第八話 二.ステージにもう一度
その日の夜のこと。オレは住人たちに声を掛けるなり、緊急ミーティングと銘打ってリビングルームに集合してもらっていた。
テーブル席に腰掛けるあかりさんと奈都美は、複雑な心境に困惑めいた表情を浮かべている。すぐ隣で腰を下ろしているオレも、彼女たちと似たり寄ったりな顔をしていた。
「厳しいことを言うかも知れないけど、やっぱり、元の鞘に収まることが最善だと思うわ。」
「不幸になるとわかってるのに返しちゃうの、あまり気が乗らないけど仕方がないのかな。」
このミーティングの主旨は言うまでもなく、あのぶち猫を飼い主のもとへ引き渡すかどうか、住人からも参考となる意見をもらうことにあった。
女性二人は思いのままに意見を述べてくれたが、その冴えない顔色からは、決心がつかない気の迷いが見え隠れしていた。
「・・・猫は望んでないと思うけど、飼い主のところにいた方がお互いにベストなんじゃないかって、そういう結論に至りました。」
それこそが、苦しみぬいた末に出したオレの結論だった。猫を守ってあげたい愛護的な気持ちと、返さなければいけない保身的な気持ちが交錯し、オレはためらいつつも、そういう決断を下さざるを得なかった。
話し合いを重ねた結果、飼い主に引き渡すことで合意に至ったオレたち。しかし、割り切れなさを引きずるあまり、オレたちの気分は優れることはなかった。
「・・・問題は、どうやって潤を説得するかだね。」
「・・・そうね。あの子、猫のこと溺愛しているから。無理やり引き離そうとすると、余計に反発しかねないわね。」
奈都美とあかりさんはそう囁き合い、やり切れなさそうな顔を見合わせる。ぶち猫の世話係である潤には、はっきりと事情を説明しておく必要があるが、あの傲慢な飼い主に引き渡すとなると、一筋縄に行かない不安もあったのだろう。
「ところで、潤の帰りって遅くなりそうかな。」
「今夜は珍しく仕事お休みだから、お友達のところに遊びに行ってるみたい。だから、いつもよりは早いと思うよ。」
オレの問いかけに、壁掛け時計を見ながら返答した奈都美。時刻は夜9時に近づいている。彼女が言うには、そろそろ帰ってくるのではないかとのことだった。
オレはこのままここで、潤が帰宅するのを待ってみることにした。オレ一人では心もとないと思ったのか、あかりさんも奈都美もオレに付き合ってくれることになった。
「それにしても無責任なものね。」
コーヒーカップを手にして、そう不満を漏らしたあかりさん。何のことかオレが尋ねると、彼女は飼い主である蝶名林家のことだと口を尖らせた。
「飼い主なら、飼い猫のことを捜すのが当たり前でしょう。迷い猫の張り紙をしたり、情報提供を求めたりするのが普通よね。わたしの知る限りでは、あの蝶名林家が猫のことを捜しているようには見えなかったわ。逃げた猫のことなんて、もうどうでもいいと思ってるのかしら。」
あかりさんの見解に、オレと奈都美も同調するようにうなづいた。言われてみれば、飼い猫が行方不明になったら、飼い主の責務として張り紙ぐらいするのが一般的だろう。
表沙汰にできないような、そんな後ろめたい事情でもあるのではないかと、蝶名林家に対するオレの不信感はますます増幅していった。
どんよりとした空気が充満するリビングルームに、廊下の奥からかすかに聞こえてくる足音。どうやら、住人の誰かが帰ってきたようだ。
「あ。もしかして、潤が帰ってきたかも。」
オレたちは固唾を飲んで、帰ってきた住人がやってくるのを待ち構える。
住人の足音はゆっくりと近づき、そしてリビングルームの前でピタリと止まった。ドアをそろりと開けたその住人こそ、プリントTシャツにホットパンツといういでたちで、派手めなメイクを極めていた潤だった。
「あれぇ?こんな時刻に、この三人が集まってるって珍しいねー。」
