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第八話 一.飼い主の知られざる本性

 数日経ったある土曜日の午前中、オレはじいちゃんのご機嫌取りとばかりに、「胡蝶蘭総合病院」へお見舞いに訪れていた。

 のんびりとした平穏な雰囲気に包まれた512号室。オレは開け放った病室の窓から、晴れ間に映える遠景を眺めていた。

「今日もいい天気だ。また暑い一日になりそうだよ。」

 窓の向こうから涼風が入ってきて、じいちゃんもすがすがしい顔で心地よさそうにしている。

「やはり自然の風が一番いいのう。冷房だとすぐに寒くなって体調が優れんよ。」

 不機嫌そうに眉をひそめて、愚痴っぽくそう嘆いていたじいちゃん。

 じいちゃんが言うには、涼しい午前中は冷房を止めていて、日が高くなる正午に作動させているそうだ。ただし、病院施設内の空調は集中管理されており、患者の都合で温度調節ができないので、結局は電源のオンオフで調節するしかないのが実情なのだ。

「わしの体調を一番気遣わなきゃならんおまえが、滅多に見舞いに来ないんじゃからな。」

 いつものように、じいちゃんの皮肉めいた恨み節が始まってしまった。オレもいつものように、日常の多忙さを理由に言い訳する。

「そう言われてもさ、オレだっていろいろやることあるし。滅多に来ないって言うけど、オレなりにはちゃんと見舞いに来てるつもりだよ。」

 オレの反論を聞くなり、じいちゃんは戸棚の中から眼鏡とメモ帳を取り出した。そして、そのメモ帳のページをパラパラとめくり、指で辿りながら書かれているメモに目を走らせる。

「よく言うわい。わしが入院してからほんの数回じゃろうが。・・・麗那ちゃんたちは仕事もあるから仕方がないにしろ、奈っちゃんより回数が少ないのはどういうことだ?」

 驚いたことに、そのメモ帳には、お見舞いに来た人とその回数がびっしりと記録されていた。念のため見せてもらったところ、奈都美が一番多くて、少なくとも週に二回はお見舞いに訪れていたようだ。

 ちなみに、奈都美と麗那さん以外の三人の住人はというと、じいちゃんのことが心配だと口にしていた割には、オレが東京へやってきた日以来、一度たりともお見舞いに来ていなかった。

「まぁまぁ、そんなに目くじら立てないでよ。今日はこうやってお見舞いに来たんだしさ。回数だけで人を評価するのは下衆な考え方だと思うな。」

「ふん、まだ二十歳そこらのくせして生意気抜かしおって。今日はとことんこき使ってやるから覚悟せい。」

 そんなわけで、オレは長丁場となることを覚悟しつつ、アパートで巻き起こった最近の騒動をじいちゃんに報告することにした。

 家出してまで、ジャズボーカリストを目指して修行しているジュリーさんのことや、アパートへやってくるぶち猫の飼い主探しのことなど、オレはそんな悪戦苦闘ぶりをかいつまんで話した。

「そうかそうか。アパートはおもしろいことばかりじゃな。飽きることがないから毎日が楽しいだろう?」

「そんなわけないでしょ。他人事みたいに言わないでよ、もう。本来なら、じいちゃんが取り仕切るところなんだからね。だから一日でも早く退院して、職場復帰してもらわないと。」

 てんてこ舞いな毎日で、本業の受験勉強に手が回らないと救済を訴えるオレ。ところが、じいちゃんは応答することなく、寂しそうな目を虚空に泳がせるだけだった。

「もう、わしも歳だからのう。・・・退院できたとしても、管理人の仕事がまともにできるかどうか。そろそろ、わしも隠居する時期なのかも知れんな。」

 じいちゃんは儚さをにじませながらそんな弱音を吐いた。

「何言ってんだよ。そんなの、じいちゃんらしくないよ。簡単には引退なんてさせないからね。まだ現役としてもっとがんばってもらわないと。」

 いつもだったら、オレが励ましたりすれば、薄っすらと笑みをこぼして明るく振る舞うじいちゃんだが、今日に至っては物憂げな表情をしたままだった。もしかして、じいちゃんの容体がそれだけ悪かったのだろうか。

