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第二話 二.スケッチブック

「よかったですね、八戸さん。もうすぐ退院ですよ。」

 数日経過したある日のこと。照明を点けていなくても明るい室内に、清潔感のある白衣をまとった医師のそんな一言。

 オレとじいちゃんの二人は、入院先の「胡蝶蘭総合病院」の診察室で、その医師からありがたいお言葉を頂戴した。

 ホッと胸を撫で下ろしているオレのすぐ横で、眉間にしわを寄せるじいちゃんは、この期に及んでもまだ往生際の悪さを垣間見せる。

「あの、先生。わし、本当に退院してもいいのかね?まさか、残り少ない余生を自宅で過ごしてもらおうとする親切心とかじゃないのかね?」

 このご老人はまったく何を言い出すのやら・・・。このオレにどれだけ恥をかかせれば気が済むのだろうか。

 さすがの医師も呆れた様子で、凛々しい顔立ちをほころばせて、そんなことはないとやんわり否定していた。

「入院した頃より平熱も下がってますし、顔色も随分良くなりましたからね。もう少しだけ経過を見ますが、普段通りの生活をしてもらってもさして問題はないでしょう。」

「おお、ということは、わしの好物のビーフジャーキーが食べられるわけじゃな?」

 それだけはダメだと、今回は真っ向から否定した医師。そのあまりの無慈悲な仕打ちに、じいちゃんは肩をガックリと落としてしょげていた。

 これからの数日間で注意する点など説明を受けた後、オレとじいちゃんはてくてくと512号室へと帰っていく。病室へ到着するまでの間も、じいちゃんはずーっとぶつくさ愚痴をこぼしていた。

「はぁ、ピチピチの看護婦さんとお別れとは、何とも寂しい限りじゃのう。これから、何を生き甲斐にして暮らしていけばいいのやら。」

「70歳過ぎてる人が色ボケしてる場合じゃないでしょ。退院できるってことは、それだけ元気で健康な証しなんだからさ。」

 ベッドに腰掛けて落胆しているじいちゃんを、いい加減観念しなさいとオレは叱るように説得する。いつも住人たちの不平不満を聞かされているせいか、オレにしたらこんな境遇などもう慣れっこだった。

「入院が長引けば、それだけお金も掛かって大変なんだからさ。やっぱり早く退院するにこしたことはないんだって。」

「ふん、入院費用はわしの年金からまかなっておるんじゃ。おまえたちに迷惑を掛けてる覚えはないぞ。」

 オレは陶器製の急須にお湯を入れて、ゆっくり回してから湯飲み茶碗に注ぎ込む。そして、湯気がほのかに立ち上るその茶碗を、ベッド備え付けのテーブルの上にさりげなく置いた。

「まぁまぁ、お茶でも飲んで少しは落ち着いたら?」

 じいちゃんはしかめっ面をしながらお茶を口に含む。すると、オレのご機嫌取りが気に入らなかったのか、苦々しかったじいちゃんの顔がより一層渋みを増してしまった。

「何じゃ、このお茶は。熱いわ、薄いわ、心がこもってないわで、飲めたもんじゃないぞ。」

「熱かったのと薄かったのは反省するけど、心がこもってないって言われると、ちょっとショックだなぁ。」

 次は怒られないよう温度と味に注意を払って、自分の分も一緒にお茶を入れ直したオレ。そのお茶を口にするオレたち二人は、のんびりとまったりとしたひと時を過ごしていた。

 窓の外は今日も晴れ。遠くに見えるは見飽きた青い空と白い入道雲、そして、いつもと変わらない灰色の街の景観。それでも少しずつ夏は過ぎていき、哀愁漂う秋が近づいていると感じる今日この頃だ。

「気付いたらさぁ、オレ、東京にやってきてもう二ヶ月も経ったんだよね。いろんなことがあったせいだろうけど、あっという間の二ヶ月だった気がするよ。」

 アパートの管理人代行を務めてからの日々を、オレは述懐しながらそう振り返った。じいちゃんは目を細めたまま、わかっているかのように繰り返しうなづいている。

「いきなり呼び寄せた割には、おまえは本当によくやってくれたな。感謝しとるよ。」

 東京へやってきたあの日、アパートまでの道のりでは、不安という二文字だけがオレの脳裏を過っていた。正直なところ、小心者のこのオレが東京で生活していけるなんて、当時は思いもしなかったことだ。

