第五話 三.武者修行
翌朝、オレが長い眠りから目を覚ますと、眩しい太陽が昇りきった後だった。時刻は午前8時30分を回ったあたり、昨夜のうっぷんを晴らすような快晴の朝を迎えた。
オレは寝起きの顔のまま布団を片付けると、大きなあくびをしながら、トイレに行こうとドアの前に立つ。
「あれ?」
足元に紙切れが落ちていることに気付いたオレ。姿勢を落としてよく見ると、それは薄いピンク色した一枚の便箋だとわかった。オレの物ではないとなると、住人の誰かがドアの隙間から差し込んだものだろうか。
「・・・誰からだろう。」
その便箋を手にして裏返してみると、そこには日本語と英語が入り混じった文章が綴られていた。
「ディア、マサ・・・。フロム、ジュリー・・・!」
ここへ忍ばせた人物がジュリーさんだとわかって、オレの全身に戦慄が走る。
ただならぬ胸騒ぎを感じつつ、オレが便箋にある文章に目を通してみると、ジュリーさんからの伝言は、予想もしなかった衝撃的なメッセージだった。
「これは大変なことになったぞ!」
気持ちが焦るあまり、オレは管理人室で右往左往してしまう。蒸し暑さも拍車をかけて、オレの背中はかなり汗ばんでいた。
「そうだ、まずは麗那さんに知らせよう!」
そう決意して、オレは着替えることなく管理人室を飛び出した。
二階への階段を駆け上がり、オレはしゃにむに麗那さんの自室へと駆けつけた。ところが、いざおっとり刀でやってきてはみたが、不在という残念な結果に終わってしまった。
「そういえば、昨日の夜、今日は朝から仕事があるって言ってたなぁ。」
昨夜の会話を思い起こしながら、オレは嘆息しつつ階段を一歩一歩下りていく。
管理人室へ引き返す途中、リビングルームのそばに差し掛かると、ドアの向こうからテレビの音と人の話し声が漏れていた。
お出掛け前の麗那さんがいるのではと期待して、オレはリビングルームに立ち寄ってみることにした。
「あ、おっはよぉー。」
「・・・おはよう。」
リビングルームでくつろいでいたのは、ジャージ姿の潤とネグリジェ姿のあかりさんだった。潤は牛乳、あかりさんはコーヒーを口にして、二人ともいつもと変わらない朝のひと時を過ごしていた。
オレは室内を隈なく見渡してみたが、もう外出してしまったのだろうか、麗那さんらしき人の姿はどこにも見当たらない。
「麗那さん、見かけてないかな?」
「センパイだったら、もう仕事に出掛けちゃったよぉ。今日の仕事、遠くの方だからってマネージャーさんが車で迎えに来てたもん。」
潤が言うには、ほんの30分ほど前の出来事だったらしい。寝坊さえしていなければと、オレは今更ながらに悔やんでいた。
仕事先が遠距離となれば、麗那さんの帰宅もそれだけ遅くなってしまうだろう。もどかしさのあまり、オレは気が気でないじれったさが増す一方だった。
「それはそうと、管理人代行。」
きりっと眉を吊り上げて、あかりさんが真面目な顔で呼びかけてきた。
「朝からジュリーを見かけてないけど。何か知ってるかしら?」
オレはビクッと体を震わせて鼓動を高鳴らせる。押し黙っているオレを横目に、潤も続けるように話し始めた。
「あたしも見てないよぉ。この時間だとさ、バイトに出掛けるにはちょっと早いよねぇ。いつもだったら、リビングに顔ぐらい出していくもん。」
潤とあかりさんは、不安げな表情でオレを見つめる。オレからの返答を待ちわびるような、二人ともそんな顔をしていた。
揺らぐ気持ちを落ち着かせると、オレは平然を装って当たり障りのない答えを返す。
「・・・いえ、特に何も伺ってません。オレも今起きたばかりで、ジュリーさんは見かけてないんです。」
そう知るや否や、二人は落胆したような声を上げるも、用事があって朝早くから外出したのだろうと思ったのか、いつも通りの表情へと戻っていった。
「すいません、それじゃあオレ、失礼しますね。」
そそくさとリビングルームを出ていくと、オレは焦る思いのまま管理人室へと舞い戻っていく。
ジュリーさんの事情をただ一人知るオレは、麗那さんにだけは伝えなければと判断し、彼女の携帯電話にメールを送信することにした。
「麗那さんのメールアドレスは、どれだっけ・・・?」
