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第七話 三.公園でのコンサート

 時刻が夜7時を過ぎた頃、オレと麗那さんはネオンが瞬く新宿の市街地まで辿り着いた。

 高層ビルが林立する副都心と呼ばれる西新宿。無数にあるビルの窓に照明が映り、こんな夜でもビジネスマンたちがアリのごとく働いている。

 高層ジャングルで汗を流す人たちの憩いのオアシスこそ、オレたちがやってきた新宿中央公園だ。

「マネージャー、ありがとう。わたしの帰りは気にしなくていいから。」

 笑顔で返事をしたマネージャーは自動車を発進させると、高層ビルの陰の中へと吸い込まれていった。そして、オレたち二人も暗くなりかけの公園内へと進んでいく。

「それで、ジュリーさんの居所はわかってるんですか?」

「それがわからないの。だから、お散歩でもしながら捜すしかないって感じかな。」

 そう言いながら、麗那さんは茶目っ気いっぱいに笑う。オレは苦笑いしつつも、そんな彼女の後ろについていくしかなかった。

 夜の園内を散策しながら、悠然と佇む高層ビル群を望んでみたオレ。ここから見上げる夜景はあまりにも幻想的で、別世界を思わせるような輝きについ虜になってしまうほどだ。

 公園大橋という名の歩道橋を渡り、オレたちは当てどなく園路を歩き続ける。さすがは有名な都市公園だけに、すれ違う人々も多種多様で、さまざまな人間ドラマが繰り広げられていた。

「あれ、あそこに滝みたいなものがありますね。」

「あれはね、この公園の待ち合わせスポット、ナイアガラの滝よ。せっかくだから、ちょっと見ていこうか。」

 麗那さんの案内により、ナイアガラの滝のある水辺の広場まで近づくと、かすかに耳を打つ水のせせらぎが、夜のしじまに優しい音色を奏でていた。

 ナイアガラの滝のそばには、笑い合う若者や愛を育むカップルたちが群れていて、楽しくもありふれた日常がそこにはあった。

「ここではフリーマーケットも開催されていてね。その時なんかもう、すごい人だかりができて毎回大盛況なんだよ。」

「そうなんですか。オレ、フリーマーケットなんて一回も見たことないな。おもしろそうですね。」

「おもしろいよ、きっと。機会があったら、今度見にこようか。」

 デートしている者同士のように語らっているオレたち。しかし、本来の目的を思い出した途端、オレたちは恥じらいながら水辺の広場から離れていく。

 広々とした公園内を途方もなく彷徨い続けること十数分。ジュリーさんどころか、歌声を披露する女性の姿すらどこにも見当たらない。時間が経つにつれて、オレと麗那さんに疲労がじわりじわりと蓄積していった。

「麗那さん。ジュリーさんらしき女性、どこにもいませんね。・・・どうしますか?」

「参ったわね。運が良ければと思ったんだけど。・・・やっぱり無謀だったかしら。」

 運任せで行動に走ってしまったことを後悔する麗那さん。ジュリーさんらしき女性がいつ出没するかわからない状況の中、このオレを無理やり連れ回したことに、彼女は憔悴した顔で謝罪の言葉を口にしていた。

 少しでも早くジュリーさんに会いたい。会って話がしたかったオレには、同じ思いを抱く麗那さんを責めたりなんてできるはずもなかった。

「残念だけど、今夜は諦めて帰りましょうか。」

 麗那さんは徒労感をにじませながら、歯がゆそうにそうつぶやいた。大きく溜め息をついたオレは、彼女と一緒に来た道を引き返そうとする。

「あれ、何だろう?」

 オレはふと、木陰付近のベンチにいる群集に目が留まった。このまま見過ごすことができず、オレは麗那さんにそっと声を掛ける。

「麗那さん。あの人だかり何でしょうね。」

「本当だ、何かしら。・・・まさかと思うけど、ちょっとだけ覗いてみようか。」

 わずかな望みに期待しつつ、オレたちはその群集のところまで近づいてみた。

 十人以上はいるだろうか、群がっている人たちは皆、汚れた衣装を身につけた浮浪者ばかりだった。彼らはある一点に注目していて、ケラケラと楽しそうに笑っている。

 浮浪者たちの視線の先には、下らないジョークを連発する、彼らと似た風貌をした一人の男性が立っていた。その様子からして、ここに集まった連中を束ねるリーダー的存在なのだろうか。

