第一話 一.わがままな小悪魔
日もすっかり暮れた夜7時、「串焼き浜木綿」には「ハイツ一期一会」の住人たちが集っていた。
これより恒例の宴を兼ねて、以前、アパートの住人だった六平奈都美を交えた、再会祝賀パーティーが開催されようとしていた。
今夜の浜木綿は貸切だったので、特等席である個室を占領するオレたち。
マスターが腕によりを掛けて作った創作料理が、個室のテーブルを華やかに飾り立てていく。各自のドリンクが出揃ったところで、オレは慎ましくパーティーの開会を宣言する。
「これより、住人のみなさんと奈都美の再会を祝したパーティーを開催します。今夜の主役は奈都美だから、彼女から簡単な挨拶と、ついでに乾杯の音頭もしてもらいます。」
テーブルを取り囲む住人たち、そして浜木綿のスタッフたちが、大きな拍手で奈都美を掻き立てる。
「ほら、奈都美。」
着席するオレと交代するように、奈都美はゆっくりと腰を上げる。彼女は照れくさそうに、顔をポリポリと掻いていた。
「えっと・・・。今夜はその、あたしのためっていうか、再会パーティーなんだけど、その前にあたし、みんなに謝らなきゃいけないことがあるの。」
プロサッカー選手になれたものの、理想と現実のギャップに耐え切れず、逃げるようにチームから離れてしまったこと。その惨めさから、住人たちに相談することもできず、ただひたすら自分自身を追い込んでいたことを、奈都美は沈痛な面持ちで打ち明けた。
住人たちに連絡先を知らせなかったことや、冷たい態度を取ってしまったことを改めて陳謝する奈都美。住人たちはみんな、そんな彼女に暖かい笑顔を向けてくれた。
「それでも奈都美、プロに入ったのヨ。それだけでもワンダフル、素晴らしいワ。ぜんぜん恥ずかしいことじゃないヨ。」
「そうだよぉ、奈都美サッカーうまいんだもん。当然だよねぇ。辞めちゃったのは残念だけど、無理ないところあるもん。」
「そうね。プロの厳しさを実感したというところかしら。こういう結果は仕方がないけど、これもいい経験だったわね。」
住人たち三人は慰めながら、自分たちの過去や経験を振り返っていた。
アマチュアバンドのボーカリストだった三樹田ジュリーさん、キャバクラという舞台に立つ四永潤、プロ漫画家として活躍する五浦あかりさん、三人それぞれが、プロフェッショナルというハイレベルな世界に思いを馳せていたようだ。
「奈都美、よく正直に打ち明けてくれたね。みんな、あなたのこと本当に心配してたのよ。あなたはわたしたちにとって、大切な親友なんだから。これからも、それを忘れたりしないで。」
奈都美を諭すように声を掛けたのは、ファッションモデルというプロの世界で活躍するニヶ咲麗那さんだ。麗那さんは優しく微笑んで、奈都美を家族の一員のように気遣っていた。
「麗那さん、それにみんな。本当にごめんなさい。」
住人たちや、浜木綿のマスターと店員の九峰紗依子さんの心配りに、奈都美はひたすら感謝の気持ちを述べていた。この微笑ましくも固い絆で結ばれた友情の形に、オレは心から喜びを噛み締めるばかりだった。
「それじゃあ、みなさん、カンパーイ!」
奈都美の元気な乾杯の音頭に、持ち上げたグラスを手にして、参加者一同大きな歓声を上げる。それぞれグラスを重ね合い、いよいよ、楽しく賑やかなパーティーが幕を開けた。
住人たちみんなは、奈都美との再会を喜びながら、彼女との思い出や失敗談などで盛り上がっていた。
こんな彼女たちを見ていると、一年間というブランクがあったことをまったく感じさせない。今でも住人の一人のように、奈都美は気の合う親友たちとのじゃれ合いを楽しんでいた。
「ほら奈都美、あんた主役なんだからぁ。グイッと一杯やっちゃいなよぉ!」
「あたしはお酒、飲めな~~い!」
パーティーが始まって1時間ほど経過しても、楽しいひと時はまだ続いていた。お酒も程よく進み、テーブルの料理も散らかり始めた頃のこと。
「マサ。」
