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第三話 二.闘うことこそ修羅の道

 山茶花中央公園はアパートから徒歩で10分ほどの位置に存在する。

 オレは小走りでやってきたせいか、8分ほどで公園の入口まで到着することができた。それでも、たった2分ほどの短縮ではあったが。

 あかりさんが待つサッカーフィールドは、この公園の奥の方にある。オレはそこを目指し、彩りある草花に囲まれた園路を一心不乱に歩いていく。

 公園の敷地内は思ったよりも人の姿が少なくて、学校帰りの小学生たち数人とすれ違うぐらいだった。さすがにこの分厚い曇り空の下では、誰もがみんな家の中に引きこもっていたのかも知れない。

「サッカーフィールドの倉庫って、あそこのことだな。」

 広大なサッカーフィールドに辿り着くと、オレはその中にあるちっぽけな小屋に目を向ける。一度も足を踏み入れたことはないが、あれが指定された倉庫に間違いないはずだ。

 これは奈都美から聞いた話だが、倉庫とは名ばかりで、普段からサッカー道具が保管されているわけではなく、一般の人たちの試合の際に、一時的な保管場所として使用されているそうだ。

 そういう利用形態のためか、倉庫の扉はいつもカギが掛かっておらず、誰でも簡単に入れてしまうのだという。

「・・・でも、どうしてこんなところに?」

 倉庫の入口の前に立ち尽くすオレ。そっと扉を横にスライドさせると、思っていた通り、抵抗をまったく感じることなく扉を開けることができた。

 オレが見つめる倉庫の中は、どういうわけか人の姿はまったく見当たらない。ほこりなのか砂なのかわからない塵だけが、吹き込む風に乗って舞い上がるだけだった。

 不審に思いつつも、オレはゆっくりと倉庫の中へ足を踏み入れた。

 もちろん倉庫内に照明などはなく、たった一つの入口から外の光だけが入り込んでいる。しかし、今日の薄暗さのせいでその光は弱々しく、息詰まるような空気ばかりがこのオレにまとわりついた。

「・・・そろそろ出てきてください。そばにいること、わかってますから。」

 オレの背後、倉庫の入口の辺りからただならぬ気配を感じた。それは今までに感じたことがない、凍てつくような気迫あるオーラのようでもあった。

 張り詰める緊張感に囚われながら、オレは背後にいるその影に顔を向ける。

「なぜ、オレをここに呼んだんですか?・・・真倉さん。」

 倉庫の入口に立ちはだかる一人の女性。それはあかりさんではなく、彼女のたった一人の姉妹である真倉夜未さんだった。彼女はこれまでと違い、普段着というよりは稽古着に近いいでたちだ。

「・・・ばれていたのか。あの言づて、あかりのものとして綴ったつもりであったが。いかにして見抜いたか教えてもらえぬか?」

 不敵な笑みを浮かべつつ、オレにそう問いかけてきた真倉さん。その要望に応えるように、オレはどう見抜いたのか解説していく。

「もし、あかりさんがオレに伝言を残すとしたら、玄関のドアの隙間なんかに挟まないで、管理人室とかに挟むはずです。だって、玄関のカギを持っている彼女なら、アパートの中に入れるわけですからね。」

「なるほどな。・・・しかし、アパートに入る間もないほど性急な所用だったとも考えられる。そのような根拠だけで目星がついたとは、はっきり断言できぬと思うが?」

 真倉さんは釈然としないのか、オレに訝しげな視線を送っている。

 オレはもう一つの決定的な証拠を突きつけるため、彼女が残していった言づてをポケットから抜き取った。

「この言づてなんですけど、たった一箇所だけ、あかりさんが書いたものではないと、はっきりわかる部分があるんです。」

 切れ長の目を大きく見開いて、真倉さんは驚きと戸惑いを隠せない様子だ。オレが指し示している一箇所に、彼女の視線は釘付けとなっていた。

「ここに管理人へ、ってありますよね?真倉さんは知らないと思いますが、実はオレ、管理人ではなく管理人代行なんですよ。」

 正真正銘の管理人であるじいちゃんの急病により、急遽、管理人の代行を任されたことを明かしたオレ。しかし、真倉さんは少し眉を動かしただけで、それほどびっくりする仕草は見せなかった。

