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第二話 一.住人たちの日常

 オレは静かに目を開ける。見慣れない天井が視界に飛び込んだ。朦朧とした意識の中、オレはここが住み慣れていた自宅ではないことに気付く。

 部屋の窓から光線が入り込み、部屋全体が優しい明るさに包まれていた。それは、オレにとって東京二日目の朝を告げていた。

 ゆっくりと体を動かすと、チクッとした刺し込むような痛みが、オレの頭に襲ってきた。昨晩、不覚にもお酒を嗜んでしまったことが記憶に蘇る。歓迎会の主賓だったこともあり、オレはいつもよりも飲みすぎてしまったようだ。

 布団から起き上がり、大きく伸びをした瞬間、オレはあることに気付いた。

「・・・そういえば、オレ、普段着のまま寝ちゃったんだ。うわぁ、このYシャツしわくちゃだ。」

 しわのよったYシャツとGパンを脱ぎ捨てて、今更ながらと思いつつ、オレはリュックサックにしまってあった寝間着に着替えた。

 大きなあくびをしながら壁掛け時計を見てみたら、時刻は朝7時を回ったばかりだった。

「あ、そうだ。じいちゃんからもらったノートでも見てみるか。」

 入院中のじいちゃんから受け取った大学ノートに目を通すことにしたオレ。このノートには、管理人の心構えが書かれているそうだ。

 今日からオレは、ここ「ハイツ一期一会」の管理人代行として生活することになる。そのためには、管理人として何をすべきか把握しておく必要があるだろう。

「えーと、何が書かれているのかな。」

 オレはノートの表紙をめくる。一ページ目には、じいちゃんの筆跡で管理人の心構えが綴られていた。管理人として重要な責務を黙読するオレ。

「① アパートのいたるところの整理、整頓、清潔、清掃を怠るべからず。」

「② アパートの住人からの苦情、相談、依頼などに必ず耳を傾けるべし。」

「③ アパートの住人との触れ合い、コミュニケーションを大切にすべし。」

「④ 入院先に見舞いに来る際は、必ず手土産を持参するべし!」

 箇条書きで綴られた文章には、管理人として必要不可欠と思われる教訓が記載されていた。④は例外として。

 パラパラと他のページをめくっていくと、アパートの平面図や部屋の見取り図があったり、掃除道具の在り処や消耗品の購入先といった細かい情報まで載っている。じいちゃんの几帳面さが見て取れた。

「よし、管理人代行として担当する各場所を見てみよう。」

 オレはノートを握り締めて、寝間着姿のまま管理人室を後にした。


 =====  * * * *  =====


 オレは手始めに、管理人室の隣にあるリビングルームにやってきた。

 そっとドアを開けて、リビングルームへ顔を覗かせるオレ。だが、そこはもぬけの殻だった。いくら共同スペースとはいえ、月曜日の朝では誰もいないのもうなづける。

「ここは今更、確認しておくこともないだろう。」

 オレは早々に、次なる確認場所へ足を向けることにした。

 リビングルームから、一階の廊下を奥に向かって突き進むと、廊下沿いに倉庫のプレートが付いた部屋を見つけた。

 ドアノブを回してみると、ドアは施錠されていて開かなかった。オレはノートのページをめくり、この倉庫について調べてみた。

「倉庫には、夏用の扇風機や冬用の電気ストーブが片付けてある。住人が借用を求めてきた際は快く貸し出すこと。それ以外にも、いろいろなガラクタがあるが、あまり詮索しないこと。」

 いろいろなガラクタに興味が沸いたものの、オレは先を急ぐためそのまま通り過ぎることにした。

 さらに、廊下の奥に向かって歩き続けるオレ。突き当たりまで辿り着くと、非常口らしい頑丈そうな扉にぶつかった。

「ああ、ここはゴミ置き場になってるのかぁ。」

 ゆっくりと扉を開けると、そこには、スチール製のゴミ置き場が設置されていた。

 ゴミ置き場は、燃えるゴミとプラスチック系ゴミ、空きカンと空きビンを分別できるよう仕切りがされている。よく見ると、じいちゃんが手書きしたと思われるベニヤ板に、各分別ゴミの一覧や収集曜日が示されていた。