潤は驚きのあまり、オレたちに唖然とした顔を向けている。こんな夜更けに、この三人でテーブルを囲んでいることが、彼女には異様に感じられたのだろう。
暑さでかなり喉が渇いていたようで、潤は冷蔵庫から牛乳パックを抜き取るなり、ゴクゴクと勢いよくラッパ飲みしていた。
「いや、実はさ。潤の帰りを待ってたんだ。ちょっとだけ付き合ってほしいんだけど。」
オレがそう誘いかけると、牛乳パックに口を付けながら、潤は思ってもみなかったような顔をした。
「えー、何かなぁ?あたし、猫ちゃんの食事の準備するから、もう少しだけ待っててぇ。」
微笑みながらそう言って、潤はエサ専用のお皿に牛乳を注ぎ入れようとする。
「潤。・・・その猫のことで話があるんだよ。」
「えっ・・・?」
オレの口から飛び出した猫というキーワードに、潤は過敏に反応して体を硬直させる。
不穏な雰囲気を察したのか、潤は牛乳を注ぎ入れるのを途中で止めて、オレたちのいるテーブルまで歩み寄ってきた。
テーブル椅子に座るようオレに促されると、潤は緊張した面持ちで静かに腰を下ろした。
「猫ちゃんの話ってなーに・・・?」
あかりさんと奈都美に目配せしてから、オレは飼い主が判明したことを正直に打ち明ける。
「あの猫の飼い主がわかったんだ。ここから少し離れた、川沿いの高級住宅地に住んでる蝶名林っていう人なんだよ。」
それなりに覚悟はしていたのだろうか、顔色を変えないまま黙り込んでいる潤。ただ、動揺を悟られまいとして、オレと目を合わせようとはしなかった。
穏やかでない潤の心情を気に掛けつつ、オレは話の本筋へと進んでいく。
「潤もわかってるだろうけど、規律で決めた通り、飼い主が見つかったら事情を説明して引き渡さなきゃいけない。寂しいかも知れないけど、ここは素直に受け入れてほしいんだ。」
潤はうなづくことなく、オレたちから顔を背けるようにうつむいていた。唐突な申し出だけに、気持ちの整理がつかないのも無理はない。
わがままを言わず、潤が素直に応じてくれることを心から願うオレ。あかりさんと奈都美も、口を閉ざしたまま潤のことを見守っていた。
「・・・その飼い主って、ちゃんと猫ちゃんに食事与えてくれる?・・・ちゃんとかわいがってくれるって約束できるのぉ?」
オレたちを上目使いに見て、潤はぐずるようにそう問いかけてきた。
飼い主の素性を知っているオレは、自信を持って約束できると答えることができない。戸惑っているオレの表情を見るや否や、潤は拒絶すると言わんばかりにそっぽを向いてしまった。
「潤、聞いてくれ。猫のことをいじめたりせず、しっかり面倒を見るようにって、その飼い主にはちゃんと忠告するつもりだよ。それでも聞き入れてくれなかったその時は、このオレだって黙ってはいない。約束してくれるまでは、猫を返したりはしないよ。」
熱意を込めたオレの説得も空しく、潤は首を縦に振ってくれそうにない。オレのことが信用できないのか、それともオレでは頼りないのか、彼女は飼い主への警戒心を解いてはくれなかった。
「飼い主のことなんか知らないけどぉ、口で約束したって、どうせまた猫ちゃんのこといじめたり、ひどいことするに決まってるもん!・・・あたし、そんなの絶対に許せないよぉ。だから、認めないもん!」
飼い主にかなり嫌悪を抱いているようで、潤はふくれっ面で敵意を剥き出しにしていた。
憮然としたまま、すっかりへそを曲げてしまった潤。困惑しているオレを手助けしようと、あかりさんと奈都美も説得を試みたものの、馬耳東風を絵に描いたように、潤は耳を傾けようとせず仏頂面するだけだった。
たとえ潤の承諾がなくても、管理人代行であるオレの特権で、あの猫を飼い主へ引き渡すことはできるのだが、猫が彼女にだけ懐いているため、いざ引き渡す時には、否が応でも彼女の協力が必要不可欠なのだ。
「困ったわね。このまま無理を押し通すのは得策じゃないわ。」
