第一話 三.歌姫の秘められた過去
数日後の夜のこと。オレは一人でリビングルームの流し台にいた。
夕方からこの時間まで勉強に集中していたせいで、オレはまだ夕食を済ませていなかった。悲鳴のような音を鳴らすお腹をさすりながら、オレは夕食のおかず作りに励んでいた。
「さーてと、冷蔵庫に何が残ってたかな?」
冷蔵庫を開けてみると、そこには、いつもと変わらない光景が待っていた。
「うわぁ、またこんなにいっぱい詰め込んじゃってー。」
冷蔵庫の中は、ジュリーさんや麗那さんが楽しむお酒の缶や、潤が愛飲している牛乳パックなど、住人たちの嗜好品で埋め尽くされていた。
嘆かわしいことに、オレが買ってきた夕食用の食材は、その嗜好品たちに追いやられて、奥の方で小さくまとめられていた。
「これじゃあ、冷蔵庫が冷えないじゃないか。」
この惨状に居たたまれなくなり、夕食の支度もそっちのけで、オレは冷蔵庫の整理を始めてしまった。
無造作に押し込まれていた缶を抜き出しては、スペースを確保しながら再配置していくオレ。しかし、スペースを意識し過ぎたせいか、冷蔵庫に入りきらない缶が一本だけ残ってしまった。
「そもそも、何本も一度に冷やす必要あるのかな。この残った一本どうしよう。」
そう独り言をつぶやきながら、冷蔵庫の前でしゃがみ込んでいたオレ。すると、リビングルームのドアが開いて住人の誰かが入ってきた。
誰かいるの?と尋ねてきた住人に、オレはここにいますと手を振って返事をした。
「こんなところで何してるノ?」
リビングルームにやってきたのは、アルバイトから帰ってきたばかりのジュリーさんだった。
カットソーのシャツ一枚にホットパンツ姿のジュリーさんは、不思議そうな顔をしながらオレのそばへと近づいてきた。
「夕食のおかず作ろうとしたら、冷蔵庫がごちゃごちゃだったもんで。さっきから冷蔵庫の整理をしてたんですよ。みんな、無理やり詰め込むもんだから。」
そう嘆きながら、オレは冷蔵庫から漏れてしまった缶チューハイを手にする。
「それ、片付ける必要なしヨ。わたしに渡して。これから一杯やるからネ。」
オレの手から缶チューハイを掴み取ったジュリーさん。鼻歌交じりでプルトップを引いて、彼女はお酒を口に含みながらテーブル椅子へと腰掛けた。
「ねぇ、マサ。これから、夕食のおかず作るとか言ってたよネ?ついでに、わたしのおつまみも作ってヨ。いつもの乾き物切らしてるから。」
すっかり居酒屋のお客様気分で、ジュリーさんは酒の肴を注文してきた。
このまま気軽に了解するのも釈然としないので、オレはここぞとばかりに、気になっていたジュリーさんの過去について詮索しようと企んだ。
「作ってもいいですけど、その代わり。・・・ジュリーさんの過去のこと、話してくれませんか。」
「ハァ?」
オレからの唐突な質問に、目を丸くして身構えたジュリーさん。
「ジュリーさんが、ジャズボーカリストだった頃のこと、少しでもいいから話してくださいよ。」
以前、このことを尋ねようとしたら、ジュリーさんから秘め事扱いされてしまい、詳しい話が聞けずじまいだったオレ。あの絶世の歌声を聴いてからと言うものの、ひのき舞台に立つ歌い手時代の彼女に、オレは心なしか興味を抱いてしまっていた。
「何でそんなこと知りたがるのヨ?」
「興味本位です。だって、ボーカリストなんて珍しいですからね。」
複雑な心境をそのまま顔に表すジュリーさん。泣く泣く彼女は、おつまみを優先するとばかりに、オレとの交換条件を受け入れてくれた。
缶チューハイをクイッと喉元に流し込むと、ジュリーさんは一昔前の自伝を語り始める。彼女の話に耳を傾けながら、オレは包丁片手に料理の支度を始めた。
「わたしが、ボーカリストになったのは、単純なきっかけだったのヨ。」