 それ以外には、特に目立ったものは見当たらなかったので、オレは重たい非常口の扉を閉めた。

「さてと、次は二階かな。」

 二階へつながる階段へ向かう途中、リビングルームに入っていく住人の姿が見えた。

 誰だろうと思って、オレはチラッとリビングルーム内を覗き込んだ。そこにいたのは、ピンク色のジャージ姿で、ボサボサの髪の毛をリボンで結んでいる四永潤であった。彼女は流し台のそばで、牛乳パックをラッパ飲みしていた。

 オレがいることに気付いたようで、潤は寝ぼけ眼で挨拶してきた。

「おはよぉ~・・・。」

「おはよう、潤。ははは、まだ寝足りない感じだね。」

 潤はしかめっ面で、こめかみに人差し指を突き立てている。彼女は寝起きらしい野太い声を搾り出した。

「うぅ~、寝足りないのもそうだけどぉ、頭痛くて痛くてぇ・・・。昨日、あたし、そんなに飲んだかなぁ。」

 どうやら、潤は昨日の記憶を断片的にしか憶えていない様子だ。お酒をニ杯飲んで眠りこけてしまったことや、オレがおんぶして、アパートまで送り届けたことは記憶にないようだ。

「マサは大丈夫ぅ?二日酔いとかじゃないの?」

「いや、オレも少しだけ残ってるね。足元がフラフラしてる。」

 二日酔いに利くと言わんばかりに、潤は牛乳を飲むよう勧めてくれた。

 オレは半信半疑のまま、潤から分けてもらった牛乳を一気に飲み干した。不快感が治まったわけではないが、多少なりとも、オレは頭の中がスッキリした気がした。

「ありがとう、潤。ちょっとだけ楽になったよ。」

 オレは潤にお礼を言いつつ、リビングルームを出ていく。彼女は大きく伸びをしながら、オレに手を振っていた。


 =====  * * * *  =====


 オレは二階へと向かった。アパートのニ階には、住人たちの自室と洗濯場がある。

 階段を上りきると、まずは、洗濯場の確認から始めることにしたオレ。

「へぇ、意外と広いな。」

 洗濯場は四畳半ほどの広さで、洗濯機がニ台と乾燥機が一台設置されている。頭上にある物干し竿には、洗濯バサミの付いたピンチハンガーがいくつかぶら下がっていた。

 洗濯場の奥の方には、わずかな明かりが差し込むガラス張りのドアが備え付けてあった。

「あれ、このドアってどこに出るんだろう?」

 カギを外して、オレはドアを開けてみた。すると、心地よい日差しに照らされた物干し場へとつながっていた。

 これだけ日当たりがよければ、洗濯物を干すには絶好の場所だろう。物干し場の隅には、小さなテーブルと椅子が置いてある。住人がここに座って、日向ぼっこや夕涼みでもしているのだろうか。

 ひと時の日光浴を楽しんだオレは、洗濯場の中へと引き返した。

「・・・それはそうと、ここって、気軽にオレが立ち入ってもいいのかなぁ。」

 よく考えてみたら、このアパートに暮らす住人はすべて女性だ。つまり、ここには住人たちの下着といった洗濯物がぶら下がることになる。オレが無闇にここへ来るとなると、あらぬ誤解を招いてしまうのではないか。

 しかし、管理人代行という立場上、整理整頓や洗濯洗剤の補充のため、ここへ入らないわけにはいかない。当然だけど、オレ自身の洗濯もここを利用しなければいけないのだ。

 洗濯場の光景を眺めながら、オレはその場でしばらく考え込んでしまった。

「何してるノ?」

「わぁぁ!?」

 突然、背後から声を掛けられて、オレはビックリ仰天で跳び上がる。慌てて振り向くと、チェック柄のパジャマを着た三樹田ジュリーさんが、たくさんの洗濯物を抱えて立っていた。

「あ、あの、管理人代行として、その、洗濯場の点検をしてまして・・・!」

「Oh、それは感心ネ。」

 慌てふためくオレを横目に、ジュリーさんは鼻歌交じりで、衣類などを洗濯機へ放り込んだ。

「す、すみません、今すぐ失礼しますね!」

 おろおろしながら、この場から退散しようとするオレ。そんなオレを見て、ジュリーさんは不思議そうな顔をしていた。

「マサ、何を慌ててるのヨ?洗濯場の点検で来たんでしょウ?わたしに構わず、コンティニュー、続けていいわヨ。」

「で、でも、女性が洗濯しているところに、男性のオレがいるのはどうかと思いますが・・・?」

 そんなオレのためらいを、ジュリーさんは高らかに笑い飛ばした。

「ハハハ。ここは共同の洗濯場ヨ。そんなこと気にしてる住人なんて、ここにはいないワ。マサって、見た目以上にピュアなのネ!」

 確かにジュリーさんの言う通りだった。住人たちにしてみたら、じいちゃんがオレに代わっただけだから、気にするレベルではないのだろう。ただ、何も警戒しないのも問題だと思うけど・・・。

