第八話 三.命を守るべきもの
日曜日がやってきた。天候は少しばかりぐずついて、すっきりしない曇り空が広がっていた。
午前9時を過ぎて、リビングルームにはオレを筆頭に住人全員が集合していた。それと、住人たちに囲まれるように、ソファの上でくつろいでいる猫が一匹。
前日の夜、ぶち猫の飼い主である蝶名林家に一本の電話を入れたオレ。その際、猫をこちらで保護しているため、できれば引き取ってもらいたいことを伝えた。
「もうすぐだね。お迎えに来るの。」
室内の壁掛け時計を目にしながら、麗那さんが言い伝えるようにつぶやくと、うたた寝している猫のそばで、他の住人たちは一様に浮かない表情をしていた。
「マサ、猫ちゃんの飼い主と話したんでしょ?どんな感じだったの?」
飼い主の素行が気になるのだろうか、奈都美が不安げな顔でそう尋ねてきた。そばにいるあかりさんも、奈都美と同じような顔でオレを見つめている。
「それが、電話の相手がお手伝いさんだったみたいで、蝶名林の人とは直接話はできなかったんだ。そのお手伝いさんの伝言で、今日引き取りに来訪することも決まったんだよ。」
この街でも有数の大富豪であれば、家政婦が電話の取次ぎぐらいするだろうと、奈都美とあかりさんは納得しながら深い吐息を漏らした。
やきもきする時間ばかりが流れて、重苦しい空気に包まれるリビングルーム。そんな中、お別れを惜しむかのように、潤は黙ったままぶち猫の肌を優しく撫でている。
「潤・・・。」
励ましの言葉など、今の潤に無意味なのはわかっている。オレも他の住人たちも、来訪者が到着するその時を、やり切れない思いでただ待つしかなかった。
「みなさん。もし御用があるなら、そちらを優先してくださいね。・・・オレと潤の二人がいれば、とりあえずは何とかなりますから。」
オレがそう気遣いを見せるも、急用などないからと口々にして、誰一人してリビングルームを離れる者はいない。住人たちはそれだけ、猫の行方と潤のことが気掛かりで仕方がなかったのだろう。
それから待つこと数分後、アパートの呼び鈴がリビングルーム内に響き渡り、ついにその瞬間がやってきた。
「来ましたかね・・・。」
窓の隙間から顔を覗かせると、真っ黒い色の高級外車がアパートの玄関先に停車していた。これは間違いなく蝶名林家のご来訪であろう。
オレは深呼吸一つして気持ちを落ち着かせると、住人たちの視線を一身に受けてリビングルームを出ていく。そして、訪問者を待たせまいと足早に玄関まで駆けていった。
「い、いらっしゃいませ。・・・蝶名林さん、ですね?」
高級感たっぷりのコーディネートを極めたご婦人が、オレの問いかけに愛想なくうなづく。
そのご婦人のすぐ横には、めかし込んだ格好をした一人の小学生が立っていた。この少年こそ、同級生から”ぼっちゃん”と呼ばれる蝶名林家の息子に違いないだろう。
「わたくしたちの飼い猫が厄介になってるそうね。どこにいるのかしら?」
「あ、どうぞ、こちらです。」
偉ぶるご婦人と息子の二人を、オレはぶち猫のいるリビングルームまで案内する。
オレには無愛想なご婦人だったが、息子にだけはニコニコと愛想よく振舞っていた。甘やかすようなその愛情表現に、この母親の息子に対する過保護ぶりが垣間見れた。
「お預かりしてる猫ですが、こちらにいますので。中へお入りください。」
オレがリビングルームのドアを開けると、ご婦人たちは室内を覗き込んで嘗めるように見回していた。
「あら、汚らしい外観の割には、内装はそれなりに綺麗じゃない。まぁ、これなら入っても害はなさそうね。・・・さぁ、ぼくちゃん、一緒に入りましょうかぁ。」
ご婦人の鼻につく一言がカチンと頭に来たオレ。そんなオレなどお構いなしに、ご婦人たちはズカズカと室内へ足を踏み入れた。
リビングルームで待機していた住人たちは皆、緊張からか硬い面持ちで身構えていた。ただ一人、ぶち猫の頭を優しく撫でている潤を除いては・・・。
「あんなに、みすぼらしい猫だったかしら。・・・ねぇ、ぼくちゃん。あの猫に間違いない?」
「赤い首輪とか、白黒の模様が同じだから、きっとボクの猫だよ。」