携帯電話のメールをほとんど利用しないせいか、いざという時に四苦八苦してしまうオレ。住人たち全員のアドレスは登録してあるものの、目的のアドレスを見つけられないとは何とも情けない話だ。
麗那さんからの送信メールがあることを思い出し、オレはそのメールに返信する形で、ようやく本文の入力画面まで辿り着けた。
「ジュリーさんのことで、直接お話したいことがあります。余裕がありましたら返信ください。マサより。」
そう伝言を入力し、オレは麗那さん宛てにメールを送信する。メールでのやり取りよりは、直接話した方がお互いにとっても都合がいいと判断したからだ。
メール送信後、オレは携帯電話を握り締めたまま硬直していた。気持ちばかりが逸ってしまい、他のことが手につかなくなっていたのだ。
程なくして、携帯電話から着信メロディーが流れた。期待した通り、メールの送信者は麗那さんだった。オレはおぼつかない手つきで、麗那さんからの返信メッセージをチェックする。
「リョーカイ。仕事中はちょっとムリなので、帰宅してからお話しましょう。早く帰れるようがんばるので、それまで起きて待っててネ。麗那より。」
麗那さんからの返事を読み終えて、オレはようやく心が救われた気がした。このたびのジュリーさんのこと、オレ一人で抱え込むには荷が重過ぎるからだ。
「さてと。・・・手早く掃除と片付けを済ませよう。」
そう言いながら、オレはいつものお仕事とばかりに、身軽な服装に着替えて管理人室を後にした。
リビングルームへ向かっている途中、タイミングよくアパートの電話機が鳴り出した。二回目の呼び出し音が鳴る寸前に、オレは素早く受話器を取り上げる。
「もしもし・・・?ああ、奈都美か。」
電話を掛けてきたのは奈都美だった。彼女がいつも携帯電話ではなく、アパートの電話機に連絡してくるのは、携帯電話を生理的に受け付けないからなのだろう。
「マサ、これからちょっと時間ある?」
「これから?午前中は管理人の仕事があるから、午後だったら大丈夫だけど、どうかしたの?」
「うん、ペットショップに誘おうと思ったんだ。ほら、猫ちゃんのことで、この前話してたでしょ。」
奈都美の言う猫ちゃんとは、ここ最近、このアパートに出没するあの猫のことだろう。以前彼女から、猫の習性に詳しい友人がペットショップに勤めていることを聞いたことがあった。
奈都美がその友人に猫のことを相談したところ、今日なら都合がよいからと、お店に遊びに来るよう誘ってきたそうだ。
いくら実害がないとはいえ、このままあの猫を自由気ままにさせておいたら、アパートのみならず近隣周辺にも迷惑を掛け兼ねない。そういった被害を未然に防ぐために、オレはそのお誘いを受け入れることにした。
「そのペットショップね、隣町にあるんだ。電車で行くことになるから、午後2時に駅西口の改札前で待ち合わせよう。」
「ああ、わかったよ。それじゃあ、午後2時、改札口の前でね。」
オレたちはそう約束を交わし電話を切った。
そうと決まれば、掃除片付けを手早く済ませてしまおうと、オレはやる気を奮い立たせてリビングルームへ足を向けていた。
===== * * * * =====
その日の午後、オレはアパートの最寄駅で奈都美と落ち合った後、電車に揺られて隣町にある駅までやってきていた。
駅前通りにはレトロチックな商店が軒を連ねていて、昔ながらの古い街並みが垣間見れる。オレが暮らす街に比べると、落ち着いていて小ぢんまりとした印象を受けた。
駅から離れること十数分ほど。いくつかの路地を縫うように進んだ先に、ペットショップ「フリージア」があった。奈都美の友人はこのお店で働いているという。
「へー、思ってた以上に広いお店だなぁ。」
「あたしたちの街にあるペットショップより広いんだよ。」
襟を立てたトレーニングシャツ姿の奈都美が、店舗を見渡しながらそう教えてくれた。
奈都美の話では、ここでは犬や猫、小動物といった定番のペット以外にも、水棲動物も豊富に取り揃えているそうだ。店舗の裏側には、犬を運動させるドッグランという設備もあり、休日ともなると愛犬家たちがこぞって集まるという。
わくわくと胸を躍らせて、お店へと入っていくオレと奈都美。すると、かわいいペットたちが声を弾ませて、オレたちを無邪気な顔で歓迎してくれた。