「どうやら、わたしたちが想像したのと違ったみたい。」

「そのようですね。やっぱり、諦めて帰りましょうか。」

 顔に落胆の色を隠せないまま、オレと麗那さんは賑やかな群衆に背を向ける。

 その場を去ろうとするオレの耳元に、浮浪者のリーダーらしき男性の声がかすかに届いた。はっきりと聞き取ることはできなかったが、”特別ゲストによる歌声”という台詞だけが、オレの耳の鼓膜に小さく余韻を残していた。

「まさか・・・!」

 オレが咄嗟に、浮浪者の人だかりの方へ振り返ると、オーディエンスの歓声に応えるように、木陰の隅から特別ゲストがしなやかな姿で登場した。

 薄青色したワンピースを着たブロンド髪の女性。オレたちが捜し求めていたその女性が、白色に輝く街灯の明かりの下に映し出された。

「れ、麗那さん。見てください、ほら!」

 オレが慌てて呼び止めると、前を歩いていた麗那さんは何が起きたのかといった顔で、オレのそばまで歩み戻ってくる。

「どうしたの、そんなに慌てふためいて。何が見えるの?」

「あそこ、さっきの人だかりの先にほら。見えませんか?」

 背伸びしながら、オレの指し示す方向へ視線を向ける麗那さん。そして、彼女は視線の先にいる人物に釘付けになっていた。

「あそこにいるの、ジュリーじゃない!」

「麗那さんの運、まんざら悪くなかったみたいですね。」

 そう声をかけたオレに、麗那さんは小さく微笑みを返してくれた。ようやくジュリーさんと巡り合えたことに、彼女は柔らかい笑顔で安堵感を表現していた。

 オレたち二人は再び、歓声に沸く浮浪者たちのもとへ舞い戻っていく。

「集まってくれて、サンキューベリーマッチ。今夜も一曲だけ、歌わせてもらいます。」

 ジュリーさんはそう挨拶すると、胸に手を宛ててゆっくり瞳を閉じる。彼女に合わせるように、一斉に声を潜める浮浪者たち。演奏のないこのステージ上で、彼女は意を決したように生の歌声を披露した。

「この曲・・・。ジュリーさんの十八番のあの曲だ。」

 このメロディーに、オレは過去にあった出来事を思い起こす。あの時、カラオケボックスで耳にした「レイン・オブ・トワイライト」というジャズソングだった。

「・・・。」

 あの時よりも、ジュリーさんの歌声は酔いしれるほどに麗しかった。透き通るような美声が、苛まれた観衆たちの心を癒していくかのようだ。

 オレと麗那さんは黙ったまま、心に染み入るその調べに耳を傾ける。群集を前に誇らしげに歌うジュリーさんを、オレたちは穏やかな気持ちで見守っていた。

 集まった観衆を魅了した歌は終わりを告げ、ジュリーさんは観衆に向けて深々と頭を下げる。すると、彼女を称賛する割れんばかりの拍手が、夜の公園内に高々と鳴り響いた。もちろん、オレと麗那さんも大きな拍手を送り続けていた。

「ジュリーの歌よかったね。たくましくなったのかな。とても威風堂々としていたわ。」

「緊張もしてないし、歌声にも磨きがかかってましたね。これも修行の成果でしょうか。」

 今度こそジュリーさんを見失うまいと、オレたち二人は足を速めて、舞台袖となる木陰の隅っこまで駆けていく。

 浮浪者たちに暖かく見送られながら、舞台袖までやってくるジュリーさん。木陰の隅で待機していたオレたちに気付いたのか、彼女の微笑みはゆっくりと驚愕の表情に変化していった。