「じいちゃん?大丈夫!?」

 オレは内心ドキッとして、じいちゃんの具合を伺おうと声を掛けた。すると、心配しているオレに向かって、じいちゃんはニンマリとした笑顔を見せ付けた。

「冗談じゃよ。」

「・・・は?」

 じいちゃんのその一言に、オレは呆気に取られて言葉を失っている。

「ひゃっひゃっひゃ、安心せい!老いぼれてはおるが、まだまだ隠居するには早いわい。もう一花咲かせてからじゃないと、死んでも成仏できんからな。」

 高笑いしながら、年甲斐もなく血気盛んにそう豪語したじいちゃん。オレをからかうぐらい元気なら、体調や容体を気遣うなんて無用だったようだ。

「その歳で一花咲かせるって、何する気なんだよ、まったく。・・・あー、もう、心配して損したぁ!」

「おいおい、これでも立派な病人なんじゃから、心配して損しちゃいかんだろうが。」

 そんな談笑交じりな会話をしていると、病室のドアをノックした看護婦が検温のために入室してきた。

 天使のように微笑んで、看護婦はさわやかな挨拶をする。じいちゃんは待ってましたと言わんばかりに、顔をほころばせて大喜びしていた。

 じいちゃんは体温計を脇に差し込むと、看護婦に言われるがまま、ベッドの上におとなしく横たわる。検温が終わるまでの間、オレはその様子を静かに眺めていた。

「おじいちゃん。平均体温も随分安定してきましたよ。もう少しすれば退院できますね。」

「いやぁ、それは困った。看護婦さんとお別れになるのは何とも寂しいのう。体温計の数字をちょこっとごまかして、もうしばらく入院させてもらえんかね。」

 じいちゃんのしたたかな悪巧みを、冗談だと思ってさらりとあしらっていた看護婦。しかし、こんなじいちゃんのことだから、冗談なんかではなく、本心で退院したくないと願っているのかも知れない。

 安静にしているじいちゃんを見届けて、看護婦に後のことを任せてから、オレはさりげなく病室を出ていくことにした。

「じいちゃん。また来るから、それまで無茶しないように。もし病状悪化させたら承知しないからね。」

「わかっとるよ。わしだって好き好んで具合悪くしたくはないからな。住人のみなさんによろしくな。」

 じいちゃんと看護婦に暖かく見送られて、オレは後ろ髪を引かれる思いで病室を後にした。廊下の窓から景色を眺めるオレの気持ちは、晴れ渡るこのお天気のような穏やかさに包まれていた。


