第七話 二.ジャズボーカリスト
それから数日後の夜のこと。日も落ちたおかげで、暑さが幾分か和らいだ、そんな過ごしやすい夜だった。
受験勉強の息抜きがてら、オレは夜の市街地をぶらついていた。いつものように、勉強時間を上回る息抜きである。
受験勉強には適度な休息が必要と、そんなフレーズをよく耳にするが、オレの場合、休息の合間に勉強している気がしてならない。こんな調子で、オレは来年無事に合格できるのだろうか。
そんな不安を抱きながらも、オレはざわついている駅周辺を散策していた。
「そういえば、喉が渇いてきたなぁ。キュッと、生ビールでも一杯やりたいな。」
そうつぶやきながら、オレは駅西口の繁華街方面を眺めていた。
受験生にあるまじき行為だけど、オレは欲求の赴くまま「串焼き浜木綿」目指して歩きだす。平日の夜はヒマだろうから、少しでも売上に貢献してあげようと、オレは苦し紛れの屁理屈を並べていた。
歩くこと数分、浜木綿の前までやってきたオレ。ぼんやりと灯る提灯が、辺りをおぼろげに照らしている。心躍らせながら、オレは夜風でなびいている暖簾を潜った。
「へい、いらっしゃい!」
毎度のように、マスターの威勢のいい挨拶が店内に響いた。マスターはオレを見るなり、愛想のいい笑顔を向けてくれる。
「マサくん、毎度!今日はお仲間が来てるよ。」
「え?」
そう言いながら、カウンター席へと視線を送るマスター。それを追うように、オレもカウンター席を見つめた。
「ハーイ、マサ。奇遇ネー。」
そこには、焼酎の入ったコップを持ち上げて、陽気に微笑んでいるジュリーさんがいた。
「やっぱり、ジュリーさんかぁ。」
ジュリーさんは焼酎を数杯飲んでいたのか、いい感じに酔っ払っている。毎度お馴染み、アルバイト帰りの立ち寄りコースだろう。
よく見ると、ジュリーさんの隣にも、顔見知りの女性の顔が見えた。驚いたことに、その人は両手でグラスを握り締めて、ちびちびとお酒を口にしているあかりさんだった。
「あかりさん、珍しいですね。ここでお酒飲んでるなんて。」
ふて腐れたような顔で、あかりさんはオレを見据える。彼女も少しお酒が回っていたのか、絡むような物言いをしていた。
「飲みたいから飲んでるわけじゃないわ。隣のこの子が、どうしても、一人じゃつまらないから来てくれって、泣いてせがむものだから。仕方なく、ここまでやってきたの。」
不機嫌そうに嘆くあかりさん。そんなこともお構い無しに、ジュリーさんはあかりさんの腕にしがみついた。
「あかり、優しいネ。そういうとこ、大好きヨ!アイラビュー!」
ジュリーさんはじゃれ付くように、あかりさんの小さい体に抱きついた。あかりさんはあかりさんで、ジュリーさんの絡みついた腕を引き剥がそうと必死になっている。そんな二人のじゃれ合いに、オレはクスッと微笑してしまった。
「あら、マサくん、いらっしゃい。」
「あ、紗依子さん、こんばんは。」
店内奥から駆け足でやってきた紗依子さん。忙しそうな素振りをしながら、彼女は散らかったテーブル席の片付けを始める。
周囲を見渡してみたら、お客はオレたち三人しかいないけど、どうやらオレが来る前に、飲み散らかした団体客がいた形跡があった。
「マサ、あなた何突っ立ってんのヨ!ここへ座りなさい。」
ジュリーさんにYシャツの袖を摘まれて、オレは強引に隣へと引き寄せられる。彼女は据わった目で、オレの顔を食い入るようになめ回していた。
「ほら、マサ。あなたも一杯やりなさいヨ!ビールでも、ショーチューでも、ワインでも、シャンパンでも好きなものを注文しなさーイ!今日はわたしのおごりヨー。」
ウチにはシャンパンは置いてないぞと、横槍を入れるマスターだったが、ジュリーさんはひたすら陽気に笑うだけだった。
せっかくのおごりなので、ジュリーさんにお礼を言いつつ、オレはいつもの生ビールを注文した。
「それにしても、今日のジュリーさん、どうしちゃったんですか?やけにお酒のペースが速いけど。」
オレの素朴な疑問に、マスターがカウンター越しに答えてくれた。
「今日のジュリー、バイト上がりで遊んだパチンコで大勝ちしたみたいだね。大連チャンしちゃったって、そりゃもう大騒ぎだったよ。」