「管理人と、管理人代行・・・。意味合いは同じと思うが?」

「そうです。他の人からしてみたら、きっとそう思っていたでしょうね。」

 オレの含みを持たせる物言いが歯がゆいのか、真倉さんはじれったさを表情に映していた。

「恥ずかしながら、オレはあかりさんから、まだ一度も管理人と呼ばれたことがないんです。代行という文字付きで呼ばれていまして。・・・きちんとした性格の彼女のことだから、この言づてだけ、オレを管理人と書くわけはないだろう。そう思ったんですよ。」

「・・・ふふ、なるほどな。」

 決定打とも言える証拠を突きつけられた真倉さんは、吊り上げていた目つきをちょっぴり緩めていた。そんな彼女の笑みを見たオレも、尖っていた神経がちょっぴり和らいだ気がした。

「ばれぬよう慎重になり過ぎたことが、返って裏目に出てしまったというわけか。・・・それにしても、管理人殿としては何とも複雑なところだな。」

「不甲斐ないオレのことを管理人として認めていないんでしょうね。代行とはいえ、情けないことですよ。」

 微笑ましい雰囲気になったと思いきや、真倉さんはまた険しい表情に戻ってしまった。

「しからば、あえて聞こう。・・・なぜ、あかりではなくわたしがいると知って、ここへやってきたのだ?」

 このオレも、真倉さんに圧倒されないよう緩んだ表情を引き締める。

「オレからも、あえて言わせてもらいます。真倉さんに、あかりさんとの真剣勝負を辞めさせるためです。」

 漫画家としての道を歩み、道場の跡継ぎから身を引くと宣言したあかりさん。そんな彼女に、真倉さんが勝負を挑む大義名分などどこにもない。二人の心に深いわだかまりが残るだけで、それこそ満たされない空虚な結末となってしまうだろう。

 オレがそう諭しながら説得してみたものの、真倉さんは頑固一徹で首を縦に振ろうとはしない。強情っぱりを絵にかいたような彼女は、武者震いしながら好戦的意欲をますます駆り立てていた。

「この闘いこそ、わたしたち空手道場師範代において、避けては通ることのできない修羅の道だ。アパートの他の住人に危害を加えるつもりはない。いくら諌めても、どのような忠告であっても、このわたしには無用と考えてほしい。」