飼い主の声に敏感に反応したぶち猫は、いきなり目を見開いて体毛を逆立てる。シャーシャーと声を発して、近くにいる飼い主を威嚇するように睨みつけていた。
殺気立つようなぶち猫の豹変ぶりに、潤は驚きのあまり唖然としていた。彼女が必死になってなだめようとしても、ぶち猫は背中を丸めて威嚇の体勢を解こうとはしない。
事態が緊迫化しているにも関わらず、飼い主であるご婦人は自分勝手に話を進めていく。
「わたくしたちの猫みたいだから、引き取らせてもらうわ。ほんの少しだけ面倒を見てもらったようだし、こちらを受けっていただけるかしら。」
ご婦人はそう言うと、高級ブランドバッグから厚みのある封筒を取り出して、まごついているオレにその封筒を押し付けてきた。
「・・・これは?」
「謝礼に決まってるでしょう。後になって請求されるぐらいなら、今のうちに渡しておくわ。」
きっぱりとそう言い切って、謝礼が入った封筒をオレに手渡したご婦人。
そのご婦人曰く、過去に猫が行方不明になった際、猫を預かっているからと、見ず知らずの輩から金品を要求されるケースがあったという。これではまるで誘拐犯だと、彼女は皮肉いっぱいにそうぼやいていた。
飼い主の横柄な態度が目につき、住人たちは腹立たしさからムッとした様子だった。麗那さんや奈都美ならまだしも、あのポーカーフェイスなあかりさんでさえ、あからさまに不快感を示していた。
「よーし、こいつを的にして、射撃ゲームで遊ぶから連れていくぞー。あ、その前に、逃げ出した罰でプールの中に放り込む方が先だな。」
飼い主の息子は不気味に笑いつつ、体を大きくして威嚇するぶち猫のもとへ近寄っていく。すると、このまま連れてはいかせまいと、潤が果敢と息子の前に立ちはだかった。
「ダメぇ!いじめるつもりなら、絶対に連れていかせないもん!!」
邪魔者は許さないと息子に脅されても、潤は一歩たりとも退けることなく、歯を食いしばったまま首を横に振り続けている。
「ちょっと!これはどういうこと?何よ、この小娘は。」
断固拒否の姿勢を崩そうとしない潤を見て、怒り心頭で怒鳴り散らすご婦人。潤を引き下がらせなさいと、ご婦人は命令口調でオレに訴えかけてきた。
潤はまるでバリケードのごとく、何者すらもぶち猫を触らせまいと踏ん張る。彼女の涙目がこのオレを凝視して、飼い主に慈愛の心を諭すようにメッセージを送っているようだった。
「すいません。猫をお返しする前に、一つだけ申し上げてもいいでしょうか。」
潤の願い、そして他の住人たちの思いを一手に受けて、オレは毅然とした態度で臨む。
「この猫のこと、もういじめたりしないと約束してください。ペットは家族の一員です。今まで以上に大切に接してあげてください。約束していただけるなら、喜んで猫をお返しします。」
オレたちみんなの切なる願いを、ご婦人は嘲るように鼻で笑った。慈しむ気持ちなどないのか、彼女は凍りつくような冷めた視線をぶつけてきた。
「何を言い出すのかと思ったら・・・。猫をどうしようとわたくしたちの勝手でしょう?一庶民のあなた方に指図される筋合いなどなくてよ。」
ご婦人は苛立ちを抑えきれず、潤の腕をわし掴みにするや否や、ぶち猫がいるソファから無理やり引き剥がそうとする。そのわずかな隙をついて、息子がついにバリケードを突破し、ぶち猫の首根っこに掴みかかろうとした。
「痛いっ!?」
それは一瞬のことだった。捨て身で放ったぶち猫の攻撃により、息子は慌てて手を引っ込めた。どうやら、鋭く尖った爪が息子の手の甲を捉えていたようだ。
「やりやがったな、コノヤロー!絶対にお仕置きしてやる。」
ソファから跳び上がったぶち猫は、息子の魔の手から逃れるように、潤の足元に擦り寄って怯えながら身を潜めていた。
ご婦人はヒステリックに叫び、傷を負った息子のもとへ駆けつける。そして、狂乱めいた怒号を上げて、ぶち猫の粗暴を激しく非難する。
「何てことする猫なの!?あなたたちがお粗末な世話をしたせいで、猫が凶暴化しちゃったじゃないの!」
自らの野蛮さを棚に上げた責任転嫁、まるで罪を擦り付けるようなその言い草に、とうとう住人たちの堪忍袋の緒が切れてしまった。