今日は平日ということもあって、数人のお客と従業員がいる程度で、広々とした店内は閑散としていた。むしろ、ペットたちの鳴き声の方が賑やかだった。
「それで、奈都美の友人ってどの人・・・って、あれれ?」
そう問いかけようとしたら、なぜか、奈都美の姿が忽然と消えていた。
オレは即座に振り返り、キョロキョロと辺りを見渡してみると、たくさんの子犬がいる囲いの前で、一人の女性が屈みながら奇声を上げていた。
「奈都美・・・。何してんだよ。」
「マサ、見てみて!みんな、かわいいよねー。あーもう、このトイプードルなんて、綿菓子みたーい!」
子犬の愛らしさに魅せられて、奈都美は子供のようにはしゃいでいた。純粋無垢であどけない顔をした子犬たちを見ていると、彼女の浮かれっぷりもわからなくもないが・・・。
「おいおい、今日は子犬を見に来たんじゃないでしょ。ほら、行くよ。」
そう諭しながら、奈都美を囲いの手すりからやっとの思いで引き剥がすと、彼女はいつまでも手を振って、子犬たちとの別れを惜しんでいた。
「子犬ってかわいいよねー。あたしね、小さい頃、テリア種の犬を飼ってたんだ。」
子犬と一緒に暮らしていた頃を、懐かしむように語りだした奈都美。その思い出話を聞いていると、彼女の犬に対する愛着心が溢れんばかりに伝わってきた。
「犬のかわいらしさはわかったから。それより、友人はどこにいるの?」
「彼女なら、たぶん店内でペットの世話とかしてるから、歩きながら探してみよう。」
珍しい小動物を観賞しながら、ペット談義に花を咲かせるオレたち。小動物のユーモアたっぷりの仕草に見入ってしまい、時が過ぎるのを忘れてしまいそうだった。
店内をのんびり歩き回っていると、向かう先の方角から、怒鳴ったような女性の甲高い声が聞こえてきた。オレたちはそれに気付き、声の発生源の方へ視点を合わせる。
「ちょっと、何の権利があってそんなこと言われなきゃいけないの!?わたしがどんなペットを飼おうが、あなたには関係ないでしょう?」
「そうですけど、ただ、かわいいという見た目だけで飼育されるのは・・・。この種はデリケートだからストレスを抱えやすくて、お客様のところではこの子が不憫な思いをしてしまうと・・・。」
気の強そうな中年女性と、気の弱そうな背の低い女性が言い争っていた。彼女たちの言動から推測すると、ペットの購入をめぐるお客と従業員のトラブルのようだ。
内気そうな従業員は押され気味ながらも、お客のまくし立てる苦言に負けまいと、一歩たりとも譲ろうとはしない。その口論の行く末を、オレたち二人は黙ったまま見守っていた。
「もういいわよ。こんなお店、二度と来ないからね、フン!」
もううんざりしたのか、そのお客は鼻息を荒くしながらそう叫んだ。従業員に目一杯罵倒を浴びせると、彼女は小言をこぼしながら店外へと去っていった。
肩を落としてしまった内気そうな従業員のもとへ、彼女の先輩らしき従業員が駆けつけてきた。どうやら一部始終を目撃していたようで、立ち尽くす彼女を咎めるように叱責していた。
「あの従業員の気持ちわからなくもないけど。だからといって、お客さんを頭ごなしに追い返しちゃうのはよくないよな。」
オレはそう言いながら、自省している従業員を見つめていた。すると、奈都美は顔をポリポリ掻きながら言いにくそうにつぶやく。
「あたしの友人、彼女だよ。」
「え?」
奈都美は苦笑しつつ、その従業員のもとへと歩み寄っていく。唖然とした顔のまま、オレも奈都美の後ろについていった。
すっかり萎んでしまい、背の低さをより際立たせている従業員。そんな彼女の肩の上に、奈都美は優しく手を宛がった。
「チーコ、相変わらずだね。」
「あ、奈っちゃん!」
一瞬たじろいだものの、声の主が奈都美だとわかった途端、その従業員は女の子らしい柔和な笑みをこぼした。
久しぶりの再会だったらしく、互いを懐かしむような会話をしながら、二人は手を取り合って喜びを分かち合っていた。
「参ったな。・・・奈っちゃんに恥ずかしいところ見られちゃった。」
その従業員は恥ずかしさで頬を赤らめている。活発できびきびとした奈都美とは対照的で、彼女は内気で乙女チックな女性という印象だった。
