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第三話 三.人に優しくできること

 あの騒動から二日ほど経ったある朝。お天気は上々で晴れ渡る青い空が広がっている。

 すがすがしい朝のリビングルームでは、寝ぼけ眼をした潤とジュリーさん、そして掃除をしているオレがいた。そんなオレたち三人は、あかりさんと真倉さんの騒動について語らっている最中だった。

「へぇ~。そんなことあったんだぁ。やっぱり、あかりって姉妹がいたんだね。」

「でもよかったネ。あんな怒鳴り合っていた姉妹が、一応は、スマイルな感じになったんだから。」

 牛乳パックをラッパ飲みしている潤と、エクササイズ体操で汗を流すジュリーさん。二人とも、あの姉妹が平和的に和解したことを心から喜んでいたようだ。

 真倉さんはこのアパートで一日だけ静養した後、あかりさんに連れられて「胡蝶蘭総合病院」へ精密検査を受けに行った。その結果、外傷も後遺症もなくまったく問題はなかったそうだ。さすがに、肉体の鍛え方が常人とかけ離れている、真倉さんだけのことはある。

 真倉さんは現在、ビジネスホテルで宿泊しており、東京観光をしてから大阪の道場へ帰るつもりだという。その帰宅する日がまさに今日だったはずだ。

「それじゃあ、あかりはこれから、その姉妹と観光に出掛けるってことぉ?」

「たぶんね。観光がてら、真倉さんを東京駅まで見送るつもりだと思うよ。」

 そんな会話をしている矢先、階段を下りてくる小さな足音が聞こえてきた。麗那さんは仕事に出掛けているので、この足音の正体は、話題のあがった人物であるあかりさんということになる。

 ドアをそっと開けるなり、リビングルームに入ってきたあかりさん。彼女はオレたちに向かって、いつもと同じく低い声で朝の挨拶を交わした。

「あかりさん、おはようございます。」

 あかりさんは外出するためか、黒いジャケットに灰色のインナーシャツ、そして茶色いスラックスパンツという地味ないでたちだった。それはいいのだが、今朝は一点だけ、いつもの外出とは違う箇所があった。

 皮製で光沢のあるボストンバッグ。あかりさんのほっそりとした右手に、こんもりと膨らんだそのバッグが握られていたのだ。

「あれ、あかりさん。そんな大きなバッグ持って、真倉さんと観光地を回るんですか?」

 オレのその問いかけに、あかりさんは澄ました顔のまま回答する。

「みんなに伝えておくことがあるの。わたしね、これから大阪の実家へ戻ることになったの。だから、今日からしばらくの間、アパートを留守にすることになったわ。」

 そのあまりにもあっさりとした答えに、牛乳を飲んでいた潤も、体操をしていたジュリーさんも、そしてこのオレもが唖然として硬直してしまった。

「い、いきなりですね!?な、何がどうなっちゃったんですか?」

 漫画家を続けていくためにも、このたびの騒動の発端である父親のことを説得する必要がある。あかりさんは真倉さんに迷惑を掛けたお詫びも兼ねて、この機に道場へ帰って、父親と腹を据えて話し合おうと決心したらしい。

「頑固親父にガツンと物申してくるつもりよ。せっかく帰るなら、少しばかり気分転換もしてくるわ。幸い、漫画原稿も一カ月分は制作済みだからね。」

 あかりさんの決心を耳にして、動揺しまくっている潤が彼女の腕にすがりついてきた。

「えぇ、待ってよ、あかりぃ!それじゃあ、8月のお楽しみ会はどーすんのぉ!?奈都美のサッカー観戦に行けないってことぉ?」

「心配しないで、潤。奈都美のサッカー観戦の日曜日までには帰ってくるわ。」

 涙目になっている潤の髪の毛を、あかりさんは優しく撫でている。ぼさぼさの髪をとかされた潤は、あかりさんの前でニッコリと微笑んでいた。

「親子、姉妹水入らずだネ。せっかくだから、思い切り羽を伸ばしてくるといいヨ、あかり。」

「ありがとう、ジュリー。わたしがいない間、留守番で面倒掛けちゃうけど、よろしくね。」

 あかりさんとジュリーさんは、まるで役割をバトンタッチするように固い握手を交わしていた。

「新幹線の時刻もあるし、そろそろ行くわ。」

 潤とジュリーさんの微笑みに見送られて、あかりさんは重たいバッグ片手にリビングルームを後にする。そんな彼女を玄関先まで見送ろうと、オレは掃除清掃を中断して彼女の後ろについていった。