「・・・麗那、それにマサ!?」

 どうしてここにいるの?といった顔で、ジュリーさんは驚きのあまり身を硬直させている。一方のオレたちも会釈はしたものの、声を掛けにくい雰囲気のせいか口をつぐんでいた。

 向き合っているオレたち三人の隙間に、取り留めのない重たい空気が流れる。この異様さを感じたのか、浮浪者の一部が好奇の目でオレたちを見据えていた。

「ここだと人目に付くワ。・・・ついてきて。」

 ジュリーさんはそう言うと、オレと麗那さんを連れ出すように歩き出す。彼女に言われるがまま、オレたちは公園のさらに奥の暗がりへと進んでいった。


 =====  * * * *  =====


 夜8時になろうかとしていた。通行人らしき人影もわずかながらに消えていき、ここ新宿中央公園はひっそりとした静寂さに包まれていた。

 それでも高層ビルにはまだ、ぽつぽつと窓の明かりが見えている。このビルのすべての窓が真っ暗になることはあるのだろうかと、そんな不毛なことをつい考えてしまうオレだった。

 オレと麗那さん、そしてジュリーさんの三人は、街灯に照らされたベンチに腰を下ろしていた。

「なるほど。偶然見つかったわけじゃなかったのネ。」

 そう言いながら苦笑いしているジュリーさん。オレと麗那さんがここを訪れた経緯を聞かされた後だった。

「でもね、本当に会えるかどうかは偶然と言えなくもなかったの。あと少しここへ来るのが遅かったら、きっと、あなたに出会えてなかったかも知れないから。」

 麗那さんはジュリーさんを見つめて微笑んだ。しかし、ジュリーさんは気まずそうに、麗那さんから視線を逸らせてしまった。

「本当にごめんなさい、いきなりアパートを飛び出してしまっテ。・・・こんな自分勝手なわたしのこと、怒ってるでしょウ?」

 面目ないとばかりに、ジュリーさんは沈みがちにうなだれていた。オレたちに迷惑を掛けてしまったことを深く反省しているようだ。

「もちろん驚きましたけど、オレも麗那さんも別に怒ってませんよ。ただ、行方がわからないままだったから、すごく心配だったんです。」

「もしかして、みんなでわたしのことを捜し回っていたノ・・・?」

「いいえ。このことを知ってるのはオレと麗那さんの二人だけです。他の住人たちには、ジュリーさんは歌手の養成所に住み込みで通っていると、架空の話でごまかしてます。」

 オレからそう伝え聞くと、ジュリーさんはホッとしたのか胸を撫で下ろしていた。

「ねぇ、ジュリー。そろそろアパートに帰ってこない?さっきのあなたの歌、とても素晴らしかったわ。あんな人前でも堂々としてたし、ステージに立つことへの恐怖心はもう克服できたんじゃないの?」

 麗那さんが励ましつつそう促してみるも、ジュリーさんは素直に受け入れてはくれない。まだジュリーさんの心の奥に、帰ることができない迷いでもあるのだろうか。

「麗那、マサ。わたしのつまらない話に付き合ってくれるかナ?」

 オレと麗那さんが躊躇なくうなづくと、ジュリーさんは長くなるかもと前置きしてから語り始める。

「ローリングサンダーのボーカルとして活躍していた頃、わたしネ、一人の男性に恋をしたことがあるノ。」

 ジュリーさんが恋した相手とは、ライブのたびに前列で観賞してくれたファンの一人で、当時20代後半の男性とのことだ。

 ローリングサンダーのメンバーたちは、特別のファンを集っての打ち上げ会を、毎回ライブ終演後に開催するのが恒例だった。ジュリーさんはその宴席で、そのファンの男性と親睦を深めていったという。

「その人、心が広くて包容力があってネ。知り合って間もない頃から、わたしのことを優しく受け止めてくれて、肥満体質にコンプレックスがあったわたしにとって、身も心もすべて委ねてしまうぐらい素敵な男性だったワ。」

 ライブや打ち上げ会に留まらず、街に出て食事をしたり買い物をしたり、数回ほどデートを重ねたという二人。恋仲と呼べるものではなかったが、ジュリーさんたちは仲睦まじいひと時を過ごしていった。

