第三話 三.二人きりの誕生日パーティー
アパートの二階までやってくると、住人たち誰もが就寝してしまったかのように、廊下は水を打ったように静まり返っていた。潤はまだ起きていてくれているだろうか。
不安を募らせつつ、潤の部屋のドアまで辿り着いたオレ。深呼吸一つして、そっとドアをノックしてみる。
「・・・潤、起きてる?マサだけど。」
かすかな物音と一緒に、潤の小さな返事が聞こえた。どうやら、まだ就寝していなかったようだ。
「あのさ、ちょっとだけ顔を見せてくれないか。」
ドアの向こうから、ゆっくりと近づいてくる足音。近くまでやってきたものの、潤はドアを開けないまま、オレに囁くように話しかけてきた。
「・・・マサ。あたしさぁ、顔見せられる状態じゃないんだぁ。今日はホントにゴメンね。」
潤はつぶやくようにそう拒んでしまった。対面できないぐらい、彼女は泣き明かして顔を腫らしてしまったのだろう。
オレは諦めきれず、思いつくままに潤を励まそうとする。しかし、付け焼刃の励ましでは、彼女の傷ついた心を癒せるはずなどない。彼女は無言という形で、悲痛の胸のうちをオレに伝えていた。
「潤の辛い気持ち痛いほどわかるよ。あれだけ待ち望んでいたわけだし。」
少しでも悲しみを乗り越えてほしいと、オレは独り言のように話を続ける。
「でもさ、潤ぐらい魅力があれば、こういう機会っていくらでもあるよ。だから、そんなに落ち込んだりしなくても大丈夫だよ。」
同情からではなく、ドアの向こうにいる潤を勇気付けたくて、オレはありのままの本心を声に乗せていた。
「・・・わかりっこないよぉ。」
潤の消え入りそうな声が、ドアを通り越してオレの耳元まで伝わった。
「あんたになんかわかりっこないもん・・・!あたしの気持ちなんてぇ、絶対にぃ、絶対にわかりっこないんだもん!」
泣きじゃくり、潤は溢れる感情のままに叫んだ。ドアの向こうから、滑り落ちていくような擦れる音が聞こえてきた。
「読者モデルになりたかったのにぃ、お店のナンバーワンにもなりたかったのにぃ・・・。なのに、それも叶わなくてぇ、こんな結末ってあんまりだよぉ。・・・勝手に一人で舞い上がっちゃってぇ、あたしバカみたいじゃん!」
悲しみと悔しさが交錯して、潤はやり切れない心情をぶちまけた。鼻をすすり、時折咳き込みながら、彼女は自分を見失うほどに泣き崩れてしまった。
潤の心痛とともに流れ落ちる大粒の涙が、ドアを突き抜けてオレの胸を激しく締め付ける。
他の住人たちの部屋の奥から、もうそっとしておいてあげてと、そんな窘める声が聞こえてきそうだった。でもオレは、潤の部屋の前から一歩も引き下がることはなかった。
「潤、あのさ。オレの戯言が耳障りじゃなければ、そのままそこで聞いてほしい。」
潤がそばから離れないと信じて、オレは伝えるべきことを語り始める。
「この前、ドレスを一緒に買いに行った時にさ、ほら、潤を指名してくれる男の人たちに会ったよね。あの人たちがね、潤がトイレに行っている時に言ってたんだよ。・・・潤が読者モデルに選ばれたこと、ちょっとだけ残念だって。」
潤のすすり泣く声が廊下へと伝わってくる。他の住人たちの部屋からも、かすかな人の気配がオレの立つ廊下へと伝わってきた。オレは気にすることなく話を続ける。
「人気出ちゃうと、他の男性客にちやほやされたり、持てはやされたりするから、潤が潤らしくなくなるというか、高飛車な態度になっちゃって、自分たちの手の届かない遠くに行っちゃうような気がするって。いつまでも、自分たちを元気付けてくれるような、明るく愛らしい笑顔を振りまいてくれる、そんな潤でいてほしいって言ってたよ。」
オレはこの時、潤が少しだけ泣き止んだように感じた。くぐもった声で、彼女はオレに問いかけてくる。
「・・・あの人たちが、そんなこと言ってたのぉ?」