ウーロン茶のグラスを持って、オレの横にやってきた奈都美。すべてを打ち明けて、彼女はとてもすがすがしい表情をしていた。
「今夜は、みんなの都合とかお店の都合とか、いろいろと面倒かけちゃってゴメン。ホントにありがとう。」
奈都美はかしこまってお礼すると、そのままオレの横へと腰を下ろした。
「あたし、みんなに隠してきたこと、全部話したおかげでスッキリしたよ。」
「表情を見れば、そのぐらいわかるよ。よかったね、パーティー開いた甲斐があったじゃないか。」
すぐそばで騒いでる住人たちに、奈都美は敬いの視線を送っている。
「こんな感じで、みんなからがんばれって励まされたし、あたしさ、チャンスがあったら、もう一回チャレンジしてみようと思う。プロサッカー選手になって、エースストライカーになる夢。」
そう自分に言い聞かせるように告白すると、奈都美はきりっと表情を引き締めていた。
「そうか。オレも陰ながら応援するよ。オレに協力できることがあれば、気軽に言ってよ。」
「サンキュー、マサ。」
感謝の気持ちからか、奈都美はオレのグラスにビールを注ぎ入れてくれた。ところが、注ぐことに不器用だったようで、グラスからビールの泡が溢れ出してしまった。
「あ、ゴメンゴメン!勢いよく、入れすぎちゃったね。」
おしぼりを手にした奈都美は、こぼれ落ちたビールを丁寧に拭き取る。そして、彼女は囁くように話し掛けてきた。
「マサ、感謝ついでに早速、一つだけ協力してほしいんだけど、いいかな?」
オレがどんなことか尋ねると、奈都美はいつもの癖なのか、顔をポリポリと掻いていた。
「あのね、あたしのサッカーの練習相手になってほしいんだ。」
その協力要請に、口に含んでいたビールを吹き出しそうになったオレ。サッカーのルールすら知らないオレを、まさか練習相手に指名するとは思いもしなかった。
「ちょっと待ってくれ。オレ、サッカーのこと何も知らないのに、練習相手なんて務まるわけないよ。」
首を大きく振って拒絶するオレに、奈都美は説得しようと事細かく解説する。
「サッカーに詳しいとか、テクニックが必要とか、そういう練習じゃないの。詳しく言うと、あたしの練習のサポートをしてほしいんだ。あたしのドリブル練習の邪魔をしてもらったり、トラップ練習の時、ボールをパスしてもらったり。ほら、そういうのって、一人じゃ練習できないでしょ。」
それを踏まえた上で、改めて、練習相手になってほしいと頼み込む奈都美。
奈都美の話を聞く限りでは、サッカーに無知なオレでも練習相手が務まりそうだ。しかし、ボールをまともな方向に蹴り出せないオレでも、果たして問題ないのだろうか。
「でもさ、オレ、ボール蹴るの下手だよ。それでも練習相手になると思うかな?」
「それを承知でお願いしてるんだ。マサの蹴るボールって、ある意味ミラクルだからさ。その方が、あたしにとっていい練習になりそうだから。」
そう言いながら、奈都美は口元を緩めていた。悔しいけど、当たってるだけに反論できないオレ。
いささか不安はありつつも、少しでも奈都美の役に立てればと、オレは彼女のお願いを受け入れることにした。
「よかった!ありがとう。」
まるで、子供のようにはしゃいで喜んでいる奈都美。躍動感溢れる彼女を見ていたら、少しでもサッカーボールを蹴る練習をしなければと、オレは内心そう思わずにはいられなかった。
「・・・ん、何の音?」
オレと奈都美の耳に小さなメロディーが届いた。それは、3秒ほどの電子的なメロディー音だった。
そのメロディーの発信源を探ろうと、奈都美はキョロキョロと周囲を見渡している。すると、オレたちの対面に座っていた潤が、バッグの中から素早く携帯電話を取り出した。
「あ、もしかして、今の音って潤の携帯電話?」
「うん、そうだよぉ。」
奈都美の問いかけに、潤は携帯電話を操作しながらうなづいた。
潤は慣れた手つきで、携帯電話の着信メールをチェックをしている。その様子を、奈都美は呆れた顔で見つめていた。