 聞く耳持たずを貫こうとする真倉さんは、無視するかのようにオレに背中を向けてしまった。そんな彼女の後ろ姿に、オレは思わず吐き捨てるような口調で訴えかけていた。

「そうは言っても、肝心のあかりさんが望まない限り、真剣勝負は成立しませんよ。あかりさんの強情さ、真倉さんなら嫌ってほどご存知のはずですよね?」

 ほんの一瞬だけ、オレたちの空間に静寂な時が刻まれた。そして数秒後、真倉さんは後ろ姿のまま静かに口を開く。

「・・・その心配はない。あかりは闘わざるを得ないのだ。そのために、管理人殿をここへ呼び寄せたのだからな。」

 そのつぶやきの後、ゆっくりとオレの方へ振り向く真倉さん。その時の彼女の顔つきは、邪悪なほどにおぞましく、魔性のごとく不気味に微笑んでいた。

 身の毛もよだつようなその戦慄に、オレは硬直してしまい身動きを取ることができない。まるで、悪の化身メデューサの閃光に睨まれたかのように・・・。

「あかりは、まもなくここへやってくる。このわたしに誘拐された、管理人殿を助けるためにな。」

 オレはここに来て、ようやく真倉さんの陰湿な狙いを悟っていた。しかも恥ずかしいことに、その策略にまんまとハマってしまっていたのだ。

 あかりさんのためと思って起こした行動が、反対に彼女をピンチに追い込んでしまい、オレはこの無様っぷりに後悔するばかりだった。

「逃げようなどと、つまらぬことは考えない方がいい。格闘経験のない御仁には、このわたしの間合いから逃れることなどできないからな。」

 こんな卑劣な手を使ってまで、真剣勝負という野蛮な行為にこだわる真倉さん。オレはどうしても彼女が理解できず、勢いあまって心のままに怒鳴りつける。

「こんなことしてまで、あかりさんに勝ちたいんですか?今まで勝ったことがないからですか?こんなやり方で彼女に勝って、実力、名誉ともに継承者になったところで、あなたはいったい何が満たされるというんですか!?」

「知ったような口を利くなっ!!」

 耳をつんざくような真倉さんの怒号に、オレはまたしても身動きができなくなった。

「・・・ついカッとなってしまってすまぬ。わたしとて、こんな姑息な手を使いたくはなかった。先ほども申したが、管理人殿に危害を加えるつもりはない。どうか、もうしばらく辛抱してくれ。」

 オレと真倉さんは来たるべきその時を、じっとしたままただ待ち続ける。

 倉庫の入口付近に佇み、サッカーフィールドに向けて視線を送っている真倉さん。そして、彼女と一緒に視線を飛ばしていたオレの目に、フィールドからこちらに歩いてくる一人の女性の姿が映った。

「人は輝きを求めて生きている。人は輝くことで、より強くもなり大きくもなる。・・・あかりが本物の輝きを持つのか否か、それを見極めるには拳を交える他ない。・・・たとえ、勝負に勝とうが負けようがな。」

 そんな言葉を残して、真倉さんは血気盛んに倉庫を飛び出していった。

 フィールドの先からやってきた女性は、荒い息遣いをしながら、目の前に立ちはだかる真倉さんを睨みつけている。その女性こそ、まぬけなオレのために駆け付けてくれたあかりさんだった。

「あんた。どういうことしでかしたのか、その筋肉でできた脳みそでちゃんとわかってんのか?」

「しゃーないやろ?あんたがいつまで経っても、勝負に挑もうとせぇへんかったからやんか。」

 関西弁の応酬を繰り広げる二人の姉妹を、オレは倉庫の中から固唾を飲んで見守っていた。

「管理人代行はどこ?ちゃんと無事におるんやろうな?」

「後ろの倉庫にいてる。別に拉致監禁して虐げとるわけやないから安心せぇ。」

 オレが倉庫の入口から姿を覗かせると、あかりさんはホッと胸を撫で下ろしていた。すぐさま彼女は、真倉さんに厳しい口調で突っかかっていく。

「管理人代行をすぐ釈放しなさい!さもないと、わたし、ほんまにキレるで。」

「やっとその気になってきたやんか。ええで、好きなだけキレてくれてかまへん。」

 あかりさんの顔が見る見るうちに豹変していく。怒りで顔色を紅潮させながら、みなぎる闘争心を体中から放っていた。

 黒いスーツをそっと脱ぎ捨てるあかりさん。手に巻いてあるバンドを外し、しなやかな長い黒髪を後ろで束ねる。さらに、身軽に動けるように、スーツパンツの裾をまくり上げた。

 ついにあかりさんは、ニヤリと不敵に笑う真倉さんと対決姿勢で対峙してしまった。

「いよいよこの日が来たな、あかり。待たされた分、体がなまっとるから、がっつり行かせてもらうで。」

「夜未。あんたの目的はわたしに勝つことやろ?それなら、一発勝負や。言っておくがな、わたしもみすみす負けはせぇへんからな。」

 サッカーフィールドの上空に暗雲が垂れ込めて、はるか遠くの彼方から、目に眩しい発光とともに轟くような雷鳴がこだまする。

 そのどす黒い乱層雲から大粒の雨が降り始めてきた。その雨はフィールドをじんわりと湿らせて、睨み合う道場の師範代二人をも濡らしていく。

「勝負、開始やっ!」

「ほな、行くでぇ!」

 真倉さんとあかりさんの二人は、掛け声とともに一気に間合いを詰める。お互いの握りこぶしが音を立ててぶつかり合い、いよいよ真剣勝負の火ぶたが切られた。

 細いながらも力強い突き、そして素早い蹴りを縦横無尽に振り回し、一発勝負をかけた二人の熱き闘いが繰り広げられていく。

 さすがは道場の師範代同士。お互いの巧みなる技は空を切り、なかなか決定的な一打を繰り出すことができない。突きだす拳をガードしては、ムチのようにしなる脚を俊敏な身のこなしでかわしている二人。