 玄関から外へ一歩足を踏み出すと、あかりさんの帰省を歓迎しているのだろうか、太陽が明るく気持ちのいい陽光を降り注いでいた。

「真倉さんとはどこかで待ち合わせているんですか?」

「いいえ。彼女なら、昨日の夜の新幹線で先に帰ったわ。観光らしい観光もしないままにね。」

 あかりさんは東京の観光地を一緒に見て回った後、同じ新幹線で帰省するつもりだったが、真倉さんは何かを思いついたように一人先に帰ってしまったそうだ。

 勝負に負けたことや看病されたこともあって、同行するのが照れくさかったのだろうと、あかりさんは苦笑しながらそう話していた。

「さて、行くとしますか。わたしの留守の間、よろしく頼むわね。」

「はい、ご心配なく。気を付けて行ってきてください。」

 気合を入れる仕草をしながら出発しようとするあかりさん。帰省するというよりは、まるで決闘の舞台へ臨むかのような勇ましさをあらわにしていた。

 そんなあかりさんを見つめていたオレは、彼女と真倉さんの真剣勝負のシーンをおぼろげに回想していた。

「あ、そういえば、あかりさん。」

 その回想シーンからあるフレーズを思い出したオレは、気付いた時には、あかりさんに声を掛けてしまった後だった。そして耳を傾けている彼女に、オレはその思い出したフレーズについて触れる。

「あかりさんはいつも、オレのことを代行で呼びますけど、真倉さんをアパートまで運ぼうとしたあの時、初めてオレのことを、代行なしの管理人って呼んでくれましたよね?」

「えっ!?・・・そ、そうだったかしら?」

 あかりさんは唖然とした顔でオレのことを凝視している。記憶が定かではないのか、彼女は言葉に詰まりながらしどろもどろになっていた。

「ごめんなさい。揚げ足を取るつもりじゃないんです。・・・オレはまだまだ未熟者ですから、管理人代行の方がしっくりくる気もしますしね。」

「まったく、もう。・・・そういうところを突いて、人をからかうものじゃないわ。」

 オレのことをそう窘めると、あかりさんはちょっぴり口を尖らせていた。しかしそのすぐ直後、囁きかけるような彼女の声がオレの耳元に届いた。

「・・・未熟者なんかじゃないわ。」

「え?」

 あかりさんはクスッと声を漏らして、このお日様のような輝かしい笑顔でオレを照らしてくれた。

「わたしと夜未のために、あれだけ親身になってくれたあなたは、未熟者なんかじゃない。もう代行なんかじゃなくて、立派な管理人よ。」

 照れくさそうな顔をごまかすように、あかりさんはくるりと背中を向けてしまった。彼女のこれまでにない最高の褒め言葉に、オレは心の奥から嬉しさが溢れ返ってくる思いだった。

 軽やかな足音を響かせながら、アパートから離れていくあかりさん。オレは眩しい夏の日差しの下で、彼女の姿が見えなくなるまで見送り続けていた。


 =====  * * * *  =====


 その日の夜のこと。時刻は夜10時を少し過ぎたばかり。そんな静まり返る夜にも関わらず、ここリビングルームはささやかながらも盛り上がりを見せていた。

「ふーん、そうかぁ。あかり、実家に帰省しちゃったんだね。」

「もう着いてるはずヨ。今頃、仲睦まじいひと時を過ごしているのか、はたまた、険悪なムードに包まれているのか、そこまではわからないけどネ。」

 テーブル席に向かい合い、恒例行事である仕事明けの晩酌を楽しんでいた麗那さんとジュリーさん。そして、その宴会など興味なしといった顔で、ソファの上で眠りこけている猫のニャンダフル。そんなありふれた光景がここにはあった。