「それにしても、最近の女子は何でもかんでも携帯電話だよね。そんなにおもしろいのかな。あたしにしてみたら、そんなもの、邪魔なだけで何の役にも立たないけどねー。」
潤と同年代なのに、年配者のような言い方をする奈都美。携帯電話を自在に操る潤に、奈都美は冷ややかな視線を送っていた。
今時の女子代表と言わんばかりに、潤は口を尖らせながら、携帯電話を持たない奈都美に言い返す。
「おもしろいじゃん!メールできるしぃ、ブログできるしぃ、カメラ付いてるしさぁ。まだまだおもしろい機能いっぱいあるよ。ハッキリ言っちゃうけどぉ、あたしぐらいの年代で、ケータイ持ってないの奈都美だけじゃない?」
「そんなことないって!だいたい、携帯電話持ってなくても生活できるよ。電話なら家から掛ければいいし、メールとかブログなんか、パソコンで楽しむものだもん。それに、カメラなんてプライバシーを無視した不道徳な機能じゃない。いい若者が携帯電話なんかに没頭しちゃうと、近いうちに根暗になっちゃうよ。」
奈都美と潤の二人は、携帯電話をテーマに徹底討論を繰り広げている。お互いの意見も理にかなっているし、どちらも間違っていないだけに、終焉の見えない論争が切れ目なく続いていた。
「奈都美、ケータイをまともに使ったことないからそんなこと言うんだよぉ。使いこなせないだけじゃん。ねぇ、マサもそう思うでしょ?」
「そうじゃないもん。あたしだって携帯電話ぐらい使いこなせるよ。そこまで機械音痴じゃないんだから!マサからも、何か言ってやってよ。」
とうとう、このオレも討論に巻き込まれてしまった。これ以上波風を立てないように、二人の意見を尊重しながら、オレは必死になって応対していた。
この場がようやく沈静化しようとした矢先、またまた、潤の携帯電話からメロディー音が鳴り響いた。
「あ、メールだぁ。」
かぶりつくように携帯電話のチェックをする潤に、奈都美が叱り付けるような口調で叫んだ。
「ちょっと潤!話してる最中に携帯電話見ないでよ。失礼でしょう?」
「ちょっとメール見てるだけだもん。そのぐらいいいじゃん!」
そんなわけで、まだまだ、彼女たちの激論は終わりそうになかった。
もう勘弁してもらおうと、オレはトイレに行く振りでごまかして、この場から避難するように抜け出した。
===== * * * * =====
一方、カウンター席には、麗那さんと紗依子さんの仲良しコンビがいた。
今夜はオレたち以外のお客が誰もいないせいか、紗依子さんはすっかりお客様気分のようだった。紗依子さんはグラスの焼酎を口にしながら、ビールジョッキを手にした麗那さんと雑談を楽しんでいた。
そんな彼女たちに呼び止められたオレ。こっちへおいでと手招きされたので、オレは二人の隣の席に腰掛けた。
「随分、楽しそうな話をしてたみたいですね。何の話題ですか?」
オレの素朴な問いかけに、麗那さんは微笑しながら答える。
「もちろん、紗依子相手に盛り上がる話題といえば、アレしかないでしょう?」
「アレって・・・、もしかしてアレですか?」
アレとは、オレたち三人しか知らない、あの話題のことだろう。
「あー、もうもうもう!麗那、勘弁してよー。」
恥じらいに照れていたのか、それともお酒に酔いしれていたのか、紗依子さんは頬をピンク色に染めている。そのおしゃべりを封じようと、彼女は必死になって訴えかけていた。
そんな紗依子さんなど気にも留めず、ニンマリしながら声を弾ませる麗那さん。
「紗依子ったらね、あのお医者さんともう一回、スタートラインに立ってやり直そうって話になったらしいの。それでね、まだ数日しか経ってないのに、したたかにも、もう二回もデートしちゃったんだって!」
「きゃー、麗那、これ以上はダメダメダメぇー!」
真っ赤な顔をしながら、しどろもどろになる紗依子さん。悪いと思いながらも、オレはクスクスと笑みがこぼれてしまった。