「潤も感情的になっちゃうと、ますます反発しちゃうもんね。」
あかりさんと奈都美はそう話し合い、時間的余裕を設けるようオレに呼びかけてきた。潤にほんの少し冷静になってもらい、もう一度考え直してほしいという狙いからだ。
「あのさ、潤。今すぐ答えを出してくれとは言わない。潤にとっても、あの猫にとっても、どうすることが最良の選択なのか、ここまで世話をしてきたリーダーの立場として、ゆっくり時間をかけて、冷静になって考えてほしいんだ。」
オレはそう伝え終えると静かに席を立つ。オレに続くように、あかりさんと奈都美も無言のまま席を立った。
「・・・潤、ごめんな。夜遅くに付き合ってもらって。オレたち先に部屋に戻るから。おやすみ。」
うつむく潤を一人残して、オレたち三人はリビングルームを出ていこうとする。そんなオレたちの背中に訴えかけるように、彼女は囁くような声で心痛な胸のうちを語りだす。
「わかってるよぉ・・・。わがままが通らないことなんて、最初からわかってる。あたしだって、あの猫ちゃんの面倒ずっと見れるわけないし、それなのに、自分勝手なことばかりで無責任だと思ってるよぉ・・・。」
顔を伏せたままで話し続ける潤。オレたちはその場に立ち尽くし、彼女の話に耳を傾けていた。
「・・・でもね。猫ちゃんが擦り寄ってくるたびに、切なくなっちゃうんだぁ。・・・つぶらな瞳で訴えてくるの。・・・守ってほしいって。ずっと一緒にいてほしいって、そう聞こえてきちゃうんだよぉ。」
潤はそう言いながら、小さい肩をわずかに震わせていた。そんな彼女を思いやるように、あかりさんと奈都美は彼女のもとへ歩み寄っていく。
励ます言葉が思いつかず、オレはもどかしさのあまり唇を噛んだ。あかりさんと奈都美に慰められている潤のことを、やり切れない思いで見つめることしかできなかった。
「・・・マサ、約束してぇ。」
そっと顔を上げて、潤は搾り出すような声でつぶやいた。
「猫ちゃんのこと、いじめたりしないで大切にするって、飼い主にちゃんと約束させてよぉ。もし約束してくれなかったら、あたし、絶対に猫ちゃん渡したりしないからねぇ。」
「ああ、わかってる。ちゃんと忠告するから、安心してくれ。」
臆することなく自信を持ってオレがそう誓うと、潤はやっと態度を軟化させて、条件付きながらも受け入れる姿勢を示してくれた。
潤にほんの少しだけ笑顔が戻って、オレは安堵からホッと胸を撫で下ろす。あかりさんと奈都美も、そばにいる彼女のことを穏やかな眼差しで見つめていた。
「もうお話終わったみたいだからぁ。あたし、猫ちゃんの食事置いてくるねー。」
嫌な思いを吹っ切るように、目一杯明るく振舞いながら席を立つ潤。牛乳とキャットフードをお皿に盛り付けると、彼女はリビングルームを一目散に飛び出していった。
叶うものなら、あのぶち猫を手放したくはないはずだ。愛想よく微笑んでいたものの、潤の本心では、惜別を受け止めたくない切なさが見え隠れしていた。
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数日経過したある昼下がり、太陽からの日差しが眩しい炎天下の中、オレはいつもお世話になっている商店街へ足を運んでいた。
商店街の一角で、ある人物と待ち合わせをしていたオレ。すでに到着していたその人物は、オレの顔を見るなり、手を大きく振って微笑ましい表情で迎えてくれた。
「ハーイ、マサ!ご無沙汰ネ。」
「こんにちは、ジュリーさん。いつにもまして、元気そうで何よりです。」
ご無沙汰とはいえ、オレとジュリーさんは新宿中央公園で会って以来なので、ほんの一週間ぶりぐらいの再会だった。
涼しそうなワンピースをおしゃれに着飾っていたジュリーさん。気持ちにゆとりができたせいか、この前の時よりも、少しだけふっくらしているように見えなくもなかった。