「ははは、パチンコですか・・・。」
あかりさんや紗依子さんは、パチンコといったギャンブルに関心がなかったので、ジュリーさんは仕方なく、唯一喜びを分かち合えるマスターと、パチンコ談議に花を咲かせていたらしい。
程なくして、紗依子さんがオレの生ビールを届けてくれた。ジュリーさんにあかりさん、そしてオレの三人は、それぞれのお酒を手にして、ささやかな乾杯を上げた。
「しつこく誘われて、おごるからとまで言われて足を運んでみれば、興味ないギャンブルの話聞かされて。わたしが、こんな感じになるのもうなづけるでしょう?」
あかりさんはお酒を口元へ運び、愚痴っぽくそう漏らした。今夜、珍しく彼女がお酒を口にしているのは、そんなやるせなさを紛らわせようとしていたのかも知れない。
「今日は気持ちいいワ~!よし、この後、みんなでカラオケ行こうヨー!」
ニコニコしながら、みんなをカラオケに誘うジュリーさん。調子乗り過ぎの彼女に、あかりさんはただ呆れるばかりだった。
カラオケのお誘いに一番そそられたのは、以外にも、店内奥で片付けをしていた紗依子さんだった。
「あら、カラオケいいわねー。わたし、久しぶりにジュリーの歌声聴きたいなぁ。」
紗依子さんがそう言うと、マスターも同意するようにうなづいている。あかりさんもやむなしと思ったのか、そんな二人の行動に身を任せるつもりのようだ。
「マスター、もうこの後、お客さんの来店も見込めないし、どうです、ジュリーの誘いに乗りませんか?」
「・・・ははは、サエちゃん、店員がそれを言っちゃあ、おしまいだよ。」
マスターは苦笑いを浮かべていたものの、この雰囲気を壊すまいと、紗依子さんからの提案を聞き入れることにした。こういう空気の読める人柄こそ、誰からも好かれるマスターの人徳なのだろう。
急遽、ここにいるみんなでカラオケ店へ行くことが決まってしまった。そうと決まった途端、ジュリーさんにせっつかれて、オレは注文したばかりの生ビールを一気飲みさせられた。
「オレ、閉店の片付けだけしていくからさ、みんなで先に行っててよ。どうせ、この通り沿いのカラオケ屋だろう?後から合流するよ。」
「了解です。マスター、後はよろしくお願いしますね。」
マスターを一人残して、オレたち一同は連れ立ってお店を出ていく。
平日夜の繁華街は思いのほか静かで、路上を歩く人の姿もいつになく少ない。わずかながら、飲食店の明かりも寂しそうだった。
余程カラオケが楽しみなのか、鼻歌交じりで路上を歩いていくジュリーさん。オレたちも負けずに楽しもうと、そんな彼女の後ろ姿を追いかけていった。
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すっかり闇夜に包まれた繁華街。夜9時になろうかという時刻に、オレたち一同は、煌びやかな電飾で飾られた四階建ての建物へとやってきた。ここが目的の「カラオケボックス チューリップ」である。
カラオケ店を訪れたのは、オレが高校生の時以来だ。ここ数年は受験勉強に追われていたせいか、こういう場所で楽しむのは本当にご無沙汰だった。
「それでは、303号室をご利用ください。」
カラオケ店の店員に指示されて、オレたちは三階の303号室へ入室した。
ここ数年間のうちに、カラオケの機能が目まぐるしく進歩を遂げていて、オレはただ驚かされるばかりだった。
モニターからの映像や、スピーカーからの音響の素晴らしさはもちろんのこと、自分の歌をディスクに録音できたり、インターネットに公開なんてこともできるらしい。
二十歳という若い世代でありながら、知らないことだらけの自分が痛々しくてたまらなかった。
「マスターまだだけど、先にドリンクだけ注文しちゃおうか。」
紗依子さんを筆頭に、オレたちは適当なドリンクを注文する。ジュリーさんはまだ飲み足りないのか、焼酎の水割りをオーダーしていた。
いよいよ歌えるとばかりに、ジュリーさんはルンルン気分で予約用リモコンを握り締めた。
「ねぇ、ジュリー。わたし、レイン・オブ・トワイライトが聴きたい!歌って。」