冷たいおしぼりを顔に宛てて、紗依子さんは火照りを冷ましている。はにかんでいる彼女を見ていたら、このオレまで幸せな気分になれた。
「おめでとうございます、紗依子さん。本当によかったですね。」
「どうもありがとう。わたし、マサくんには頭が上がらないわね。」
嬉しさを顔に浮かべて、紗依子さんは感謝の言葉を述べていた。
「あのお医者さん、オレと話し合ったその日の夜に、紗依子さんを尋ねたんですよね。」
「ええ。正直びっくりしたわ。お店に入ってくるなり、いきなり、紗依子!って叫ぶもんだから。」
紗依子さんの話によれば、あの医師は紗依子さんの名前を叫んだ後、他のお客がいる中でもためらうことなく土下座したそうだ。店内奥へ隠れようとした彼女も、その土下座にはさすがに驚かされたという。
見るに見兼ねたマスターが、ひれ伏す医師を窘めながら追い返そうとした。しかし、その医師は必死の形相で、紗依子さんに謝罪の言葉を叫び続けたらしい。
「とにかく、すまなかったって・・・。あの人、それだけしか言わないの。付き合ってた頃から、そんなに頭を下げる人じゃなかったから、わたし、ホントに唖然としちゃって。」
常日頃から人を見下ろすような性格の医師が、頭を下げながらひたすら謝り続ける。紗依子さんの夢を蔑視してしまったことを償おうとする彼。
その時、紗依子さんの心境に変化が訪れた。真心を込めて誠意を尽くす医師の姿に、彼女の戸惑っていた気持ちが揺れ動いたのだ。
土下座したままの医師にそっと手を触れる紗依子さん。彼女は優しく語りかけて、彼に頭を上げるよう促した。
「・・・今夜も、いつものように食事に来てくれたんでしょう?あなたの気持ちはわかったわ。食事が終わってからゆっくり話しましょう。」
その後、マスターの計らいもあって、その医師と紗依子さんの話し合いの席が持たれた。こうして二人は、最近の私生活や仕事といった近況について語り合ったという。
「というわけで、ちょっとだけギクシャクしたけど、それなりに、わだかまりなくお話できたんだけどね。」
紗依子さんがそう振り返っていると、その時の目撃者でもあるマスターが割り込んできた。
「相通じてるっていうのか、オレなんか邪魔者って感じで、二人ともいい雰囲気になってさ。この二人は本当にお似合いなんじゃないかって、オレはその時正直に思ったね。」
「や、やだぁー!マスターったら何言ってるんですか、もう!」
紗依子さんは照れくさそうに、マスターにおしぼりを投げつけていた。そんな幸せいっぱいの彼女を、オレと麗那さんは止め処なく冷やかし続けていた。
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歓談のひと時は瞬く間に過ぎて、再会パーティーも閉幕の時を迎えている。みんなで一本締めをした頃、時刻は夜9時を回っていた。
これからが本業とばかりに、マスターと紗依子さんは散らかったテーブルを片付け始める。散らかした張本人のオレと麗那さんも、そんな二人のお手伝いを買って出ることにした。
「それにしても、今日は大騒ぎだったなぁ。」
すっかり酩酊状態のジュリーさんは、あかりさんの腕を掴んだまま、陽気にゲラゲラと笑っていた。
あかりさんも酔っ払っていたのか、色白な頬がピンク色に染まっている。ジュリーさんの腕を振り払うこともなく、彼女は眠たそうにうつむいていた。
奈都美は後ろ髪を引かれる思いで、翌朝早くからトレーニングだからと申し出て、すでにお店を出ていった後だった。
そして、最後に残った潤はというと。
「・・・うわぁ、潤、これは二杯目いっちゃってますね。」
潤はどうやら、アルコールのデッドラインである二杯目を超えてしまったようだ。彼女はお酒にかなり弱く、二杯目を飲んでしまうと完全に酔いつぶれてしまう。
案の定、潤はテーブルにうつぶせたまま、クークーと寝息を立てていた。こうなってしまうと、オレは彼女をおんぶして、アパートまで帰る運命となるのである。