「ここにいるのが友達のマサよ。アパートの管理人しながら予備校に行ってる、ちょっと生真面目な勤労学生なんだ。」
「おいおい、そういう紹介はやめてくれよ。じいちゃんの言いつけで仕方なくやってるんだからさ。」
クスクスと微笑しながら、その従業員は自らをチーコと名乗って自己紹介してくれた。チーコとはあだ名のことらしいが、そう呼ばれることを気に入っているそうなので、オレも彼女をチーコさんと呼ぶことにした。
「猫の習性についてのお話、ですよね?・・・わたし、これから休憩に入りますから、スタッフルームの方へどうぞ。」
チーコさんに案内されるがまま、オレと奈都美はスタッフルームに立ち入らせてもらった。
そこはペットショップの控室らしく、ペットフードやペット用品が乱雑に山積みされていた。ロッカーに所狭しと貼ってある写真からも、スタッフたちの熱烈な動物愛好家ぶりが見て取れた。
「立ち話も何ですから、こちらに座ってください。」
チーコさんに勧められて、背もたれのない椅子へと腰掛けるオレと奈都美。彼女も小さめの椅子を持ち出して、オレたちの向かい側に腰を下ろした。
「奈っちゃんから聞いた話では、どこかの飼い猫が敷地内によく姿を見せるとか。」
あのぶち猫の行動について、オレは余すことなく説明する。チーコさんはまるでカウンセラーのように、相づちを打ってオレの相談に耳を傾けてくれた。
「飼い猫は野良猫と違うから、それほど人を強く警戒しません。とは言うものの、どんな人にもなついたり、擦り寄ってきたりもしませんね。猫は犬と違って気分屋さんですから。」
チーコさんの解説を聞きながら、奈都美は顎に指を押し当てていた。
「なるほどね。でも気分屋とはいえ、アパートによくやってくるのって、何か理由があるからだよね?」
「うん、野良猫なら縄張り意識が強いから、マーキングのために来てるかも知れないけど。飼い猫だと、ある欲求を満たすために来ているんじゃないかな。」
欲求とは何ぞや?と、オレと奈都美は頭の中を巡らせる。どうもチーコさんは、オレたちにその解答を求めているようだった。
人間における欲求は多種多様だろうが、猫となるとそれほど多くはないだろう。オレ自身、思い当たるものはただ一つしかなかった。
オレがいざ解答しようとした矢先、解ったと言わんばかりに手を叩いた奈都美が、自信満々に答えを述べる。
「欲求と言ったら、ストレス発散!あの猫ちゃんは運動不足なんだよ。だから、アパートまでお散歩して、ストレスを解消しているんじゃないかな。あたしもさ、一日一回は体動かさないと、うっぷんたまっちゃうもんね。」
「・・・あのなー。運動できないストレスを抱えた猫がいるわけないだろう。」
奈都美らしいというか、奇想天外なその解答に面食らってしまい、オレもチーコさんも呆れるあまり苦笑するしかなかった。
悔しそうな顔をしている奈都美の横で、オレは思いついたたった一つの欲求を解き明かす。
「チーコさんが求めていた解答。・・・それは食欲ですよね?」
ニコッと愛らしく微笑んだチーコさん。その笑顔こそが、オレの解答が正しかったことを物語っていた。
「その猫はエサを求めてやってきていると思います。でも、野良猫ならまだしも、飼い猫は飼い主から食事を与えられているはずですから、確信は持てませんけどね。」
もしそうだったとしたら、アパートから排出された生ゴミ類が狙いか、あるいは、アパート周辺で誰かがエサを与えているということになる。
「あの猫、ゴミ置き場で見たことは見たんだけどさ、生ゴミをあさった形跡とか、それらしい話も住人から聞いてないんだよ。」
「ということは・・・。まさか、住人の誰かが、あの猫ちゃんにエサをあげてるってこと?」
奈都美がそういう結論に行き着くのも無理はないだろう。アパートの流し台のゴミ箱に捨ててあった、キャットフードの空き缶を見ているだけに、確信したくはないが、このオレもそう思わずにはいられなかった。
「ここで住人たちを疑っても仕方ないし、それについては、オレの方でもう少し調べてみるよ。」
あのぶち猫がやってくる理由から、新たな疑惑が浮上してしまった。オレと奈都美は話し合い、今日のことは二人だけの話に留めておき、もうしばらく様子を見ようということになった。