 毎度のことのように、テーブルの上には缶ビールと缶チューハイ。そして、乾き物の定番である裂きイカとサラミが慎ましく並んでいる。

「ちょっとジュリー、そういう茶化した言い方はダメ。あかりだって、それなりに悩んだ上で決断したんだと思うよ。」

「ソーリー、ゴメンなさい。ちょっぴり寂しくなったから、つい皮肉を言っちゃったワ。」

 舌を出して反省の弁を口にしたジュリーさんは、台所の方角にクルッと顔を向けて声を張り上げる。

「マサー、おつまみ、まだできないノ?」

 彼女たちも、侘しいおつまみばかりで飽き飽きしていたのだろう。半ば強制的なリクエストにより、ちょっとした料理をこしらえることになってしまったオレ。

 いつものように断り切れないオレは、渋い顔をしながらも、まな板に乗せた野菜類を包丁で叩いていたというわけだ。

「もう少し待ってくださいよー。ついさっき始めたばかりなんですからね。」

 オレは手始めに、洗いゴボウをささがきにして酢水であく抜きする。その間に、レンコンと人参の皮を剥いてそれぞれを細切りにしていく。

 フライパンにサラダ油を垂らしてから、下茹でしたさっきの野菜を戻し入れて、お酒とみりんと醤油、そして隠し味に七味唐辛子を少々入れて、さっくりと絡めながら香ばしく炒める。

 仕上げにごま油を数滴かけて味を整えたら、オレの得意料理であるレンコンきんぴらの完成である。

「はいはい、お待ちどうさまでしたー。」

 湯気が立ち上るおつまみを前にして、女性二人は手を叩いて喜んでいた。

 箸を手にするなり、いただきますとはしゃぐ声を上げる二人は、レンコンきんぴらをパクパクと口へと運ぶ。

「へー、このゴボウ、やわらかいね。味もピリッと辛くて、おいしいよ。」

「レンコンもサクサクしていてグッドね。ごま油の香りが食欲をそそるワ。」

 オレの手料理にご満悦なのか、麗那さんとジュリーさんはほくほく顔をしていた。それを物語るように、彼女たちのお酒があっという間に一本空いてしまっていた。

「それにしても、変なところで器用ネ。あなたにこんな才能があるなんてビックリよ。」

 才能なんて呼べるほど秀でたものではないが、オレが料理を覚えたのは学生の頃、亡くなったばあちゃんから教わったのがきっかけだ。

 包丁の使い方から野菜の切り方、炒めものや煮ものの火加減のコツ、そして食材の保存方法といったノウハウを、ばあちゃんは親切丁寧にオレに授けてくれたのだ。

「オレなんて、自慢できるほど上手じゃないですから。バカの一つ覚えってヤツですよ。」

 そう謙遜しながら、頭を掻きつつ照れ笑いを浮かべていたオレ。これが得意料理の一品だっただけに、おいしそうに料理を頬張る二人の姿に喜びを隠し切れないオレだった。

 麗那さんとジュリーさんは、気をよくしたオレに料理人を本格的に目指してみたら?と、おだてながら持てはやしてきたが、オレは無理だと言わんばかりに手を横に振って否定を示した。

「そこまでの技量は持ち合わせてないですよ。・・・そんなことより、大学合格が最優先ですからね。」

 自分で言うのも情けないが、オレは落ちぶれた正真正銘の浪人生。今年こそ、大学に合格しなければいけない受験生なのだ。

 オレの悩ましい心情を察してくれたのか、麗那さんは壁掛けカレンダーを見やりながらそっとつぶやく。

「もうすぐ9月になるんだもんね。受験生にとっては、うかうかできない時期が近づいてきたね。」

 合格はできそう?お勉強は捗っている?麗那さんの気遣う問いかけがオレの心に空しく響く。さらにジュリーさんの同情する視線までもが、オレの心を揺さぶるように突き刺してきた。