そう言って、好みの曲をリクエストした紗依子さん。二つ返事でジュリーさんがOKサインを出すと、紗依子さんは照明を調整して、室内をいい感じに薄暗くしていく。
ジュリーさんは手馴れた操作で、あっという間に本機にデータ番号を発信していた。選曲し慣れているところからして、この曲は彼女の十八番なのだろう。
紗依子さんが熱望した”レイン・オブ・トワイライト”とはどんな曲なのだろう。曲名に聞き覚えがなかったオレは、恐縮しながら彼女に尋ねてみた。
「紗依子さん。ジュリーさんにリクエストした曲って、どんな曲なんですか?」
「レイン・オブ・トワイライトはね、アメリカのミュージシャンが歌ってるジャズソングよ。メジャー級というほど有名じゃないけど、とっても素晴らしい曲なの。」
そう解説を受けている間に、スピーカーから前奏が流れてきた。しっとりとしたピアノの旋律と、力強いトランペットの音色がとても印象的だった。
オレ自身、ジャズというジャンルに詳しいわけではないが、この曲のメロディーは、そんなオレの気持ちを落ち着かせてくれる不思議な魅力を持っていた。
モニターに英語の歌詞が表示されると、ジュリーさんはゆっくりと立ち上がり、握り締めたマイクを口元に近づける。目を閉じたまま、彼女は透き通るような声で歌い始めた。
「・・・これは。」
綺麗なメロディーとともに、ジュリーさんの歌声がオレの心の中に溶け込んでいく。彼女の美声はとても心地よく、しなやかさと力強さが交わっていて、何ともいえない儚さをにじませていた。
あかりさんと紗依子さんは、ジュリーさんの歌声にすっかり癒されている。オレも目を閉じて、艶のある彼女の声に耳を澄ませていた。
「ハーイ、お粗末さまでしたー。」
ジャズソングを完璧なまでに歌いきったジュリーさん。彼女が小さく一礼すると、オレたちは観客のごとく大きな拍手を送った。
「それにしても、ジュリーさん、すっごい上手ですね。ほとんどプロ並みじゃないですかぁ。」
ジュリーさんの歌に、オレは素直に感動してしまった。そんなオレを見て、あかりさんはクスクスと微笑んでいた。
「それはそうよ。ジュリーは昔、ジャズバンド専属のボーカリストだったんだもの。そのバンド、アマチュアだけど、こっちでは有名だったからね。その頃は、彼女もバンドメンバーと一緒に、東京都内や近県で公演してたのよ。」
「えっ、そうなんですか!?」
まさか、ジュリーさんが昔、正真正銘の歌手だったとは・・・。その衝撃の事実に、オレはびっくりしてしまった。
いくらアマチュアとはいえ、東京都内や近県で公演するぐらい活動していたのなら、それなりに実力のあるバンドだったと言えるだろう。
「でも、ジュリーさん、どうしてボーカリスト辞めちゃったんだろう?」
オレは思いつくまま、そのことについてあかりさんに尋ねると、知らないわというポーズで、本人に尋ねてみたらと突っ返されてしまった。
「それはトップシークレット。内緒ネ。」
オレとあかりさんの会話を聞いていたのか、ジュリーさんはウインク一つして、その真実を打ち明けてくれなかった。ちょっと残念ではあるが、プライベートなことだけにこれ以上詮索もできないだろう。
「さーて、ジュリーの次に歌うと下手に聴こえちゃうけど、ここで、わたしが自慢の一曲を。」
そう言うと、紗依子さんは咳払いしつつマイクを握り締める。彼女の選択した曲は、昔流行ったポップス系ミュージックだった。
紗依子さんはノリノリで、そのポップス曲を熱唱していた。自慢の曲だけに、なかなかの歌いっぷりだった。
「いやぁ、お待たせー。お、盛り上がってるねぇ。」
こうして、浜木綿のマスターも到着して、オレたちの部屋はより一層盛り上がった。
あかりさんはアニメソング、マスターは演歌、そして、オレは最近のメジャーな曲を選曲し、さまざまなジャンルの曲が部屋中を飛び交っていた。
久しぶりのカラオケだったせいか、オレは喉が痛くなるまで独唱してしまった。時が過ぎるのも忘れて歌い続けていたら、時刻はすっかり翌日を跨いでいた。
