第二話 三.思い出の歩道橋の上で
翌日の午前中、暑くなる前に買い物を済ませようと、オレはいつもの商店街へやってきていた。
買い物のたびに愚痴ってしまうが、アパートで共用する日用品の補充は面倒だ。週に一回の補充で終わったためしがない。
まだまだ汗をかく季節のせいか、洗濯洗剤の消費がとにかく著しい。男のオレならまだしも、アパートの住人が全員麗しの女性なので、それも納得せざるを得ない話なのだが。
オレはその帰り道、家電量販店に寄り道しようと思い、この街の大動脈である大通りへ向かう。
ここ最近、リビングルームにある電子レンジの調子があまり芳しくない。入れ替えるにしても、今日のところはまず、お値段だけチェックしておこうと考えている。
「あまり値段が高いと、きっとじいちゃん、今の電子レンジのままで我慢しろって言うだろうな。」
管理人であるじいちゃんは、金銭感覚にかなり敏感な人なのだ。そんなじいちゃんから了解をもらうには、腰を据えた交渉も余儀なくされるだろう。しかも、じいちゃんの苦手分野の電化製品なら尚更だ。
そんなことを考えているうちに、オレは自動車が怒涛のごとく行き交う大通りへと辿り着いていた。
いつものように、ここは耳障りな騒音と排気ガスが充満しており、夏の澄んだ青空を隠さんばかりに濁らせている。オレは顔をしかめつつ、大通りの反対側にある家電量販店へと足を向けた。
「それにしても、今日はいつになくやかましいなぁ。」
オレがそう感じたのもそのはずで、大通りの一部で大規模な道路工事が行われていたのだ。
カラーコーンで一車線を通行止めにしているせいか、大通りはいつもよりも混雑しているようだ。のろのろ走る自動車一台一台に誘導灯を振っている作業員も、この暑さではさぞ大変だろう。
歩道をも巻き込んでいるその工事現場を横目に、オレは大通りの反対側へ渡るべく歩道橋を目指した。
黒煙に長く晒されて、少しばかりすすけている歩道橋。オレの視界に映るこの歩道橋は、オレにとって思い入れのある場所でもあった。
「挫折しそうになって苦しい時、いつもこの星空がわたしを励ましてくれた。だから、わたしはここまでがんばってこれたの。」
あの歩道橋の上で、そんな胸のうちを打ち明けてくれた麗那さん。彼女と一緒に満天の星空を観賞した、そんな思い出深い場所だった。
オレはあの時のことを振り返り、感慨深く物思いに耽っていた。オレはこの時、思い出に酔いしれていたせいか、背後に忍び寄っていた人物に気付くことができなかった。
「マ・サ。何してるの?」
「わぁ!?」
いきなり耳元で囁かれたオレは、びっくり仰天で後ろに振り返る。
オレの背後に立っていたのは、黄色いヘルメットを頭にかぶり、黄土色の作業着に身を包んだ女性だった。その女性の透き通った青色の瞳に、オレは間違いなく見覚えがあった。
「ジュリーさん!?」
「ハーイ、こんなところで奇遇ネ。」
その格好についてジュリーさんに尋ねると、案の定、彼女はこの大通りの工事現場で、誘導作業員のアルバイトをしていたとのことだ。
「通り過ぎる前から呼んでたのに、あなた、全然気付かないんだもノ。耳遠くなっちゃったんじゃないの?」
耳が遠いも何も、これだけの騒音がひしめく大通り沿いで、呼ばれて気付く方がちょっと珍しいと思う。しかも、ジュリーさんの自慢であるブロンド髪が隠れているせいで、すれ違いざまでは、彼女に気付かないのも無理はない。
「でも、工事現場のアルバイトなんて、大丈夫なんですか?」
「こんな景気の悪い時代だから仕方がないヨ。なりふり構っていられないワ。それに、工事現場のバイトはお給料もいいからネ。」
苦笑しながら、軍手をした指で顔を掻いているジュリーさん。そんな彼女の勇ましさに、お小遣い生活をしているオレは負い目を感じてしまったが、受験生かつアパートの管理人代行のオレが、気軽にアルバイトなどするわけにもいかないだろう。