「もし、猫が迷惑を掛けてお困りなら、猫が嫌がることをしてください。猫は嫌なことをされると、無闇に近づかなくなりますから。」
猫は水を嫌う習性を持つため、水を掛けて追っ払ったり、他にも、大声を上げて驚かせることも効果的だと、チーコさんは親切にアドバイスしてくれた。
店内ではおどおどしていて、少し頼りなさそうなチーコさんだったが、猫の習性について語らっている彼女は、とても積極的で頼もしさすら感じさせた。
いろいろと話を伺っているうちに、チーコさんの休憩時間も終わり、オレたちは物足りなさを感じつつも、スタッフルームを離れることになった。
「チーコさん、今日はいろいろと勉強になりました。どうも、ありがとうございました。」
「いいえ、気軽にいつでもいらしてください。奈っちゃんも一緒にね。」
大きくお辞儀をすると、チーコさんは凛々しい顔つきで仕事へと戻っていった。
奈都美は店内に戻るや否や、またしても子犬がいる囲いまで突っ走っていった。それからというものの、オレが彼女を引き剥がすまでに、おおよそ30分という貴重な時間が過ぎてしまうのだった。
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「ただいま。ごめんなさい、待たせちゃって。」
その日の夜、午後9時に差しかかろうかという時刻。仕事から帰ってくるなり、管理人室を訪ねてきた麗那さんをオレは室内へと招き入れる。
「汚いところですいません。本来ならリビングルームでお話すべきなんですが。・・・まだ、他の住人たちの耳には入れない方がいいと思いまして。」
「うん、そんなこと気にしないで。それより、ジュリーに何かあったの?」
オレはジュリーさんの置き手紙を麗那さんに手渡した。その手紙を広げた麗那さんは、書き綴られたジュリーさんの心境を目で追っていく。
「ディア、マサ。昨日の夜はごめんなさい。麗那にも、ローリングサンダーのみんなにも迷惑を掛けて、本当にごめんなさい。わたし、観客の前で歌えないけど、みんなが応援してくれたから、きっと歌えるかも知れないと思ってがんばってみたけど、やっぱり逃げ出してしまいました。」
昨夜のことをしきりに詫びているジュリーさん。繰り返された謝罪の文字が、彼女の傷ついた心を痛々しいほどに表していた。
麗那さんは哀れむような顔で、手紙の続きに目を通していく。
「このままでは、みんなに合わせる顔がありません。わたしはもっと強くなりたいから、しばらくの間、武者修行の旅に出ることにしました。どうか、わたしのことは探さないで。いつになるかわからないけど、アパートには帰るつもり。家賃も払うから安心してください。それではお元気で。フロム ジュリー。」
ジュリーさんの置き手紙はそう結んであった。
一通り読み終えた手紙を折りたたみ、麗那さんは呆れたような溜め息を一つこぼした。
「本当にもう。こんな手紙一枚残してアパートを出て行っちゃうなんて。これじゃあ、みんなに余計迷惑掛けるだけじゃない。」
麗那さんはそう叱りつつも、少しだけホッとしていたようだった。家出してしまった理由がマイナス思考ではなく、プラス思考による考えだったからかも知れない。
「ここで麗那さんに相談なんですけど、このこと、他の住人たちにどう伝えましょうか?正直に言ってしまうと、みんなあらぬ心配をしちゃうと思うんですよ。」
ジュリーさんがしばらく留守となると、他の住人たちには何かしら説明しておく必要がある。そればかりか、彼女がよく通う「串焼き浜木綿」のマスターや紗依子さんにも、それなりな事情を伝えておくべきだろう。
よい知恵を絞ろうと、麗那さんは腕を組んで熟考している。彼女にだけ任せるわけにもいかず、このオレもひらめきを求めて考えあぐんでいた。
「ねぇ、マサくん。こういうのはどうかな。」
何かを思いついたように声を掛けてきた麗那さん。
「どこかへ旅行に出掛けたってのはどう?ジュリー本人も、武者修行の旅って綴っているわけだし。ニュアンスは違うけど、これなら嘘ついてることにはならないよ。」
「うーん、それに違いはないですけど。でも、いつ帰ってくるかわからない旅行だと逆に怪しまれませんか?しかも旅行となると、お土産を期待されたりして余計大げさになってしまうかも。」