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ギラギラと輝く太陽から、眩しいほどの日差しが降り注ぐ、そんな暑い日の朝。テレビの天気予報では、今日の最高気温は31度の真夏日に達すると発表していた。
いつものように管理人の仕事をこなしながら、オレはある事を考えていた。それは、未だに進展のない紗依子さんたちのことだった。
「・・・あれから、数日経ったけど。あの二人ってまだ、話し合いもしてないんだよなぁ。」
麗那さん情報では、紗依子さんの元彼氏である医師は、今でも時々、浜木綿に顔を出しているという。それでも、紗依子さんは彼の真意を確かめることもできず、いつまでも逃げ続けているというのだ。
「このままじゃいけない・・・。このまま、こんなことを続けても、あの二人にとって、いいことなんて何もないんだ。」
オレは無心になって考え続ける。こんなオレでも、紗依子さんたちの背中を押したり、解決の糸口となるきっかけを作ることができるはずだと、オレはひたすら思い巡らせていた。
暑さが本格的になる前に、早々と屋外の清掃を済ませたオレ。続いて、廊下とリビングルームのモップ掛けを終えて、オレは今日一日の仕事を締めくくった。
「よし、行くか。」
午前10時を回った頃、オレは普段着に着替えて管理人室を出ていく。これから、すっかりご無沙汰となってしまった、じいちゃんの見舞いに行くことにした。
「じいちゃん、きっと拗ねてるだろうなぁ。」
そうつぶやきながら玄関へ向かう途中、オレは反対側から歩いてくる麗那さんと出会った。
「おはよう。」
「おはようございます。」
今まで外に出かけていたのか、麗那さんは手に持ったハンカチで扇いでいた。
「あら、これからお出掛け?」
「はい。これから、じいちゃんのお見舞いに行こうかと。じいちゃんの機嫌損ねる前に、ちょっとだけ顔を出してきます。」
麗那さんは指先で顎をつんつんと突いている。唸り声を上げて、彼女は悩んでいるような仕草をしていた。
「ねぇ、マサくん。わたしも一緒に行っていいかな?今日ね、日中は久しぶりのオフなんだ。」
そう言うと、オレが快諾すると思ったようで、麗那さんは浮かれ気分で自室へと戻っていく。少しだけ待ってて、と言い残して。
「あの、麗那さん。」
オレが呼び止めると、麗那さんは微笑んだまま振り向いた。
「すみません・・・。今日は、その、オレ一人で行ってきます。」
「・・・え?」
じいちゃんとプライベートな話をしたいからと説明して、オレは麗那さんに遠慮してもらうようお願いした。納得いかない表情を浮かべながらも、麗那さんはオレのお願いを聞き入れてくれた。
「そう。・・・わかったわ。それじゃあ、仕方がないものね。」
「本当にすみません。お見舞いは、また改めてお誘いしますね。」
麗那さんに背を向けて、オレは玄関へと歩いていく。
静まり返った廊下に、立ち止まったままの麗那さんの気配がまだ残っていた。寂しそうな彼女の眼差しが、オレの背中に突き刺さる。嘘をついてしまった後ろめたさに、オレは胸が摘まれる思いだった。
「マサくん。」
背後から聞こえてきた麗那さんの声。オレは足を止めて、彼女の方へ向き直った。
「気を付けてね。・・・今日、暑くなるみたいだから。」
「はい。・・・お気遣い、ありがとうございます。」
オレは恐縮しながら、麗那さんにちょこんと頭を下げる。
「マサくんが考えてること、何となくわかってる。・・・だから、あまり無理はしないでね。今のわたしが言えるのは、それだけだから。」
憂慮の表情を振り向かせて、麗那さんは小さな足音とともにその場から離れていく。やるせない思いのまま、オレは消えていく彼女の後ろ姿を見つめていた。
「・・・麗那さん、ごめんなさい。オレ、どうしても、紗依子さんたちの役に立ちたいんです。だから、オレ少しだけ無理します。本当にごめんなさい。」
じいちゃんの見舞いついでに、オレはあの医師へ接触を試みようとしている。麗那さんは、そんなオレの目論見を見抜いていたようだ。そんな彼女に向かって、オレはもう一度だけ心から謝罪していた。
玄関にやってきたオレは、スニーカーのかかとに靴べらを滑らせる。スニーカーは不思議なほど、オレの気持ちのようにずっしりと重たかった。