「それはそうと、マサはこんなとこで何してるのヨ?」
「実は、向こう側の家電量販店に行こうと思って。最近、リビングの電子レンジの調子が悪いから。」
オレがそう答えると、ジュリーさんは納得したような顔をしていた。オレと同様に、電子レンジの目に余る不調をより理解していたようだ。
向かうべき歩道橋を見返したオレの視線を追うように、ジュリーさんもその歩道橋へ視点を合わせる。
「でもよかったわネ。もうしばらくすれば、あの歩道橋に上らなくても向こうに渡れるようになるわよ。」
「えっ?」
その一言に、オレはジュリーさんの方へ向き直る。そして、すぐさまその真意を尋ねると、彼女から意外な事実が明かされた。
「あの歩道橋ネ、いずれ撤去されるのヨ。ほら、この道路工事は、その代わりの横断歩道を作ってるの。」
ジュリーさんの話によると、向こう側にあった小学校が今年の春に移転したことに伴い、行政の方でこの歩道橋の有無についての議論が持ち上がったそうだ。
老朽化による維持費の面や、大通りの交通量調査の結果を鑑みて、歩道橋の撤去が正式に議決となり、その代わりに横断歩道を敷設することになったのだという。
横断歩道の敷設が完工するこの数週間のうちに、この歩道橋は撤去工事起工のため、立ち入り禁止となってしまうとのことだった。
「そうなんですか・・・。」
呆気に取られたまま、騒音を響かせる工事現場に目を移したオレ。黄色と黒色の二色のゲートには、ジュリーさんの言う通り、横断歩道新設敷設工事という文言の入った看板が立ててあった。
「おっとっと、サボってるとお給金に響いちゃうワ。それじゃあ、マサ、グッバイ。」
「お疲れさまです。気を付けてがんばってくださいね。」
履き慣れない安全靴の足音を残して、てくてくと仕事の現場へと戻っていったジュリーさん。彼女は現場に戻るなり、大柄な男性に交じって誘導灯をせっせと振り回していた。
「そうか、なくなっちゃうのか。」
オレは歩道橋の方へと振り向き、ゆっくりと足を進める。さっきまでと違って、足取りが水中を歩いているかのように重々しい。
一歩、また一歩と、色あせたコンクリートの階段を踏みしめるオレ。錆びついた手すりに手を掛けて、オレは歩道橋のてっぺんまで到着した。
「・・・麗那さん、このこと知ったらどう思うのかな。」
靴をすり減らした小学生たちの思い出。相合傘のいらずら書きをしたカップルたちの思い出。そして、元気と勇気をもらった麗那さんの思い出。そのすべてが、この歩道橋と一緒に跡形もなく崩れ去ってしまう。
そんなやるせない思いに胸を痛めつつ、オレは暖かく乾いた南風を肌で感じながら、横断歩道の上にただ立ち尽くしていた。
===== * * * * =====
にわかに雲が浮かんでいるものの、穏やかに晴れた翌日の朝のこと。
いつも通り朝早くに目を覚ましたオレは、恒例行事と言わんばかりに、掃除清掃のためにリビングルームへとやってきた。すると、こんな朝っぱらから、住人たちの語らう声が廊下に漏れていた。
そっと耳を澄ましてみると、寝ぼけたような低い声から、そのうちの一人が潤があることはすぐにわかった。
リビングルームの前で気兼ねしていても仕方がないので、オレは軽くノックしてから室内に入っていく。
「おはようございます。」
オレの朝の挨拶に笑顔で応えてくれたのは、大きなあくびをしていた潤と、もう一人は予想していなかった住人だった。
「あれ?奈都美じゃないか。いったい、どうしたんだ?」
奈都美は現在、所属するチームの強化合宿中のはずだ。そのため、彼女がアパートにいるのは土曜日の夜から日曜日だけで、今日のような平日にいるはずがない。まさか合宿メンバーから脱落して、強制的に帰らさせられてしまったのだろうか・・・!?