ジュリーさんは幼い頃から歌に関心を持ち、中学生の頃からレッスンスタジオに通っていた。当初は、昔ながらのアメリカンポップスに興味を示していたものの、ある時、両親に連れられて、あるジャズバンドのライブを観賞したことがきっかけで、本格的にジャズにのめり込んでしまったそうだ。
「わたし、身内でいろいろあってサ、二十歳の頃、就職浪人ってヤツになっちゃったのヨ。・・・職に就けず、今のようにフリーターで生活してた時に、アルバイト先のフレンドと一緒にジャズ喫茶に飲みに行ったんだ。そうしたら、たまたまお店でね、アマチュアのジャズバンドがライブを開催していたのヨ。」
その卓越されたバンドの演奏に、ジュリーさんは失いかけていたジャズ魂に火が付いてしまった。酔っ払った勢いもあって、彼女は他のお客がいる前にも関わらず、その演奏に合わせて歌いだしてしまったのだ。
ジャズ喫茶の関係者に取り押さえられてしまったジュリーさん。お店を追い出されようとしたその時、一部始終を見ていたジャズバンドのリーダーが、彼女の歌声に聴き惚れてしまったからと、メンバーの一員へとスカウトしてきたのだという。
「・・・その時のバンドが、アマチュアとはいえ、都内では有名なバンド、ローリングサンダーよ。」
「ローリングサンダーって、何だかジャズにそぐわないバンド名ですね。」
物思いに耽ながら、ジュリーさんはその続きを話してくれた。
ジュリーさんはボーカリストの条件として、月数回開催されるライブに参加すること。報酬はライブ一回につき、交通費別で五万円という提示を受けた。
就職浪人だったジュリーさんにしてみたら、歌えるだけではなく給料までいただけるなんて一石二鳥だと、彼女は迷うことなく快諾した。こうして、彼女はボーカリストとしての第一歩を踏み出すことになる。
観衆の前で歌声を披露できる喜び、その群集から拍手喝采を浴びる嬉しさ。ジュリーさんはその充実感に満たされて夢のようなひと時を過ごしていく。彼女の非凡な歌唱力に、バンドマンの経験豊富な演奏能力の高さもあって、そのバンドのライブ活動は飛躍的に増えていったそうだ。
「・・・おかげさまで、バンドでの活動がだんだんと忙しくなってきてネ。わたし、他のアルバイトを辞めて、ボーカルを本業としてやっていくことにしたのヨ。楽しかったワ、東京以外の場所にも行けたし、いろいろなステージで歌えたからネ。」
「そんなに楽しいことがいっぱいだったのに、どうして辞めちゃったんですか?」
核心を突こうとオレがそう問いかけると、ジュリーさんは人差し指をそっと口元に宛がう。
「マサ。これ以上はヒ・ミ・ツよ。」
「あー、またそれですか。ちょっとだけでも教えてくださいよぉ。」
懇願するオレを嘲笑うように、ジュリーさんはクスクスと微笑みながら、いずれチャンスがあればと含みを持たせた。
「わたしはちゃんと話したわヨー。マサ、おつまみ早くしてネ。あと、缶チューハイおかわりも!」
「はいはい。もう少しでできるんで待っててくださいね。」
細かく切った豚肉と野菜をフライパンで炒めて、オレは塩コショウを軽く振り掛ける。程よく火の通った食材たちをお皿に移して、その上に炒りゴマと刻み海苔を散らせば、オレ流の肉野菜炒めの完成である。
冷蔵庫から缶チューハイと麦茶を取り出したオレは、今夜のメインディッシュを手に、ジュリーさんの待つテーブルへと向かった。
「はい、お待たせしました。」
「ワオ!これはおいしそうネ。いただきまぁーす。」
ジュリーさんは箸を上手に使いこなし肉野菜炒めをつまんでいく。そして、うんうんとうなづいて、オレに向けてOKサインを示してくれた。
「ベリーグッ、おいしいわヨ。塩加減も丁度いいし、このゴマと海苔がいいアクセントになってるネ。」
「ありがとうございます。でも、いっぱい食べないでくださいね。これ、オレの夕食のおかずも兼ねてるんですから。」