「もう我慢の限界!はっきり言っちゃうけど、あんたいったい何様のつもりよ!?あんたたちが、猫ちゃんを傷つけるようなことしたからこうなったんじゃない!」
「見てごらんなさい。あなたたちに高圧的なこの猫が、この子にだけ慕ってるのが何よりの証拠でしょう?この猫にはわかっているの。誰を信じて信じないべきかをね。」
奈都美とあかりさんは顔を紅潮させて、叱りつけるようにそう言い放った。そして、彼女たち自らも盾となって、潤と一緒にぶち猫を擁護しようと身構える。
潤と、それに奈都美とあかりさんは完全に戦闘モードに突入していた。麗那さんが必死になって制止しようとしても、彼女たちは聞く耳も持たず、ご婦人たちと舌戦を繰り広げるだけだった。
「あなたたちがそのつもりなら、わたくしにも考えがあるわよ。猫を返さないなら窃盗罪で告訴してあげるわ。覚悟なさい!」
ご婦人は高い地位を振りかざし、これ見よがしに伝家の宝刀を抜いてくる。このまま意地を張り続けるなら、街の権力者を動かして、このアパートごと亡き者にするとまで脅迫してきた。
この脅し文句を前にして、さすがの住人たちも言葉を失い表情を歪めていた。拳を握り締めたまま、腹立たしさと悔しさを押し殺すのが精一杯だった。
「ようやく現実が理解できたようね。ふふふ、庶民はおとなしくしているのが利口というものよ。」
そう吐き捨てて、不敵にせせら笑うご婦人。そして、彼女は忌々しい顔をオレに向ける。
「あなた、このアパートの管理人よね。意固地になるなんて馬鹿げてると思うなら、そこにいる小娘を説得して、その猫をわたくしたちのところまで連れてきなさい。」
ここまで追い詰められても、潤はぶち猫を手放そうとはしない。すがりつくような彼女の哀願の瞳が、このオレの胸を痛いぐらいに締め付けてくる。
奈都美は悔しさに堪えられず、目に薄っすらと涙を浮かべている。あかりさんも口をつぐんで、苦渋の表情でうつむいている。無力感に苛まれる二人は、もどかしさに胸が張り裂ける思いだったに違いない。
「マサくん。」
ただ一人冷静沈着を装い、オレのことを呼び止めた麗那さん。
「・・・みんなの気持ちよりも、マサくんは自分自身の気持ちを優先して。」
そう助言する麗那さんも、本心は言葉にできないぐらい心苦しかったはずだ。住人たちをまとめるリーダーの役目として、彼女は無理やり気丈に振舞っていたのかも知れない。
まるで足かせを引きずるように、オレはなかなか潤のもとに辿り着くことができない。そんなオレに救いを求めながら、彼女は歯がゆさのあまりついに泣き崩れてしまう。
「マサぁ。・・・あたし、どうしたらいいのぉ?・・・どうしたら、この子を助けてあげられるの?ねぇ、マサ、教えてよ、お願いだからぁ・・・。」
両ひざを床に落として、泣き顔を隠しながらむせび泣く潤。オレはためらうように立ち止まり、彼女のことを直視できずにいた。
この進展しない事態に痺れを切らし、ご婦人は目を吊り上げて感情的な声を張り上げる。
「あー、もう!たかだか、こんな薄汚い猫一匹のために何を迷っているの!?住人もそうだけど、管理人までこんなお馬鹿さんとは思いもしなかったわよ!」
オレは怒りをあらわにすることなく、ここまでひたすら耐えてきた。どんなに毒づかれても、どんなに罵られても、心の奥底にある理性だけは守り通してきた。しかしこの暴言は、オレが死守してきた理性を完全に打ち砕いてしまった。
まるで自分が自分でないぐらい、オレの気持ちは激しく高ぶっていた。もうこの時点で、オレは取り返しのつかないところまで達していたのかも知れない。
「潤、もう泣かなくていいよ。」
もう迷うことも、逃げ隠れすることもないのだ。そう決心したオレは、泣き崩れている潤にそっと手を差し伸べる。そして、彼女の手をしっかり握ってゆっくり立ち上がらせると、オレは自信に満ち溢れた顔で力強く打ち明ける。
「オレ、この猫のこと守るって決めたよ。・・・だから、もう安心していいよ。あの人たちに猫を渡したりしないからさ。」
「・・・マ、マサ?」
事態がまだ把握できず、潤は目を丸くして驚いている。オレのことを見ていた他の住人たちも、予想外の展開にただ絶句していた。