「は、はい。少しずつですけど、ペースを上げてます。オレも伊達に二浪してませんから。ははは。」

 この時のオレの微笑みは、自分でもわかるくらい、わざとらしくぎこちなかったはずだ。

 合格する自信なんてまるでないし、勉強なんて捗っているわけもない。だけど、心配そうな顔をする二人に、そんな弱音を吐くことなんてオレにはできなかった。

 8月の終わりなら、これからいくらでも挽回できるだろう。そんな気持ちのゆとりが、このオレに負い目を感じるような嘘をつかせていたのかも知れない。

「そういうことなら、景気づけにマサも乾杯しましょうヨ!」

 ジュリーさんは両手をパンと叩いて、オレを夜10時過ぎの宴会へと招待してくれた。麗那さんからも誘われてしまい、オレは逃げるに逃げられずお誘いに乗ってしまうのだった。

 オレは冷蔵庫から缶ビールと、麗那さんとジュリーさんのおかわりのお酒を持ち出して、空いているテーブル席へと腰掛ける。

「こうなったら、ニャンダフルも誘ってみようかしらネ?」

 ジュリーさんは微笑すると、猫のエサを指でつまんでニャンダフルを誘惑し始めた。

 ニャンダフルは目を覚ますと、黄緑色の瞳でジュリーさんの手にあるエサを見やった。最初こそ逡巡としていたニャンダフルだったものの、しつこく勧誘されてとうとう観念したのか、重たそうな足取りでオレたちのもとまでやってきた。

 その一部始終を眺めていたオレは、コイツもオレと同じでやっぱりオスなんだなぁと、そう心の中で儚げにつぶやいていた。

「それじゃあ、メンバーも揃ったし、もう一度カンパーイ!」

 オレたち三人はお酒の缶を掲げて祝杯を上げる。これも、オレたちにとってはありふれた光景だった。

 そんな和やかな会食を楽しんでいる最中、玄関の方から鳴り響いてくる大きな足音。奈都美とあかりさんが不在の今、この足音の正体はこの場にいないただ一人の住人、仕事上がりの潤ということになる。

 潤の駆けてくる足音はどんどん大きくなり、まるでトイレを我慢しているかのような勢いだ。いったい何をそんなに慌てているのだろうか・・・?

 リビングルームのドアを壊さんばかりに開き切った潤。ドアのそばで息を荒くしながら、彼女は室内を隈なく見渡している。

「あ、いたぁ!センパーイ!」

 どうやら麗那さんが目当てだったようで、潤はオレたちのいるテーブル席へと駆け込んでくる。

「おい、潤。あんまりドタバタしちゃダメだよ。もう夜遅いんだからさ!」

 オレの忠告などお構いなしに、潤はアクセサリーをうるさく鳴り響かせて、麗那さんの隣で歓喜に沸く叫び声を上げていた。

「センパイ、Lavie見ましたよぉ!あのヴァルゴの特集に紹介されるって本当ですかぁ!?」

 聞き覚えのないキーワードに、オレとジュリーさんは顔を突き合わせて呆気に取られている。現役モデルとモデル志望の二人のことだから、きっとファッション系の専門用語か何かなのだろう。

「ちょっと落ち着きなさい、潤。まだ決まったわけじゃなくて、最終選考に残ったってだけよ。」

「もう決まったみたいなもんですよぉ!だって、もう一人の候補って、あの舞姫ひかるだもん。」

 この話題に入れずに、すっかり蚊帳の外だったジュリーさん。そんな彼女が会話に割り込んで説明を求めると、潤は鼻息まで荒くしながら興奮気味に答えてくれた。

「あのねー、麗那センパイがね、あの世界的なファッション雑誌ヴァルゴの特集に掲載されることになったんだよぉ!」

 潤がさらに付け足した話では、このヴァルゴというのは、世界の主要国で発行されている女性向けのファッション雑誌で、世界有数のファッションブランドと連携し、世界規模のファッションショーまで開催している最高級の雑誌とのことだ。