「でも、ジュリーさん、もし、もしもですよ?干していた下着とか、その、なくなっていたら・・・。」

「そうなれば、みんな、マサを疑うでしょうネ。フフフ。」

 意地悪っぽくそう言うと、ジュリーさんは微笑しながら、いそいそと洗濯機を操作していた。

 前日のように拘束されるのはまっぴら御免とばかりに、オレはお邪魔しましたと言いながらその場から退散した。


 =====  * * * *  =====


 いよいよ、オレは住人たちの自室の前までやってきた。もう部屋に誰もいないかのように、辺りは物音や声が一切なく、不思議なほどに静まり返っていた。

 このアパートには、住人向けの部屋が全部で六部屋ある。現在、住人は四名なので、空き部屋がニ部屋あることになる。

 じいちゃんのノートを見てみると、空き部屋も月ニ回は掃除するよう指示されていた。

「空き部屋まで掃除が必要なのか。管理人ってもの大変なんだな。」

 オレがノートを確認しながら歩いていると、ある部屋から住人がふらっと姿を現した。丈の長い真っ黒なネグリジェを着た五浦あかりさんだった。

「あら。」

「あかりさん、おはようございます。」

 あかりさんは低血圧なのか、血の気がない顔で挨拶した。

「こんな時間に、ここで何をしてるの?」

 訝しげな目をしているあかりさんに、オレはここへ訪れた事情を説明する。

「みなさんのお部屋を確認してたんですよ。管理人代行として、必要最低限のことは把握しておかないといけないと思って。お部屋までお邪魔しませんから。」

「ふーん、そう。」

 表情を変えないまま、あかりさんはオレの横をすり抜けていった。

 あの素っ気ない態度からして、あかりさんはオレのことをまだ警戒しているのかも知れない。昨日、初めて出会ったのだから無理もないけど。

 倒れないようにと心配してしまうほど足元をよろめかせながら、あかりさんは階段を下りていった。

「えーと、部屋割りはどうなっているのかな。」

 住人たちの部屋割りをチェックするオレ。階段を背にして、一番手前がジュリーさんの部屋、その隣が潤の部屋だ。潤の向かい側にあかりさんの部屋があり、そして、あかりさんの部屋の奥隣にあるのが、二ヶ咲麗那さんの部屋である。

「よし、二階もこんなところかな。」

 見るべき箇所を一通り確認し終えて、オレは管理人室へと向かう。その途中の階段で、目元を手で擦りながらあくびをする潤とすれ違った。

「これから二度寝するぅ~。おやすみぃ~。」

 締まりのない声でそう言うと、潤はのそのそと自室へと帰っていく。ごゆっくりと声を掛けて、オレは彼女を見送った。

 管理人室へ戻る途中に、一階の共同トイレや玄関などを軽く見回って、オレは担当する箇所の確認を終了した。


 =====  * * * *  =====


 オレは管理人室にいた。近所のコンビニエンスストアで買ったから揚げ弁当を広げて、オレは手軽な昼食を済ませることにした。

 管理人代行としてスタートしたものの、本来のオレは、来春大学入学を目指す受験生でもある。管理人の仕事が終わったからといって、遊び呆けているわけにはいかないのだ。

「そういえば、あの参考書、ちゃんと持ってきてるよな。」

 オレはごはんを頬張りながら、リュックサックのポケットをまさぐる。そして、古びた一冊の参考書を取り出した。

 この参考書は、現役、一浪、そして二浪中の現在も大切にしていて、とても愛着がある。至る箇所にメモを残し、重要項目にはアンダーラインを引き、難しい漢字にはルビを振ったりして、表紙の色があせ落ちるほど使い尽くしている。