 家庭内事情の孤立感から、今までに経験したことのない温もりに触れたジュリーさん。ついに彼女は一大決心し、その男性に素直な想いを告白しようと考えたのだ。しかし、予想だにしない真実を目撃してしまい、その想いはもろくも崩壊の一途を辿ってしまう。

「ある日ね、偶然見てしまったノ。彼が、かわいらしい女の子と女性を連れて歩いていたところを。・・・わたしと出会う前から、彼にはすでにファミリーがいたのヨ。」

 この裏切り行為に、その男性のところまで詰め寄って、事実関係を突き止めようとしたジュリーさんだったが、不格好な体型に劣等感を持つせいか、目を伏せるばかりで何もできず、その場から走り去ることしかできなかったそうだ。

「ひどい話ね!それって、ジュリーのことを弄んでたってことでしょう?わたしだったら、その男の顔に平手打ちしても許さないと思う。そもそも、妻子ある身のくせに、女性に優しくすることそのものが・・・。」

 どうも感情移入してしまったらしく、我を忘れて憤慨している麗那さん。そんな興奮気味の彼女を、オレは冷静になるよう必死になだめていた。

「それはもうショックだったワ。打ちひしがれて、目を腫らすほど泣き崩れたワ。・・・しばらくの間、わたしは無気力になって、生きた心地すらしなかった。・・・不思議なものネ。生きる希望を失うと、歌声まで鈍ってしまうなんて思いもしなかったもの。」

 傷心から来る虚脱感、拒食症による食欲不振に陥り、ジュリーさんは見る見るうちにやつれていく。そして、彼女の生業だった自慢の喉すらも、歌うことへの情熱とともに衰弱していった。

「ステージで歌っているとネ、内緒話が聞こえてくるの。・・・音程がずれてる、下手くそ、金返せ、もう二度と歌うな。・・・そんな罵る声が演奏に乗って、わたしをステージから引きずり下ろそうとするノ。」

 被害妄想は日を追うごとに増大し、ジュリーさんの神経は日増しに破壊されていく。精神は病み、肉体はボロボロになって、彼女はバンド活動に支障をきたすほど情緒不安定になっていった。

 その忌々しい過去がトラウマとなり、ジュリーさんは観衆の前に立つと、激しい身震いを引き起こす体質になってしまったのだという。

「それで、バンドの脱退を申し出たんですね。」

「・・・そうヨ。バンドのみんなに、迷惑を掛けることはできなかったからネ。」

 ジュリーさんの口から明かされた過去が、オレの知る彼女の過去とようやく一本につながった。そこには、悲しくてやり切れない苦痛な物語が隠されていたのだ。

 そんなことも露知らず、興味本位でジュリーさんの過去を掘り起こしてしまい、オレはただ悔いる気持ちでいっぱいだった。

「ジュリーさん、本当にごめんなさい。オレが無理やり、歌うことを強要したばかりに。」

 オレがそう謝罪の言葉を伝えると、そばにいた麗那さんが口を挟むように割り込んできた。

「マサくんのせいじゃないわ。わたしだって、ジュリーの過去のこと何も知らないのに、たきつけるようなマネしちゃったし。・・・ジュリー、ごめんなさい。」

 あまりに申し訳なく、自責の念に駆られていたオレと麗那さん。しかし、ジュリーさんは首を横に振って口元を緩めていた。

「ノープロブレム、気にしないで。いつかはみんなに話そうと思ってたしネ。・・・むしろ、もう一度、ステージに立つきっかけをもらったこと、ちょっぴり感謝してるワ。」

 そう言いながら、ジュリーさんは物思いに耽るように、闇夜に浮かぶ満月を見上げていた。

「ボーカリストとしてのわたしはね、この公園からスタートしたのヨ。まだローリングサンダーに出会う前、この公園に集まる人たちの前で、わたしはアカペラでジャズを歌っていたノ。・・・最初こそまばらだったけど、少しずつ集まる人が増えてきてネ。さながら、野外コンサートみたいだったワ。」

