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第六話 一.暗闇に隠された真実

 数日後の朝のこと。降水確率ゼロパーセントを予感させる、そんな澄み渡る快晴の朝だった。

 平日の朝にも関わらず、リビングルームには主要な面々が集合していた。それもそのはずで、連絡事項があるからと、オレがここへ集まるよう事前に知らせておいたのだ。

 リビングルームにはオレの他に、寝ぼけ眼の潤、低血圧のあかりさん、そして、朝から元気いっぱいの奈都美という顔ぶれが揃っていた。

 ただ一人欠席となってしまった麗那さんは、仕事のために朝早くから出掛けていたため、彼女には昨日夜のうちに、大雑把ながら話だけは済ませておいた。

「ねぇ、連絡ってな~にぃ?あたし、眠いんだけどぉ。」

「こんな早くから呼び出すぐらいだから、それなりな話なんでしょうね?」

 寝起きのせいか、気だるそうな顔で髪の毛をいじっている潤。あかりさんも、マグカップを持つ手に力が入っていない様子だった。

 急き立ててくる彼女たちを前にして、オレは気取ってコホンと一つ咳払いをした。

「連絡事項は二つあります。まず一つ目は、ジュリーさんのことです。」

 プロのボーカリストを目指して、住み込みの養成所へ行くことになったため、しばらくの間、ジュリーさんは部屋を留守にすることになった。麗那さんと打ち合わせた通り、オレは他の住人たちにそう伝達した。

 連絡先や所在地もトップシークレットであり、厳しく長い訓練になるだろうからと、オレはジュリーさんへの連絡を極力自粛するよう付け加えた。

「へぇ~、いよいよ始動したんだねぇ。ジュリー、歌うまいもんねー。」

「もう未練はないって言ってたけど、やっぱり諦め切れなかったのかしら。」

 潤とあかりさんは穏やかな笑みで、ジュリーさんの決断を称賛していたが、それと同時に、ルームメイトとしばらく会えなくなる寂しさもほのかに匂わせていた。

 あまり詮索されたら困るので、オレは話題を変えようと、もう一つの連絡事項について触れる。

「そして二つ目なんですけど。・・・これは、奈都美から話した方がいいのかな。」

 オレが目配せすると、奈都美は顔をポリポリ掻きながら立ち上がった。どんな発表があるのかと、潤とあかりさんはその様子を見守るように伺っている。

「あたしね、今日からまた、しばらくこのアパートでご厄介になるの。いろいろ面倒掛けるけど、よろしくお願いしまーす!」

 声高らかにそう発表すると、奈都美は姿勢正しくお辞儀をした。

 あまりにも突発的だったのか、潤とあかりさんは口を開けたまま呆気に取られている。この事態が飲み込めず、二人はお互いの顔を突き合わせていた。

「あの~、お二人とも、奈都美のこと嬉しくないんですか?」

 オレが恐る恐る問いかけると、潤が椅子をひっくり返すように立ち上がり、奈都美のところまで勢いよく駆け寄っていった。

「うっそぉー、マジでー?何で?どうしてぇ!?」

 奈都美の腕にしがみついて、興奮気味にはしゃいでいる潤。あかりさんもほころんだ顔で、喜びに沸く彼女たちを見つめていた。

「お、落ち着いてよ、潤。これから、詳しいこと話すから。」

 プロサッカー選手として再出発したことをきっかけに、居候先だった弁当屋から引っ越すことを決意した奈都美。転居先を見て回ってみたが、家賃という出費の金策に難点もあって、散々悩みぬいた末、このアパートの門を叩いてしまった。そう振り返りながら、彼女は恥らうようにはにかんでいた。

「びっくりしましたよ。じいちゃんから先に根回ししてたんですからね。行き当たりばったりかと思ったら、案外、計画的だったんですから。」

 何はともあれ、潤もあかりさんもとても嬉しそうだった。ジュリーさんがしばらく留守になるだけに、嬉しい感情がより一層大きかったのかも知れない。とりわけ、潤は奈都美と同い年ということもあって、その喜びもひとしおだった。

