第三話 一.ソファの上で迎えた朝
ふと目が覚めると、いつもと違った風景が視界に入った。
フローリングの床に洋風のテーブル、そして四つの脚がついた椅子たち。そのすべてが、オレにとって未知なる空間のように映っている。
薄っすらながらも意識がはっきりしてくると、オレは記憶の片隅から、アパートのリビングルームにいることを思い起こす。
「う、う~ん・・・。」
うめくような声を上げたオレは、ソファの上に一人で横たわっていた。よく見ると、ピンク色した薄手のタオルケットが、オレの腰の辺りを温めるように被さっている。
カーテンに覆われた窓の隙間からかすかに漏れる光。それは、まだ寝ぼけているオレに朝の訪れを教えてくれた。
「そうだ、麗那さんは・・・!?」
昨夜、麗那さんと一緒にいたことを思い出し、オレは咄嗟に起き上がる。そして、周囲の様子を伺ってみると、シーンと静まり返ったリビングルームに一人きりなのがわかった。
オレは髪の毛を掻きむしりながら、ソファからゆっくり立ち上がると、おぼつかない足取りで窓に向かって歩を進める。
大きな窓のカーテンを勢いよく開けると、目を覆うほどに眩しい光線が飛び込んでくる。リビングルームの壁掛け時計の短針は、朝7時を指し示していた。
「あれ?」
朝の光に照らされたテーブルの上には、無造作に広がったままの参考書と一緒に、文字が綴ってある紙のようなものが置いてあった。そっとその紙を手にすると、それは手書きで書かれたオレ宛ての伝言だった。
「マサくんへ。昨夜はわがままを聞いてもらってごめんなさい。とてもぐっすりと寝ていたので、起こすことをためらってしまいました。わたしは朝早くから外出があるので、申し訳ないけど部屋に戻ります。エアコンと照明だけ消しておきました。麗那より。」
その伝言に目を通した後、オレはソファの方へ視点を移す。伝言には書かれていなかったが、あのピンクのタオルケットも、オレのために麗那さんが掛けてくれたものだろう。
オレは独り言のように感謝の気持ちを述べつつ、麗那さんのタオルケットを丁寧に折りたたんだ。
「もうこんな時間だし、このまま掃除清掃始めちゃおう。」
両手を高々と挙げて大きく伸びをしたオレ。まだ眠たい感覚は残っていたものの、窓から望んだ今日の天気は、二度寝するにはもったいないぐらいの快晴だった。
オレはやる気を奮い起こし、流し台の清掃、分別ゴミの整理をあっという間に片付けて、床のモップ掛けをそつなくこなしていく。
休憩を挟むことなく、オレは立て続けに玄関の掃き清掃を始める。そして、太陽の日差しを受けている、じいちゃんの宝物である盆栽の一つ一つへ水を遣った。
「ふぅ、こんなところかな。」
一通りの日課を終えたオレは、額ににじむ汗を拭いながらアパートの庭を眺めていた。
お盆も過ぎた8月はまもなく下旬を迎える。庭で咲き誇っていたひまわりも、心なしか疲れたように首を垂らしていた。それでも、まだまだがんばろうと首をもたげるひまわりもいる。
オレはそんな自然の有り様を見つめながら、夏の終わりはもう少し先なのだと感じていた。
「お、そうだ。参考書まだリビングに置きっ放しだったんだ。」
そんなことを思い出し、オレはアパートへ戻るなりリビングルームへと足を向ける。
人の気配のしないリビングルームのドアを開けると、参考書が置いてあるテーブルより先に、オレの視線はソファの上に釘づけになってしまった。
「あ・・・。」
ソファの上には、猫のニャンダフルが丸くなって眠っていた。こともあろうか、麗那さんのタオルケットを座布団代わりにしたままで。
コイツの鋭い爪で傷つけられたら大変だとばかりに、オレはすぐさまソファの方へと近づいていく。
「おーい、ニャン。悪いんだけどさ、そのタオルケット返してくれないかぁ?」
いつもならオレが声を掛けながら近寄ると、機嫌悪そうに逃げていくニャンダフルだが、タオルケットが余程お気に入りなのか、逃げるどころかあくびしながらふんぞり返っていた。
さらに、引き剥がそうとタオルケットに手を忍ばせようものなら、ギラッと目をむいて敵意を剥き出しにする始末だった。
「ははは、参ったな、こりゃ。」
無理に奪おうとしたところで、爪で引っ掻かれるのがオチだろう。ここはひとまず諦めようと、オレは床の上に座って大きく溜め息をついた。
それからいったいどれほどの時間が経過したのだろうか。親代わりの潤が起きてきて、猫とじゃれ合うまでの長い間、オレはこのまま床の上に座り込む羽目となってしまった。
===== * * * * =====
その日の午後のこと。どこからともなく現れた入道雲が、太陽の陽光を遮り始めたそんな昼下がり。
これから買い物に出掛けるつもりだったオレは、リビングルームの窓からどんよりとした不穏な空を見上げていた。
今日の午後も、いつになくこのアパートの人口密度は低かった。お仕事で外出中の麗那さんとジュリーさん、ぶらっと街で遊戯中の潤、合宿期間中の奈都美を除くと、在宅中なのは、オレとあかりさんの二人ぐらいのものだ。