「あたしだって、たまには平日のお休みもあるよ。弁当屋のおじさんに用事があったから、今朝、始発電車でこっちに帰ってきたんだ。」
そう言いながら、奈都美は元気いっぱいの笑顔を見せる。潜在能力の秀でた彼女なら落選することはないと思っていても、柄にもなくつい親心を見せてしまうオレであった。
潤と奈都美の二人は何をしていたかというと、ソファの上に腰掛けて、猫のニャンダフルと楽しそうに戯れていた。一方のニャンダフルも煙たがることなく、彼女たちの成すがままにじゃれ合っていた。
「マサ、丁度よかったぁ。ねぇねぇ、ちょっとだけ話してもいい?」
昨夜もお店でしゃべくり過ぎたのか、かすれがかった声でそう問いかけてきた潤。オレが二つ返事で了解すると、彼女は壁掛けカレンダーを眺めながら口を開く。
「あのさぁ、今月8月も半分過ぎちゃったでしょう?今月のお楽しみ会だけど、何するかまだ決めてないんだよね。」
このお楽しみ会とは言うまでもなく、このアパートの住人たちが月に一回開催している恒例イベントのことだ。
「何するか決まんなくて、ダラダラな飲み会で済ましちゃうのもおもしろくないから、今月はサッカー観戦にしようと思うんだけど、どう?」
サッカー観戦?と問い返すオレに、潤の代わりに奈都美がその主旨を教えてくれた。
「8月最後の日曜日なんだけどね、あたしのチームの試合が東京であるんだよ。入場チケットを無料でゲットできたから、もしだったら、住人みんなを招待したいなーって思ったの。あ、でも、スタジアムまでの電車賃は自腹ってことで。」
奈都美のチームは千葉県がホームのため、東京での試合はアウェイということになる。このチケットはチームから進呈されたらしく、アウェイ側の観客を少しでも増やそうとするチームの打算的な思惑が見え隠れしていた。
「そういうことか。サッカー観戦なんておもしろそうだね。他のみんなも賛成するといいけど。」
「その心配ならいらないよぉー。」
そう言い切った潤は、奈都美の肩を掴んで溢れんばかりに微笑んでいる。
「その試合ね、奈都美のベンチ入りが決まったんだって。つまり、試合に出場できるチャンスがあるってことだよぉー。これはもう、みんなで応援に行くしかないじゃん?」
「え?お、おい、それ本当かい!?」
潤のその喜ばしい話に、驚きのあまり声を張り上げてしまったオレ。そんな興奮するオレを見て、ニャンダフルもびっくりしてソファで跳びはねていた。
「そ、そんなに期待しないで。まだ出場の可能性があるってだけなんだから。」
照れくさそうに、ちょっぴり弱気な発言をする奈都美。それでも彼女の瞳の奥には、出場できるという自信が宿っているように見えなくもなかった。
潤が言うように、お楽しみ会が奈都美の晴れ舞台となれば、住人の誰もが反対する理由はないだろう。オレ自身もそう確信していた。
「よーし。それじゃあ、あたしからみんなにメールしておくねぇ。」
どうやら眠気も吹っ飛んだのか、潤は目を輝かせて携帯電話を操っていた。指の動きはまさにプロフェッショナル。オレと奈都美がポカンと見つめている間に、送信完了の合図をオレたちに発信していた。
「お話も済んだし、あたしもそろそろ行く準備でもしようかな。」
奈都美はそう告げると、膨らんでいるリュックサックを背負う。弁当屋に立ち寄ったその足で、彼女は合宿所にそのまま帰るとのことだった。
「随分性急だなぁ。もう少しゆっくりしていけばいいのに。」
「それがそうもいかないの。向こうへ帰る前にね、いろいろと買い物していかなきゃいけないんだ。」
忙しそうな口振りで、顔をポリポリと掻いている奈都美。慌ただしい休暇を過ごすその姿に、じっとしていられない性格の彼女らしさが感じ取れた。
そんな会話をしていたオレたちなど目も暮れず、潤はいつの間にか牛乳を飲みながら、まったりと朝のワイドショー番組を視聴していた。