「あんまり会えなくなるって思ってたけど、また奈都美と一緒に暮らせるんだねぇ。」

「でもね、潤。ずっと、このアパートにお世話になるわけじゃないんだ。」

 奈都美はあくまでも一時的な居候だと強調する。プロとして実績を積んで、チーム内で活躍できるようになった暁には、本拠地の方へ転居するつもりだと目標を掲げた。

「これから合宿に入るとさ、ほとんど向こうの合宿所泊りだし、土曜日の夜から日曜日だけしかここにいないんだよね。だから、潤と一緒にいる時間ってあんまりないんだよ。」

「え~、それじゃあ、今までとほとんど変わんないじゃん!なーんだ、残念、寂しいんだぁ。」

 日曜日は一緒に遊べるじゃないと、あかりさんは落胆している潤を慰める。オレや奈都美本人からも励まされると、潤はウキウキ気分で楽しそうに振舞っていた。

「そんなわけで、みなさん。今日からしばらくの間、どうかよろしくお願いしまーす。」

 住人たちに暖かく迎え入れられて、新たな入居者としてアパートの仲間に加わった奈都美。微笑ましく手を取り合う住人たちを眺めながら、オレの気持ちは居心地のよい和やかさに包まれていた。


 =====  * * * *  =====


 その日の夜、空を覆う夕闇を打ち消さんばかりに、ネオンサインが駅周辺を眩しいぐらいに輝かせている。楽しい晩餐のために帰宅を急ごうと、駅構内は仕事上がりの会社員たちで埋め尽くされていた。

 駅西口の繁華街でひっそりと営業している「串焼き浜木綿」。話し相手欲しさに、オレは夕食がてら一人お店まで足を運んでいた。

 みなぎる活気でもてなしてくれたマスターに、愛想よく迎え入れてくれた紗依子さん。オレたち三人は、雑談しながらゆったりとした時間を過ごしていた。

「本当にびっくりしちゃったわ。ジュリーがプロになるために、アパートから出ていったなんて。」

「でも寂しいねぇ。ジュリーがいないと意欲がわかないっていうか、張り合いがないっていうか。」

 紗依子さんとマスターはそうつぶやき、空いているカウンター席を見つめている。その席は、ジュリーさんがいつも座っている特等席だった。

「マスターったらもう。その言い方じゃあ、ジュリーをただの収入源として見てるように聞こえますよ?」

「いや、そうじゃないよ。ほら、ジュリーの注文はオレの自慢料理が多いからさ、やり甲斐があったんだよ。サエちゃん、そんなにいじめないでくれよ~。」

 困り顔で髪の毛を掻きむしるマスターを見て、オレと紗依子さんは顔をほころばせていた。

 ジュリーさんについては、すでに麗那さんから知らされた後だったらしく、オレが来店するや否や、いきなりその話題を切り出してきた二人。具体的な事情を聞いた二人は戸惑いつつも、前向きな決断だからと応援する思いで受け止めていた。

「そうそうそう。麗那から聞いたんだけど、ジュリーの入れ替わりに、奈都美が引っ越してきたそうね。」

「そうなんです。だけど、チームで本格的に活躍するまでの間なんですけどね。それまでは、いわゆる居候という立場なわけで。」

 奈都美がアパートへやってきた背景を聞くと、マスターも紗依子さんも、唐突でかつ短絡的なところが彼女らしいと苦笑していた。

 住人たちの話題で談笑しながら、オレは今夜の夕食にありつく。香ばしく焼けた焼き魚と小鉢に入った煮しめを味わいながら、オレはふっくらしたおにぎりを頬張った。それらは慎ましくも、オレにとって贅沢なごちそうだった。