 こんなオレのことを暖かく迎え入れてくれて、居心地のよいくつろぎを与えてくれたのは、言うまでもなく、親友のように接してくれた住人たちに他ならない。

 オレが住人たちの心遣いに思いを馳せていると、じいちゃんが突然、ポロッと痛いところを突いてくる。

「それはそうと、マサ。おまえ、大学受験の勉強の方は順調なのか?」

「・・・う。」

 思わず絶句するオレ。じいちゃんが覗き込むオレの顔色は、順調ではないことをあからさまに示していた。

「でも心配いらないよ。ほら、じいちゃんがアパートに帰ってきたら、オレも受験勉強に集中できるし。それからでも十分遅れを取り戻せるだろうから。ははは。」

 現段階では、オレはただ空元気に笑うしかなかった。とにかく余裕を見せ付けて、じいちゃんを安堵させることに精一杯だった。

 言い逃れに近い台詞ではあったが、じいちゃんは鵜呑みしてくれたらしく、ほっこりとした顔をオレに向けてくれた。

「なぁマサ。やる気満々のところ、水を差すようで申し訳ないんじゃが。」

 そう前置きしつつ、おっとりとした口調で問いかけてくるじいちゃん。

「大学受験に必死になっておるが、おまえは将来何になりたんじゃ?いったい、何を目指しているんだ?」

 オレは虚をつかれたように、無意識のままに押し黙ってしまった。自分自身の将来など、ここまでの人生において真面目に考えたことなどなかったからだ。

「いくらなんでも、なりたい職業ぐらいあるじゃろう?例えば政治家とか、弁護士とか、プロ野球選手とか、お嫁さんとか、いろいろ夢っちゅーもんがあるんじゃないか。」

「スケールのでかい例ばかりだね。・・・あとさ、あえて指摘するけど、オレお嫁さんにはなれないから。」

 じいちゃんに急かされるも、オレは夢見る理想像が頭に思い浮かばず、口から唸り声を上げることしかできなかった。だからといって不利益はないのだが、何とも言えない罪悪感だけが後に残ってしまった。

 その上、呆れ返ったじいちゃんから、夢のない男子は女子にモテないぞと、けなすような捨て台詞まで吐かれる始末だった。

「まぁいいじゃろう。おまえはまだ若いんだ。将来のことは、これからじっくり考えるといい。・・・それはさておき。」

 そう言いながら、じいちゃんは話題を切り替えつつ、戸棚から何かを取り出そうとする。しばらく様子を見ていると、じいちゃんは一冊のノートを手にしていた。

「じいちゃん、そのノートは?・・・気持ちは嬉しいけど、ノートは足りてるからいならいよ。できれば、参考書を買うお小遣いの方が。」

「これは贈り物じゃないわ。お祝いでもないのに、何でわしがおまえにそこまでする必要がある?・・・これは管理人の記録帳じゃよ。」

 ケチンボなじいちゃんから、その管理人の記録帳なるものを手渡されたオレ。パラパラとページをめくってみたが、一文字たりとも見当たらない真っ白なノートだった。

「何も書かれてないけど、管理人の記録帳ってどういうこと?」

「その言葉通りじゃよ。おまえが管理人としてやってきたことを、そのノートに記録するんだ。まぁ言うなれば、それはアパートの管理日誌というところじゃな。」

 じいちゃんの解説が理解不能で、オレの頭上にはクエスチョンマークが浮かんでいる。

「おまえが管理人になってこの二ヶ月間の出来事、そしてこれからの出来事をそのノートに綴っていくだけじゃよ。簡単なことだろう?」

 簡単だろう?と、それこそ簡単に言ってくれるが、これからの出来事ならまだしも、過去二ヶ月間の記憶を記録しろだなんて一筋縄にはいかないはずだ。

「ちょっと待って。二ヶ月も前のことなんて細かく憶えてるわけないよ。そこまでの記憶力があったら、オレ二浪なんかしてないで、もうとっくに大学に合格してるよぉ。」

「大まかでいい。小学生がつける日記じゃないんだから、一日一日のことを事細かく書けとは言わん。おまえが憶えている部分だけで構わんよ。」

 オレはどうしても釈然とせず頬を膨らませている。こんな面倒なことをなぜさせるのか尋ねると、じいちゃんはほくそ笑んで、管理人の引継ぎに必要だろうと平然とうそぶいた。そう言われちゃったら、素直に応じるしかないじゃないか・・・。

