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第四話 一.楽器店とジャズバンド

 7月も中旬を迎えた。ここ東京の真っ青な空に、真っ赤な太陽と真っ白な入道雲が浮かび上がり、今日も一日真夏の暑さを予感させてくれた。

 今日は日曜日ということもあり、オレはいつもの管理人の仕事をお休みして、朝っぱらからリビングルームでのんびりテレビを眺めていた。

 いつもの日曜日の朝だったら、ここリビングルームに住人たちが集まってくるはずだが、今日に限って一人もやってくる気配がない。みんなまだ、醒めない夢の中にいるのだろうか。

「一人ぼっちって寂しいな。誰か来てくれないかなぁ。」

 心細い思いをつぶやいていると、オレの思いが天まで届いたのか、玄関の方から誰かの足音が近づいてきた。

 その足音の主はリビングルームの前で立ち止まり、ゆっくりとドアを開けていく。すると、頭にバンダナを巻いたボーイッシュの女性が、さわやかな笑顔をひょっこりと覗かせた。

「おっはよー。」

「おお、奈都美じゃないか。どうしたの、こんな朝早くから?」

 姿を現したのは現在の住人ではなく、以前の住人である奈都美だった。ユニフォームに袖を通した彼女は、なぜかムッとした顔で口を尖らせている。

「どうしたの、じゃないよ、もう!今日があたしにとってどんなに大事な日曜日か、マサだったら憶えていてくれないと。」

 奈都美の思わせぶりな言い回しに、眠っていた記憶を呼び起こしたオレ。

「・・・あ!そうか。今日だったね、プロテスト!」

 今日は、奈都美が再びプロサッカー選手を目指して、千葉県にあるプロサッカーチームの入団テストに挑戦する日だった。この日のために、彼女は汗水たらして練習を積み重ねてきたのだ。

「テストは午後からなんだ。それで、電車で会場まで行くんだけど、電車時間までちょっと余裕があるから、挨拶がてら立ち寄ってみたってわけ。」

 そう言いながら、奈都美はテーブル椅子へちょこんと腰掛ける。ここまでトレーニングしてきたのか、彼女はタオルで顔の汗を拭き取っていた。

 休憩がてら涼んでいる奈都美を、冷たい麦茶でもてなすオレ。ゴクゴクと喉で音を立てながら、彼女はグラス一杯をあっという間に飲み干してしまった。

「ふー、ありがとう。・・・ところで、住人のみんなは?」

「まだ部屋にこもってるみたいだよ。今日は日曜日だから、もう少ししたらここへ顔を見せるかもね。」

 リビングルームの壁掛け時計は、朝8時過ぎを知らせていた。夜型の住人たちにしてみたら、目を覚ますには少しばかり早い時刻だったのかも知れない。

「テストだけど自信の程はどう?合格できそう?」

 オレの問いに、奈都美は満面の笑顔で答える。

「バッチリかな。やれるだけのことはやってきたし、今日のために体調もしっかり整えたからね。」

 奈都美はガッツポーズ一つして、このオレに自信の程を見せ付けてくれた。

 テスト当日だというのに、奈都美はとてもリラックスしている。そんな彼女の落ち着きからも、溢れんばかりの好調さが垣間見れた。

 もし、奈都美がガチガチに緊張していたら、少しでも和らげてあげようと考えていたオレだったが、この調子ならその必要もなさそうだ。

「・・・あ、そうそう。ここへ来る途中でね。」

 奈都美が何かを思い出したように、いきなり話題を変えてきた。

「このアパートの外壁の上に、猫が寝そべってたんだ。にゃーって鳴いた顔がかわいかったよ。」

「猫・・・?」

 その時、あの黒と白のぶち猫のイメージが、オレの脳裏をふらっと過ぎった。奈都美の言っている猫とは、まさかあのぶち猫のことだろうか。

「その猫ってさ、赤い首輪を付けた黒と白のぶち猫じゃなかった?」

「そうだよ。マサ、あの猫のこと知ってたんだ。」

「うん。少し前に、ゴミ置き場や庭先で見かけたことがあるんだよ。」

 一度や二度ならず、何回も姿を見せているとオレが言うと、奈都美は首を傾げて不思議そうな顔をしていた。

「ゴミ置き場をあさったり、庭を汚したり、フンを撒き散らしたりしてるわけじゃないから、実害はないんだけどね。ただ、首輪付けてるってことは、飼い猫に間違いないだろうし、ちょっと気になるんだよ。」