 そんな姉妹の凄まじい攻防戦は、まるで格闘映画のワンシーンのようだった。この勝敗の行方を、オレは手に汗を握って見守ることしかできない。

「この闘い、ほとんど互角だ。このままじゃ、消耗戦に突入してしまうぞ。」

 雨でぬかるんできた地べたに足を取られ、二人の動きがにわかに鈍り始める。仕切り直しにいったん後ずさりした二人は、とてつもない疲労感のせいで肩で息をしていた。

「・・・びっくりやな。あんたの動き、バリバリ現役やないか。うちに内緒で何しとったん?」

「・・・血は争えないもんやね。ヒマさえあれば、カルチャースクールで腕磨いとったわ。」

 関西人特有のノリというヤツか、姉妹二人はこんな緊迫した中でもクスクスと笑い合っていた。

 雷雨は止むどころか、勢いを増してなおも降り続いている。二人の向き合う顔は、雨なのか汗なのか、それとも涙なのかもわからない滴に濡れていて、艶のある真っ黒な髪の毛も、さらに衣装も靴もびしょ濡れであった。

 突き刺すような視線を逸らさず、せめぎ合いを続けている二人。だが、表情の険しさと呼吸の乱れから、真倉さんよりもあかりさんの方が不利なのは、素人のオレの目にもはっきりとわかった。

 不安な思いに心を揺さぶられるオレを尻目に、真倉さんはかすれた声でこの沈黙を破る。

「次が最後や、あかり。ここで決着つけな、体力的にもう持たへんわ。」

 真倉さんが渾身の気迫を込めると、立ち向かうあかりさんも最後の闘志を奮い起こす。この真剣勝負に、決着という二文字が刻まれる時がついにやってくる。

「ほんなら、わたしも残りの力振り絞るわ。夜未、この勝敗、恨みっこなしやで!」

 この消耗戦、先に仕掛けたのは不利の情勢だったあかりさんだ。ところがこの後、先手を取ったことが災いしてしまう。

「あっ!?」

 踏み出した左足がぬかるみでツルっと滑ってしまい、あかりさんはつんのめるようにバランスを崩してしまったのだ。

 それを見るや否や、この好機を逃すまいと一気に間合いを詰める真倉さん。倒れそうになるあかりさん目掛けて、究極の一撃をお見舞いしようとする。

「あかり、もらったでぇ!!」

 そこからのシーンは、オレには何が起こったのかわからないほど一瞬の出来事だった。

 前のめりになったあかりさんは、受け身を取る格好で両手を大地に据えると、右足を思い切り蹴り上げて、まるで一回転するかのように宙を舞った。

 それはまさしく偶然だった。一回転したあかりさんの左足のかかとが、踏み込んできた真倉さんの後頭部にジャストミートしてしまったのだ。

「ぐはぁっ!?」

 あかりさんの意識しない浴びせ蹴りを食らって、真倉さんは泥沼の地べたに顔から滑り落ちていった。

 宙を舞っていたあかりさんも態勢を維持しきれず、ぬかるんだ地面の上に尻餅をついて着地した。

「や、夜未・・・!?」

 何が起こったのか把握できないのか、頭の中が真っ白になっているあかりさん。倉庫の中で一部始終を見ていたオレさえも、何がどうしたのかはっきりせず、呆然としたまま立ち尽くすだけだった。