「その記録帳な、わしが退院するまでに返してくれ。それまではおまえに預ける。使い切ってもいいから、真っ黒になるぐらい記録するんじゃぞ。」

「気軽に言ってくれるよ、ホント。受験勉強のノートですら真っ黒にしたことないのにさ。」

 言いつけを守ることを口約束したオレは、もう一杯だけ粗茶をいただいてから、管理日誌を握り締めてじいちゃんの病室を出ていく。

 じいちゃんの退院の見通しが立ったことは、このオレにとっては何よりの朗報だ。気持ちは前向きとは言えないが、受験勉強に集中できるきっかけとなることは間違いない。

「さーてと、今晩の夕食はちょっぴり贅沢しようかな。」

 この時のオレは、気楽に考えていたせいかまだ気が付かなかった。・・・押し迫ってくる大学合格という重圧が、このオレのゆとりある生活すらも脅かすことを。


 =====  * * * *  =====


 日も沈みかけたその日の夜。道行く男性たちの心を躍らせるかのように、繁華街には煌びやかなネオンが輝いていた。

 繁華街の一角でひっそりと営業している、隠れ家的居酒屋の「串焼き浜木綿」。暖簾と赤提灯を見かけるたびに、オレの男心も不思議なぐらい躍らされていた。

 オレは出掛ける時点から、今夜の夕食は浜木綿にすると決めていた。それは懐具合がいつもより暖かいという、そんな些細な理由だった。

 店内から漏れてる薄明りを確かめるなり、オレは挨拶しながら慎ましく暖簾を潜る。

「どうも、こんばんはー。」

「おお、いらっしゃい!」

 元気いっぱいのマスターの声が店内にこだました。その力強い声量に、このオレまで力が湧いてくるようだ。

「マサくん、よく来てくれたね。丁度よく顔見知りが来てるよ。」

「え?」

 顔見知りとはいったい誰だろう?浜木綿の常連客のジュリーさんか、それとも麗那さん?意表を突いて潤だったりして。オレはそんなことを想像しながら、マスターの視線の先に目を移す。

「あれ、あかりさん?」

 オレの視界に入った顔見知りとは、メンバーから真っ先に除外していたあかりさんだった。それもそのはずで、いつものようにアパートの留守番をしていると思っていたからだ。

 あかりさんはお酒に手を付ける様子もなく、スケッチブックに何やらペンを走らせている。たった一人で居酒屋へやってきて、いったい何を書き写しているのだろうか。

 真剣な顔つきをして、店内を見回しては手を動かしているあかりさん。その熱中ぶりに声を掛けられず、オレはカウンター越しのマスターにこの状況について尋ねてみた。

「いやね、開店早々に来店した途端、いきなり取材を兼ねてスケッチさせてほしいだもん。・・・まぁ、ほら、一応お得意さんのお願いだから、無碍に断るわけにもいかないしねぇ。」

 マスターは戸惑いを浮かべつつ、頭の側頭部をポリポリと掻いている。いかにも彼らしく、常連さんを大切にする優しい人柄が出てしまったようだ。

「取材を兼ねてる、ってことは、あかりさんが描いてる漫画のことですか?」

「詳しいことはわからないけど、きっとそうだろうね。カウンター席に座ったと思ったら、オレの肖像画を描き始めたり、カウンター席のお客とどんな会話をしてるかとか、矢継ぎ早に質問してきたりしてさ。」

 オレとマスターが小声で話し合っていると、作画に夢中になっていたあかりさんが、顔色一つ変えずにボソッと声を掛けてくる。

「そんなところに立ってないで座ったらどう?コソコソ立ち話するためじゃなくて、食事するために来たんでしょう。」

 大人に注意された子供のように、すごすごとカウンター席に腰掛けるオレ。マスターも苦笑しながら、定位置であろう調理場のところまで戻っていった。

 オレは渇きを潤そうと、生ビールをとりあえずとばかりに注文する。それを見計ったかのように、あかりさんは吐息を漏らしてペンを持つ右手を休ませた。

「まさか、あかりさんがいるとは驚きました。留守番してると思ってたから。」

「夕方になって、ジュリーが帰ってきてくれてね。夜のアルバイトがないと聞いて、留守番を交代してもらったのよ。」

 そう言いながら、あかりさんはスケッチブックを丁寧に片付ける。

「でも、あかりさんがここに一人来るなんて珍しいですね。漫画のお仕事みたいですけど?」

「これから描き始める新しいシーンの題材集めよ。主人公の探偵が依頼人と接触する居酒屋の雰囲気を写しておこうと思ってね。」

 あかりさんの描く漫画はハードボイルドだ。彼女はそのため、主人公の探偵と依頼人が接触するお店は、街角の片隅にある寂れたバーにしたかったらしいが、出版社の担当から、主人公の性格を考慮して居酒屋にするよう進言されてしまったそうだ。