電子レンジで暖めたインスタントごはんをいただきつつ、オレもジュリーさんと一緒に肉野菜炒めを味わう。
孤食ばかりのオレだけに、誰かと一緒の食事はよりおいしさを感じさせる。人との触れ合いという調味料が、食事をおいしくする一つの要素になってくれたようだ。
「あら、車の音かしら。アパートの前に止まったみたいネ。」
オレたちが食事をしている最中、窓の向こうから自動車のエンジン音が聞こえた。
「麗那さんが帰ってきたみたいですね。」
自動車がゆっくりと走り出したと思ったら、しばらくして、廊下の方から小さな足音が響いてきた。
「たっだいまぁー。」
リビングルームのドアを開けて、仕事帰りの麗那さんがやってきた。今夜は仕事が長引いたらしく、マネージャーに送ってもらったようだ。
オレがこんな時刻に食事をしていたせいか、麗那さんは目を丸くして不思議そうな顔をしていた。
「受験勉強に集中してたら、いつの間にかこんな時刻になってしまって。」
「で、わたしは、マサの手料理をおつまみに晩酌してたのヨ。麗那も缶ビール持って、こっちいらっしゃいヨ。」
ジュリーさんのお誘いに笑顔を浮かべて、麗那さんは缶ビール片手にオレたちの仲間へと加わった。
「それじゃあ、改めてカンパーイ!」
丁度よかったと言わんばかりに、麗那さんは仕事先で買ってきたお土産を広げた。そのお土産とは、仙台市名産と謳う牛たんの佃煮だった。
「麗那さん、今日って仙台に行ってたんですか?」
「うん、ちょっとしたロケを兼ねてね。東北だから涼しいと思ったら、向こうもやっぱり暑かったわ。」
賑やかにおしゃべりし、にこやかに笑うオレたち。そんな蒸し暑い夏の夜に、楽しい時間だけがゆったりと過ぎていった。
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和気あいあいとした時間はあっという間に流れて、いつの間にか、時刻は夜10時を過ぎていた。
騒ぎ過ぎて疲れてしまったと、ジュリーさんは少し前に自室へと引き上げて、リビングルームには、オレと麗那さんの二人だけが残っていた。
テレビから流れるニュースダイジェストを見ながら、麗那さんは残り少ない缶ビールを口にしている。オレの方はというと、食器類の洗浄をしながら食事の後片付けをしていた。
「う~ん、今日は長距離だったから疲れたなぁー。」
テレビがコマーシャルに切り替わった途端、麗那さんが唸り声とともに大きく伸びをした。
「麗那さん、明日も午前中から仕事ですよね?早めに休んだ方がいいですよ。」
「うん。これ飲んじゃったら終わりにするから。」
朝から晩まで働き尽くめの麗那さん。疲労を口にすることはあっても、いつも笑顔を振りまいて、彼女は疲れた表情をまったく見せることがない。オレや他の住人たちを心配させまいと、気を遣ってくれているのだろうか。
麗那さんの献身的な姿勢を見るたびに、オレはただただ頭が下がる思いだった。
「でもね、マサくんがここに来る前は、こんなに楽しい時間って多くなかった気がするの。」
麗那さんはふと、そんな台詞をつぶやいた。回想するように、彼女は話を続ける。
「きっとみんな、マサくんを新しい住人として見てるからかな。管理人代行といっても、共同生活してるわけだし。それに、マサくんはわたしたちと年齢も近いから、親近感がわいているのかもね。」
管理人代行として喜んではいけないけど、オレ自身も、住人たちとはそういう感覚で触れ合っていた。
東京に出てくるまでは、受験勉強に没頭する孤独な浪人生だったオレ。生活スタイルは劇的に変わってしまったものの、このアパートでの毎日は楽しく、とても有意義な生活だった。
「そうですね。オレの場合、管理人代行のくせに、住人みなさんに面倒見てもらってる感じだし。日頃から、かわいがられたりしてますから。」