呆然としている住人たちとは対照的に、黙っていなかったのは飼い主であるご婦人だ。反抗の意志を示したオレに向かって、彼女は烈火のごとく口撃を開始した。
「ちょっとあなた、何を血迷ったこと言ってるのよっ!?そんなことをして無事で済むと思ってるの?わたくしを怒らせるとどうなるか、きちんと伝えたばかりでしょう。」
「はっきり申し上げますが、猫はこのアパートで預からせていただきます。みすみす不幸になるとわかっていながらお渡しするなんてこと、人道的な観点からも容認できません。」
牙を剥き出してきたご婦人に、オレは怯むことなく反撃した。権力で勝ち目がないとわかっていても、同じ生きる者として、動物を思いやる精神だけは物申したかったのだ。
「猫や犬といったペットたちは、年間に30万頭も殺処分されているそうです。みんな、飼い主に見放されて、捨てられてしまった成れの果てなんです。・・・ここのいる猫が、飼い主であるあなたたちのことをどう思っているか考えたことがありますか?」
知ったことかと言わんばかりに、不機嫌そうな顔をしているご婦人。
「その答え、ペットショップに勤めている知り合いが教えてくれました。」
同じく知り合いだった奈都美や、他の住人たちの視線を背中に感じながら、オレは飼い主に言い聞かせるように話し続ける。
「飼い主といつまでも一緒にいたいから、ずっと愛していてほしい。飼い主がペットのことを真剣に愛してくれたら、ペットもちゃんとそれに応えてくれるんです。・・・飼い主のことをいつまでも好きでいたい、ずっと愛していたいこの気持ちこそが、ペットの本心なんです。」
オレはそう伝え終えると、潤の足元へ視線を落とした。飼い主に愛されなかったぶち猫が、真剣に愛してくれた彼女の足に擦り寄っている。
甘えるような顔で、潤のことをじっと見上げているぶち猫。まるで心の拠り所にいるような、本物の飼い主のそばにいるようなそんな目をしていた。
「猫のことを。・・・大切な家族の一員のことを、たかだか薄汚い猫だと吐き捨てる人に飼い主を名乗る資格なんてありません。・・・これはお返しします。これを持って、どうかお引取りください。」
悲壮の決意をあらわにして、オレは目の前のご婦人に謝礼の封筒を突き出した。
「フン、キレイ事ばかり並べたところで、わたくしに勝てるとでも思ったのかしら。このわたくし相手にそれだけの暴言を吐いたからには、あなた、それなりの覚悟はできているんでしょうね!?」
オレはもう我慢できず、気迫のこもった怒号をリビングルームに轟かせてしまった。
「だったら好きにすればいい!・・・一つの小さい命を粗末にできるほど、オレは卑劣な人間でいたくないだけです!・・・もうあなたと話すことはありません、帰ってください!!」
さすがのご婦人も、そして住人たちすらも、オレの言い放った大声にたじろぎ体を硬直させていた。
息詰まるような雰囲気が立ち込めていく中、一人退屈そうな顔をしている息子が、母親の腕を掴んで気だるそうな口調でつぶやき始める。
「ママ、もうここにいるの飽きちゃったよ。・・・ボク、アイツいらないからさ。早く家に帰ろうよー。」
駄々っ子のように振る舞うわがままな息子は、オレたちのことを一瞥してから、ご婦人の腕をグイグイと引っ張っていた。
「それに、あんまり一般人をいじめるとパパに怒られちゃうよ。ほら、もう許してあげなよ、ね?」
「え、ええ。ぼくちゃんがそう言うなら。・・・それじゃあ、帰りましょうか。」
息子になだめられる母親の姿は、何ともばつの悪い光景だった。息子にまったく頭が上がらないのか、ご婦人は剥き出していた牙をすっかり仕舞いこんでいた。
「今日のところはぼくちゃんに免じて許してあげるわ。そのみすぼらしい猫、二度とわたくしたちの敷地内に入り込まないよう、責任を持ってしっかりと監督なさい、いいわね?」
オレの手から封筒をもぎ取ると、ご婦人は息子を連れ立ってリビングルームを出ていく。感情が抑えきれなかったようで、彼女は玄関へ向かう途中すらも、悪口めいた罵声を張り上げていた。
嵐が去った後のような沈黙、いつものような平穏なリビングルームに戻った途端、オレは糸が途切れた人形ようにひざから崩れ落ちてしまった。
「マサ・・・!」