なぜ、オレたちがここで待ち合わせていたかというと、前日の夜、オレはジュリーさんから一通のメールを受信していたからだ。そのメールの本文には、悲壮な覚悟で臨む彼女の思いが綴られていた。
「ジュリーさん。いよいよ、この時が来たんですね。」
「ええ。・・・許してもらえるかわからないけど、わたし、精一杯の熱意を伝えるヨ。」
武者修行という名の下に、ジュリーさんはボーカリストへの復活を夢見てきた。過去のトラウマを振り払うため、衆人環視の前で歌い続けてきた彼女。その絶え間ない努力が実を結び、ついに修行を成し遂げることができたのだという。
ボーカリスト復帰への直談判をしようと、オレたち二人の向かう先はただ一つ、かつてジュリーさんが在籍していた、ローリングサンダーの活動拠点「パンジー楽器店」である。
「わたし、考えてみたら、あかりに、潤、奈都美としばらく会ってないのネ。彼女たちは元気にしてる?」
「それはもう。でも、ジュリーさんがいないから、ちょっぴり寂しがってるみたいですけど。」
他の住人たちに心遣いを見せるジュリーさん。自分の都合でアパートを出ていってしまったことに、彼女なりに責任を感じていたのだろう。
そんな会話をしながら歩くこと数分、オレたちは目的のパンジー楽器店まで辿り着いた。
ガラス窓から店内の様子を伺ってみると、暇だったのだろうか、のんびりくつろぐリーダーの姿がオレたちの視界に映った。
深呼吸一つして、ジュリーさんは緊張を解きほぐしている。そして、彼女からのOKサインを確かめてから、オレはお店のドアをこじ開けた。
「いらっしゃい・・・。おお、君かぁ。よく来てくれたね。」
来客がオレとわかるなり、リーダーは愛想よくオレのことを招き入れてくれた。
「どうも、ご無沙汰してました。今から、少しばかりお時間頂戴できますか?・・・今日は、リーダーにお会いしたいという人を連れてきたんです。」
「ああ、構わないよ。・・・わたしに会いたいって、いったいどんな人かな。」
その人物が誰なのだろうかと、期待と不安に胸を高鳴らせているリーダー。
ドアの向こうに届くような声でオレが合図を送ると、待機していたジュリーさんが神妙な面持ちで入ってきた。
「リーダー、ハロー。・・・いきなり来ちゃってゴメンなさい。」
「これは驚いた・・・。まさか、わたしに会いたい人がジュリーだったとは。」
ジュリーさんを目の前にして、リーダーは意表をつかれたのか呆気に取られていた。
言葉を交わすことなく、向かい合ったまま立ち尽くしている二人。この気まずい沈黙を見るに見かねたオレは、そんな二人の橋渡しを買って出ることにした。
「リーダー。これから、彼女から大事なお話があるんで聞いてもらえますか。・・・さぁ、ジュリーさん。」
オレはそう促しながら、ためらっているジュリーさんの背中を軽く押した。すると、彼女は一歩前へ足を踏み出し、リーダーに向かって勢いよく頭を振り下ろした。
「ライブの時、勝手に逃げ出して本当にごめんなさイ!・・・わたし、本当に反省してる。リーダーにも、バンドのメンバーにも、そしてお客さんにもいっぱい迷惑を掛けてしまって。許してもらえないかも知れないけど、こうしてちゃんと謝りたかったノ。」
謝罪の気持ちを伝えた後も、ジュリーさんは自責の思いが強いのか頭を下げ続けていた。リーダーに許してもらえるその時まで、彼女はこの姿勢を貫き通すつもりなのだろう。
許しを請うジュリーさんの肩にそっと手を宛がうリーダー。ゆっくりと顔を上げるジュリーさんを、リーダーは穏やかな表情で見つめていた。
「ジュリーが謝ることは何もない。謝らなければいけないのは、むしろ、わたしの方だよ。悲しい思いをさせて申し訳なかったね。・・・でも、こうしてまた会うことができてよかった。こうやって、わたしの方からも詫びることができたのだからね。」