「でも、そろそろ新しい参考書も必要かな。」

 機会があれば書店に立ち寄って、新しい参考書でも見に行こう。オレはそんなことを考えながら、使い古した参考書を片付けた。

「そうだ、システム手帳も持ってきてるよな?」

 次に、オレはリュックサックからシステム手帳を取り出した。

 この手帳は、今年の春に親戚からもらったものだ。自分自身への励みのため、オレは勉強スケジュールをこのシステム手帳にびっしり書き綴っていた。

 そのスケジュールを確認する意味も込めて、システム手帳を見開くオレ。そして、4月、5月、今月6月のページを順番にめくっていった。

「うーん・・・。ぜんぜん、書いた通りに進んでない気がするぞ。しかも、今日からアパートの管理人の仕事と二足のわらじだもんなぁ」

 このままでは、来年の春も夢破れる事態になり兼ねない。浪人生活に終止符を打つためにも、気を緩めた生活を終わりにしなければ。

 オレは鉛筆を手にして、これからの学習スケジュールを手帳に書き込み始める。午前中は管理人の仕事、午後は予備校で受講、そして夜を中心に予習復習をする日程を組んでみた。これなら、時間的余裕は少ないけど、何とか両立できるだろう。

「・・・でも、いきなりこんな過密スケジュールで、うまくやっていけるのかなぁ。」

 思いつきの学習スケジュールを眺めながら、オレはつい怖気づいてしまった。あまりにも根詰めて、自分自身を追い込んだとしても、よい結果になるとは限らない。

 結局オレは、無理のない学習スケジュールに修正することにした。

「よし、まずはこんな感じで始めてみよう。」

 そうつぶやきながら、オレは鉛筆とシステム手帳をリュックサックにしまい込む。最後のから揚げを口いっぱいに詰め込んで、オレはごちそうさまを告げた。


 =====  * * * *  =====


 昼食を済ませたオレは、弁当の容器を捨てようとリビングルームへ向かった。

 このアパートには、プラスチック系のゴミ箱がリビングルームにしか備わっていない。ゴミの分別にうるさい東京では、これぐらいの工夫は当り前のことらしい。

 丁度、リビングルームのドアの辺りまでやってくると、室内から何やら音声が漏れていた。どうやら、テレビから流れる音声のようだ。

「誰かいるのかな。」

 オレがそっとリビングルームを覗き込むと、オレンジ色のスウェットを着こんで体を動かしているジュリーさんがいた。ブロンドヘアーを揺らしながら、彼女は前後左右に上体をくねらせている。

「あの、ジュリーさん、何してるんですか?」

 遠巻きに声を掛けるオレに、ジュリーさんははつらつとした表情で振り返った。

「Oh、マサ。ランチ後のストレッチングね。」

 ジュリーさんは汗をにじませて、さわやかな笑顔でそう答えた。

「どうしてここで?自分のお部屋でやればいいのに。」

「わたしの部屋じゃ、狭いんだもの。リビングなら、目一杯足を伸ばせるからネ。」

 テレビを見ながらストレッチを続けるジュリーさん。オレはゴミを片付けると、彼女のストレッチを眺めていた。

 やわらかく折れ曲がる細い腰に、しなやかに伸びるスラッとした脚、ジュリーさんの身体はとても柔軟だった。申し分のないプロポーションなのに、彼女はダイエットでもしているのだろうか。

「ジュリーさん、それってダイエット目的ですか?」

「No、違うヨ。シェイプアップが目的ネ。ストレッチはわたしの日課ヨ。」

 ジュリーさんの言う通り、これほどのスタイルならダイエットなんて無縁だろう。

 リズミカルに、ジュリーさんは立位体前屈を始める。彼女は両足の間から、逆さまの顔を覗かせた。

「わたしネ、昔はとってもおデブだったのヨ。だから、気を緩めると、すぐに昔の体型に戻っちゃうノ。」

 ジュリーさん曰く、ある出来事をきっかけにダイエットを始めたという。努力した結果、理想の体型を手に入れたものの、それを維持することに苦労しているそうだ。

 女性だけではなく男性もそうだが、一度ダイエットしてからのリバウンドは、より太りやすい体質に変わってしまう。オレは一度もダイエットらしいことは試してないが、そんな話だけはテレビなどでもよく耳にしていた。