 考え込んでいたオレを手助けするように、奈都美は一役買おうと手を差し伸べてくれた。

「あたしの友達に、ペットショップに勤めてる子がいるからさ、今度、その子に聞いてみようか。猫のこととか詳しい子だから、あの猫がここへやってくる理由とかわかるかも。」

 猫の習性に詳しくない者同士が悩んでいても仕方がない。ここは奈都美の厚意にすがる方が賢明だろうと、オレは恐縮しつつお願いすることにした。

 それからしばらくの間、オレと奈都美は談笑しながら暇を潰した。一緒にサッカーの練習をしていた時の話題で盛り上がっているうちに、時間は瞬く間に過ぎていった。

「あたし、そろそろ行くよ。合格結果の発表は来週あたりだから、またその時に連絡するね。みんなにもよろしく言っておいて。」

「わかった。精一杯がんばってきなよ。みんなも応援してるからさ。」

 奈都美は気合を込めながら、肩で風を切るように出掛けていった。

 あの様子なら、何も心配することなどないだろう。ここまでがんばってきた奈都美のために、オレは心の中でプロテスト合格を祈願していた。


 =====  * * * *  =====


「う~ん、赤い首輪を付けた猫など、わしは見覚えないのう。」

 そう唸り声を上げながら、じいちゃんは口をへの字に曲げていた。

 午後になってから、じいちゃんの見舞いのため、オレは「胡蝶蘭総合病院」を訪れていた。見舞いがてら、アパート付近に出没する猫のことを尋ねてみたが、残念ながら、じいちゃんから期待しているほどの情報を得ることはできなかった。

「その猫がどうかしたのか?」

「アパートの敷地内によく姿を見せるんだよ。じいちゃんなら、その猫のこと何かわかるかも知れないと思ってね。」

 これまでの情報を頼りに、オレは頭の中を整理してみた。

 じいちゃんが見覚えないとなると、あの猫は少なくとも、オレがアパートへやってきてから現れていることになる。つまり、ここ一ヶ月の間ということだろう。そして、あの猫がアパートの辺りをうろつくのはなぜか。きっと、それ相応の理由があるはずだがそれとはいったい・・・?

 いずれにせよ、アパートに関することであれば、住人たちにも一通り尋ねてみる必要がありそうだ。

「おい、マサ。そんなことより、住人のみなさんは元気にやっとるか?お世話するつもりが、逆にお世話になりっ放しなんてことになっておらんだろうな?」

 オレの思案などお構いなしに、さっさと話題を切り替えてしまったじいちゃん。

「大丈夫、みんな元気にやってるよ。いつもドタバタしてるけど、みんな賑やかに楽しんでるから心配無用だって。ただ、そのパワーに圧倒されちゃって、オレの方がお世話になってることは、正直否定できないけどね。」

 住人たちの変わらない日常を聞きながら、じいちゃんは顔をほころばせている。だけど、その微笑みの裏側には、ちょっぴり寂しさが見え隠れしていた。毎日この個室で一人っきりだから、それも無理はないだろう。

「そうそう、じいちゃん。実は奈都美がね、プロサッカーチームの入団テストを受けることになったんだ。」

「・・・知っとるよ、今日じゃろう。」

 冷め切った表情をしているじいちゃん。間髪入れず、じいちゃんはオレに向けて口を尖らせる。

「昨日の夕方、奈っちゃんがお見舞いに来てくれてな。その時に話してくれたよ。あの子は本当によくできた子じゃよ。・・・それに引き換え、おまえは稀にしか顔を出さんとはどういうことじゃ。まったく、どっちが孫なのかわからなくなるわい。」

 耳が痛くなるような愚痴をこぼすじいちゃんを、オレは反省の弁を述べながら必死になだめていた。

 備え付けの戸棚に置かれた花瓶を見てみると、この前とは違う花束が飾ってあった。その彩りのある綺麗な花束のおかげだろうか、この寂しげな病室が鮮やかで華やかに感じられた。