 世界中のファッションモデルにとって、この雑誌へ掲載されることはまさに憧れであり、世界のトップモデルとして有名になるための登竜門なのだという。

「だから潤!正式な発表はまだ先なのよ。わたしが選ばれるか、彼女が選ばれるか今の段階ではわからないんだから、そんなに大げさに騒がないで。」

 ひたすらはしゃいでいる潤を、困惑しながらそう叱りつけた麗那さん。

 麗那さんの話によると、ヴァルゴ側の編集委員の厳正な審査基準をクリアし、適正が認められた候補として、彼女と舞姫ひかるの二人だけが最終選考に残ったとのことだ。

 その最終選考の結果については、四日後の土曜日の午後4時より開催される、麗那さんの専属雑誌Lavieの主催イベントの中で、生中継によるテレビ放送で発表されるのだという。

「ワオ、テレビで発表なんてグレイトじゃない!麗那、これに選ばれたらスーパーモデルの仲間入りネ。」

「そういうことぉ!舞姫ひかるなんて口ばっかりの能無しだもん。センパイが負けるわけないんだからぁ。」

 ジュリーさんと潤の二人はやんややんやの騒ぎっぷりで、もうすっかり、麗那さんが最終選考を勝ち抜くと決めつけているような口振りだった。

 一方のオレはというと、嬉しい気持ちを胸に抱いていたものの、この二人と一緒になって浮かれることができないでいた。そのわけは、誰よりも喜ぶべき麗那さんの顔色がどこか優れなかったからだ。

「麗那さん・・・?」

 オレが囁くように呼びかけると、麗那さんは無理やり作った笑顔で小さく口元を動かした。

「ごめんなさい。ちょっとだけ酔っちゃったみたい。・・・外の空気吸ってくるね。」

 麗那さんは静かに席を立つと、開きっ放しのリビングルームのドアをすり抜けていく。様子のおかしい彼女を見ながら、ジュリーさんと潤は何が起きたのかわからずただ首を傾げていた。

 ファッションモデルであることに誇りを持っている麗那さん。本来の彼女なら、こんなビッグチャンスに無関心のわけがない。きっとその胸のうちに、オレの知り得ない、居たたまれない何かが湧き上がってきたに違いない。

「オレも席を外しますね。あ、テーブルの上はそのままで結構ですから。」

 ジュリーさんと潤にそう告げると、オレも思い立ったように離席する。

 麗那さんのことを追いかけなきゃ・・・。そんな心揺らぐ衝動に駆られて、オレの両足は知らず知らずのうちに廊下を目指して駆け出していた。


 =====  * * * *  =====


 麗那さんは表情を曇らせながら、一人リビングルームを出ていってしまった。彼女の階段を上る足音をかすかに耳にしていたオレは、彼女を追いかけるように階段を駆け上っていく。

「麗那さん、外の空気を吸いにいくって言ってたな。ということは・・・。」

 オレは頭の中で、麗那さんの向かった行先を推理してみる。外の空気を吸うために自室に戻るのはちょっと違和感がある。ということは、二階でそれができる場所は一箇所だけ、洗濯場から辿り着ける物干し場だ。

 アパートの二階までやってくると、こんな夜遅くだというのに、まとわりつくような暑さがまだ残っていた。焦る気持ちも重なってか、肌に密着しているTシャツがかなり汗ばんでいる。