 とはいえ、あかりさんの足元には、気絶したかのように倒れた真倉さんがいるのは事実。あかりさんは青ざめた顔で、名前を叫びながら真倉さんのもとへ近寄っていく。

「夜未、あんた大丈夫?しっかりせぇ!」

 あかりさんがそう呼びかけるものの、うめき声をかすかに口にするだけで、真倉さんは起き上がろうとはしない。

 この逼迫した事態に慌てふためくオレに向かって、あかりさんは割れんばかりの大声を放った。

「管理人!夜未をアパートまで運ぶから手伝って!!」

「は、はい!!」

 あかりさんが真倉さんをゆっくりと起こし、屈んでいるオレの背中の上に背負わせる。泥だらけになった真倉さんは、まるで鉛で出来ているかのように冷たく重たくなっていた。

 泥まみれのサッカーフィールドを、オレたちは無我夢中になって駆け出していく。追い打ちをかけるように降りしきる雨が、オレたちの身も心も激しく濡らしていった。


 =====  * * * *  =====


 真っ黒な入道雲は東の方向へ流れていって、降り続いた雨もようやく小康状態となっていた。

 ここはアパートのリビングルーム。ガスコンロのやかんから立ち昇る湯気が飽和したおかげで、夕方に差し掛かったリビングルームが温もった暖かさで満ち溢れていた。

 あかりさんの手で、汚れた髪の毛や顔を丁寧に拭ってもらい、濡れた衣類を着替えさせてもらった真倉さん。その後、オレが敷いたせんべい布団に横たわった真倉さんは、呼吸はあるものの気を失ったままだった。

「あかりさん、救急車とか呼ばなくても大丈夫ですか?」

「軽度の脳しんとうだから、無理に動かさない方がいいわ。もちろん意識が戻ったら、精密検査だけは受けさせるつもりよ。」

 空手を極める者のなせる業なのだろうか。真倉さんは倒れる直前に顔面を強打しないよう、消えゆく意識の中で咄嗟に受け身をしていたようだ。それが功を奏し、大事に至らなかったのではないかと、あかりさんは安堵した表情でそう話していた。

「管理人代行。」

 真倉さんの容体を見守りつつ、あかりさんはそっとオレに声を掛けてきた。

「今日の夜未の振る舞い、あなたには多大な迷惑を掛けてしまったわ。本当にごめんなさい。」

 そう謝罪を口にしながら、大きく頭を振り下ろしたあかりさん。そんな彼女の低姿勢は、厳格ある道場で培った礼儀正しさを実感させるものだった。

「そんなに気にしないでください。あかりさん、オレに言ってたじゃないですか。これも乗りかかった船だって。」

 オレが意地悪っぽくそう言うと、あかりさんはばつが悪そうに微笑していた。とはいえ、このような事態に陥ってしまったせいか、彼女の顔色に明るさまでは戻ってこなかった。

 そんなやり取りをしていると、小さなうめき声とともに真倉さんがようやく意識を取り戻した。彼女は放心状態らしく、うつろな視線を宙に泳がせている。

「ここは・・・?」

「わたしのアパートや。気ぃ失ったあんたを、管理人代行がここまで運んでくれたんやで。」

 すまぬという一言だけでオレに礼を言った真倉さん。まだ意識が朦朧としているのか、その声は消え入りそうにとても弱々しかった。

 無理やり起きようとする真倉さんを、あかりさんは慌てて制止した。その時の二人の表情は不思議と穏やかで、いくら母親は違えど、本物の姉妹であることをほのかに感じさせてくれた。