「うん。あの人たち、きっとお店のナンバーワンの女の子を見て、潤もあんな感じになっちゃうって思ったんじゃないかな。あの子って、読者モデルがきっかけで人気者になったんだよね。」
「・・・あたしぃ、あの子みたいに、おべっか使うような女の子じゃないもん。」
あの女の子と一緒にしないでと言わんばかりに、潤は鼻声でそう言い返した。落ち着きを取り戻しつつも、彼女はまだいつもの調子とは言い切れなかった。
「ずっと夢見てきたことを実現できるってすごいことだし、素敵なことだと思うよ。だからオレも、潤のこと応援しようと考えてた。・・・でもさ、あの人たちの話を聞いて、オレ思ったんだ。・・・もし潤が読者モデルとして注目されて、人気が上がったらさ。輝かしい栄光を手に入れるのと引き換えに、潤のことを大切に想ってくれている、かけがえのないお客さんを失ってしまうんじゃないかって。」
ドアのそばから離れることなく、潤は口をつぐんだまま聞いていた。
「悩みごとの相談にも乗ってくれて、まるで親友のように触れ合ってくれる、そんな潤に会いたくて、あの人たちはお店に顔を出してくれるんじゃないかな。そう思ってる他のお客さんって、たくさんいるんじゃないかな。だからオレ、そういうお客たちのためにも、潤はやっぱり、ありのままの潤でいてほしいって、そう思ったんだ。」
お客たちだけではなく、このオレも、そんな潤の魅力ある人徳を感じていた一人だ。
初めてキャバクラを訪れた時、潤は持ち前の天真爛漫な接客で、独特の雰囲気に飲まれたオレを緊張から解き放ってくれた。
お客一人一人の気持ちを察して、時には微笑ましく甘えて、時には慰めるようにやわらかく、そして、時には叱りつけるように厳しく接する。そんな人間味溢れる潤こそが、ありのままの彼女自身なのだ。
「ありのままの、あたしで・・・?」
潤は自問自答するように囁いた。誰の心にもなく、彼女の心の中だけにあるその答えを、彼女は自らの意思で見出そうとしていた。
「あのさ、オレたちってまだ二十歳だよね。生意気言うかも知れないけど、まだまだ若いんだから、これからいろいろなことを経験していくし、学習もしていける。もちろん、どんなことにも挑戦できるしね。・・・だからさ、今からそんなに背伸びしなくてもいいんじゃないかな。先頭を必死になって追い抜くより、時間を掛けて、もっと自分を磨いてから追いつくのも、生き方の一つの選択肢だと思うな。」
そう切言して、思いの丈を締めくくったオレ。全力疾走した後のように、オレの全身はかなり汗ばんでいた。
オレのことを見守っていてくれたのだろうか。聞き耳を立てて、固唾を飲んでいる他の住人たちの息遣いが、静まり返った廊下の上に漂っていた。
ドアの向こうから、潤の吐息がかすかに漏れてくる。黙り込んだまま、彼女はどんなことを考えているのだろうか。オレはじっとしたまま、彼女からの答えを待ち続けていた。
「マサ、あたしさぁ・・・。」
そっと声を掛けてきた潤。しばし間を空けて、彼女は咎めるようにつぶやく。
「・・・今日で、あたし21歳なんだけどぉ。」
「あっ・・・!」
このまさかの失態に、オレは恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にさせていた。よりにもよって、誕生日当日に年齢を言い間違えるとは・・・。気取った台詞を並べていただけに、その恥ずかしさは半端ではなかった。
脂汗を拭いながら、ごめんなさいと謝罪の弁を述べるオレ。そんなオレを、カッコ付けるからこうなるんだと、潤は茶化すように冷やかしていた。
「はぁ~、年下のあんたなんかに慰められるなんて、お姉ちゃんとして、ホント情けない限りよねぇ。」
「おいおい、年上ってほんの数ヶ月しか違わないだろう。・・・でもさ、実年齢では年下だけどさ、精神年齢ではオレの方が大人だよな。」