「ジュリーさん、ダイエットを始めた理由って何だったんですか?」

 オレがそう尋ねると、ジュリーさんはゆっくりと前屈姿勢を起こして、今度は屈伸運動を始めた。

「フフフ、女の子だったら、みんな理由は同じでしょウ?美しくなって、いい男をゲットするために決まってるじゃなイ。」

 ジュリーさんはそう答えると、美しくなった自らのスタイルに胸を張っていた。

 その美しさで、いい男をゲットできたかどうかオレが問いかけると、ジュリーさんはノーコメントよとはぐらかしてしまった。

「それはそうと、マサ、あなたも運動不足解消にどう?ストレッチングの指導ならできるわヨ。」

「そうですね・・・。今度、勉強の合間にでもやってみようかな。その時は、よろしくお願いしますね。」

 アドバイスなら任せなさいと、ジュリーさんは弾んだ声を上げていた。

「よーし、おしまい!」

 深呼吸でストレッチングを締めくくったジュリーさん。彼女はスポーツタオルで顔の汗を拭き取った。

 オレの横を通り抜けて、冷蔵庫からペットボトルを取り出すと、ジュリーさんは浴びるような勢いでお茶をがぶ飲みした。

「わたし、これからバイト行くネ。グッバーイ。」

「あ、いってらっしゃい。」

 スポーツタオルを首に巻きつけて、小さめのポーチを手にしたジュリーさんは、小走りでリビングルームを出ていく。その足で玄関へ向かったところを見ると、恐らく彼女は、着替えないままアルバイト先へ出かけた模様だ。汗で体が冷えて、風邪など引かなきゃいいけど。


 =====  * * * *  =====


 その日の午後3時過ぎ、オレはブラブラと、駅西口付近の市街地を歩いていた。

 じいちゃんが入院している「胡蝶蘭総合病院」に立ち寄って、これから通うことになる予備校へ寄り道し、オレはアパートへ帰る途中だった。

 じいちゃんは昨日以上に元気で、お土産に持っていったビーフジャーキーをおいしそうにかじっていた。70歳代のご老体でありながら、あれほどの頑丈な歯と顎を持つじいちゃんは、まさに現代の驚異と言えるだろう。

 もう一方の予備校は、アパートから歩いても30分圏内で、徒歩で通うには容易な距離だった。今日は簡単な手続を済ませるだけで、書類や時間割などを受け取るために立ち寄っていた。

「それにしても、今日はいい天気だなぁ。」

 気持ちがいいほど天気もよく、心地のよい昼下がりだった。

 今年の6月は空梅雨なのか、ここ数日いい天気が続いている。今日は昨日に比べると日差しが強く、初夏の陽気を感じさせるほどだ。

 その暑さのせいか、時折、半袖姿の人々とすれ違った。オレはトレーナーの袖をまくり上げて、季節外れの暑さを紛らわせていた。

「お?」

 商店街の一角にある書店を見つけたオレ。地元に根付いた感じで、いかにも、昔ながらの本屋という佇まいのお店だった。

 その本屋の軒先には、漫画雑誌や流行の雑誌などが人目を引くように並んでいる。

「そうだ、何かいい参考書あるかな。ちょっと寄っていこう。」

 そんなことを思いながら、オレは書店の入口へ近づいた。

「!」

 ある雑誌の表紙が横目に映って、オレは入口のそばにある書籍棚の前で立ち止まった。

 ポップな書体でプリントされた”Lavie”というタイトルの雑誌に、見覚えのある女性が写っていた。

「麗那さんだ!」

 おしゃれな衣装を着こなした麗那さんが、その雑誌の表紙で華麗なポーズを決めていた。綺麗なメイクを施して、雑誌の表紙を飾っている彼女は、アパートにいる時の彼女よりも華やかで艶やかだった。

 そんな麗那さんについ見惚れながら、オレはその雑誌を手にした。

「麗那さん、本当にファッションモデルだったんだ。」

 麗那さんは紛れもなく、自他共に認めるファッションモデルだった。微笑みを振りまく彼女はまさしく、ファッション業界で活躍する優美なヒロインのようだ。

 心躍らせながら、オレはその雑誌の表紙をめくる。目次に目を向けると、麗那さんの名前がいくつか載っていた。

「麗那のオススメデートファッション、アイテム紹介」

 麗那さんの特集コーナーに目を奪われたオレ。そのコーナーでも、彼女の魅力は際立っていた。

 若い女性読者たちはみんな、麗那さんのファッショナブルな着こなしに憧れてしまうだろう。そんな彼女のオーラは、男性たちまでも釘付けにするぐらいのカリスマ性を持っていた。

「・・・。」

 ファッション雑誌をまじまじと眺めていたオレは、異様とも思われないその行動に気が付き、恥じらいながら雑誌を閉じた。

「それにしても・・・。」

 昨晩一緒に食事をしながら、他愛もない会話を楽しんだ相手と、まさかこのような形で出会うことになるとは。あまりにも現実離れしていて、オレは何とも不思議で複雑な気持ちだった。