 舞台に立つことの素晴らしさ、そして、人前で歌うことのすがすがしさ、いろいろな人たちの声援と応援がそれに気付かせてくれたと、ジュリーさんは若かりし頃を懐かしそうに振り返っていた。

「わたし、原点に戻ってもう一度やり直したかっタ。ここで歌うことで、がむしゃらに歌っていたあの頃の自分を取り戻したかったのヨ。・・・もうちょっと。あと、もうちょっとでネ、わたし、自信を持ってステージに立てそうな気がするノ。」

 上空に視線を向けたまま、ゆっくりと立ち上がるジュリーさん。一歩、また一歩と足を踏み出し、彼女はオレたちの方へくるりと身を翻した。

 街灯からこぼれる眩しい光線が、ワンピース姿のジュリーさんをより一層輝かせている。その姿はあたかも、スポットライトを浴びるジャズシンガーそのものだった。

「麗那、マサ。・・・わたしに、もうちょっとだけ時間をくれないかナ?また昔のように、みんなの前で歌えるその時まで、わたしのわがままを聞いてほしい。」

 オレと麗那さんにとって、その答えなど聞かれるまでもなくすでに決まっていた。ここまでがんばったのなら、ジュリーさんの気の済むまでとことんやり遂げてほしいと。

 ベンチからそっと腰を上げたオレは、ジュリーさんのもとへと歩み寄り、オレと麗那さんの本心そのままをジュリーさんに伝えた。

「ジュリーさんが修行を終えて、一人前のボーカリストとして帰ってくるのを、オレも麗那さんもいつまでも待ってます。だから、納得がいくまで、集まってくれる人たちを喜ばせるために、精一杯歌い続けてください。さっきの歌唱力なら、帰ってくるのってそう遠くないですよね?」

「マサ、サンキュー・・・!」

 感極まってしまったのか、ジュリーさんは大喜びでオレに抱きついてきた。細く締まった彼女の両腕が、オレの腰元にきつく食い込んでくる。

「わぁ、ジュ、ジュリーさん!・・・そ、そんなに締め付けたら、い、痛いですよぉー。」

「フフフ、やっぱり、マサも麗那もわたしのベストフレンドね。本当に嬉しい、サンキューベリーマッチ!」

 微笑んでいる麗那さんをも巻き込んで、ジュリーさんはオレたちと一緒に抱き合って喜んでいた。

 ほんのり瞳に涙を浮かべて、嬉しそうに笑っているジュリーさん。彼女の久しぶりの笑顔を目の当たりにして、オレと麗那さんも晴れやかな気持ちに包まれていた。

 それからしばらくの間、オレたち三人は雑談して過ごしたが、楽しいひと時はあっという間に流れていった。

「ごめん、わたし、そろそろ行くネ。」

 ジュリーさんはそう言うと、ちょっと寂しそうにお別れを切り出した。後ろ髪を引かれる思いのまま、去りゆく彼女を暖かく送り出すオレたち。

「ジュリー、がんばってね。なるべく早く帰ってくるのよ。」

「ジュリーさん、がんばってください。復帰ライブのこと、オレの方でも考えておきますから。」

 ジュリーさんが帰ってきた暁には、オレや住人全員という観客を前に、彼女を交えたローリングサンダーのライブを開催しよう。オレたち三人はささやかながらも、そんな祝宴の計画を頭の中に描いていた。

「二人とも、今夜はありがとウ。また会える日まで。・・・グッバイ。」

 そう別れの言葉を残して、ジュリーさんは公園を離れて高層ビル群の一角へと消えていく。再会するその日を期待しながら、オレと麗那さんは暗闇に紛れる彼女を見送った。

「さて、わたしたちも帰りましょうか。」

「そうですね。」

 暗がりの中に腕時計のバックライトを点すと、時刻は夜8時30分を当に過ぎていた。

 今の時刻を知るや否や、オレのお腹の虫が唸るように泣き出した。それもそのはずで、オレはまだ今夜の夕食を済ませていなかったのだ。さらに恐ろしいことに、緊張が緩んだせいもあってか、オレの空腹感はまさに絶頂期を迎えていた。