椅子に座ってテレビを眺めている潤に、奈都美がしばしの別れの挨拶をしようとした矢先だった。
「えぇ!?うっそぉぉ~!」
リビングルーム内を揺るがすほどの叫び声。何かの拍子に驚いた潤の声で、オレと奈都美は思わずおののいてしまった。もちろん、臆病なニャンダフルもびくついてしまった。
「どうしたんだ、潤。そんな大声出して?」
潤が目を丸くしたまま見つめるテレビの画面に、オレと奈都美も揃って視線を合わせる。
テレビの画面には、一人のかわいらしい女の子がインタビューを受けている映像が流れていた。このチャーミングな女の子の容姿が、オレの記憶の片隅にわずかながらに残っていた。
「あれ、この女の子、どこかで見たことがあるな。」
「・・・舞姫ひかるだよぉ。」
潤がボソッとつぶやいたその名前に、オレの記憶が瞬時に呼び戻された。確かこの前、最近売出し中の人気モデルだと、彼女から教えてもらった女の子のはずだ。
この女の子がどうかしたのか潤に聞いてみると、彼女はさっきと同じように素っ気なくつぶやく。
「・・・Lavieの専属モデルになったんだってぇ。」
「Lavie・・・?それって、麗那さんが専属している雑誌のことだよな?」
オレからの問いに、これまたやる気なくうなづいた潤。そんな彼女と、そしてオレと奈都美の三人は、舞姫ひかるのインタビューに耳を傾けていた。
やはり人気者らしく、複数のレポーターに囲まれている舞姫ひかる。質問の主な内容は、Lavieの専属になったことに関する感想や意気込みについてだった。
「感想とか意気込みとか、そういう類のものはないんですけど。ただ、専属になったからには、読者の女の子たちのファッションリーダーになれたらいいなぁって思ってます。」
レポーターに取り囲まれても動じることなく、舞姫は淡々とした口調で質問に答えていた。
「ひかるちゃん、もう一つだけ答えてください。ひかるちゃんの目標とするモデルはいますかぁ?」
「もちろんいますよ。あ、でも目標っていうか、ライバルって言った方がいいのかなぁ。」
レポーター陣は、舞姫に向けて一斉にマイクを近づける。彼女の一言一句を漏らさぬよう、この場にいる誰もが声を押し殺していた。
ほんの少し間をあけてから、舞姫はかすかに口元を緩めつつ、ライバル視するモデルの名前を堂々と告白する。
「Lavieの看板モデル、そう二ヶ咲麗那さんですね!」
テレビの画面を通して、歓声にも似たどよめきが聞こえてくる。それを耳にしたオレたち三人は、緊張感からピクッと体を震わせた。
「あたしも、やるからには頂点を目指したいですから。そのためには、二ヶ咲麗那さんを追い越すぐらいの覚悟で臨まないとですもんね。」
「では、二ヶ咲麗那さんを追い越す自信のほどは?」
「ありますよ。なければ、みなさんの前でこんな宣言していませんからね。フフフ。」
その表情こそ、愛想を振りまくアイドルのような舞姫だが、口から出た台詞はどこか刺々しく、悪寒すら感じさせるものがあった。
「もぉ、舞姫ひかるってホントにむかつくぅ!あんたなんか、センパイの足元にも及ばないくせにぃ~!」
「あたしもちょっとむかついた。この鼻にかけたしゃべり方、すっごく嫌な感じだね。」
潤は憮然とした顔で、テレビ画面を指さしながら悪態ついていた。すぐそばにいる奈都美も、舞姫の生意気なその態度に嫌悪感をあらわにしている。
舞姫ひかるの淀みないインタビューは、それからもしばらく続いていた。彼女の自信に満ち溢れた視線が、テレビを通り越して妖しいぐらいに突き刺してくる。
潤と奈都美ほどではないが、このオレも舞姫ひかるの人柄にどこか不快な思いを抱いていた。それは、麗那さんに負けてほしくないという、オレの気持ちの表れだったのかも知れない。
===== * * * * =====