 じいちゃんの身近な世話や話し相手になってくれる奈都美。その親切心に感謝するばかりで、オレはただただ頭の下がる思いだった。

「そんなに目くじら立てないでよ。近いうちに、住人みんなとお見舞いに来るからさ。だから、もう少しだけ辛抱してよね。」

 オレがふて腐れているじいちゃんを慰めていると、病室のドアをノックする音が聞こえてきた。

「おじいちゃん、検温と血圧測定の時間ですよぉ。」

 ドアの向こうから、汚れなき白衣をまとった看護婦がやってきた。挨拶するオレとじいちゃんに、彼女はニコニコしながら愛想のいい笑顔を向けていた。

 看護婦に楽な姿勢になるよう促されると、ベッドの上で仰向けになったじいちゃん。オレの言うことは聞かずとも、看護婦の言うことだけは素直に従うじいちゃんだった。

 お仕事の邪魔をしては申し訳ないからと、オレはそろそろ、じいちゃんの病室からおいとますることにした。

「じいちゃん、オレもう帰るから。またヒマ見つけて来るから、ちゃんと安静にしててよね。」

「マサ、言っておくが、三日以内じゃぞ。それ以上過ぎたら、夜な夜な、おまえの携帯電話にイタズラ電話を掛けるからな。」

 じいちゃんの牽制に怯えつつ、苦笑いしながらうなづいたオレ。その会話のやり取りに、そばにいた看護婦もクスクスと口元を緩めていた。

 じいちゃんと看護婦にお別れの挨拶を済ませると、オレは和やかなムードが流れる病室を後にした。


 =====  * * * *  =====


 駅東西連絡通路を越えて、オレはお馴染みの商店街を歩いていた。

 午後になっても、素晴らしいほどの快晴が続いている。降り注ぐ紫外線を避けようと、商店街を行き交う女性たちは皆、淡い色した日傘の華を広げていた。

 あまりの暑さで、オレの喉が激しく水分を要求してくる。商店の軒先で売っているラムネに気を引かれながらも、オレはアパートまでの道のりを急いでいた。

「しかし暑いなぁ・・・。早く帰って、冷たい麦茶がぶ飲みしよう。」

 オレはハンカチで顔を扇ぎながら、日陰を道しるべに商店街を通り抜けていく。その途中、ある店舗のガラス窓に貼り付けてあったポスターが目に留まった。

 ジャズバンドのライブ開催を告知する広告ポスターのようだが、何よりもオレが注目したのは、そのジャズバンドの名前だった。

「ローリングサンダーって確か・・・。ジュリーさんがボーカルをしていたバンドじゃないか!」

 オレは驚きのあまり叫んでしまった。このジャズバンドらしくないバンド名が、オレの記憶の片隅にハッキリ残っていたので間違いないはずだ。

 ポスターの告知に目を通してみると、近日中に最寄駅近くにあるライブハウスで、このローリングサンダーがライブを開催するらしい。バンドメンバーの名前も書かれているが、当然ながら、ジュリーさんの名前は見当たらなかった。

「ん?」

 ポスターの下の方に目をやると、お問い合わせ先は「パンジー楽器店」までと、赤いマジックで書き込まれていた。

 わずかながら、パンジー楽器店に見覚えがあったオレ。この店舗の周囲を見渡してみると、外壁に備えてあった看板に、パンジー楽器店の文字がくっきりと刻まれていた。

「・・・そうだ。この前、ジュリーさんが立ち尽くしていたの、このお店の前だったな。」

 少し前のことだが、思い詰めた顔をして、この店舗の前で佇んでいたジュリーさんを見かけた。その時のことが、オレの記憶の奥底からぼんやりと浮かんできた。

 ジュリーさんはあの時、このポスターを見つめていたのだろうか。ローリングサンダーの一員として活躍していた頃を思い出して、彼女はその懐かしさから感傷に浸っていたのかも知れない。