「何言ってんのぉ。ろくに社会勉強もしてない、頭でっかちのあんたの方が、よっぽど子供っぽいじゃん。」
オレたちはドアを挟んで、子供の喧嘩のような言い合いを繰り広げていた。
いつの間にか、潤はすっかり泣き止んでいる。いつもと変わらない多弁ぶりで、オレの揚げ足取ってはおもしろがっていた。
「潤、あのさ。・・・ドア開けてくれないか?」
「もぉ~。・・・そんなにあたしの泣きはらした顔見たいのぉ?」
「そんなわけないだろう。渡したいものがあるんだ。」
しばらく悩んだ末、泣く泣くオレのお願いを聞き入れてくれた潤。ちょっと待っててとつぶやくと、彼女は立ち上がるなり、部屋の奥の方へと歩いていった。
小さな足音を立てて戻ってくると、潤はドアのロックを解除する。ゆっくりドアを開けると、大きなサングラスで泣き顔を隠した彼女が、ようやくオレの前に姿を見せてくれた。
「渡したいものって何よぉ?」
オレは何の変哲もないビニール袋から、一枚のDVDを取り出す。
「これ、たいしたものじゃないけど、誕生日プレゼント。日頃からお世話になっているお礼を兼ねてね。」
虚をつかれたように、潤は口を半開きにしたままキョトンとしている。何よりも、そのプレゼントがオレからだったことに驚いていたようだ。
呆気に取られたままお礼を言うと、潤はその誕生日プレゼントを受け取った。
「あ。・・・これぇ、ニャンダフルの名場面DVD。」
「奈都美から聞いたんだ。ニャンダフルの痛快な仲間たちのココットっていうキャラクターが好きだって。ホント言うとさ、ココットのキーホルダーをあげたかったんだけど、ほら、夕方の騒動があったせいで、売り切れちゃって買えなかったんだ。」
潤は黙ったまま、サングラス越しにDVDを見つめている
「だから、その代わりというか、せめてココットに関するものがいいだろうと思って、それを買ったんだ。値打ちもなくて、味気もないプレゼントでゴメンね。」
潤が少しでも喜んでくれたらと願うも、オレの予想とは裏腹に、彼女は引きつったように苦笑いしていた。まさか、本当につまらないプレゼントだと、歯に衣着せぬ物言いをつけるつもりだろうか。
「マサ。・・・あたし、これ持ってる。」
「へっ!?」
その衝撃の告白に、オレは自らの耳を疑った。誕生日を言い間違えたことに続き、本日二度目の失態だった。
言われてみれば、ココット大好きの潤のことだから、アニメの名場面DVDぐらい持っていてもおかしくはないだろう。あまりのカッコ悪さに、オレは穴があったら入りたいほど恥ずかしかった。
「ゴメン!またやっちゃったみたいだ。どうしようかな・・・。あ、そうだ、レシートが財布にあるから、まだ返品ができるはずだ。」
慌てふためいて、潤からDVDを返してもらおうとするオレ。ところが、返すことを拒むように、彼女はDVDをそっと胸の中で抱きしめた。
「いいよ、返品しなくてもぉ。せっかくのプレゼントだもん。今あるのと一緒に大切にするよぉ。」
潤はそう言うと、サングラスを外してニッコリと微笑んだ。彼女の笑顔はまるで、暗闇を打ち消すように明るく照らす太陽のように輝いていた。
優しい心遣いのおかげで、贈り物が無駄にならずに安堵するオレ。それ以上に、かわいらしく微笑んだ潤の表情に、オレはホッと胸を撫で下ろしていた。ひっそりと様子を伺っていた他の住人たちも、きっとオレと同じ思いだったに違いない。
無事にプレゼントを手渡す責務を終えたので、潤にこれ以上迷惑にならないようにと、オレは管理人室へ帰ることにした。
「オレ管理人室へ帰るね。じゃあ、おやすみ。」
そう挨拶をして潤に背中を向けると、間髪入れずに、彼女はオレのことを呼び止めた。
「ねぇ、マサ。もしまだ時間あったらさぁ、これからちょっとだけ、あたしに付き合わない?」
やることがあるとしたら勉強ぐらいだが、正直なところ、とてもそんな気分にはなれなかった。ちょっぴり寂しかったのか、オレは一人ぼっちになることが何となく嫌だった。