その日の夜、アパートのリビングルームで一人ぼっちだったオレ。
眠たい目で壁掛け時計を見てみると、時刻は夜11時に差し掛かろうとしていた。
少しでも受験勉強に励もうと参考書を広げてみたものの、オレはいろいろなことに気が散ってしまい、思うように勉強に集中できずにいた。
集中しようとすればするほど、余計に神経が逆立ってしまって、苛立ちばかりがオレの頭の中を埋め尽くしていく。
「ふぅ・・・。」
重たい溜め息をつき、意気消沈するオレはテーブルの上にうつぶせる。
エアコンの効いたこの快適空間の中で、そのまま夢の中へ誘われようとした矢先、オレの足元にまとわりつくわずかな感触。
テーブルの上にある頭を起こして、ゆっくりと足元を見据えると、物欲しそうな顔をした猫のニャンダフルが座っていた。
「おお、ニャンか。またエサのおねだりかい?」
眠りかけた意識を呼び覚まし、オレはテーブル椅子から腰を上げる。そのまま流し台へと向かい、オレはキャットフードを入れたお皿を床の上に置いた。
「おまえはいいよなぁ。悠々自適に生きていけるんだもんな。」
エサをおいしそうに頬張るニャンダフル相手に、オレはついやるせない胸中を漏らしていた。猫に悩みを打ち明けるなんて、我ながら情けなくて何とも嘆かわしい話だ。
オレが気ままに猫と戯れていると、こんな夜だというのに、陽気な声を上げながらリビングルームへ入ってくる住人がいた。
「あれ、麗那さん?」
オレの顔を見るなり、にわかに表情を緩める麗那さん。彼女の頬はほんのり赤らんでいて、どこかでお酒を嗜んだ後のようだった。
「マサくんだったのかぁ。もう11時になるのに、今夜はいつもより夜更かししてるんだね。」
「はい、少しばかり受験勉強を。・・・でも、あまり集中できなくて、コイツと遊んでました。」
コイツと呼ばれたニャンダフルは、お帰りなさいと言わんばかりに、麗那さんのそばへと擦り寄っていく。彼女は猫を両手で抱きかかえると、溺愛するかのように顔同士を擦りつけていた。
そんな茶目っ気いっぱいの麗那さんに、お酒を飲んできたのか尋ねてみると、オレの予想通り、仕事明けに浜木綿に寄り道をしてきたそうだ。
いつもはリビングルームで晩酌するはずの麗那さんが、珍しくお店で飲んできたりすると、彼女に何かあったのでは?とつい心配になってしまう。
「ちょっとばかりお付き合いしていいかな?」
オレが快諾の意志を表示すると、麗那さんは水を注いだグラスを持って、ソファの上にちょこんと腰掛ける。今夜はいつもよりも飲み過ぎたのか、彼女はグラスの水を一気に飲み干していた。
「酔ってるみたいですけど、具合とか大丈夫ですか?」
「うん。ちょっと仕事で嫌なことがあってね・・・。あ、でも大丈夫よ。紗依子とマスター相手に、すっかり憂さ晴らししてきたから。」
オレを心配させまいとしたのか、麗那さんは愛想よく笑っていた。しかし、彼女の微笑みの裏側には、寂しげな虚無感のようなものが見え隠れしていた。
「・・・やっぱり、話しておいた方がいいよな。いずれは、わかっちゃうことだもんな。」
麗那さんを見つめながら、心の中でそうつぶやいたオレ。昨日知ってしまった、彼女の思い出の歩道橋が撤去されるという寂しい事実を、オレはおもむろに思い起こす。
「あの、麗那さん。追い打ちを掛けるかも知れませんけど、少しだけお話してもいいですか?」
神妙な言い回しをするオレに、麗那さんはちょっぴり怪訝そうな顔をしつつも、一回だけコクンとうなづいて、耳を傾ける姿勢を見せてくれた。
「立ち話もなんだから、ここに座って。そうしたらお話、聞いてあげる。」
「え、そこにですか・・・?」
麗那さんは赤らんだ顔のまま、すぐ横のソファをポンポンと叩いている。これはつまり、隣に座りなさいと言いたいのだろう。