 暑かったことすらすっかり忘れて、オレは腕組みしながらそんなことを考えていた。

「ジャズに興味があるのかね?」

 ポスターの前で立ち止まっていたオレに、ある男性が声を掛けてきた。

 いきなりのことにびっくりして、オレはその声のもとへ顔を向ける。その声の主は、おしゃれなジーンズを履きこなした、白髪交じりの初老の男性だった。

「もしだったら、このジャズライブのチケット、格安で提供するがどうかね?」

「あ、いや、ジャズに興味があるっていうわけじゃなく、ただその、このバンド名がおもしろかったんで。」

 オレがそうごまかすと、初老の男性は穏やかな顔で笑っていた。

「ははは、やっぱり珍しかったかね?早く覚えてもらえるようにと思って付けてみたが、どうも違う意味で印象を残してしまう名前になってしまったね。」

「あれ、もしかして、ローリングサンダーの関係者の方ですか?」

「ああ、そうだよ。本業は、ここパンジー楽器店の店主だけどね。」

 オレの問いかけに、微笑んだままコクンとうなづいた店主。

 この店主ならもしかすると、ジュリーさんのことを知っているだろうか。これはチャンスと言わんばかりに、オレはジュリーさんのことを尋ねてみることにした。

「一つお伺いしますけど、三樹田ジュリーさんって人、ご存知ですか?」

 どういうわけか、穏やかだった店主の表情が、見る見るうちに唖然とした表情へ変化していく。

「これは驚いた・・・。どうしてジュリーのことを知っているのかね?」

「オレはアパートの管理人代行をしているんですけど、ジュリーさんはそこのアパートの住人なんです。以前、彼女からローリングサンダーで歌っていた話を聞いたことがありまして。」

 ジュリーさんが健在だと知ると、その店主は安堵の笑みを浮かべていた。この様子からすると、彼女がボーカリストを辞めてからは、バンドの関係者とは音信不通だったのかも知れない。

「せっかくだから、麦茶でも飲んでいくかね?もう少しだけ、ジュリーの話を聞かせてほしいんだが。」

 これと言った用事もなかったオレは、店主からのお誘いをありがたく頂戴することにした。本音を言うと、涼しい店内で冷たい麦茶をいただけるという誘惑に負けてしまったのだが・・・。

 パンジー楽器店はガラス張りのおかげか、透明感のある明るい店内だった。ジャズ演奏でよく見かける楽器が陳列されていて、一部の楽器には、全財産をはたいても手が出ないほど高額なものもあった。

 レンガ造りのモダンな内壁には、いくつかの写真立てが飾ってある。どうもジャズの演奏シーンを撮影したものらしく、その中の一枚に、黒いワンピースのドレスを着たふくよかな女性が写っていた。

 その写真を食い入るように見ているオレに、麦茶をテーブルまで運んでくれた店主が語りかけてきた。

「その写真はローリングサンダーのライブを撮影したものでね。そこに写っている女性がジュリーだよ。」

「・・・え?」

 オレは唖然としてしまった。どっしりとして貫禄のあるこの写真の女性が、まさか、あのほっそりとしたジュリーさんと同一人物だったとは。

「ダイエットして痩せたって言ってたけど、この頃、こんなに太ってたんだぁ。」

 いろいろな写真を眺めていたオレに、その店主は椅子へ腰掛けるよう勧めてくれた。

 オレはお礼を言いながら、店主の向かい側へと腰掛けると、いただきますと感謝しつつ、麦茶を一口飲み込んで暑気を払った。

「ジュリーがここから遠くないアパートで暮らしていたなんて、正直びっくりしたよ。しばらく会っていないものだから、どこか遠くへ行ってしまったとばかり思っていたからね。」

 その店主が言うには、ジュリーさんがバンドを去ってからしばらく月日が経過したが、それ以来、一度も彼女に会っていないのだという。

「ジュリーは今、ちゃんとした仕事をしてるのかね?規則正しい生活を送っているのかい?」

 まるでジュリーさんの父親のように、その店主は彼女の暮らしぶりを心配そうに尋ねてくる。

 アルバイトで生計を立てながら、他の住人たちと賑やかに楽しく生活していると、オレがジュリーさんの今を伝えると、その店主は肩の荷が下りたようにホッとしていた。

 現在ではなく、ジュリーさんの過去に興味があったオレは、店主にあれこれと尋ねてみることにした。

「ジュリーさんがボーカリストをしていた頃って、どんな感じだったんですか?」

「兎にも角にも、ジュリーの歌唱力は抜群でね。当時のローリングサンダーは、彼女で持っていたようなものだったんだ。高音と低音を見事なまでに歌い分けてね、楽曲に調和させるテクニックは神業としか言いようがなかったよ。」

 ローリングサンダーに秀才現るとの噂が飛び交い、バンド名は瞬く間に有名になっていった。その名声は東京都内に留まらず、近県からもライブ開催の依頼が入り、時には京都府や大阪府といった遠方からもラブコールがあったそうだ。

 人気絶頂期には多い時で週に三回、少ない時でも週に一回のペースで、ローリングサンダーはジャズライブを開催していた。遠くからはるばるやってくる観客もいたそうで、ファンのように毎回聴きに来てくれる人も少なくなかったという。