「麗那、相変わらず早朝から仕事だったんでしょう。わたしなんて、今朝、彼女からのメールで目覚めちゃったもの。」

「昨日も夜9時ぐらいに帰ってきましたからね。・・・だから、体調崩さないかどうか心配なんですよ。」

 麗那さんの場合、仕事をしていた方が体調も優れるだろうと、紗依子さんは根拠のない持論を展開して、麗那さんの健康を危惧するオレを安心させようとしてくれた。

「・・・。」

 オレはこの時、昨夜の麗那さんとの会話を思い浮かべていた。どうして、こんなに仕事をがんばれるのか、その理由を求めた時に、彼女がポロッと漏らしたあの一言を。

「麗那さんがいつもがんばれるのって。・・・誰かのためらしいんです。」

「へ?」

 オレが独り言のようにうつろな声で囁くと、紗依子さんは驚きのあまり唖然としていた。

「昨夜、麗那さんがそう話してました。紗依子さんは親友だから、もしかしたら、その人のこと知ってるんじゃないかと思って。」

 興味をそそられたのか、オレたちの会話に首を突っ込んできたマスター。

「お、その人って、麗那ちゃんの大切な人か何かじゃないの?サエちゃん、知ってるなら教えてよ。」

 マスターにしつこく詰め寄られて、紗依子さんは顔を引きつらせて困惑している。知らん顔を決め込んで、彼女は何とかこの場を取り繕うとしていた。

「あ、食器のお片づけが残ってたわ。それじゃあ、失礼しますねー。」

 口がすべるのを恐れるあまり、紗依子さんは流し場の方へと逃げていってしまった。

「う~ん、見事にはぐらかされてしまったようだね。」

「みたいですね。・・・秘密にしなくちゃいけない理由でもあるんでしょうか。」

 あの素振りから、紗依子さんが内緒にしているのは明らかだったが、麗那さんの私的なことに首を突っ込むわけにもいかず、オレはこれ以上、紗依子さんを問いただすことはできなかった。

 オレからの尋問は結局空振りに終わってしまい、悲しくも、オレは昨夜よりもやきもきする格好となってしまった。

 賑やかな紗依子さんが隠れたせいで、店内はひっそりと静まり返っている。お客がオレ一人だからそれも無理はないのだが。

「マサくん、ビール一杯飲んでいくかい?」

「食事の後だから、今夜は遠慮しておきます。」

 手を合わせてごちそうさまを告げると、オレは本日のお勘定を済ませようとする。ズボンのポケットから財布を取り出して、寂しい中身を探っていた丁度その時だった。

 どうやら新たなお客様のご来店らしく、ネクタイを緩めたサラリーマン風の男性たちが騒々しい声と一緒に入ってきた。彼らはすっかり上機嫌で、肩を組みながらカウンターのところまでやってきた。

「マスターご無沙汰ぁ、顔見せに来たよー。」

 男性たちはマスターとは顔見知りらしく、久しぶりの対面だったようだ。

「何だよ、まだこんな早い時間なのに、もう酔ってるのかい?」

「いやね、すでに一軒目で盛り上がっちゃって、ここは二軒目なんだよー。」

 ニコニコと笑いながら、男性たちは揃って声を弾ませていた。

 聞くところによると、男性のうちの一人が難関と言われる国家試験に合格したそうで、今夜はそのお祝い会を催していたという。

 お酒のペースも上がり、一次会では飽き足りないとばかりに、全員一致で二次会へ躍り出ることになって、ここ浜木綿へ辿り着いたというわけだ。

「というわけでマスター。今夜はもうひと盛り上がりさせてねー。」

 そう言い切ると、男性たちはカウンター席へと腰を下ろした。すぐさま特級の日本酒を注文するなり、男性たちはマスターだけではなく、同じくカウンター席に座るオレにまでお酒を振舞おうとした。

「あ、オレは結構ですよ。もう引き上げるところですから。」

 オレがやんわり遠慮すると、すぐ隣に座った男性が寂しげな目で、一緒にお祝いしてほしいと求めてきた。見ず知らずの方だけに無碍に断ることができず、オレはマスターの方へ顔を向けて救済を迫った。

「マサくん。気前のいい連中だからさ、今夜は一杯だけ付き合ってやってくれないかな。」

 そう言いながら、詫びるような仕草をしているマスター。このまま断っては、気まずい空気を残して帰ってしまいそうなので、オレはやむなく同席者からのもてなしを頂戴することにした。

「合格のお祝いですもんね。オレも来春に大学合格を目指す受験生だから、あやからせてもらおうかな。」

 オレの一言を聞いて、男性たち数人がすぐさま声を掛けてきた。受験生だった過去を振り返り、彼らはオレの気持ちに共感してくれたようだ。

 合格祝いと合格祈願のための乾杯だと歓声を上げる男性たち。日本酒のグラスを高々と掲げる中、日本酒が苦手なオレはお酒を生ビールに変えての乾杯だった。

「それじゃあ、カンパーイ!」

 日頃からの憂さを晴らさんばかりに、男性たちはみんな陽気に騒ぎ始める。オレもマスターも、そして、洗い物を終えて戻ってきた紗依子さんすら、その楽しい雰囲気にすっかり引き込まれてしまった。