許してもらえた嬉しさからか、ジュリーさんは薄っすらと瞳を潤ませていた。
ジュリーさんとリーダーは、絆を結び直すように固い握手を交わす。すぐ隣で見守っていたオレは、信頼という形でつながったこの二人に、心の奥から大きな拍手を送っていた。
「あのネ、リーダー。わたしから一つお願いがあるの。」
「お願い?・・・何だい、改まって。遠慮しないで言ってみなさい。」
リーダーはまるで父親のように、ジュリーさんの申し出をおおらかな気持ちで包み込もうとする。その暖かい心遣いに、彼女はすっかり力を抜いて顔をほころばせていた。
「わたし、ライブから逃げ出したあの夜、自分が情けなくて、悔しくていっぱい泣いた。・・・でもネ、泣き明かした後に気付いたの。・・・歌うことへの恐怖心よりも、歌えたことの躍動感の方が大きかったことを。このままじゃダメ、わたしはもっと強くならなくちゃって。」
ジュリーさんの願いはただ一つ。ローリングサンダーの一員として、もう一度ステージに立って歌うことだった。歌唱力を鍛え上げて、アキレス腱だったメンタル面を克服した彼女は、観衆の前で歌うチャンスを与えてほしいと誠心誠意を込めて切願した。
リーダーは一通り話を聞き終えると、胸ポケットからタバコを一本抜き取る。そのタバコに火を点し、溜め息交じりに揺らぐ紫煙を吐き出した。
「わたしとしても、ジュリーをメンバーの一人として迎え入れたいところだ。メンバーの誰しも反対はしないだろう。しかし、昔みたいな活発なライブ活動はもうできないし、ヘルプで来ているボーカルの子との調整もあるから、安易にうなづくことはできないな・・・。」
複雑そうな顔をするリーダーを目の当たりにして、オレとジュリーさんは不安な顔色を隠せなかった。押しかけ気味にお願いされては、さすがの彼でも判断に困ってしまうのも無理はない。
一方のジュリーさんも無理を承知しての懇願だった。ダメでもともとだと割り切って、諦める覚悟を持ってここへ臨んでいたのだ。
ジュリーさんのことをいつも気に掛けてくれるリーダー。人徳のあるバンドリーダーらしく、彼は代替案という助け船を出してくれた。
「・・・差し当たり、アルバイトから始めたらどうだろう?ライブに参加するたびに、報酬を手渡すというやり方だ。それなら、ジュリーもライブの感覚を少しずつ取り戻せるだろうし、ヘルプの子との都合も合わせやすいからね。」
今のジュリーさんにしてみたら、回数などは重要ではなく、ステージ上で歌えることそのものが嬉しかったのだ。彼女は安堵の笑みを浮かべて、リーダーからの提案を二つ返事でOKした。
リーダーとジュリーさんの関係も丸く収まり、念願だったバンドメンバーへの復帰までこぎつけたら、いよいよこのオレが彼女のために一肌脱ぐ番である。
「リーダー、あと一つだけ、オレからお話があるんです。もう少しだけ付き合ってもらえますか。」
「おお、次は君か。今度はいったい何なんだい!?」
唖然としているリーダーに向けて、オレは折りたたんでいた一枚の広告チラシを手渡した。
「そのチラシは、リーダーもご存知の、麗那さんの知り合いが経営しているレストランのものです。このお店では、週に一度ディナーショーを開催していて、そのたびにバンドを招へいしているんですよ。」
広告チラシを食い入るように眺めながら、オレの解説に耳を傾けていたリーダー。勘が鋭い彼だけに、どうやらオレの腹案に感づいたようだ。
「なるほど。このお店のディナーショーに、ジュリーが参加したローリングサンダーを招きたい、というわけかい?」
「ご名答です。ジュリーさんのボーカル復帰祝いを開催したいんですよ。お店の方は、もう麗那さんを通じて了解をもらってます。」
レストランに集まってくれた観衆の前で、ジュリーさんが歌い、そしてバンドのメンバーたちが演奏する。そんな素晴らしく素敵なお祝いライブをやりましょうと、オレはこの練ったプランでリーダーに働きかけた。