「ところが、ジュリーがバンドを辞めてしまってからは、すっかり依頼の話が来なくなってしまってね。神様、仏様、ジュリー様とは、まさにこのことだと痛感させられたものだよ。ははは。」

 その店主は冗談交じりに笑っていたが、そこはかとなく、やるせない心境を表情に映していた。

 バンドの関係者である店主だったら、オレが一番知りたがっている、ジュリーさんが口を閉ざし続けてきたあの理由を知っているはずだ。オレはその理由を是が非でも聞きたかった。

「ジュリーさん、どうしてローリングサンダーを辞めてしまったんですか?」

 オレがズバリそう問いかけると、店主は眉を寄せて押し黙ってしまった。

 ポロシャツの胸ポケットにある箱の中から、一本のタバコを抜き取った店主。先っちょに火を点し、彼は大きく息を吸い込むと、溜め息のような紫煙を吐き出した。

「恥ずかしい話だが、わたしにもわからないんだよ。」

 苦々しくそう語った店主は、ジュリーさんが脱退したその時のことを具体的に話してくれた。

「少なからず、おかしな兆候はあったんだよ。明るさを絶やさないジュリーが、あるライブを終えた数日後から元気がなくなってしまってね。ライブの前日はリハーサルをやるのが通例なんだが、具合が悪いから休ませてほしいと言ってきたりして。それまでは、そんなこと一度もなかったのに。」

 その店主もバンドメンバーたちも、多忙なスケジュールで疲れが溜まっていたのだろうと、ジュリーさんにしばらく休養を取るよう勧めたそうだ。

 ライブの開催日程を調整したり、演奏だけのライブで凌ぎながら、ジュリーさんの回復を待っていたが、彼女の具合は一向によくならなかった。

 ライブやリハーサルには参加できなくとも、お店にだけは顔を出してほしいと連絡をしたところ、数日後、フラフラとおぼつかない足取りで、やつれた表情をしたジュリーさんがやってきたという。

「本当にびっくりしてしまったよ。ふくよかだったジュリーが、げっそりとやせ細っていてね。・・・ただ辞めさせてほしい、理由は聞かないでと、わたしにそう言ってきたんだ。」

 ボーカリストの突然の離脱に納得できるわけもなく、その店主やバンドメンバーは断固反対しようとした。しかし、血の気が引いた顔つきで、今にも倒れそうなジュリーさんを目の前にしては、首を横に振ることができず認めざるを得なかったという。

 こうして、ローリングサンダーを脱退することになったジュリーさん。彼女はそれ以来、バンドメンバーの前にも、そして、この楽器店にも姿を見せることなく、現在に至るということだった。

「それじゃあ、ジュリーさんが辞めた後、ボーカリストはどうしたんですか?」

「残念ながら、専属のボーカリストは今もいなくてね。しかし、このままではライブができないから、今はバンドメンバーの親族に歌える子がいるから、ライブの度に、その子に参加してもらっているんだ。」

 とはいえ、その女性も他の仕事と兼務となるそうで、ライブを開催できる曜日や場所が限られてしまうそうだ。

 ライブ活動を本格化させるためにも、専属のボーカリストが必要なのだと、その店主はやり切れない胸のうちを吐露していた。

「まさかこんな形で、ジュリーの知人に出会うとは思ってもみなかったよ。よかったら、今度ジュリーと一緒にここへ遊びにおいで。そろそろほとぼりも冷めただろうし、互いに、後腐れない昔話もできるんじゃないかな。」

 そう言いながら、その店主は寂しそうにやんわりと微笑んだ。

 そんな店主の願いを叶えてあげたくて、オレはできる限り力になることを約束した。次回はジュリーさんを連れ立ってここへやってくると、オレは軟弱なこの胸にそう誓った。

 麦茶を飲み終えたところで、そろそろ失礼することにしたオレ。気付いたら、1時間以上も話し込んでいたらしく、オレはすっかりくつろいでいたようだ。

「それじゃあ、またお邪魔させてください。」

「ああ、いつでも気軽に来るといいよ。待ってるからね。」

 お店から離れるオレを、その店主は名残惜しそうに見送っていた。ジュリーさんの昔話に花が咲いた分、一人になる孤独感も大きかったのかも知れない。

 結局、ローリングサンダーの関係者ですら、ジュリーさんが脱退した理由を知らなかった。それを知る者は、当人以外何者でもないということだろう。

 そう結論付けると、オレは苛立ちを覚えるような暑さの中、寄り道することなくアパートへ帰っていった。

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