 どの大学を目指しているのかと根掘り葉掘り尋ねられて、オレはたじたじとしながらも、面識のない人たちとの交流はとても新鮮で心地よかった。

 楽しい時間は瞬く間に過ぎていくもの。調子に乗ったオレが浜木綿を後にした頃には、時刻はすでに夜10時を回っていた。


 =====  * * * *  =====


 季節外れの強い風が吹く中、オレはアパートへ向けて足を速める。上空は薄い雲に覆われているせいか、綺麗な月や星はすっかり輝きを失っていた。

 夜も更けてゆき、家並みから少しずつ明かりが消えていく。街路に落ちる電灯の明かりを道しるべに、オレは静まり返った帰り道を脇目も振らずに進んでいった。

 十数分ほど歩き続けてアパートへ到着した時、窓越しから眺めたリビングルームは、誰もいないのか真っ暗だった。腕時計のデジタル表示は夜11時近く、誰もいないのもうなづける時刻だろう。

「ふぅ、麦茶一杯飲んでから寝よう。」

 飲酒量は多くはなかったものの、この蒸し暑さからくる渇きのせいで、オレは軽めの脱水症状に陥っていた。

 玄関で靴を脱ぎ捨てるなり、管理人室をそのまま通り越したオレは、リビングルームまで辿り着きドアを恐る恐る開けてみた。

「誰かいますかー?・・・っているわけないか。」

 当たり前のことだが、室内に人の気配はなかった。この生暖かさからして、しばらくの間、エアコンの冷房は作動していなかったのかも知れない。

 グラスを持ち出して、冷蔵庫で冷やしておいた麦茶ボトルを手にしたオレ。すると、まるでオレの帰りを待っていたかのように、麦茶がボトルいっぱいに満たされたままだった。奇跡的にも、住人たちに奪われるという憂き目にあわずに済んだようだ。

「いただきまーす。」

 オレは待望の一杯をあっという間に飲み干した。もちろんこれだけでは物足りず、オレはためらうことなく、二杯目の麦茶をグラスに注ぎ込んでいた。

「おいしいなー。夏といったら、やっぱり麦茶だよね。」

 二杯目の麦茶を飲み終えると、オレは使い古した麦茶のティーパックを捨てようする。

 燃えるゴミ専用のゴミ箱を覗き込んでみると、誰の仕業かは定かではないが、チラシらしき紙切れが詰め込まれていて満杯状態となっていた。

 オレはふと、燃えるゴミの収集日を確認してみた。丁度よく、ゴミの収集は明日の朝にあるようだ。

「面倒くさいけど、今のうちにゴミ置き場に捨ててこよう。」

 これも管理人代行の使命感というヤツか、すぐにも床につきたいほど眠いのに、オレは溢れんばかりのゴミの片付けを始めてしまった。

 パンパンに詰まったゴミ袋を抜き取って、新しいゴミ袋に取り替えると、溢れ出ないよう口をしっかり締めて、オレは捨てるゴミ袋を抱えるように持ち上げた。

「おっと、このまま部屋に戻るから照明も消していこう。」

 リビングルームの室内灯を消したオレは、ゴミ置き場のある非常口を目指して歩き出した。

 寝静まったような無音の廊下を歩いていくオレ。リビングルームから非常口はそんなに離れてはいないが、薄暗さからくる閉塞感のせいだろうか、いつもよりも距離が遠いように感じられた。

 眠たい衝動と戦いながら、オレはようやく非常口まで到着した。頑丈そうな扉を開放して、オレは夜中の暗闇の下へと足を踏み出した。

「・・・これ開けたら、また猫が飛び出すなんてことないよなぁ?」

 オレはそうつぶやき、鉄扉でがっちり塞がれたゴミ置き場を見つめている。今思えば、あのぶち猫との出会いはこのゴミ置き場だったような気がする。

 警戒しながら、オレはゴミ置き場の鉄扉をゆっくりとこじ開ける。言うまでもないが、この中から得体の知れない何かが飛び出してくることはなかった。

 抱えてきたゴミ袋をゴミ置き場に放り込むと、これでおしまいと言わんばかりに、オレは鉄扉を閉じてきちんとふたをした。

「ふわぁ、これでようやく眠れる。明日寝坊しなきゃいいけど。」

 そう言いながら、オレは大きなあくびをしつつ上空を見上げる。

「おお。・・・いつの間にか、星空が。」

 オレの頭上のはるか彼方に、さっきまで見ることができなかった満天の星空が広がっていた。強風で雲が押し退けられたのか、星だけではなく、銀色に輝く丸いお月様まで清らかに光っている。

