第五話 一.下宿という名の居候
満月が青白く光り、星が銀色に瞬く幻想的な夜空。わずかに涼しくなったものの、まだまだ蒸し暑さが残るそんな夏の夜のこと。
駅西口の繁華街にひっそり佇む「串焼き浜木綿」で、オレと麗那さんはやきもきしつつ、ジュリーさんの到着を今か今かと待っていた。
アルバイト帰りにちょっと一杯でもと、ジュリーさんをこの酒の席へ誘っていたオレ。一人の晩酌は寂しいと思ったのか、彼女は迷う素振りも見せずにOKしてくれた。
「ジュリー、そろそろ来るかな。」
「そうですね。アルバイト先から真っ直ぐ向かうって言ってましたから。」
オレの腕時計は夜8時を回っていた。この時刻だと、ジュリーさんはアルバイトも終わって、ここ浜木綿へ向かっている頃だろう。
「ふぅ。」
個室の座敷に腰を下ろしたまま、手持ち無沙汰で落ち着かないオレたち。
料理もドリンクも何一つないテーブルの上で、麗那さんは肩肘ついて溜め息を漏らしている。退屈なのだろうか、彼女は爪楊枝を指で転がして遊んでいた。
「麗那さん。もしだったら、何か注文しますか?待ってるだけって苦痛なだけだし。」
「大丈夫。気遣ってくれてありがとう。でも、ジュリーが来るまで待ちましょう。」
そう言いながら、麗那さんはしおらしく微笑んでいた。
「それにしても、今夜お休みになってよかったぁ。平日の夜に休むなんて、すっごく久しぶりー。」
麗那さんは今夜のために、無理を承知でマネージャーと事務所の社長に直談判したところ、少しばかりリフレッシュしなさいと、反対に休暇を取るよう勧められたそうだ。日頃からがんばり過ぎている彼女のことを、事務所の関係者もそれとなく心配していたのだろう。
リフレッシュ休暇に、とても嬉しそうな顔をしている麗那さん。こんな時こそゆっくり休んでほしかったが、そういうわけにもいかなくなってしまったことに、オレは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「麗那さん、すみません。せっかくのお休みに付き合せてしまって。」
「何言ってるの。このためにお休みを取ったのよ。つまりマサくんは、わたしにお休みのチャンスをくれたってことよね。」
麗那さんは嫌な顔もせず明るく振舞っている。愛らしい彼女の笑顔を前にして、オレは心から救われる思いがしていた。
そんな会話のやり取りをしていると、いらっしゃいませというマスターの威勢のいい声が聞こえてきた。それを知らせるように、個室の扉をノックした紗依子さんがひょっこりと顔を覗かせる。
「二人ともお待ちどうさま。ジュリーが来たわよ。」
紗依子さんに呼び寄せられて、ジュリーさんが個室まで駆け寄ってくる。
「ハーイ、お待たセー!」
ブロンドの髪をポニーテールに結ったジュリーさん。いつもの調子で、彼女はにこやかな表情で挨拶してきた。
ジュリーさんも座敷に腰を下ろし、三人全員が揃ったところで、オレたちはいよいよおつまみとドリンクをオーダーした。
「珍しいこともあるのネ。まさか、マサから誘ってくるなんて。しかも、麗那も一緒とは思わなかったワ。」
「丁度よく麗那さんがお休み取れたから、久しぶりに外で飲もうかって感じになったんですよ。それなら、晩酌仲間のジュリーさんにも声を掛けようという話になって。」
勘ぐりされないよう、オレが当たり障りなくそう答えると、ジュリーさんは訝しむことなく、納得したような顔でうなづいていた。
それから程なくして、お通しと注文したお酒がテーブルの上に出揃った。オレたちはグラスを手にすると、慎ましやかにお酒を酌み交わす。
「ふぅー、仕事明けの一杯は格別だワ。」
一日の疲れを解きほぐすように、ジュリーさんは水で割った焼酎をじっくりと味わっていた。
「そうそう、ジュリー。駅前のブランドショップ、もうすぐ改装前のバーゲンをするらしいの。お願いなんだけど、わたし仕事だから代わりに品定めしてきてくれない?」
「Oh、バーゲンいいわネ。任せておいて。あのお店、いいブランドいっぱい揃ってるからネ。」
女性らしい話題で盛り上がる麗那さんとジュリーさん。そのおかげでこの場が和み、オレの緊張気味だった気持ちも幾分か緩んでくれた。
注文していた料理もテーブルに並び始めて、和気あいあいとした団らんの中、オレたちは待ちに待った夕食のひと時を楽しむ。
「・・・そろそろかな。」