 そんなことを思い浮かべながら、オレはもう一度、表紙の中の麗那さんの笑顔を見つめていた。

「こうやって見てみると、麗那さん、綺麗だなぁ。写真うつりもいいし、輝いて見えるもん。」

「・・・そんなことないと思うよ。これはカメラマンの才能だもの。モデルの素材なんて、たいしたことないよ。」

「いやぁ、オレは素材は完璧だと思いますけど・・・って、あれ!?」

 背後から、オレのコメントを否定する声が聞こえた。びっくりしたオレは、慌てて後ろに振り向く。

 オレの目の前には、つば広帽子を深くかぶり、黒斑のサングラスを掛けた一人の女性が立っていた。浅葱色のカーディガンと花柄のワンピースがよく似合う美しい女性だった。

 その女性は口元を緩めると、指先でサングラスをちょこんと動かした。すると、彼女の愛らしい瞳がオレを見つめていた。

「れ、麗那さん!!」

「しっ!静かに。他の人たちに聞こえちゃうでしょ。」

 あまりにも唐突な出会いに、オレは思わず大声を上げてしまった。その声が周囲に漏れないように、麗那さんはすぐさま、右手を伸ばしてオレの口を塞いだ。

「ごめんね、驚かせて。マサくんがLavieを見てるから、つい声掛けちゃった。」

 そう小声でつぶやきながら、麗しいウインクをした麗那さん。ファッション雑誌の表紙を飾るモデルを目の当たりにして、オレはただただ驚愕の表情を浮かべるしかなかった。

「あ、いや、これはその、たまたま参考書を見てみようと思って立ち寄ったら、偶然、この雑誌に目が行っちゃって。ははは、まさか、麗那さんが、という感じで。」

 あまりにも恥ずかしくて、オレは顔を真っ赤にしながら弁明した。

 大慌てのオレが、手にしていた雑誌を元の場所へ戻す姿を見て、麗那さんはクスクスと笑っていた。

「なーんだ、買ってくれるんじゃないの?残念だなぁ。」

「ま、まさか、オレが女性向けのファッション雑誌買うなんて。あ、ありえませんよぉ。」

 ファッション雑誌に興味がないわけではないが、勘違いされまいと、オレは真っ向と否定した。

「そう?そんなことないと思うよ。」

 サングラスを掛け直して、麗那さんはオレが戻した雑誌Lavieを手に取った。

「最近の男子はこういう雑誌を見るんだよ。彼女にアドバイスしたりとか、あと、モデルさんのファッションチェックして、最近の女の子の流行を知ろうとするんだって。雑誌の投稿とかもね、男子からもたくさん来るんだから。」

 そう言うと、麗那さんは誇らしげな顔をしながら、雑誌を元の場所へと戻した。

「フフフ、読者になれとは言わないけど、興味があれば、参考にしてみたら?」

「ははは、け、検討してみます。」

 ファッションショーのモデルのごとく、麗那さんは颯爽と身を翻した。彼女曰く、これからアパートへ帰るとのことだった。

「日中の仕事が終わったから、夜の仕事前にいったんアパートに戻って、シャワーを浴びて着替えるの。」

 そう付け加えて、麗那さんはオレのもとから去っていく。さすがはモデルを生業にしているだけあって、歩きゆくその後ろ姿まで優雅でしなやかだった。

「さてと、どうするかな。」

 突然の麗那さんの登場で、オレは本来の目的だった参考書のチェックをすっかり忘れていた。

 店内に入るか入らざるべきか、オレはその二択に悩み始める。どうしようか迷いながら、なぜかオレは、ファッション雑誌Lavieを手にしてしまった。

「ん?変なシワがあるぞ。」

 オレの手に伝わった違和感。どうやら、汗をかいた手で握り締めたせいで、雑誌の紙質が変形してシワができてしまったらしい。こうなってしまうと、オレは犯人として罪を償う必要があるのではないだろうか。

 悩ましくも、ちょっと微笑ましく、オレはその雑誌を手にしたまま書店の中へと向かった。

「いらっしゃいませー、600円になりまーす。」

 若い女性店員に代金を支払ったオレ。その店員の視線など目も暮れず、オレは紙袋に包まれた雑誌を覆い隠しながら、逸る思いで書店を飛び出していった。


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