 =====  * * * *  =====


「胡蝶蘭総合病院」からの帰りに商店街に立ち寄り、アパート周辺まで戻ってきた頃には、時刻は丁度正午に差しかかろうとしていた。

 この暑さを少しでも紛らわそうと、本日のランチは素麺にしようと決めたオレは、帰り道で買っためんつゆを手にアパートまで帰ってきた。

「・・・あ。」

 アパートの玄関を前にして、オレはふと立ち止まってしまう。なぜかというと、あのぶち猫が木陰になった外壁の上で、目をつむって気持ちよさそうに丸まっていたからだ。

 オレのことに気付いたのか、目を開けるなりオレのことを凝視するぶち猫。しかし、目を合わせたのもほんの束の間、ぶち猫は目をつむってまた眠りに落ちてしまった。

 猫という動物にそもそも関心がなかったが、ここ最近になって、このぶち猫の仕草を見るたびに、どこか愛おしさを感じてしまうオレがいた。

「まったく、寝てばかりでのんきな猫だよ。エサ、食べさせてもらった後なのかな。」

 そう言いながら苦笑していると、オレの背後から子供の話し声が聞こえてきた。ちらっと振り返ってみると、ランドセルを背負った数人の小学生が何やら話し込んでいた。

 その小学生たちは外壁の上にいるぶち猫を眺めている。この子たちもオレと同じで、ぶち猫の愛くるしい寝顔に見入っていたのだろうか。

 お腹の虫が騒ぎ出したので、オレは早いところ昼食を済ませようと玄関へと向かう。その途中、さっきの小学生の一人がオレに声を掛けてきた。

「あの、お兄ちゃん。あそこにいる猫って、お兄ちゃんの家で飼ってるの?」

「え。・・・あー、あの猫のことかい?」

 小学生からの問いかけに、オレは即答できずに口ごもってしまう。どう説明すべきかと迷ってしまい、困惑するあまり頭を悩ませていた。

 そんな煮え切らないオレをよそに、あのぶち猫に見覚えがあるような会話をしている小学生たち。つい反射的に、オレはその小学生たちに反対に問いかけていた。

「君たち。もしかして、あの猫のこと知ってるの?」

 その質問に小学生たちは揃ってうなづいたが、自信がなかったのだろうか、みんながみんな、顔を見合わせて戸惑いの表情を浮かべていた。

 どことなく異様な空気が漂う中、さっき声を掛けてきた小学生がそっとつぶやく。

「あの猫ね、ぼくたちのクラスの男子が飼ってる猫にそっくりなんだ。ぶちの模様も、首輪も同じだから、きっと間違いないと思う。」

 その発言こそ、このぶち猫の飼い主を特定する決定的証言だった。こうなったら、もう隠し立てすることなく、この小学生に事実のすべてを伝えるべきだろう。

 このぶち猫はアパートで飼っているわけではなく、エサを求めて時々やってきていると、オレがわかりやすく説明すると、小学生たちは納得してくれたのか表情を緩ませていた。

「そんなわけで、あの猫の飼い主を探してるんだよ。もしよかったら、君たちのクラスの男の子のこと教えてくれないかな?」

 オレがそう問いかけると、小学生たちは迷う様子もなく異口同音に答える。

「ぼっちゃんだよ。」

「ぼっちゃん・・・?それってニックネームかい?できれば、名前とか教えてくれるかな。苗字だけでもいいんだけど。」

 オレに声を掛けてきた小学生が代表として、その男子の苗字を教えてくれた。

「ぼっちゃんは、蝶名林っていう苗字なんだ。」

 その聞き覚えのある苗字に、オレは驚愕のあまり表情が凍りついた。蝶名林といったら、あかりさんから詳しく教えてもらい、奈都美と一緒に自宅を捜索したあの大富豪と同じ苗字だ。

 同一人物かどうか確かめようと、その蝶名林という男子の住まいを尋ねてみると、川沿いにある高級住宅地とのことだった。これは紛れもなく、オレたちが探していた蝶名林と同じと見ていいだろう。

「もしそうだとしたら、引っかかることがあるな・・・。」

 オレの頭の中で、一つの疑念が渦巻いている。その疑念とは、蝶名林家が飼っている猫はぶち猫ではなく、ペルシャ猫だという紗依子さんの話だ。ここのいる小学生たちなら、そのことについても何か知っているだろう。