 薄明かりの廊下を歩き続けて、オレは洗濯場の扉をそっと開けてみる。目を凝らしてみると、物干し場へとつながる扉は閉まってはいたが、内側のカギは掛けられていなかった。

「やっぱり、ここか。」

 ゆっくりと物干し場の扉まで歩み寄って、オレは大きな音を立てないようその扉を開ける。

 オレの視界に映ったのは、長くしなやかな髪の毛を夜風になびかせている麗那さんだった。物干し場の手すりに手をついて、彼女は遠くを見つめながら物悲しそうに佇んでいた。

「・・・気持ちのいい風ですね。」

 麗那さんにそう声を掛けつつ、オレも一緒になって手すりに両手をつく。吹いてくる心地よい夜風が、熱を帯びたオレの体をほんのりと冷ましてくれた。

 オレのことに気付いた麗那さんは、ほんの一瞬だけ驚きの顔をして見せたが、数秒後には、穏やかな微笑みに変わっていた。

「・・・ごめんね。せっかくの楽しい雰囲気を壊しちゃって。」

 麗那さんの謝意に、オレは黙ったまま頭を横に振った。そして彼女と二人きりで、小さく見える星の輝きを眺めていた。

「この前、わたしがリビングのソファでつい寝ちゃった時のこと、憶えてるかな?」

「もちろん、憶えてますよ。・・・あの時の麗那さん、酔いが回っていてかなりお疲れでしたよね。」

 仕事で嫌なことがあって、憂さ晴らしに浜木綿へ立ち寄ってから帰宅してきた、あの日の麗那さん。精神的ショックの疲れから、彼女はソファの上で、オレの肩にもたれかかったまま寝てしまったのだ。

 その時の出来事を鮮明なまでに思い出していたオレ。それと同時に、麗那さんの安らかな寝顔も思い出してしまい、オレは無意識のうちに、純情少年っぽく顔を赤らめてしまう。

「わたし、あの日ね。舞姫ひかるに宣戦布告されちゃったの。・・・人気者のあなたになんか、絶対に負けませんってね。」

 表情こそにこやかながらも、麗那さんは戸惑いを感じさせるほどの震える声でそう告白した。

 モデル活動して間もない頃から、麗那さんのことをライバル視していた舞姫ひかる。同じ雑誌の専属モデルでもあり、高級ファッション雑誌の最終選考で競り合うことになった麗那さんに、舞姫はやんわりながらも敵意を剥き出してきたそうだ。

「どうしてなのかな・・・。どうして、お互いに切磋琢磨して、もっと成長していけるわたしたちが、そんな妬むようにいがみ合う必要があるのかなって思ったら、何だかとてもやり切れなくてね。」

 手すりを掴んだ両手にグッと力を込めた麗那さん。

「もう、勝ち負けなんてどうだっていいの。わたしはもう二度と、あんな辛い思いをしたくないだけなの。」

 麗那さんは切なさを顔に表して、そんな苦悩に満ちた心情を吐露した。もしかすると彼女の目には、二年前に亡くなった尊敬する先輩の姿と、舞姫のやっかむ姿が重なって映っていたのかも知れない。

「こんな業界だから、人気こそがすべてだから、みんな仲間たちを蹴落としてまで頂点を目指していく。でも、わたしたちって、どんなことにおいても、そんなによこしまな気持ちになれるものなのかな・・・。わたしは、ただの甘えん坊だったのかな・・・。」

 自分もやましい気持ちになれるのだろうかと、麗那さんは語りかけるような口振りで自問自答する。モデルという彼女自身の心の中から、その難しい答えを見つけ出そうとしていた。

 きっとその答えは、オレのような一般人には到底見つけることのできないものだろう。それでも、その答えを導くための後押しぐらいなら、ちっぽけなオレでもきっとできるはずだ。

 オレは星の瞬く夜空へ目を向けながら、うつむいている麗那さんに、精一杯の気持ちを込めて囁きかける。

「麗那さんは、優し過ぎるんだと思います。」

 オレの方にそっと視線を向ける麗那さん。悪い意味じゃないと付け足しつつ、オレは話を続ける。

「麗那さんはモデルとして、複雑な人間関係をたくさん見てきました。嫉妬もあれば恨みつらみもあったはずですよね。・・・そんな経験をしてきたからこそ、麗那さんは誰にでも優しくできるんじゃないですか。」

 麗那さんの人に対する優しさを、オレは痛いぐらい知っているつもりだ。潤がモデルを目指して麗那さんを追いかけたあの時も、自分のような辛い思いをさせたくないからと、麗那さんはそれを踏み止まらせようとしたことがあった。