そう言いながら、オレは恥らうように苦笑していた。
「でも、麗那さん。それって言い換えれば、オレのじいちゃんが管理人だった頃が楽しくなかったみたいに聞こえちゃいますね。」
オレの指摘に、呆気に取られた顔をする麗那さん。彼女は慌てふためいて弁明する。
「ち、違うわよ。管理人さんは管理人さんですっごく楽しい人だし、その何ていうか・・・。あー、もう、マサくんの意地悪ー、もう知らない!」
麗那さんはふくれっ面して、オレからそっぽを向いてしまった。
オレはちょっと冗談が過ぎてしまったと反省し、ひたすら謝り続けて許してもらったのはいいが、その後、お姉さんをからかわないようにと、麗那さんにきつく説教されてしまった。
「でも、管理人さん。早く元気になって退院できるといいね。」
「はい。担当のお医者さんの話では、もう少し療養した方がいいって言ってました。ただ、それって、じいちゃんからの人づてなんで、ちょっと半信半疑なんですけどね。」
そんな会話をしながら、眠たい衝動に駆られつつ、オレは食器類の後片付けを済ませる。テーブル椅子に座ったままの麗那さんは、まだテレビを観賞していた。
「それじゃあ、オレ、お先に休ませてもらいます。おやすみなさい。」
「うん。おやすみ、マサくん。」
大きなあくびをしながら、リビングルームを出ていこうとするオレ。すると、7月の壁掛けカレンダーに目が留まった。
よく見ると、丁度一週間後の日付に、赤いマジックで花丸マークが書かれている。これは、月に一度開催される恒例のお楽しみ会のことだろうか。
「麗那さん、このカレンダーの花丸マークは恒例のお楽しみ会ですか?」
「そうよ。でも、今月のお楽しみ会はね、ちょっとだけ趣向が違うの。」
含みのある表現をする麗那さん。彼女はその趣向について話してくれた。
「その日はね、潤の21回目のお誕生日なの。だから7月のお楽しみ会は、潤の誕生日パーティーという形で開催するのよ。」
その月に住人の誕生日がある時は、お楽しみ会と兼ねて、その住人の誕生日を祝うパーティーをするそうだ。誕生日パーティー当日の夜、このリビングルームに住人みんなが集って、お酒やおつまみを囲んで賑やかに騒ぐのだという。
「へー、この日って潤の誕生日だったんですか。」
「うん。だから、マサくんにも参加してもらうし、お手伝いもあるからよろしくね。」
「ええ、それはぜんぜん構いませんよ。」
そんな話をしながら、オレは壁掛けカレンダー上の花丸マークを眺めていた。
「・・・そうか、潤は7月生まれか。ということは、オレの方が年下だったのか。」
つい先日、大人っぽくて妖艶な潤を目の当たりにしていたオレ。見た目だけではなく、年齢でも一つ先を越されてしまうことに、オレは心なしか劣等感のようなものを覚えた。
「それじゃあ、オレ行きますね。おやすみなさい。」
「あ、マサくん。」
麗那さんの呼びかけに振り返るオレ。
「ちなみに、わたしの誕生日は12月よ。かっこいいお祝いの言葉と、素敵なプレゼントよろしくね♪」
麗しい眼差しと色っぽい唇を武器に、麗那さんは艶かしく微笑する。ピンク色に染まった頬が、彼女の色香をより一層際立たせていた。
「ははは。了解しました。期待しててください。」
胸の高鳴りを抑えつつ、冷静さを装いながらリビングルームを後にすると、オレは廊下に一人立ち尽くし、顔の火照りを冷ましていた。
「来週は潤の誕生日パーティーかぁ。何か、プレゼントとか考えた方がいいのかな・・・。」
そうつぶやきながら、管理人室へと足を進めるオレ。潤の誕生日パーティーを盛り上げるアイデアはないかと、オレはアマチュア並みの思考回路をフル回転させていた。
第一話は、これで終わりです。
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