オレは心の中で、今夜の本題を切り出す機会を伺っていた。
会話が途切れるを見計らって、オレはいざ口火を切ろうとするものの、ジュリーさんが素直に耳を傾けてくれるかどうか不安になり、この和やかな雰囲気も壊したくない思いもあって、不甲斐なくも、あっと一歩のところで尻込みしてしまった。
ためらっているオレに感づいたらしく、麗那さんはオレに目配せをして、ここはわたしから話すからと伝えてきた。
「ジュリー、もう一つお願いがあるんだけど。」
箸を持つ手を休めて、麗那さんを見つめるジュリーさん。素知らぬ顔のまま、オレは固唾を飲んで聞き耳を立てる。
「次の日曜日にね、ジャズボーカリストとして、観衆の前で歌ってくれない。」
「ホワイ!?」
ジュリーさんは目を見開いて裏返った声で叫んだ。麗那さんの唐突過ぎるストレートぶりに、このオレも驚きのあまり開いた口が塞がらなかった。
「麗那、ど、どういうことヨ?ジャズボーカリストって、いったい・・・。」
混乱しているのだろうか、ジュリーさんはうろたえるように声を震わせていた。
「ついこの前、ローリングサンダーのリーダーが、緊急事態だからと、いきなりアパートにいらっしゃったのよ。」
ボーカリストの不慮の事故により、急遽、次の日曜日のライブに代役が必要になってしまったことなど、麗那さんはリーダーからのお願い事を包み隠さず代弁した。
そういった事情を踏まえた上で、麗那さんはジュリーさんに協力を要請したが、オレが予想していた通り、ジュリーさんはあからさまに難色を示していた。
「悪いけど、わたしには歌えないワ。」
そう一言だけ漏らし、悲しげな表情で顔を背けるジュリーさん。やはり彼女は、人前で歌うことに対して抵抗感を抱いているようだ。
「どうして?ジュリー、カラオケ大好きじゃない。わたしたちの前で、あんなに素敵な歌声を披露してくれてるのに。」
そう問いかける麗那さんに、ジュリーさんは首を横に振って反論する。
「生演奏とカラオケは違うワ。カラオケはマイクのエコーでいくらでもごまかせるけど、生演奏だとそうもいかない。ちょっとした声の震えや掠れでも、マイクを通してお客さんに届いちゃうのヨ。」
さすがは本業だった過去を持つだけに、ジュリーさんは現実味のある、ボーカリストならではの心労や苦悩を語っていた。
しつこいまでに、麗那さんは歌ってほしいと食い下がる。頑なに拒み続けて、不快感を示しているジュリーさん。そんな二人の仲裁に入ることもできず、オレは黙ったまま、このせめぎ合いを見届けるしかなかった。
「ダメよ、ダメダメ、やっぱりダメだわ。ボイストレーニングもしてないし、とても観衆の前で歌うことなんてできないワ!」
「大丈夫よ。ジュリーは今のままでも十分に歌が上手なんだから。それに、観衆の前だって、カラオケでわたしたちを前にしたつもりで歌えば、幾分か気が楽になるんじゃない?」
ジュリーさんは弱音を吐いて抵抗を続ける。そんな彼女を励ましつつ説得を続ける麗那さん。言い出したら聞かないのか、二人とも意地の張り合いで、一歩たりとも引こうとはしなかった。
この果てしない舌戦は途切れることなく、二人のどちらかが折れるまで繰り返されていくのだった。
「・・・もう、本当に強情っぱりなんだから。・・・これ以上言っても無駄みたいね。」
ついに気力が底を突いたのか、麗那さんは呆れた顔で白旗を振った。ジュリーさんは自らの主張を貫き通せたものの、浮かない表情のままうつむいてしまった。
重苦しさで黙り込んでいるオレたちの周囲に、気まずい空気が漂い始める。
このまましこりを残してしまうのは、ここにいる誰もが望んではいないだろう。ダメでもともとだからと腹をくくり、オレはオレなりの説得を試みることにした。
「ジュリーさん。勝手に話を進めたばかりに、辛い思いをさせてしまって本当にごめんなさい。もう無理強いはしませんけど、最後にオレからも話だけさせてください。」
頭を垂らしたまま、言葉なくうなづくジュリーさん。麗那さんは見守るような真剣な目で、オレの横顔を見つめていた。
「オレの憶測ですけど、ジュリーさん本当は、バンドに未練があるんじゃないかと思うんです。」
ゆっくりと顔を上げて、ジュリーさんは戸惑いの瞳でオレを見据えた。
「ジュリーさん、日曜日のライブ告知ポスターを見てた時も、バンドにいた頃の話をしていた時も、懐かしんで、どこか寂しがってるような顔してましたから。・・・自分の都合で辞めてしまったことに負い目を感じるあまり、戻りたい気持ちを押し殺しているんじゃないかって。」