「誰にでも優しくできるのは、人を傷つけたり、人に傷つけられたりする悲しみを、誰よりも理解しているからじゃないでしょうか?」

 オレがそう問いかけながら、麗那さんの顔に視点を合わせると、彼女はためらいがちにオレから顔を背けてしまった。

「麗那さんには、舞姫ひかるなんかに負けてほしくない、それがオレの本心です。だけど、麗那さんは勝っても負けても、もし、二人の間にしこりやわだかまりが残ったとしても、人に優しくできる、優し過ぎる麗那さんのままでいてください。・・・行き過ぎでも、優しくされて嫌がる人なんて滅多にいないですからね。」

 オレは最大限の気持ちを込めて、口をつぐんで顔をうつむかせている麗那さんを励ました。

「・・・マサくん。」

 心のこもった応援メッセージは、果たして麗那さんを勇気付けることができたのだろうか?そこまでは判断できなかったが、彼女の表情から笑顔という素晴らしい答えが返ってきた。

「勝っても、負けても優し過ぎるわたしかぁ・・・。そんな優し過ぎるモデルがいるのも、きっと悪くないよね。」

 麗那さんの笑顔に応えるように、オレは自信満々に大きくうなづいた。そして、彼女が気持ちを切り替えて、少しでも元気を取り戻してくれたことに、オレは心の中で嬉しさを実感していた。

「マサくん、応援してくれてありがとう。おかげさまで、もやもやしてたものがスーッと消えていった感じ。」

「そう言ってもらえると嬉しいです。オレの場合、こんなことぐらいしか、お役に立てませんからね。」

 謙遜しているオレのことを、クスクスと微笑みながら見つめている麗那さん。次の瞬間、彼女はすっきりとした表情のまま夜空を見上げた。

「とっても不思議なんだけどね。・・・わたし、さっきリビングから離れてここまで来た時、なぜか、あなたがわたしを追いかけてくるんじゃないかって、そう感じてたの。」

「えっ・・・?」

 思いがけない麗那さんの言葉に、オレは思わず絶句してしまう。

「・・・もしかすると、わたしのことを追いかけてほしかったのかも知れない。見つけてほしいって、そんなテレパシーみたいなものを送っていたのかな。」

 夜空を見上げたまま、麗那さんはそんなファンタジックな胸のうちを語っていた。

 麗那さんの言う通り、このオレがここへやってきたのがテレパシーによるものだとしたら、それこそ本当に神秘的で不思議なことだろう。

「テレパシーですか・・・。人それぞれに、そんな不思議な潜在能力があったら、ちょっと素敵ですね。」

「マサくんが来たのは偶然だったのかも知れないけど、人の目には見えない、意思が通じ合う不思議な能力があること、わたしは信じていたいな。」

 オレは直感的に行動していたつもりだったが、そのテレパシーによってここまで導かれていたのかも知れない。少なくとも今のオレは、麗那さんと同じでそう信じていたい気分だった。

 それから少しの間、オレと麗那さんは二人きりの時間を過ごした。楽しい会話をすることもなく、世間話をするわけでもなく、オレたちは口を閉ざしたまま、夜風に吹かれながら夏の星座を眺めていた。

「少し寒くなってきたね。そろそろ戻ろうか?」

「そうですね。せっかくお仕事がんばろうって時に、風邪なんて引いちゃったらくじけちゃいますもんね。」

 オレたち二人は微笑んだ顔を向け合いアパートの中へと戻っていく。

 芸能界という誰もが羨む世界で、人気モデルとしてさまざまな人たちから注目を浴びる麗那さん。妬みや嫉みが渦巻く中でも、応援してくれる人たちのために、彼女は下を見ずに前を向いてがんばろうとしていた。

 迫りくる高級ファッション雑誌掲載への最終選考の日。麗那さんはこの当日、思いも寄らない信じられない悲劇に遭遇することを、今の彼女はまだ知る由もなかった・・・。

第三話は、これで終わりです。

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