オレは恐れ多くも、麗那さんのすぐ隣に座らせてもらう。すると、人間二人が隣り合って乗ったせいか、ソファが思いのほか沈み込んでしまい、オレたち二人の距離をより一層接近させてしまった。
近くで見る麗那さんの横顔はとても綺麗で、下ろした髪の毛が照明に当たって艶々している。あと数センチで手が届きそうな彼女の美貌に、オレは高鳴る鼓動を打ち消すのに必死になっていた。
「それで、マサくんの追い打ち掛けるお話って何?」
姿勢を正した麗那さんに、オレはためらいながらも、その事実を包み隠さず打ち明ける。
「実は、大通りに架かる、あの歩道橋のことなんですけど・・・。あれ、しばらくしたら取り壊されてしまうらしいんです。」
あまりにも唐突な話に、呆気に取られて言葉にならない様子の麗那さん。事情を把握することができず、オレの腕に掴みかかって理由を聞き返してくる。
「ねぇ、それどういうこと?歩道橋が取り壊されるって、何がどうなっているの!?」
大通り付近にあった小学校が移転したことに伴い、行政側の判断により横断歩道に置き換わってしまうことを、オレは青ざめる麗那さんに洗いざらい説明した。
かなりショックだったのだろう。オレの腕からそっと手を離した麗那さんは、憔悴しきった顔を下にうつむかせてしまった。
「そうか・・・。あの歩道橋、なくなっちゃうんだ。」
「横断歩道はもう少しで完成するそうです。・・・完成した後、歩道橋はバリケードに囲まれて、関係者以外は入れなくなるらしいです。」
麗那さんはまだ顔を下に向けたままだった。彼女の横顔は、失望という名の褪せた色に覆われている。
「嫌なことや考えたくないことって、続く時は続くものだね。さすがのわたしも、ちょっとだけ疲れちゃったかなぁ・・・。」
そんな失意の言葉で締めくくると、麗那さんは目を閉じてしばらく黙り込んでいた。
麗那さんの空虚な心情を察しても、どうしてみようもないオレはただ、彼女と一緒になって口を閉じることしかできない。掛けてあげる言葉が見つからないもどかしさに、悔しさのあまり唇を噛むばかりだった。
そのわずかな沈黙の後・・・。オレの肩が小さな重みを感じた。そしてオレの頬に、ふわっとした柔らかい感触が掠めていく。
「れ、麗那さん・・・!?」
麗那さんは横たわるように、このオレの肩にもたれかかっていた。横目で見つめる彼女の顔は、眠っているかのように安らかな表情だ。
急接近した麗那さんから、ほのかに鼻孔をくすぐるいい香りが漂ってくる。すでにオレの思考回路は混迷を極め、今にもショートして、頭上から煙を噴き上げそうになっていた。
オレは高ぶる感情を押し殺して、麗那さんを起こそうと、彼女の肩にそっと手を置こうとした瞬間だった。
「・・・ごめん、マサくん。ほんの少しでいいの。このままでいさせて。・・・わたしの、わがままなお願いを聞いて。」
オレはゆっくり手を元の位置まで戻していた。そして、麗那さんに自らの肩を預けたまま、うつろな瞳で天井を見上げていた。
さっきまでの高揚がまるで嘘のように、オレの感情は冷たくなって萎んでしまっていた。その気持ちは不思議なほど穏やかで、とても心地よいものだった。
ソファの上で肩を並べているオレたち。静かに寝息をたてている麗那さんに、オレは心の中で労わりのメッセージを送っていた。
「いつもがんばり過ぎて、無理してばかりの麗那さん。今夜は、今夜だけは、こんなオレでよければ、とことん甘えてください。麗那さんの気が済むまで、オレ、いつまでも付き合いますから・・・。」
オレの気持ちが届いてくれたのか、麗那さんは見惚れるぐらいの微笑ましい寝顔をしていた。そんな彼女と一緒に静寂なひと時を過ごすうちに、このオレもいつの間にか深い眠りに落ちていった。
第二話は、これで終わりです。
ご意見、ご感想など、お気軽にお寄せください。