リーダー本人も、ディナーショーという舞台で演奏できる高揚感もあり、ジュリーさんとのジョイントには最適だろうと、このプランを喜んで引き受けてくれた。
「ジュリーさん、よかったですね。」
「マサ。・・・わたしのために、本当にありがとう。」
そう囁きながら、ジュリーさんはオレに握手を求めてきた。握り締めた彼女の手からは、ほのかな温もりと一緒に、ボーカリストとして再出発する気持ちの高ぶりも伝わってきた。
「どうだい、ジュリー。のど慣らしに一曲歌っていくかね?メンバーは不在だが、ディスクからイントロは準備できるよ。」
店内奥にあるスタジオを指差して、リーダーがそう誘いかけてみたものの、楽しみは本番まで取っておきたいからと、ジュリーさんは微笑しながら断りの意思を示した。
それから少しばかり、昔話に花を咲かせたリーダーとジュリーさん。店内に流れるジャズソングが、そんな二人の思い出をノスタルジックなセピア色に染めていた。
「リーダーの商売を邪魔しちゃ悪いから、そろそろ行くネ。次はライブの時に。」
「わかった。今日は楽しかったよ。再会のその時まで、元気でな。」
リーダーとの再会を約束してから、ジュリーさんはオレを連れ立ってお店を後にする。名残惜しそうな顔をするリーダーは、わざわざ店頭まで足を運んで、オレたちの姿が見えなくなるまで見送っていた。
午後の太陽が照りつける中、最寄駅方面に向かって商店街を歩いていたオレたち。ジュリーさんはアパートへ帰ることなく、このまま新宿へと戻るのだという。
「マサ、ここまででいいヨ。見送ってくれてサンキュー。」
「・・・ジュリーさん。まだ、アパートに帰ってきてくれないんですか。」
オレからの質問に、ジュリーさんはすぐに答えてはくれなかった。しかし、滅入っている様子はなく、彼女の表情はとても晴れ晴れとしていた。
「ライブで逃げることなく、最後まで歌うことができたら、その時こそ、わたしの本当の修行の終わり。だから、マサ。もう少しだけ、わたしのわがままを許してネ。」
別れを告げるジュリーさんに、表書きのない一枚の封筒を差し出したオレ。それは、彼女に手渡すことができなかった、リーダーから託された封筒だった。
「これリーダーから預かってました。この前のライブの報酬だそうです。どうか受け取ってください。」
ジュリーさんはためらいがちに首を横に振っている。不甲斐ない自分にそんな資格などないと、彼女は封筒を受け取ろうとはしなかった。
オレとしても、リーダーから託された意地もある。ジュリーさんが受け取ってくれるまでは、易々と引き下がるわけにはいかない。
「ジュリーさんは不甲斐なくなんてないですよ。あれだけ緊張しても、最後まで歌いきったそのプロ根性は、リーダーの目にしっかり残っていたはずです。・・・この報酬、そんなリーダーからの激励の気持ちだと思って受け取ってくれませんか。」
目を閉じたまま、しばらく悩んでいたジュリーさん。しばしの沈黙の後、彼女は諦めるように苦笑いを浮かべて、オレの手から封筒を受け取ってくれた。
「今夜ネ、いつも公園に集まってくれるみんなと宴会があるの。これ、その資金源にさせてもらうワ。もしよかったら、マサも一緒に来る?」
「オレが行ったら、きっとジュリーさんに酔い潰されちゃうと思うから、今夜は遠慮しておきます。」
他愛もないおしゃべりに、オレとジュリーさんはクスクスと笑い合う。別れを惜しむことをごまかすような、そんな照れ隠しをするオレたちだった。
ジュリーさんは住人たちによろしくとだけ言い残し、最寄駅構内の雑踏の中へと消えていく。そして、最寄駅に背を向けたこのオレも、主婦たちで賑わう商店街目指して歩き出していった。
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