「マサくん!?」
住人たちの呼びかける声が耳に届いたものの、衰弱しきったオレは倒れこんだままだった。まるでマラソンでゴールした時のように、激しい息遣いと疲労感だけがオレの全身を包み込んでいた。
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この日の夜、緊張と興奮が冷めやらないまま、リビングルームに静寂なひと時が訪れた。
オレと住人たちは午前のうちに、気持ちを落ち着かせるために一度解散した後、夜になって再びここリビングルームに集まっていた。
疲労困憊していたオレや、泣き疲れていた潤も平静さを取り戻し、他の住人たちも、表情にゆとりが見えるぐらいまで回復していたようだ。
「みなさん、本当にすいませんでした。・・・管理人代行なのに、無責任な決断をしてしまって。」
謝罪の言葉を口にして、住人たちに向けて頭を下げるオレ。このアパートを危機にさらし、住人たちに迷惑を掛けてしまったことを心から詫びようとした。
そんな低姿勢のオレのことを、暖かな目で見つめてくれる住人たち。誰一人として、憤慨したり不平不満を述べる者はいなかった。
「マサは間違ってないよ。あの時、あたしたちみんな、キミと同じ気持ちだったもん。」
「もし、わたしが管理人代行だったとしたら、きっと、あなたと同じ答えを出したでしょうね。」
奈都美とあかりさんは、やんわりと微笑みながらオレを励ましてくれた。もし反旗を翻していなければ、オレのことを一生恨んでいたかも知れないと、彼女たちは聞くも恐ろしい胸のうちを語っていた。
「こんな騒動になったの、結局はあたしのせいだもん。・・・マサ、ホントにゴメンねぇ。」
そうオレに謝ってきたのは、気まずそうな表情を浮かべていた潤だった。
「気にしなくていいよ。・・・潤は正しいことをしただけだから、謝ることなんてないさ。」
オレだけではなく、他の住人たちからも慰められた潤は、ホッとしたのか愛らしい笑みをこぼしていた。
「何はともあれ、由々しき問題に発展することもなかったし。それに、新しい仲間が加わったんだから、みんな笑顔で歓迎してあげなきゃだね。」
話をまとめるようにそう声を掛けると、麗那さんはソファの上に視線を合わせる。
オレたちみんなが眺めている先には、心地よさそうに眠っているぶち猫の姿があった。身の危険が去ったことに安堵し、幸せそうな顔をしてソファの上で丸くなっていた。
「ぐっすり寝ちゃってる。・・・どんな夢見てるんだろう。」
過去に体験したことのない満足感と達成感。オレはこの時、自分自身の決断と勇気が無駄に終わらなかったことに、この上なく嬉しい気持ちでいっぱいだった。
オレや住人たちの熱視線を感じたのか、ぶち猫は目を覚ましてむくっと起き上がる。そして、大きなあくびをしながら、しなやかな足取りでこちらへ歩み寄ってきた。
「あら、潤のところに寄ってきたわね。寂しくなったのかしら。」
あかりさんが見つめる中、ぶち猫は潤のそばに座り込むと物欲しげな声で鳴いていた。
「あ、お腹が空いちゃったのかなぁ?ちょっと待っててねー。」
潤はそう言いながら立ち上がると、冷蔵庫のある流し台の方へと歩いていく。似たもの同士で仲良しなだけに、ぶち猫の気持ちが手に取るようにわかっているのだろう。
待ちきれないのか、潤の後ろをてくてくとついていくぶち猫。彼女が準備してくれたキャットフードを見るなり、ぶち猫は飛びつく勢いで食らいついていた。
「この様子だと、猫ちゃんのお世話はこのまま潤の担当で決まりみたい。それでいいよね?」
麗那さんを始め、オレに奈都美にあかりさんも全員一致で賛成すると、潤はちょっぴり嬉しそうに、責任を持って引き受けることを約束してくれた。
「そうだ。新しい住人・・・いや仲間が加わったんだから、名前をつけなきゃいけないですね。」
「そうだね。いつまでも猫ちゃんだと他人行儀だし。よし、みんなで考えてあげようか。」
オレと麗那さんがそんな話題を始めると、ぶち猫の肌を撫でていた潤が間髪入れずに割り込んできた。
「この子の名前、もう決まってるんだよぉー!」