心の迷いを振り払うように、ジュリーさんは頭を大きく振り乱していた。そんな彼女を諭しつつ、オレはさらに話を続ける。
「リーダーに対して、拾ってくれた恩を仇で返してしまったって、この前ここで、オレにそう話してくれましたよね。これって絶好の機会だと思いませんか、ジュリーさん。ステージに立って、お世話になったバンドの窮地を救うことで、リーダーやメンバーたちに最高の恩返しができるんじゃないですか?」
「・・・。」
しばしの沈黙の後、ジュリーさんは崩れるように、テーブルの上でうつぶせてしまった。その姿勢のまま、彼女はあの美しい歌声から想像できないような、野太いうめき声を上げる。
「う~~~。あなたたち、どうしてそこまでお節介なのヨォ~~!」
潤んだ目でオレのことを睨んでいるジュリーさんは、とうとう疲れ果ててしまったのか、ついに受け入れる姿勢を見せてくれた。
「わかったわヨォ。もうギブアップよ。・・・ここで断ったら、わたし、もっと負い目を引きずって生きていくことになっちゃうもノ。」
ようやく肩の荷も下りて、リーダーに顔向けできることに胸を撫で下ろしながら、オレと麗那さんは安堵した顔を見合わせる。
「その代わり、わたしから一つだけ条件をつけさせてもらうワ。」
「条件?」
その条件とは、ジュリーさんが歌うことをここだけの秘密にすることだった。他の住人たちに知られると、いらぬ応援や声援を受けるあまり、余計にプレッシャーが圧し掛かってしまうからだという。
今夜のことを一切他言しないと、オレと麗那さんは口を揃えて宣誓する。ジュリーさんも納得してくれて、オレたちだけの秘め事がここに成立した。
「さて、心配事もなくなったことだし、おいしい夕食でもいただきましょう。」
「そうですね。オレ、さっきからお腹が鳴りっ放しですよ。よーし、食べるぞー。」
「・・・心配事なくなったの、あなたたちだけじゃなイ。これを理由に誘い出すなんて、あなたたち、とんだクセモノよね。」
オレたち三人がいるこの座敷に、また和やかな雰囲気が帰ってきてくれた。オレたちは談笑しながら、テーブルを彩るおいしい料理に舌鼓を打つ。
料理はすっかり冷めていたものの、オレの気持ちはとても暖かくて、心地のよい穏やかさで溢れていた。
===== * * * * =====
翌日の朝、太陽の日差しが暑さの塊となって、リビングルームの窓を割らんばかりに叩いていた。
今朝早くに、オレ宛てに奈都美から電話があった。用件は直接会って話したいからと、彼女はこれからアパートに来訪する予定になっている。
奈都美が到着するまでの間、リビングルームでのんびり待つことにしたオレは、この苛立たしい暑気を払おうと、エアコンの冷気にこの身をさらしていた。
「奈都美の話ってなんだろう?そろそろ合宿が始まるみたいだけど、その辺りの話かな。」
夢が叶って、プロサッカー選手に返り咲くことができた奈都美。近日中に、彼女は一軍に合流するための強化合宿に参加するらしいが、ここで結果を残さなければ、一軍に合流することなど当然できない。
昔所属していたチームの時と同じ苦汁をなめないためにも、全身全霊をかけてレギュラーを掴み取ってみせると、奈都美は以前、オレに向かってそう意気込んでいた。
冷たい麦茶を口にしながら待つこと30分ほど。廊下のはるか先から、誰かが歩いてくる足音が聞こえてきた。そのテンポのよい足音は、ここリビングルームの前でピタリと止まった。
「おはよぉ。」
そっとドアを開けて、奈都美がリビングルームに入ってきた。ところが、すがすがしい天気とは裏腹に、彼女の表情は曇りがちで、なぜか、いつものトレーニングウェアではなく、女の子らしい洋服を身にまとっていた。
「おはよう、奈都美。まぁ、座ってよ。」
小さく礼をすると、奈都美はテーブル椅子へと腰を下ろす。
「ゴメンね、こんな朝っぱらから。」
奈都美を冷たい麦茶でもてなしたオレは、彼女の向かい側の椅子に腰掛ける。表情を曇らせたまま、彼女はグラスのふちに唇をつけた。
「ところで、話ってどんなこと?」
「うん、マサにね、相談というか、お願いがあってね。」
サッカーの練習相手や再会パーティーの段取りなど、オレはこれまで、奈都美のお願いはすべて聞き入れてきたが、この思い詰めた表情を見る限り、今回ばかりは安請け合いできないお願いかも知れない。