 出版社からの指示では従うしかなく、あかりさんはここ浜木綿のマスターや馴染み客、そして店内の景観などをスケッチしていたというわけだ。

「担当にも困ったものよ。最近の読者はユーモラスな漫画を欲してるからって、わたしが生み出したワイルドな探偵のイメージを壊そうとするんだもの。あまりに執着するから、まだ注文付けるならもう描かないわと脅したりして、それなりに妥協はさせたけどね。」

 余程面白くなかったのか、あかりさんは憮然とした表情で愚痴をこぼした。その気持ちこそ、自らの作品に情熱を捧げる筆者の、いや彼女なりの意地とプライドなのかも知れない。

「漫画家っていう職業も、そんな風に上層からねじ伏せられることもあるんですね。どんな業界も一緒なんだなぁ。」

「あなたも社会に出てみたら、否が応でも知ることになるわ。今のうちに、いろいろと勉強しておくと後から後悔しなくて済むわよ。」

 お酒の勢いもあったのだろうか、いつにもまして冗舌だったあかりさん。ヤケ酒をちびりと口にする彼女の頬が、いつの間にか、桜の花びらのようなピンク色に染まっていた。

 そんな感じで他愛もなく語らっていると、お待ちどうさまと言わんばかりに、紗依子さんが生ビールジョッキを持って店内奥からやってきた。

「それにしても、あかりったらひどいのよ。マスターはちゃんと描いてくれたのに、わたしのことは描いてくれないんだもん。ねぇねぇねぇ、それはないと思わない?」

 紗依子さんはオレの肩を掴むなり、グイグイ揺らしながら口を尖らせる。オレから同調を得ようとしていたようだが、オレが同調するよりも前に、あかりさんが冷めた口調でいとも単純な理由を語ってくれた。

「仕方がないでしょう。そのシーンに登場する居酒屋は、マスターはいても、女性店員はいないんだから。」

 そう言い放ちながらも、紗依子さんへのフォローを忘れることのない心優しいあかりさん。

「また別のシーンで女性の依頼人が出てくるから、紗依子、その時はあなたをデッサンさせてもらうわ。」

「よーし、約束だからね。できれば、ちょっとミステリアスで、男心をくすぐる妖艶な女性として登場させてほしいわ。期待して待ってるからねー。」

 興奮気味にそう熱望すると、紗依子さんはウキウキ気分で店内奥へと戻っていった。そんな浮かれた彼女のことを、あかりさんはやれやれといった顔で見つめていた。

 オレは恥ずかしながらも、あかりさんが描いた漫画を一度も見たことがない。どんな題名なのか、どの雑誌に連載しているのか、彼女がそれを教えてくれないため、すべてが秘密のベールに包まれているのだ。

 あかりさんの手元にある閉ざされたスケッチブック。その真っ白な紙の上に描写された人、風景、そして佇まいに、オレは不思議なぐらい興味をそそられていた。

「何、じっとこっちを見ているの?」

 無言のままスケッチブックに見入っていたオレに、あかりさんが訝しげな目を向けている。

「あ、すいません。ちょっとスケッチブックが気になってしまって。」

「気になるって、どういう意味かしら?」

 スケッチブックの中身を見せてとお願いしたところで、どうせ断られるだろうと思いつつも、オレは玉砕する覚悟で、正々堂々と拝見させていただけるよう懇願してみた。

「お断りよ。」

 そんな短い一言で、オレのお願いはものの見事に粉砕した。予想はしていただけに、ショックはそれほど大きくはなかったが。

「どうしてそこまで隠すんですか?漫画になったら、嫌でも人様の目に晒されるんですよ。それなら見せてくれてもいいと思いますけど。」

「この絵はまだ未完成だからよ。デッサンの段階から人目に晒せるわけないでしょう。漫画家たるもの、盗作とか盗用とか、そういうことにも細心の注意を払うものなの。」

 あかりさんの言うことは当然至極だろうが、それはストーリーやシナリオのことであって、登場人物のデッサンではあり得ない気がしてならない。オレはそんな疑問が浮かんだものの、彼女に叱られたくないので、声に出して指摘するのは控えることにした。