「・・・また、負けてしもうたなぁ。」

 真倉さんは天井を見上げながらそうつぶやいた。その声をそばで聞いていたあかりさんは、違うと言わんばかりに頭を小さく横に振った。

「あれは運が良かっただけ。力も技も、あんたの方が上やったわ。もしあんな偶然がなかったら、わたしの方が負けていたと思う。」

「負け犬にはいらん慰めや。・・・運も実力のうち。誰でも知ってる万国共通の決まり文句やないか。」

「フフフ、せやな。・・・今さら慰めても惨めなだけやもんな。」

 ここリビングルームにしばしの沈黙のひと時が訪れる。

 気付いた時には、窓を打っていた雨音はすっかり聞こえなくなっていた。しとしと降っていた雨が止んだのか、リビングルームが異様なほど静かになってしまった。

 オレたちをその静けさから解放してくれたのは、仰向けで横たわったままの真倉さんだった。

「アカンなぁ、このままおめおめ帰ったら、父上に合わす顔があらへん。」

「約束は約束や。あんたに跡継ぎは譲るから、おとなしく大阪へ帰り。父さんにもよろしく言っておいて。」

 真倉さんはクスッと微笑んで、呆れたような溜め息をつく。

「あかり。あんた、うちがはるばる東京までやってきたわけ。・・・わからんやろ?」

 その無粋とも言える質問に、それは継承者抗争に打ち勝ったいう功績を掲げて、鼻高々に道場の跡目を継ぐことだろうと、あかりさんは迷うことなくそう答えていた。

 これは失礼に値するかも知れないが、そんな取るに足らないきっかけだったことは、このオレも真倉さんから聞かされていたことだった。

「そんなんちゃうねん・・・。」

 そう囁くと、真倉さんは見上げていた顔をあかりさんの方へ向ける。

「ほんま言うとな、うちがここへきた理由、あんたを道場に連れ戻すためやったんよ。」

「えっ!?それどういう意味?」

 呆気に取られるあかりさんに、真倉さんはこの一連の経緯をすべて語ってくれた。

 二ヶ月ほど前、真倉さんは道場主である父親よりある命令を申しつけられた。それはたった一つ、あかりさんと真剣勝負をして打ち負かすことだったという。

 あかりさんが真剣勝負に負けたとあらば、これ見よがしに、精神も肉体もたるんだ証しだと叱りつけて、漫画家を辞めさせるなり道場へ連れ戻そうとする、彼女の父親の打算的な策略だったそうだ。

「ちょい待ち!それじゃあ、父さんの跡継ぎの話って・・・?」

「うちのでまかせや。父上ならまだピンピンしとる。今頃やかましいぐらい、門下生相手に道場で暴れとるやろ。」

 空気が抜けた風船のように、肩からガックリと崩れ落ちていくあかりさん。呆れることを通り越し、彼女は苛立たしさを顔ににじませていた。

「アホか、もう!あのタヌキ親父、何考えとんねん!」

 罵声を口にしつつも、あかりさんはホッとしたように苦笑している。彼女は彼女なりに、引退宣言をした父親のことをどこかで心配していたのかも知れない。

 そんなあかりさんを横目で見ながら、真倉さんは真面目な表情で説教じみた話を始める。

「あかり、あんた父上のこと少しは考えてあげなアカンよ。娘一人東京へ送り出してみたら、その娘は帰ってくるどころか、電話すら寄こさないんじゃ、そら心配もするやろ?」

 漫画家として生きていくことを決意して、単身大阪を離れて一人暮らしを始めたあかりさんにとって、真倉さんのこの説教はかなり耳の痛い話であろう。あかりさんは反論する術もなく口ごもってしまった。

「父上はな、格闘家としてのあんたの輝きに惚れ込んでおった。あんたは磨けば磨くほど光る原石やってな。」

 黙ったままのあかりさん、そして彼女と同じく口を閉ざしているオレに、真倉さんは自らの抱く思いを口にしながら説得を続ける。

「うちかて、そう思ってるで。あかりの空手センスは神がかりや。悔しいけど、うちは生涯あんたを追い越すことはできんかもな。だからな、あかりには空手に精進して、また輝いてほしいと思ってる。・・・なぁ、うちのためにも、道場に帰ってきてくれへんか?」

 漫画といった低俗なものは捨て去って、格闘という血なまぐさい宿命を背負うよう諭す真倉さん。あかりさんは受け入れられないと言いながらも、心の中では戸惑いを隠し切れない様子だった。