「雨が降るかも知れないから、さっさと出掛けてくるか。」
オレはそうつぶやきながら、あかりさんに留守をお願いしようとリビングルームを出ようとする。その刹那、ドアを開けて入ってくる彼女とぶつかりそうになった。
「あ、あかりさん。丁度よかった。」
「管理人代行。ちょっとだけ留守番をお願いしたいんだけど?」
あかりさんに先手を打たれて、二の句が継げずに口ごもってしまったオレ。
細身の体がより一層スリムに見える、漆黒の上下スーツを着込んでいるあかりさん。その格好から、もう外出する準備は万端のようだ。
漫画の原稿を届けに行くのかオレが尋ねると、あかりさんは苦渋の顔つきで呆れるようにつぶやく。
「どうも来てしまったのよ、夜未が。1時間ほど前に到着した新幹線に乗ってね。」
来てしまったのは、あかりさんの姉、ではなく妹でもない真倉夜未さんだ。あかりさんとの真剣勝負を申し込むため、またしても大阪から遠路はるばる上京してきたらしい。
そのことを携帯電話で聞かされたあかりさんは、致し方ないといった嘆かわしい覚悟で、真倉さんを出迎えに行くことにしたという。
「でも安心して。彼女と会うのは闘うためじゃないから。あくまでも話し合いのためよ。」
好戦に否定的なオレのことを気遣ってか、あかりさんは悲壮な決意でそう誓ってくれた。
そういう事情であれば、あかりさんを快く送り出すしかないだろう。とはいえ、オレの買い物も生活必需品のため、買い控えするわけにもいかない事情があった。
オレがそのことをあかりさんに相談すると、彼女もオレと一緒になって困惑めいた表情をしていた。
「そう、それは困ったわね。わたしも短時間で帰ってこられる保証はないし。」
「オレもいつもの商店街じゃなくて、駅東口の方のお店まで行くから、やっぱり最低1時間は掛かっちゃうと思うんですよね。」
オレたち二人は顔を突き合わせながら、しばらくう~んと唸り声を上げていた。
無意味な時間が過ぎる中、このまま悩んでいても仕方がないと悟ったのか、あかりさんの方から解決策を提案してくる。
「こうなったら、玄関のカギを施錠して出掛けましょう。どうせ、みんなの方がわたしたちより帰宅が遅いと思うわ。」
そのあまりにも潔い決断に、オレも同意見と言わんばかりに賛成の姿勢を見せた。
「それじゃあ、わたしは先に出掛けるわ。あまり待たせると、話し合いがあらぬ方向へ飛んでしまいそうだから。玄関の施錠だけ、よろしくお願いするわね。」
「了解しました。気を付けて行ってきてください。」
あかりさんは少し口角を上げて、オレに会釈してから玄関へと駆けていった。
一方のオレも、管理人室へ戻って携帯電話と財布を持参し、そして、玄関のカギをしっかり掛けたことを確認してから、日陰になりつつあった市街地へと出掛けていった。
===== * * * * =====
オレは滞りなく買い物を済ませて、外出してから1時間30分ほどで、アパートまで帰ってくることができた。
「いやぁ、安く買えてよかったなぁ。何たって、オレの私生活、これがないと生きていけないもん。」
オレが買ってきた生活必需品とはいったい何か?実をいうと、他の人にしたら何らたいしたことのない腕時計だったのだ。
今日のお昼に昼食の後片付けをしていたオレは、不用意にも、腕時計をしたまま腕を水に晒してしまい、防水機能のない腕時計に思いきり水分を吸着させてしまった。もちろん、その腕時計が正確な時刻を表示できなくなったのは言うまでもない。
そんなわけで、寂しいお小遣いとにらめっこしながらも、オレは正確な時を刻む新しい腕時計を購入したというわけだ。
「しかも、雨が降らなかったのも運が良かったよ。」
ふと空を見上げてみると、鉛色した背の低い積雲が上空を覆い尽くしていて、今にも雨が降ってきそうな雰囲気だ。傘を持っていなかったオレは、玄関まで到着するとホッと胸を撫で下ろす。
ポケットから玄関のカギを取り出し、開錠したドアを開けたその瞬間だった。ドアの隙間に挟まっていたのか、ひらひらと一枚のチラシが足元に落ちてきた。
「ん、何だこれ?」
そのチラシには、達筆な文字で”管理人へ”と記されていた。オレは違和感を覚えつつも、そのチラシに書かれた文章を読んでみた。
「管理人へ。至急の所用につき、手伝いをお願いしたい。多忙のところ申し訳ないが、山茶花中央公園のサッカー場の倉庫まで来てほしい。では、よろしくお願いする。五浦あかり。」
この文章を読む限り、これはあかりさんからオレに向けた言づてのようだ。至急の所用とはいったい・・・?
「・・・。」
オレはしばしの沈黙の後、買ってきた腕時計を下駄箱の上に置いてから、もう一度玄関のカギを施錠する。そして、その言づてをポケットに突っ込んで、あかりさんが待ち受けているであろう「山茶花中央公園」に向かって駆け出していった。
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