「麗那にマサくん、どうもありがとう、手伝ってくれて。そろそろ潤を抱えてあげて。」
紗依子さんにそう促されると、麗那さんにも協力してもらって、オレは眠りこける潤を背負った。小柄のわりに何でこんなに重たいのかと、オレはつい口に出してしまいそうだった。
ご機嫌なジュリーさんと、うつむき加減のあかりさんは、すでにお店の外で待っていてくれた。
マスターにお礼を言いつつ、オレはお店の暖簾をゆっくりと潜る。麗那さんと紗依子さんが、潤の様子を伺いながらオレに声を掛けてきた。
「マサくん、大丈夫?ゆっくり歩いてあげてね。」
「はい、潤のバッグよ。落とさないように気を付けてね。」
そう言いながら、オレの右手に潤のバッグを握らせる紗依子さん。潤を持ち上げているだけでもきついのに、さらにバッグの重さまで加わって、オレの右手は苦痛という悲鳴を上げていた。
「マサくん、ごめん。わたし、紗依子にちょっとだけ用があるから先に帰ってくれる?申し訳ないけど、潤のことよろしくね。」
「了解しました・・・。そ、それじゃあ、出発しますね。」
フラフラしながら、先頭を歩いているジュリーさんとあかりさん。背中にいる潤を起こさないよう注意しつつ、オレもフラフラしながら彼女たちの後ろをついていった。
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真っ暗な闇夜を彷徨い歩いて、オレたち一同はやっとの思いでアパートまで辿り着いた。
ここまでの道中、背中にいた潤がいきなり気持ち悪いとうめきだしてしまった。やむを得ず、途中途中に休憩を挟みながら帰路に向かうも、具合が悪くなっては立ち止まり、良くなってはまた歩き出すオレたち。
そうこうしているうちに、浜木綿を後にしてからここまで40分ほど経過していた。
「それじゃあ、グッナイ、オヤスミ~。」
「ふわぁ、おやすみなさい。」
アパートに足を踏み入れるなり、ジュリーさんとあかりさんはそれぞれの自室へと帰ってしまった。オレの背中ですやすやと眠っている潤を残して。
「二人とも待ってくださーい。潤を部屋までお願いしますよ!」
オレの叫び声は、そんな二人の背中まで届かなかった。というよりは、通り抜けていったのだろう。
「潤をこのまま放っておけないし・・・。とりあえず、二階まで運んでいくしかないな。」
もうひと踏ん張りと力を込めて、オレは薄暗い階段を上り始める。足を踏み外さないよう、一段また一段と足元を確かめながら、オレは二階までゆっくりと上っていった。
苦労の末、ようやく潤の部屋まで辿り着いたオレ。ショックを与えないよう気を付けながら、背中にいる彼女を慎重に下ろした。うわ言をつぶやいていたが、彼女はまだ夢の中だった。
「ふぅ・・・。とにかく、潤を起こさないと。」
オレは潤の肩を揺さぶって目覚めさせようとする。名前を呼び続けること数回、彼女はやっと眠りから目を覚ました。
「あ、潤、起きてくれたか。もう部屋まで着いたよ。ほら、立ち上がって。」
潤は廊下に寝転がったまま、寝ぼけ眼を擦っていた。
「・・・バッグ。バッグ開けてぇ。」
思わず呆気に取られるオレ。どうやら潤は、バッグの中から自室のカギを取ってほしいと要求しているようだ。
「そのぐらい自分でできるだろう。いつまでも甘えるなよ。」
「・・・う~、気持ち悪いよぉ~。」
オレが窘めるたびに、都合よく体調が悪くなる潤。このままじゃ埒が明かないので、オレは渋々了解して、バッグからカギを取り出すことにした。
バッグにそっと手を入れると、オレの手にいろいろな感触が伝わった。携帯電話のようなもの、ハンカチのようなもの、化粧品のようなもの、そして、頭に思い浮かばないものなど。
「ん、これかな。」
バッグをまさぐっていたオレの手に、カギらしき金属の感触が伝わった。
それを取り出してみると、何かのキャラクターのキーホルダーが出てきた。そのキーホルダーには、玄関のカギや自室のカギがぶら下がっている。