 東京の星はとても遠いというが、アパートの周辺が暗くなったおかげで、今夜の星たちはいつもよりも鮮明に輝いていた。

「もうちょっと、よく見える場所ないかな。」

 ここゴミ置き場の辺りは、隣接する住居や大木が影となってしまい、星空観賞という点では芳しくない。オレは玄関側の外壁の隅っこまで移動して、星空をまじまじと眺めることにした。

 夏の夜空に浮かぶ星座を見上げながら、オレは幻想的にもロマンチックな気分に浸っていた。自然が織り成す芸術作品に目を奪われて、つい夢中になって時が過ぎるのも忘れてしまうほどだ。

「・・・え、誰か来た!?」

 突然のことだった。非常口の扉が開くようなきしむ音がしたので、オレは条件反射で、外壁の隅っこに身を隠してしまった。

 気付かれないよう息を潜めつつ、オレは非常口周辺を目を凝らして見据えてみた。

 わずかに開いている扉の隙間から、何者かがこちら側に顔を覗かせている。月光の薄明かりに照らされて、その人物が住人の一人であることはぼんやりながら認識できた。

 その住人は周囲を見渡しながら、忍び足でゴミ置き場の前までやってきた。

「・・・単なるゴミ出しか。びっくりしちゃったよ、もう。」

 ホッと胸を撫で下ろし、心の中でそう囁くオレ。このまま姿を隠し続けて、オレはこの場をやり過ごすことにした。

「・・・あれ?様子がおかしいな。」

 どういうわけか、その住人はゴミを捨てることなく、オレが潜んでいる外壁とは逆の方角へと向かっていく。ゴミを捨てる以外に、いったいどんな理由でここへやってきたのだろうか・・・。

 その住人は行き止まりに突き当たると、管理人代行のオレでも立ち入ることのない、アパートの死角へと消えていった。

 挙動不審な住人を目の当たりにして、オレは動揺を隠せずじっとしたままだった。出ていこうにも出ていけず、身動きを取ることすらできずにいた。

「あんなところに入って、何をしているんだ・・・?」

 緊迫感と蒸し暑さのせいで、オレの額から汗が滴り落ちてくる。背中まで汗でグッショリと湿ってしまい、オレの不快指数は最高値を極めていた。

 体をすくめたまま、事の成り行きを見届けようとするオレ。わずか2分ほどだったものの、住人が再び姿を見せるまでの間、異様なほど時間が流れたような気がした。

 ゴミ置き場の鉄扉を開けることなく、アパート内へと帰っていった住人。これで、ここを訪れた目的がゴミ捨てではないことが明らかとなった。

「ここは管理人代行として、何をしていたのか確認しておくべきだろう。」

 そう独り言を漏らしつつ、オレはゴミ置き場を素通りして、未知なる死角へと足を踏み入れる。月明かりにぼんやりと照らされたその場所は、足元がにわかに見えるほどの暗さだった。

 一歩一歩足場を探るように、警戒しながら前進していくオレ。少しずつ月光が届かなくなって、オレの足元は刻々と明るさを失っていく。暗中模索とはまさにこのことだろう。

「わっ!?」

 オレの靴が、何かを蹴飛ばしてしまったようだ。びっくりして後ずさりすると、オレは食い入るように足元を凝視する。

 薄っすらとした明かりの下で見つけたのは、真っ白い色した一枚の丸いお皿だった。しかも、そのお皿には何やら液体が注ぎ込まれている。

 及び腰になりながらも、オレはそっとその液体に触れてみた。オレの汗ばんだ人差し指に、冷たい感触が伝わっていく。

「これって、もしかして・・・!」

 オレは指に残る香りから、この液体の正体を知ると同時に、あの住人の不可解な行動の真意を突き止めた。

「そうだったのか・・・。よりによって、彼女の仕業だったとは。」

 管理人を代行する立場として、この行為をこのまま見過ごすわけにはいかない。想定していたとはいえ、オレはこの真実に落胆の色を隠し切れなかった。

 また強風が舞い戻ってきたのか、生い茂った葉っぱたちが大きくぶつかり合っている。その風はまたしても雲を誘い込み、鮮やかだった月夜を瞬く間に飲み込んでしまう。

 暗闇に包まれたアパートの死角に一人佇み、オレは吹きゆく生暖かい夜風にこの身をさらしていた。

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