「麗那さん。・・・あの、簡単なもので結構なので、どこかで食事していきませんか?」

 この空腹を我慢できず、オレは勢いで麗那さんを誘いかけてしまった。すると、彼女も空腹だったらしく二つ返事で受け入れてくれた。

「マサくん。もう少しだけ我慢できる?タクシー拾って、ひとっ走りしたいんだけど。」

「大丈夫です。でも、タクシーでどこまで行くんですか?」

 そう尋ねるオレに、麗那さんはニッコリと微笑んで答える。

「気分がいいから、ちょっぴり盛り上がりたくて。だから、浜木綿に行きたいなってね。どうかな?」

「いいですね、それ。オレも気分がすっきりしてるって言うか。ぜひとも行きましょう!」

 オレと麗那さんは、軽快な足取りで新宿中央公園を後にする。公園付近でタクシーを呼び止めるなり、オレたちは胸を躍らせながら、今夜の楽しい晩餐への道のりを突き進んでいった。


 =====  * * * *  =====


 ここは「串焼き浜木綿」の店舗前。オレと麗那さんの夕食会は、マスターと紗依子さんの参加も手伝って、盛大な盛り上がりの中ここに幕を下ろした。

 ジュリーさんに無事に出会えたこともあってか、麗那さんはいつも以上にお酒を楽しんでいた。調子付いて深酒したせいで、彼女は珍しく酔っ払ってしまったようだ。

「マサくん、麗那ちゃん。今夜はありがとう。気を付けてな。」

「マサくん。麗那のこと、しっかり送り届けてあげてねー。」

 時刻は夜10時を過ぎていた。マスターと紗依子さんに見送られて、オレと麗那さんは閑散とした繁華街を歩き始める。

 すっかりほろ酔い加減で、千鳥足で歩いている麗那さん。オレはハラハラしながら、時折ふらつく彼女を支えるようについていく。

「ごめんねー、マサくん。わたしばっかり騒いじゃって。」

「気にしないでください。楽しければそれでいいじゃないですか。」

 タクシーで帰宅するかどうか尋ねてみたところ、夜風に当たって酔いを醒ましたいという麗那さんの意見を尊重し、オレたち二人は徒歩でのんびり帰ることにした。

「わがままついでにー、ちょっとだけ遠回りしていい?」

 麗那さんはそう問いかけつつ、いつもの帰り道と違う方角を指差した。酔い醒ましには丁度いいと思ったオレは、彼女のお願いを快く聞き入れることにした。

 繁華街の通りを横に逸れて、薄暗くこじんまりとした路地へと入っていく麗那さん。そこは、オレが今まで足を踏み入れたことのない抜け道のような路地だった。

 そんな見知らぬ小道をてくてくと歩いていくオレたち。突き当たりを遠目に見ると、自動車のヘッドライトらしき光源が何本も横切っていた。

「麗那さん。この先って、いったいどこにつながってるんですか?」

「大通りだよー。この道ね、最寄駅の西口から大通りへ抜ける近道なの。」

 歩くこと数分、麗那さんの言った通り、オレたちは見覚えのある大通りにぶつかった。

 夜も更けているせいか、道路沿いの商業施設はほとんどが閉店しており、いつもの賑やかな雰囲気はどこにもない。走り抜ける自動車もまばらで、どの車両もここぞとばかりに猛スピードで疾走していた。

 そんな違和感を覚える大通り沿いの歩道を、オレと麗那さんはお散歩感覚で歩いていく。

「マサくん、こっちだよー。」

 麗那さんは手招きしながら、いきなり進むべき方角を変えてしまった。驚いたことに、彼女はアパートの反対側へ渡る歩道橋に上り始めたのだ。

「麗那さん、待ってください。そっちに行くと、アパートからさらに遠くなっちゃいますよ。」

 酔っているせいで方向感覚が麻痺しているのかと心配し、オレは麗那さんに立ち止まるよう声を張り上げた。しかし、彼女は歩道橋を最後まで上り切ると、夏の夜に輝く満天の星空を見上げていた。