「蝶名林さんの家だけど、ペルシャ猫を飼ってるって聞いたんだけど。もしかして、猫を二匹も飼ってるのかな?」

「うん。ペルシャ猫もいるんだけどね・・・。」

 そう答えると、小学生たちは一様に押し黙ってしまった。またもや顔を見合わせて、戸惑いの表情を浮かべている。

 しばらくすると、小学生たちはちょっとした小競り合いを始めた。おまえが言えと言わんばかりに、みんながみんな、面倒なことを押し付け合っていたようだ。

 揉めに揉めた結果、オレに声を掛けてきた小学生が語り手に決まったらしい。損な役回りを仰せつかったその小学生は、念を押しながら小声で語りかけてきた。

「お兄ちゃん。ぼくの言うこと、ぼっちゃん家の人に言わないって約束して。そうしたら、あの猫のこと話してあげる。」

「もちろんさ。蝶名林さんの家の人には絶対に言わないから安心していいよ。」

 小学生はオレに屈むよう要求すると、周囲を警戒しつつ囁くように話し始める。

「ぼくたちは一度も見たことないけど、ぼっちゃんの家にいるペルシャ猫はね、おばさんがかわいがってる猫らしいんだ。」

「おばさん・・・って。そのぼっちゃんのお母さんのことかい?」

 オレの問いかけに、小学生はコクンとうなづいて内緒話を続ける。

「おばさんはね、飼ってる猫に飽きちゃうと、すぐに捨てたりするんだよ。・・・ひどい時は、捨て猫だからって嘘ついて、保健所に連れていったりするんだって。・・・その後またすぐにね、おばさんは新しい猫を買っちゃうんだよ。」

 それはあまりにも卑劣で、胸苦しさすら覚えるひどい話だった。小学生たちも皆、心が痛むあまり哀れんだ目をしている。こんな惨たらしい現実、冗談でも話したくなかったに違いない。

「あの猫もね、もともとは、おばさんがかわいがってたらしいんだけど、捨てようとしたところを、もったいないからって、ぼっちゃんがもらったんだ。」

 外壁の上で寝ているぶち猫に、ゆっくりと視線を合わせるオレ。処分されずに済んだことに、オレは心からホッとせずにはいられなかった。

「でもね、ぼっちゃんはぼっちゃんでひどいんだよ。・・・もらった猫のこと、かわいがりもしないで、いつもいじめてばかりだったんだ。」

 浮かない表情をしたまま、小学生は消え入りそうな声で話を続けてくれた。

 鎖で縛り付けては引っ張り回し、高いところから投げ落としたりして、そのぼっちゃんは執拗なまでにぶち猫を虐げていたそうだ。まるで自らの権力を誇示するように、小学生たちを呼び出しては虐待の様子を見せ付けていたという。

 奈都美が弁当屋のお客から聞いたという人物像が、ここで語られた蝶名林家とピッタリ重なった。高飛車で身勝手な婦人、過保護でわがままに育てられたお坊ちゃま。考えたくはないが、これがぶち猫の飼い主の正体だったのだ。

「最近、ぼっちゃんが猫を連れ回してなかったから、きっと逃げたんじゃないかって、ぼくたちみんなでそう話してたんだ。でも、こうやって無事にいてくれてよかった。」

 小学生たちは見守るような優しい目で、ぶち猫の穏やかな寝顔を眺めていた。

「お兄ちゃん。ぼくたちもう帰るけど、このこと、ぼっちゃんとか、おばさんに絶対に内緒だからね。」

「ああ、わかってる。男と男の約束だもんな。」

 オレがそう堅く誓うと、小学生たちは安堵の笑みを浮かべていた。相手が暴れん坊なだけに、仕返しされることを恐れていたのだろう。

 小学生たちはオレに別れを告げると、眠っているぶち猫に手を振りながら、それぞれの自宅を目指して帰っていった。

「・・・さてと。」

 周りのことなど気にも留めず、居心地よさそうにずっと丸まっていたぶち猫。そんな無頓着なぶち猫のことを、オレはまじまじと見つめていた。

「おまえはおまえで、苦労してきたんだな。・・・オレさ、おまえのこと、飼い主に引き渡すなんてできるのかな。・・・オレ、どうしたらいいのか、わからなくなってきちゃった。」

 胸を締め付けるような圧迫感の中、オレはやり切れなさに自問自答してしまう。夏の暑さも空腹さもすっかり忘れて、出口の見えないトンネルを彷徨っているような気分だった。

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