「うん、まだ眠くないし、別にいいけど?」
「あのね、このDVD見ながら、リビングでパーティーしない?」
潤は麗しくウインクして、オレにそう誘いを掛けてきた。誕生日パーティーが中途半端だっただけに、彼女は少しばかりお腹が空いていたらしい。
そんなオレも、潤のことを心配していたせいもあって、思ったよりも食事が喉を通らなかった。丁度いいと言わんばかりに、オレは彼女からのお誘いを快く受け入れることにした。
「・・・あれ、待てよ。」
よくよく思い出したら、リビングルームにはDVDを再生できる機器はなかったはずだ。オレがそのことについて尋ねると、ポータブルDVDプレーヤーを持参するから大丈夫と、潤は弾んだ声で即答した。
「そうそう、潤の好きなベイクドチーズケーキを冷やしてるんだ。よーし、これからそれを肴に一杯やりながら、DVDでも楽しむとするか。」
「わーい、やったぁ!そうと決まれば、すぐ行くよぉ!ほら、マサ、早く早くぅ!」
オレと潤の二人は、リビングルームで、二人きりのささやかなパーティーを開いた。おいしいケーキに舌鼓を打ちながら、オレたちはDVD鑑賞で賑やかな時間を過ごした。
「ほら、この子がココットだよぉ。かわいいでしょー?」
鑑賞している間も、潤は口やかましいほどに、このアニメの魅力について解説してくれた。とても嬉しそうに、とても楽しそうに、彼女はココットというキャラクターの魅力を絶え間なく語っていた。
もう悲しみに打ちひしがれて、涙にくれていた潤の姿はどこにもいない。オレの隣には、人懐っこく誰とでも親しく接してくる、そんなありのままの彼女だけがそこにいた。
「マサ。素敵な誕生日をありがとう。」
ケーキをお腹いっぱい食べた潤は、DVD鑑賞の終わりとともに、そうお礼を言い残して自室へと帰っていく。照れ笑いを浮かべていた彼女を、オレはすがすがしく晴れやかな気持ちで見つめていた。
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潤と入れ替わるように、ようやく帰路に就いた麗那さんがリビングルームまでやってきた。
仕事が長引くと、疲れ切った顔でうっぷんをぶちまけるのが恒例の麗那さんだが、今夜ばかりは、潤のことが気掛かりだったのか焦りの表情を浮かべていた。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって!それより、潤の様子は?パーティーどころじゃなかったんじゃない?」
「いっぱい泣いちゃいましたけど、今はかなり落ち着きましたよ。パーティーの方は、みなさんと相談して早めに切り上げることにしました。」
そう伝え聞くと、少しばかり落ち着いたのか、麗那さんはホッと胸を撫で下ろしていた。大切な妹のことを危惧する姉のような心境だったのだろう。
「でも本当にびっくりしたわ。潤が男たちに襲われたって、ジュリーからいきなり電話がくるんだもの。だけど、そのピンチを一緒にいたヒーローが救ってくれたって聞いたけど・・・。それってマサくん?」
潤のトラブルにびっくりして、ジュリーさんも混乱していたのか、麗那さんに事の一部始終が捻じ曲がって伝わっていたようだ。
ピンチを救ったのはヒーローではなくヒロインだったことや、雑誌の編集社の悪巧みのことなど、オレが嘘偽りない真実を述べると、それに合点がいったのか、麗那さんは納得したような顔をしていた。
「それはそうと、あかりさんには驚きましたよ。何たって、回り蹴り一発でカメラを破壊しちゃったんですからね。」
「マサくんは知らなかったかな。あかりの実家はね、有名な流派の空手道場なのよ。彼女、身の上話をしないから詳しくはわからないけど、道場の師範代ぐらいの実力はあるんだって。」