 オレはこの時、じっとしている衝動を抑えきれず、差し出がましいと思いつつも、二人の会話につい口を挟んでしまう。

「あの、真倉さん。部外者のオレがこんなこというと気に障ると思いますけど、少しだけ聞いてもらえませんか?」

 オレがそう問いかけると、真倉さんは声を出さずにうなづいた。そばにいるあかりさんは、穏やかでない眼差しでオレのことを見つめている。

「真倉さん、真剣勝負の前に、オレにこう言いましたよね?人は輝きを求めて生きてる、輝くことで強くもなり大きくもなるって。・・・オレは、今のあかりさんがその言葉通りだと思ってます。」

 怪訝そうな顔色を浮かべる真倉さんに、それを感じるきっかけとなった出来事を打ち明けるオレ。

「オレはこの前、あかりさんに頼まれて、漫画のキャラクターのモデルになったんです。とはいっても、主人公とかじゃなくて、気の小さい男性役だったみたいですけど。」

 ちょっとばかり自虐気味にそう言うと、あかりさんの口元がかすかに緩んだ気がした。

 浜木綿で初めてモデルを経験したあの夜、あかりさんの絵に対する真摯な姿勢、そして情熱がオレの胸にひしひしと伝わって、彼女にとって、漫画を描くことが生きる証しなのではないかと感じさせた。

 漫画やアニメといった大好きな話題の時も、あかりさんは無邪気な子供のように嬉しがる。そんな彼女の生き生きとした姿は、オレのみならず、誰にでも輝かしさを感じさせてくれるはずだ。

「真倉さんは、あかりさんが輝きを失ってしまったかのように言いますけど、少なくともオレは、あかりさんから眩しいぐらいの輝きを感じました。その輝きはとても強くて、大きいからこそ、あかりさんは中途半端じゃなく、立派な漫画家の一人としてやっていけてるんじゃないでしょうか?」

 オレの話をどう受け止めたのかわからないが、真倉さんは目を閉じたまま天井を向いてしまった。一方のあかりさんは、やはり照れくさかったのだろうか、口を真一文字にしながらも表情を緩ませていた。

「真倉さんだって、生き甲斐と言える空手の道に輝きを求めてますよね?それだったら、大好きな漫画の道に輝きを求めるあかりさんのこと、姉妹だったらきっと理解できると思うんです。違いますか?」

 そっと目を開けた真倉さんは、何かを悟ったかのように、これまで以上に大きな吐息を漏らした。

「なるほど。わたしは運だけでなく、輝きまでもあかりに勝てなかったというわけか・・・。」

 真倉さんは力なくそう嘆いていた。投げやりな台詞ではあったが、悔しさからくるものとは少し様子が違い、あかりさんのことを認めるような、褒め称えるような、そんなよきライバルを敬う声だった。

「少々眠気が来てしまったようだ。・・・管理人殿、申し訳ないが、もう少しばかり仮眠を取らせてもらってよいだろうか?」

 オレがためらうことなく快諾すると、真倉さんはありがとうと一言だけ告げて、そっと再び目を閉じた。

 しばらくすると、真倉さんは静かな寝息を立てて、安らかな眠りへと落ちていった。

「あかりさん、オレ管理人室に戻りますね。」

 真倉さんを気遣い、リビングルームを出ていこうとするオレを、あかりさんは廊下まで見送ってくれた。

「管理人代行、いろいろとありがとう。また改めて、夜未と二人でお礼を言わせてもらうわ。」

「どうしたしまして。真倉さんの看病もいいけど、あかりさんも早くシャワーなりで体を温めてくださいね。夏風邪は一度引くと、尾を引きますから。」

 それはお互いさまと言いながら、あかりさんは軽く微笑んでいた。彼女だけじゃなく、オレもまだ濡れた髪の毛をタオルで拭っていただけだった。

 どんよりとした雲はすっかり消え去ったのか、廊下の窓から薄っすらと夕日が差し込んでいた。オレは少しばかり気が晴れるも、くしゃみ一つしながら管理人室に向かって駆け出していった。

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