 がっかりした顔のオレを横に見ながら、あかりさんは意外にも柔軟な姿勢を見せてくれた。

「・・・まぁ、条件次第では見せてあげなくもないわよ。」

「え、本当ですか!?・・・でも、条件っていったい?」

 口角をわずかに吊り上げて、あかりさんはその条件の詳細について触れる。

「居酒屋の常連客の一人に、気弱そうな線の細い男性を登場させるつもりなのね。その男性のモデルを、あなたにお願いしたいの。どう、たやすいことでしょう?」

「オレをモデルにするんですか!?」

 マスターと同様に、オレの肖像画もスケッチさせてほしいというあかりさん。

 気弱そうな男性のモデル像にいささか不満を抱くも、秘蔵のスケッチブックを拝めるならばと、オレはあかりさんの条件を飲む決心を固めた。

「素直でよろしい。いい心掛けね。フフフ。」

 そうつぶやきながら、あかりさんは愛らしく微笑んだ。普段からクールな表情ばかりの彼女だけに、この笑顔はとても貴重なものに思えた。

 あかりさんはとても楽しそうにスケッチブックを広げる。そして、オレのことを正面に見つめて、右手のペンを滑らかに走らせていく。

「ちょっと顔を斜めに向けてくれる?・・・そうそう、そこで停止。このまま動かないでね。」

 テキパキとオレに指示を出すその仕草は、まるでプロの画家のように本格的だ。真剣な眼差しで肖像画を描いているあかりさんの顔はとても凛々しくて、絵にかけるひたむきな熱意すら感じさせた。

 時間にして10分ほど、オレは恥らいながらも、あかりさんの仰せのままにモデルという役目をしっかり果たした。

「よし、おしまい。ご苦労さま。」

「できましたか。約束通り、見せてくださいね。」

 緊張で硬直してしまった首を捻りながら、オレはあかりさんからスケッチブックを受け取る。そして、怖いもの見たさに、オレは恐る恐る自らの肖像画を覗いてみた。

「おお・・・!」

 このスケッチブックには、いろいろな角度で描かれた気の小さいオレの顔があった。とはいえ、力強いタッチから来る独特の存在感により、まるで息遣いが聞こえてきそうな躍動感を生み出していた。

 オレはページをめくり、マスターの肖像画やお店の風景画も眺めてみた。どの描写も生き生きとしていて、まるで絵の中からモチーフが飛び出しそうな、そんな迫りくる臨場感を主張している。

 さすがはプロの漫画家。上手か下手かといった単純な答えで終わらない、見る者を引き付ける魅力がこの絵に存在しているのだ。

「どうして黙ってるの?感想ぐらい聞かせてくれないかしら。」

「あ、すいません。とても上手ですね。・・・というか、あまりの迫力に思わず言葉を失ってしまって。」

 ありがとうと素っ気なく囁くと、あかりさんはオレからスケッチブックを取り上げる。しかし、気持ちだけは嬉しかったようで、彼女の口元は少しばかりほころんでいた。

「それにしても驚きだよねぇ。まさかこのオレが、漫画のキャラクターになっちまうんだからさ。何だか、ちょっとだけ照れくさいような、恥ずかしいような。」

 料理の下ごしらえをしながら、マスターはにやけた顔でオレたちに視線を送っている。

「安心して、マスター。わたしの漫画は劇画タッチなの。きっと誰が見ても、マスターがモチーフだと気付かないぐらいタッチが変わってしまうから。」

「へ?あ、そうなの・・・?」

 そんな些細な一言が、マスターを思いのほか落胆させていたことに、まったく気付く様子のないあかりさんだった。

 その後も、オレとあかりさんにマスター、そして紗依子さんが加わっての賑やかな雑談が続いた。しばらく来訪者もなかったせいか、オレたちは時が過ぎるのも忘れてつい盛り上がってしまった。

 漫画のことや絵画について、まるで評論家のごとく熱弁を振るうあかりさん。その時の彼女の目の輝きは、この世界を心の底から敬愛していることを物語っているかのようだった。

「あかりさん、本当に絵を描くことが好きなんだな。」

 姿勢を正してお酒を嗜むあかりさんを横目に、オレは心の中でそう感じていた。

 暖かく温もりのある雰囲気に包まれた浜木綿は、ゆっくりと緩やかに、長いようで短い夏の夜を越えていった。

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