陽炎が立ち込める屋外へと突き進むと、強烈な日射がオレに襲い掛かってきた。まるで、オレの行く手を阻むかのように。
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アパートから25分ほど歩いた先に「胡蝶蘭総合病院」は存在する。
正午に近づくにつれ、太陽からたぎるような光線が降り注ぎ、ここ東京を真夏の地にいざなう。この激しい暑さで、オレは体中の水分だけではなく、体力までも奪われていくようだった。
流れる汗を拭き取りながら、オレは病院のロビーへと駆け込んでいく。エアコンからの涼気のせいで、汗ばんだオレの背中がひんやりとした。
じいちゃんのご機嫌を取ろうと、ロビーの売店で週刊誌を買ったオレ。エレベーターに乗り込んで、オレはじいちゃんの待つ病室へと向かった。
「おお、マサ、久しぶりじゃないか。あと一日来なかったら、催促の意地悪電話をしておったぞ。」
病室に入るなり、じいちゃんの小言から始まった。久しぶりのお見舞いだったせいか、じいちゃんはご機嫌斜めの様子だった。
「やだなぁ、じいちゃん。そんなにふて腐れないでよ。ほら、週刊誌買ってきたよ。」
「フン、所詮は機嫌取りか何かじゃろう。」
じいちゃんはぼやきつつも、週刊誌を奪い取って備え付けの戸棚に仕舞い込んだ。
「そんなことより、具合の方はどう?入院してもう一ヶ月ほど経ったけど、まだ退院できないの?」
「おいおい、わしは熱中症で入院したんじゃぞ。これから、ますます暑くなるのに、退院なんぞできると思っておるのか?」
苦虫を噛み潰したような顔をするじいちゃん。それもそうだと納得しながら、オレはゴメンゴメンと平謝りするしかなかった。とは言うものの、今のじいちゃんを見ていると、熱中症なんぞ吹き飛ばしてしまうほど、元気な気がして仕方がないのだが。
「とにかく、早く良くなって退院してよ。住人のみんなも心配してるんだから。」
一人ぼっちの寂しさもあったのだろうか、じいちゃんは何回も小さくうなづいていた。
「マサ、わしが退院するまでの間、住人のみなさんのこと、それに庭先の盆栽のことをよろしく頼むぞ。」
「任せてよ。だから、じいちゃんは安心して療養してよね。」
そう胸を張るオレを見て、安心したようにニッコリと笑ったじいちゃん。そこそこ頼れるようになったなと、じいちゃんは唸りながら感心していた。
「それじゃあ、オレそろそろ行くよ。また近いうちに来るから。」
そう言いながら、オレが椅子から腰を上げると、じいちゃんは名残惜しそうに呼び止めた。
「何じゃ、マサ。もう行くのか?来てまだ10分も経っておらんだろうが。」
「うん、ちょっと野暮用があってね・・・。」
オレはこの足で小児科病棟へ向かい、あの医師を訪ねるつもりでいた。
「・・・じいちゃんは、あの医師のこと知ってるかな。」
あの医師のことについて、オレはやんわりとじいちゃんに尋ねてみた。彼の特徴なんかも触れてはみたが、耳慣れない人物像だったようで、じいちゃんは首を傾げるだけだった。
「マサ、おまえ、何でそんなこと聞くんじゃ?その先生に何か用事でもあるのか?」
以前、このフロアのエレベーター前で起こったあの出来事について、オレはじいちゃんに説明した。
「小児科のお医者さんなんだけど、エレベーターの前で、泣いてた女の子に優しくしてくれてね。もし、じいちゃんが知ってるなら、どんな人なのか教えてもらおうと思ったんだ。」
オレの話に耳を傾けていたじいちゃんは、感慨深げにしみじみと語りだした。
「小児科の先生じゃ、わしが知らなくても無理はない。でもその先生、きっと心優しい人なんだろうな。もし、会うことがあったら、よろしく言っておいてくれ。」
帰る前に小児科病棟へ立ち寄り、あの医師へ挨拶していくよう忠告したじいちゃん。
どちらにせよ、小児科病棟に行くつもりだったと、オレは苦笑いしながら了解を示して、じいちゃんの病室を後にした。
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