「単刀直入に言わせてもらうとね・・・。」
そう切り出した途端、いきなり奈都美は両手と額をテーブルの上に押し当てた。
「しばらくの間でいいから、あたしをここに下宿させてほしいの!」
「えっ!?」
奈都美の突拍子もない頼みごとに、驚きのあまり開いた口が塞がらないオレ。突然下宿させてほしいなんて、彼女の身にいったい何があったというのか。
「ちょっと待ってよ。単刀直入じゃ困るからさ、まずは何がどうなってるのか説明してくれないか。」
顔をポリポリと掻きながら、奈都美はここに行き着いた経緯について話してくれた。
「あたしさ、おかげさまでプロチームに入団したから、その、お世話になってたおじさんの弁当屋の手伝いできなくなっちゃったわけで・・・。」
弁当屋で働きながら、おじさんの自宅に居候をしている奈都美。お店を手伝えないままご厄介になるのは気が引けると、彼女は彼女なりに抵抗感を抱いていたようだ。
気にすることはないと、おじさんはそう気遣ってくれたものの、奈都美は一人立ちしたい思いもあるからと、出ていく決心を固めたという。
「アパートを探そうと見て回ったんだけど、考えてみたら、あたし、これから強化合宿に入るし、それが終わっても、練習とか試合とかで出掛けっ放しだし。・・・そう思ったらさ、わざわざ高い家賃払ってまで入居する意味ないのかなぁ・・・って。」
奈都美はいろいろ悩んだ挙句、融通が利きそうなアパートであるここ「ハイツ一期一会」に辿り着いたというわけだ。
「ほんの少しの間でいいんだ。それなりに給料が入ったら、向こうでアパート見つけるつもりだし。・・・家賃はその、約束はできないんだけど、アパートの掃除とか雑用とか、そういうのも手伝うから。」
もう一度頭を下ろして、奈都美は哀願の目で直訴してきた。
「・・・下宿というより、居候先が変わるだけだよな。」
そう囁きつつも、テーブルに額を押し当てている奈都美に、断りの姿勢を示せるほどオレは非道ではない。しかし、このようなケースでは、代行のオレではなく、管理人であるじいちゃんに決定権がある。
「オレは構わないけどさ。じいちゃんが、いいよって言ってくれたら、それで決まりでいいと思うんだけど。」
「ホント?おじいちゃんがOKしてくれたら下宿させてくれるの?」
奈都美は突如、顔色を明るくしてそう聞き返した。どういうわけか、彼女はホッとした様子で、安堵の笑みを浮かべていた。
「おじいちゃんからはもうお許しもらってるんだ。おじいちゃんがね、マサが反対しなければ下宿しても構わないって言ってくれたの。ほら見て。」
ニコニコしながら、奈都美は一枚の便箋をオレに差し出した。そこには、誓約書という一行が大きく刻まれており、よく見ると、記されていた文字は間違いなくじいちゃんの筆跡だった。
まさか、じいちゃんに前もって根回ししていたとは。奈都美のなかなかの策士ぶりに、オレは呆れ顔で大きな溜め息をついていた。
「そういうことなら、喜んで歓迎するよ。奈都美、これからもよろしくね。」
「ありがとう、マサ。出戻りになっちゃうけど、こちらこそ、いろいろとよろしく。」
細部について協議した結果、奈都美には以前と同じ二階の空き部屋へ入居してもらうことになった。強化合宿のスケジュールとの兼ね合いもあるため、実際の引越し時期は彼女に一任することにした。
肩の荷が下りたのか、奈都美の表情はすっきりと晴れやかだった。馴染みのある場所、親しみのある仲間たちとの生活に、彼女は嬉しさからルンルン気分ではしゃいでいた。
「あたし、用件も済んだし、そろそろ行くね。引っ越す前に連絡入れるから。」
帰っていく時はいつも、疾風のごとく駆け抜けていく奈都美。そんな彼女の後ろ姿に、オレはお別れの言葉を投げかけた。
「あ、そうそう。」
何かを思い出したのか、奈都美はオレの方へ振り返る。
「マサ、おじいちゃんが言ってたよ。すぐにも見舞いに顔見せなかったら、血縁関係を解消するって。」
そう言い残して、奈都美はさわやかな笑顔のままリビングルームを後にした。
リビングルームに一人、青ざめた顔で立ち尽くしているオレ。エアコンのスイッチを切るや否や、オレはじいちゃんの入院先へと向かうため、リビングルームから突風のごとく駆け出していった。
ご意見、ご感想など、お気軽にお寄せください。