「ほら、マサくんもおいでよ。星がとっても綺麗だよー。」

 星空を眺めながら、まるで子供のようにはしゃぐ麗那さん。そんな彼女に誘われるがまま、オレもゆっくりと歩道橋の階段を上っていく。

 歩道橋のてっぺんから見上げた夜空には、小さな瞬きを放つたくさんの星が光っていた。周辺の照明が消えたせいもあったのだろうが、今夜の夜空は、東京に来てから見た中で一番美しい星空だった。

「本当だぁ。・・・東京の星は遠いって言うけど、ここで見る星は手が届きそうな感じですね。」

「わたし、時間がある時、この歩道橋の上でこうやって星空観賞するんだよ。・・・フフフ、ここはわたしのお気に入りスポットなの。」

 そう教えてくれた麗那さんは、自然が織り成すプラネタリウムにすっかり魅了されていた。暗がりでよくわからなかったが、彼女の横顔には、澄み切った心がそのまま映し出されていたように見えた。

 麗那さんの語るところによると、モデルの駆け出しだった頃、仕事のミスで悩んだりした時に、こうしてここから星空を見上げていたそうだ。そのたびに、彼女は萎えた気持ちを奮い立たせていたという。いつの日かこの星のように、輝かしいトップモデルになることを志して・・・。

「挫折しそうになって苦しんでいる時、いつもこの星空がわたしを励ましてくれた。だから、わたしはここまでがんばってこれたの。・・・そして、これからも精一杯がんばらないとね。」

「・・・麗那さん。」

 数日前、アパートの管理人室で麗那さんが口にした一言。彼女ががんばっているもう一つの理由が、オレの脳裏にふらりと浮かび上がってきた。

「麗那さんがお仕事がんばってる理由、確か、誰かのためって前に話してた・・・。」

 まさにその時、オレの台詞をかき消さんばかりに、突風のような夜風がオレたちの背中をかすめていった。その夜風は思いのほか冷たくて、汗ばんだ体から微熱を奪っていくかのようだった。

「うー、肌寒くなってきちゃったね。・・・酔いも醒めたみたいだから、もう帰りましょうか。」

 腕をさすって寒さを紛らわしながら、歩道橋の階段を駆け下りていく麗那さん。この雰囲気からして、オレの台詞はどうやら、彼女の耳元まで届いていなかったのかも知れない。

「ふぅ。・・・やっぱり、しつこく聞けないよな、ははは。」

 オレは照れ笑いしながら、夜風になびく麗那さんの後ろ髪を追いかけていく。そして、階段へ足を踏み下ろした瞬間、渦巻くようなあの強い風が忽然と吹き止んだ。

 耳障りな雑音が消えた夜のしじまに、後ろ向きのままの麗那さんの声が小さくこだまする。

「マサくんの知りたがってる人、わたしのモデルの先輩よ。・・・今はもう業界にいないけど、わたしのモデルの師であり、目標にできる、この世でたった一人の素敵な人。」

 呆気に取られた顔で、その場に立ち止まってしまったオレ。かき消されたオレの言葉を、麗那さんは聞き漏らしていなかったようだ。

「もしかしてマサくん。わたしの言ってる人が男性だと思って、ずっと気になってたりしてー?」

 からかい半分に、麗那さんは目を細めて不敵な笑みで振り返る。オレは顔を真っ赤にして全面否定するも、勘の鋭い彼女のことだから、オレの胸のうちなどきっと見透かしていたに違いない。

 いろいろな意味でも価値のあった遠回りもようやく終わり、オレと麗那さんはルートを正してアパート目指して出発した。

「ジュリーさんも、そして麗那さんも、夢や目標に向かってがんばってるんだ。オレもがんばらなきゃ。」

 ジュリーさんと麗那さんの一生懸命な姿勢は、とても生き生きしていて輝かしい精彩を放っていた。そんな二人の姿に心を打たれたオレは、自分自身をもっと磨いていかなければと、この満天の星空を見上げてそう誓うのだった。

第七話は、これで終わりです。

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