あのほっそりしたあかりさんが、空手道場の師範代クラスだとはまさに驚愕の事実だった。小さい頃から毎日稽古をしていたとは聞いていたが、それが空手だったとは、彼女の華奢な体つきからは想像できるはずもない。
「あかりは線が細いから意外だったでしょうね。でもね、ベールに包まれた彼女の体には、鍛え抜かれた強靭な筋肉が隠されているの。」
暑い日でも長袖長ズボン姿のあかりさんだから、その肉体美をこの目に触れることがなかった。ぜひとも拝んでみたいが、無闇にお願いしたら蹴り一撃で玉砕されてしまいそうだ。
「安心したらお腹が空いてきちゃった。マサくん、わたしの料理って残ってる?」
「はい、ちゃんと保存してますからご心配なく。レンジで暖めてから、ビールと一緒に持っていきますから、麗那さんは座って待っててください。」
麗那さんは感謝の言葉を口にして、嬉しそうにテーブル席へと腰掛けた。
冷蔵庫からタッパを取り出すと、オレは料理を一つ一つ丁寧にお皿へと盛り付ける。暖めたごちそうと冷たい缶ビールを抱えたオレは、麗那さんが待ちわびるテーブルへと向かった。
「わぁ、おいしそうな料理!いただきまーす。」
今夜の麗那さんはいつもと違い、箸を手にした途端、止まらない勢いで料理を頬張っていた。いつもの彼女ならビールばかり口にして、料理はおつまみ感覚で食べる程度だろう。潤が大事に至らなかった安心感そのものが、彼女をこれほどまでに食欲旺盛にさせていたのかも知れない。
「マサくん、乾杯だけでも付き合って。」
ついさっきまで、潤と一緒にお酒を飲んでいたものの、今夜のパーティーを締めくくるつもりで、オレは缶ビール一本だけお付き合いすることにした。
「それじゃあ、お疲れさまでした。乾杯。」
お互いの缶ビールをぶつけ合って乾杯するオレたち。住人全員がここに集い、揃って乾杯できなかった寂しさに、オレも麗那さんもちょっぴり無念さをにじませていた。
半分ほど飲み干した缶ビールをテーブルに置くと、麗那さんはうつむき加減でポツリと言葉を漏らした。
「潤、今日のこと、精神的にもかなりショックだったでしょうね。時が過ぎていく中で、辛いことも悲しいことも、忘れることができればいいんだけど。」
冴えない表情のまま、潤のことを気に掛けている麗那さん。潤のモデルへの憧れや、その奮闘ぶりをより知っていただけに、麗那さんはやるせない胸中を口にしていた。
「モデルを募集する裏側に、そういった陰謀めいたことがあったのは許されないけど、この業界では、こんな卑劣な手段で人を騙したり、陥れたりなんて、決して珍しいことじゃないの。・・・あの子はこういう実態を受け入れられるほど、まだ経験を多く積んでいないのよ。」
唇を噛み締めて、麗那さんは悔いるように拳を強く握り締める。
「・・・潤をこんな目に遭わせたくなかった。だから、あの子に、モデルという選択肢を考え直してほしかった。今でもね、応援してあげたいって思ってるわたしと、諦めてほしいって思ってる性悪なわたしが、ずっと心の中で葛藤してるの・・・。」
モデルとして一人前になるために、幾多の試練を乗り越えてきたはずの麗那さん。潤には、そんな辛い思いをさせたくないと願うように、彼女は痛々しい心情を吐露していた。
そんな憂い顔の麗那さんを励まそうと、オレは穏やかな表情で優しく語りかける。
「麗那さん、安心してください。潤なら、もう心配いりませんよ。」
「・・・え?」
その真意を伺うように、オレの方へ顔を向ける麗那さん。
「ついさっきまで、オレ、ここで潤と一緒にいたんですよ。パーティーが中途半端だったから、続きをしようみたいな感じで。その時に、彼女がオレにこんなことを話してくれたんです。」
潤と語り合った記憶を辿りながら、オレはその時の会話を麗那さんに伝える。
「麗那さんに憧れるあまり、潤はカッコいいモデルになりたくて、麗那さんにいろいろとアドバイスを受けていたそうですね。彼女が、モデルになるにはまず何をすべきかって尋ねてきたこと、麗那さんはそのこと憶えてますか?」