「ほら、潤、カギ見つけたぞ。さぁ、これで部屋に入れるよ。」
オレが起き上がるようせっつくも、廊下の床がひんやりしているからか、潤は心地よさげに寝転がったままだった。
なかなか立ち上がろうとしない潤に痺れを切らし、オレは仕方なく、彼女の代わりに部屋のカギを開錠することにした。
「こんなところで寝たらダメだって。ほら、カギ開けたから、早く起き上がりなよ。」
オレは潤の肩を掴んで上体を起こさせる。眠たそうな目をしながら、彼女は視点が定まらない様子だった。
「ねぇ、マサぁ・・・。あたしを部屋まで運んでぇ。」
「何だと!?」
いくらオレが管理人代行だとしても、住人とはいえ、女子が暮らす部屋を覗き見することなど許されるはずがない。オレは拒否権を発動したが、潤は駄々をこねる子供のごとく、気持ち悪いの一点張りだった。
「あー、もう、わかったよ!こうなったら破れかぶれだ。」
心の中でヒステリックに叫んだオレ。決意を固めて、オレが潤をおんぶしようとすると、なぜか、彼女は拒むように首を横に振っていた。
「おんぶだと気持ち悪いから、お姫様抱っこしてぇ。」
「な、何だと!?」
素っ頓狂な声を上げると、オレはそのまま開いた口が塞がらず、呆気に取られて二の句が継げない。
潤は抱っこしてもらおうと、お姫様のように振舞っている。わがままを押し通そうと、彼女は急かすようにわめいていた。
「・・・わかった、わかったから。抱っこしてやるから、もう騒ぐな。」
オレは潤の部屋のドアをそっと開ける。そして、室内灯のスイッチを入れると、彼女の私生活ぶりがあらわになった。
放り出された雑誌類や、無造作に置かれた小物やぬいぐるみが床に散乱し、足の踏み場もないほど散らかっていた。
太いロープが頭上に張ってあり、衣装をぶら下げたハンガーが掛けてある。その衣装が影になってしまい、室内は思いのほか薄暗かった。
寝転がっていた潤を抱きかかえると、オレはおぼつかない足取りで彼女の部屋へと入っていく。
「マサぁ、ベッドに寝かせてぇ。」
お姫様の仰せのままにと、オレはベッドの上に潤を寝かせる。気持ちよさそうな顔で、彼女はベッドにいた猫のぬいぐるみに抱きついていた。
「おい、潤。オレができるのはここまでだから。ちゃんとパジャマに着替えてから寝るように。」
そう言い聞かせて、オレは部屋を立ち去ろうとする。そんな去り際のオレに、潤が寝そべったまま声を掛けてきた。
「マサぁ・・・。パジャマに着替えるから、脱がすの手伝ってぇ?」
「な、何だとぉー!?」
また素っ頓狂な声で叫んでしまったオレ。管理人代行という立場でもこればかりは無理だと、オレはしどろもどろになって拒否の姿勢を貫いた。
冷や汗を飛ばして慌てるオレを見ながら、潤はクスクスとほくそ笑んでいる。
「あははは、おっかしぃー!」
いきなり、潤が腹を抱えて笑い出した。オレは放心状態のまま、ただ呆然と彼女を見つめていた。
「ジョーダンに決まってるじゃん。それにしてもマサってさぁ、根が単純っていうか、生真面目っていうかさ、からかい甲斐があるよねぇ。」
「ふざけるんじゃない、まったく!パジャマに着替えて、早く寝ろっ!」
顔を真っ赤にして、そう吐き捨てるオレに、潤はゴメンゴメンと謝っていた。彼女の言う通り、おもちゃにされやすい性格なんだろうなと、自分自身に悲観してしまうオレであった。
「じゃ、おやすみ。」
足の踏み場を探りながら、再び部屋を出ていこうとするオレ。
「ねぇ、マサ。」
またしても、潤に甘えるような声で呼び止められて、オレは困惑気味に振り返る。
「・・・今日はありがとぉ。わがまま聞いてくれて嬉しかった。おやすみぃ。」
はにかんだ顔でそう囁くと、潤は恥ずかしかったのか、すぐさまオレに背中を向けてしまった。
微笑しながら溜め息一つこぼして、オレは潤の部屋のドアを閉める。ちょっぴり複雑な心境を抱きながら、オレは管理人室へと帰っていった。
ご意見、ご感想など、お気軽にお寄せください。




