行くの?」
「サッカーの練習はとっくに終わってるよ。これから軽めのジョギングなんだ。」
オレの質問に、奈都美は元気いっぱいにそう答えていた。サッカーの練習だけでもハードだというのに、彼女のスタミナは本当に計り知れない。
「マサは何してんの?言っておくけど、庭の掃除だったら必要ないよ。体をほぐすついでに、あたしがさっきしておいたから。」
あっけらかんとそう告白してきた奈都美。よくよく考えてみれば、こんな朝から掃除ができるのは、朝型人間の彼女しかいないだろう。
「やっぱりそうだったのかぁ。ありがとう、奈都美。」
それはオレにとって嬉しい行為ではあるが、いくらついでとはいえ、本来なら住人にさせるべき作業ではないのもまた事実。オレがそのことを伝えると、奈都美は照れくさそうに顔をポリポリと掻いていた。
「あたしさ、ほら、これでも下宿している身じゃない。お休みの時ぐらいは、できるだけマサのお手伝いをしようと思ってさ。」
お世話になりっ放しでは悪いからと、奈都美はそんな心優しい気遣いを見せる。
とは言うものの、奈都美は日曜祝日の時には、積極的にリビングルームのゴミの片付けを手伝ってくれていた。このオレとしては、それだけでも十分に助かっていたのだ。
「奈都美の気持ちはすごく嬉しいけどさ。奈都美は奈都美で、サッカー選手という仕事があるんだし。そんなに気を遣わなくてもいいんだ。」
「それはわかってるよ。あたしもさ、できる時だけそうするつもりなの。だから、そんなに深く考えなくていいから。」
あくまでも余力の範囲で手伝うことを強調する奈都美。そこまで言われて拒む理由などないオレは、彼女のその気配りを快く頂戴することにした。
「よし、それじゃあ、あたしはひとっ走りしてくるよ。じゃあね!」
奈都美はニッコリと微笑みながら、軽やかな足取りでアパートから駆け出していった。そんな彼女の背中を見送ってから、オレは次なる仕事をこなすためにアパートの中へと戻っていった。
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管理人としてのオレの次なる仕事は、リビングルームにある流し台の清掃と床のモップ掛けである。
リビングルームは共用スペースということもあり、モップ掛けの掃除だけは日課となっている。猫のニャンダフルが住人の仲間入りしてからは、抜け毛やエサの残りがあちこちに散らばって、これがまた掃除が結構大変なのだ。
「面倒くさがっても仕方がない。早々と済ませて、勉強始めないとな。」
やる気を奮い起こしつつ、オレはリビングルームのドアを開けてみると、誰もいないと思っていた室内で一人の住人の姿を目で捉えた。
その住人はリビングルームの片隅で、小さい背中を丸めて屈んでいる。乱れた茶色い髪の毛から、その住人が潤であることは一目瞭然だった。
「おい、潤。そこで何してるんだ?」
オレの呼びかけに、潤はいかにも寝起きといった顔を振り向かせる。いつも見るたびに思うのだが、彼女の顔立ちは朝と夜の落差がとんでもなく激しい。
「おはよぉ~。ニャンダフルにご飯あげてたのぉ~。」
かなり眠たいのだろうか、潤はいつになく間延びした声でそう回答した。
潤の見つめる先には、エサまっしぐらのニャンダフルの姿が見える。リビングルームに入ってきたオレのことなど、まるでお構いなしといったところか。
「こんな早い時間に珍しいじゃないか。いつもニャンのエサのことは、オレに任せっきりのくせに。」
「この子はぁ、あたしの息子みたいなものだもん。ずっと、あんたにばっかり世話させられないでしょぉ?」
オレに背中を向けたまま、潤はようやく責任者らしい自覚ある発言をしていた。いずれにせよ、エサをあげる係から解放されるのは、今のオレの現状からしたらありがたいことだ。
微笑ましい人と猫の親子(?)の姿を見ながら、ゴミの片付けをしようと流し台までやってきたオレ。新しいゴミ袋を広げながらゴミ箱を開けてみると、オレは思いも寄らない光景を目の当たりにする。
「あら?・・・ゴミ箱が空っぽだ。」
なぜか、すでにゴミ箱がきれいさっぱり片付いていて、見た感じでは、ゴミ袋も新しいものに交換されているようだ。
独り言のようなオレのつぶやきが耳に届いたのか、潤が化粧っ気のない顔をこちらに向けてきた。
「流し台のゴミなら、さっきあたしが捨てておいたよぉ。」
まさに予想だにしない、信じ難い事実をさらりと言ってのけた潤。それもそのはずで、彼女が進んでゴミ捨てしてくれたことなど、オレの知る限り一度もなかったからだ。
どういう風の吹き回しだとオレが尋ねると、潤は単なるついでだからと、さっきの奈都美と同じような反応を示してきた。
理由はどうであれ、手伝ってくれるのは嬉しい限りだが、習慣が乱されたようでどうも調子が狂ってしまう。
「潤、ありがとう。でもさ、これはオレの役目なんだから、あんまり仕事を取らないでくれよ。オレのやることがなくなっちゃうからね。」
オレが苦笑しながらそう言うと、潤はボソッとつぶやくように口を開いた。
「やることないならさぁ、勉強でもしたらいいじゃん・・・。」
「えっ?」
予想もしなかった潤の発言に、オレは思わず驚きの声を上げてしまった。
潤はたった今の発言をごまかすように、これから二度寝すると言いながらもっそりと立ち上がる。そしてオレが凝視する中、大きなあくびをしつつリビングルームから出ていこうとした。
「なぁ、潤。今のって・・・?」
「おやすみ、マサぁ。リビングのモップ掛けがんばってねー。」
オレの疑問などお構いなしに、潤はひらひらと手を振って、リビングルームから姿を消してしまった。流し台で一人佇んでいるオレは、開いた口を塞ぐことができず、ただ呆然と立ち尽くすだけだった。
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