オレの否定的な意見により、麗那さんの案は却下となってしまった。仕切り直して、オレたちは新たなアイデアを探そうと思案する。
「麗那さん、次はオレの案を聞いてもらっていいですか。」
遠慮せずにどうぞと言わんばかりの麗那さんに、オレはひらめいたプランを説明させてもらう。
「実家に帰ったというのはどうでしょうか?例えば、ご両親とか身内の都合で帰宅することになったとか。それなら、いつ帰ってくるかわからなくても心配されたりしないと思いますけど。」
「ところがね、ジュリーの実家ってここ東京なのよ。近いからかも知れないけど、わたしが彼女と一緒に住んでから、彼女が帰省したことなんて一度もないのね。だから、違う意味で心配されちゃうかも知れないよ。」
麗那さんからの指摘により、オレのプランまでもが廃案となってしまった。
それからしばらくの間、ひたすら思案に暮れていたオレたち。しかし、お互いが妥協できるような案が浮かんでは消えていき、時間ばかりが空しく流れていった。
このままでは埒が明かないばかりか、麗那さんを拘束し続けてしまうことになるだろう。オレはそう判断し、結果先送りでこのまま打ち切ろうとした矢先だった。
「マサくん、みんなに本当のことを打ち明けようよ。」
「えっ!?」
麗那さんの予想だにしない発言に、オレは度肝を抜かれて絶句してしまった。
「あ、本当のことっていうのは、武者修行のところだけね。」
意味深長な言い回しをする麗那さん。どういうことか尋ねると、彼女はその意図について話してくれた。
「ジュリーの綴ったメッセージには、強くありたいという自分への挑戦が見え隠れしてるわ。彼女はきっと、観衆の前でも逃げることなく歌えるようになりたい。そのために家を出て、武者修行と銘打って初心に返ろうとしてると思うの。」
麗那さんの言う通り、自らを戒めて、本来の自分を蘇らせようとする思いが、ジュリーさんの置き手紙を通じて、このオレにも伝わったことは間違いない。
「だからみんなには、ジュリーはプロのボーカリストを目指して、住み込みの養成所にいるってことにしたらどうかな?」
「なるほど。それなら合点がいきますね。養成所だったら、アパートをしばらく留守にしても、それにいつ帰ってきても違和感がないですから。それなら、オレも賛成です。」
オレと麗那さんの賛同により、ここでようやく結論に至ることができた。それぞれへの通達は、住人たちには管理人代行のオレから、浜木綿の二人には麗那さんが担当することになった。
「これで、とりあえずは問題解決だね。ふぁ~、わたしはそろそろ寝ちゃいまーす。」
大きく伸びながら、麗那さんは眠たそうな顔をしている。オレがそんな彼女に感謝の気持ちを伝えると、住人のトラブルは、アパートに暮らすみんなで解決するものだと、彼女は思いやりのある言葉を返してくれた。
秀でたリーダーシップで住人たちをまとめる傍ら、モデルという本業も積極的にこなしている麗那さん。彼女の底知れぬ精神力は、いったいどこから来るのだろうか。
「麗那さん。いつも思うんですけど、お仕事とかいろいろなこと、どうしてそんなにがんばれるんですか?」
さっぱりした性格の麗那さんらしく、オレの素朴な質問に、彼女はただ好きだからとあっさり答えた。
「もちろん、それだけじゃないよ。わたしがこんなにがんばれるのはね、ある人のため・・・。」
そこまで言った途端、麗那さんは慌てながら言葉を濁してしまった。
「ごめんなさい、何でもないの。今のは聞かなかったことにして。それじゃあ、おやすみなさーい。」
オレが声を掛ける間もなく、麗那さんは逃げるように管理人室から飛び出していった。
麗那さんが口走ってしまったあの人とはいったい?オレの知る人物なのか、それとも知らない人物なのか、男性なのか、はたまた女性なのか・・・。
あらゆる疑問が闇の中を彷徨い、オレの頭の中は混迷を極めていた。たった一人きりの管理人室で、オレはただ呆然と立ち尽くすだけだった。
第五話は、これで終わりです。
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