オレたち一同びっくりして潤の方へ顔を向ける。名付け親となった彼女は、ぶち猫を両手で抱え上げてからその名前を公表する。
「この子の名前はニャンダフル!みんな、よろしくねぇー。」
オレと奈都美、そしてあかりさんは目を丸くして顔を見合わせる。”ニャンダフル”という名前に、はっきりとした記憶があったからだ。
「おい、潤。それって、あの人気アニメのニャンダフルと痛快な仲間たちの主人公のことじゃないか。」
「そうだよぉ。へへー、いい名前でしょう?この子オスだしさぁ。それに、あの主人公の猫みたいに男前だからね。」
潤の独断と偏見に苦笑いする住人たちだったが、イメージ通りでいいじゃないと声を揃えて、ぶち猫の名前があっという間に決まってしまった。
「今日からキミの名前はニャンダフル。いい?あたしがキミのママだからねー。ちゃんと言うこと聞かないとダメだぞぉ。」
ニャンダフルを抱っこしたまま、潤は満面の笑顔で踊るようにステップを踏んでいた。新たな仲間と戯れる彼女の華麗な舞いを、暖かく穏やかな気持ちで眺めていたオレたちだった。
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夜も更けていき、眠りの時を迎えた住人が一人、また一人とリビングルームから散っていく。精神的な疲労のせいか、夜型の彼女たちにしてみたら、いつもよりも早い就寝時間だった。
時刻は夜10時を回り、リビングルームに残っているのはオレと麗那さんの二人、そして猫のニャンダフルだけとなった。
「マサくん、今日は本当にご苦労さま。」
麗那さんはいつものように、好物のチーズ鱈をおつまみにして、就寝前の缶ビールを楽しんでいた。
「麗那さんもお疲れでしょうから、もうお部屋に戻って休んでください。」
「ありがとう。これ飲み終えたら部屋に戻るわ。明日はまた朝から仕事だしねー。」
いつもポジティブ志向で、疲れた表情を見せることのない麗那さん。テーブルで向き合う彼女を前に、オレはつい自分のネガティブな一面を見せてしまう。
「正直言うと、まだ考えてしまうんです。・・・オレの決断は、アパートの管理人代行として本当に正しかったのかって。あの婦人が怒りを鎮めてくれなかったら、このアパートが大変なことになっていたかも知れないのに。」
結果オーライだったとはいえ、オレは今になってもまだ、冷静さに欠ける自らの判断を悔いていた。
「あの時、マサくんは本当に難しい判断を迫られたと思う。」
そう前置きしつつ、麗那さんは優しい眼差しでオレのことを励ましてくれた。
「マサくん。あなたの判断が正しかったのか、間違っていたのか、それはきっと、誰にも評価することはできない。だけどね、これだけははっきり言えるよ。・・・あなたは、わたしたち住人の思いを裏切ったりしなかったんだってね。」
猫を救うため、そして住人とアパートを守るために、自分自身の犠牲を顧みず立ち向かってくれたこと。きちんと管理人の職務を全うしていたと、麗那さんは称賛の言葉をオレに贈ってくれた。
「わたしなんか何もできなった。奈都美やあかりがあんなに必死だったのに、わたしは戸惑うばかりでどうすることもできなかったわ。・・・わたし、マサくんがすごくカッコよくて、ちょっと羨ましかったな。」
「麗那さん・・・。」
お互いの目が向き合ったまま、しばらく見つめ合っていたオレたち。そんなときめくようなシーンを邪魔するかのように、ソファにいたはずの猫がオレの足元で腰を下ろしていた。
「ニャン、おまえ、いつの間に・・・?」
潤にしか心を許さなかったあのニャンダフルが、オレの足に顔を擦りつけたり、ねだるような目でオレのことを見つめたりしている。
「マサくんの言った通りだね。愛してあげたら、ペットもちゃんと応えてくれるって。フフフ、どうやらこの子、あなたのことを飼い主と認めてくれたみたい。」
麗那さんは微笑しながらそう冷やかしていた。ペットに好かれることに慣れていないオレだったが、ちょっぴり嬉しさが込み上げてきて、つい童心にかえったように顔をほころばせていた。
第八話、そして第二章はこれで終わりです。
物語は第三章へと続きます。
ご意見、ご感想など、お気軽にお寄せください。