「うん。うろ覚えだけどね。でも、わたし、どう答えたかしら・・・。」
もどかしそうな様子の麗那さんに代わって、オレがその答えを代弁する。
「麗那さんから、一にも二にも、大人になったと自覚することね、と言われたって、潤はそう話してました。」
「あ、そうそう。あの子、とにかく目先のことばかり考えるから、ついね。」
麗那さんはその時のことを思い出して、クスッと口元を緩めていた。
「潤はその時、麗那さんの言わんとしていることがわからなかったそうです。だから、モデルみたいに華々しく輝くことで、その答えがきっと見つかると思ったんです。」
一人の女性として大人になるために、大人になったと自覚するために、潤はキャバクラに勤めてひたすら女を磨いていくが、年齢を重ねてみても、その答えは見つからないままだったそうだ。
「・・・大人になるのって、ただ年齢を重ねるだけじゃないんだって。潤はさっき、今になってようやく、麗那さんの言っていたことが少しだけわかった気がするって、そう話してました。」
結果ばかりを期待するあまり、すぐ足元にある困難や苦悩といったものを見落としていたこと。そのことから背を向けることなく、いつまでも落ち込んだりせず、前に向かって歩んでいくことこそが、大人として成長していくことなんだと、潤は自分なりにそう感じていたようだ。
「・・・潤がそんなことを?」
「はい。モデルになる夢は絶対に諦めないって、潤は吹っ切れたように言ってましたよ。もっともっと女として成長して、大人になれたと自覚できたら、もう一度挑戦するんだって息巻いてました。」
「潤も懲りないわね。・・・ほろ苦い経験を積んで、ちょっとは成長したのかな。」
麗那さんは苦笑しながら、溜め息を一つこぼした。とはいったものの、彼女の顔はとても穏やかだった。
「麗那さん。これからの潤のこと応援してあげませんか?彼女は今日、一つ年を重ねましたけど、一つ以上に大人になれたと思うんです。・・・オレなんかよりも、ずっと大人になれたと思ってます。だから、麗那さん。モデルになりたいっていう彼女の夢、これからも見守ってあげませんか?」
少しばかり悩んだものの、オレの期待に応えるように、麗那さんは晴れやかに笑ってくれた。
「潤の将来は、あの子自身が決めることだもんね。あの子だって、ずっと子供じゃないんだし。生半可な気持ちじゃなく、真面目にモデルを目指すのなら、わたしはもう諌めたりせず、できる限り見守ってみるわ。」
「ありがとうございます、麗那さん。」
麗那さんは缶ビールを手にするなり、グイッと口元に注ぎ込むと、空っぽになるまで一気に飲み干してしまった。
「はー、おいしい!マサくんもほら、遠慮しないで。わたしたちのパーティーはこれからよ。」
心のわだかまりが解けたのか、麗那さんは屈託のない笑顔を見せていた。そんな彼女のおかげで、本日の最後の最後に、このリビングルームに賑やかさが帰ってきてくれた。
「フフフ、でも、潤のピンチを救ってくれたのって、あかりっていうヒロインじゃなくて、本当は、マサくんっていうヒーローだったんじゃないの?」
頬を赤くした麗那さんが意地悪っぽくそう言った。いつもなら照れ隠ししながら否定するところだが、今夜ばかりはヒーローの気分でいたかった。しかし、現実のオレはというと、缶ビールやおつまみのおかわりを持って、リビングルームを駆けずり回るウェイターそのものだった。
時間の経過とともに、オレの気持ちはどんどん楽しくなっていく。その心地よさに高揚してしまい、オレはつい二本目の缶ビールに手を付けてしまっていた。
第三話は、これで終わりです。
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