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第六話 三.悔し涙の向こうに

 朝8時前だというのに、Yシャツの裾をなびかせて、オレは駅東口方面へと向かっていた。なぜかというと、一度口にしてからすっかりハマってしまった、あの「はぎ家」のカレードーナツを買うためである。

 いつもより早く目覚めた朝ともあって、オレは掃除片付けを早めに終えることができた。時間的にも余裕があったので、このチャンスを逃すまいと、お店まで足を運んでみることにしたのだ。

 そのはぎ家は、駅東口のアーケード沿いにある。オレは期待に興奮しながら、駅東口へ続く連絡橋を渡っていった。

「アーケードって、あそこだな。」

 そこは、小さい商店が軒を連ねる昔ながらのアーケードだった。朝早くということもあり、ほとんどの店舗はシャッターの壁に閉ざされている。そのためか、行き交う人の姿もまばらだった。

 アーケードを歩くこと数分、”和菓子のはぎ家”と書かれた看板がオレの視界に入ってきた。看板を見る限り、お店はすでに開店しているようだ。

「8時15分・・・。開店は8時って聞いてるから、丁度いい時間だろうな。」

 腕時計に目をやりながら、オレは小走りではぎ家へと向かう。オレが辿り着く間にも、数人のお客が店内に出入りしていく姿が見えた。

「平日の朝なのに、あんなにお客が入っている・・・。」

 顔に焦りの色を浮かべつつ、はぎ家の店舗前まで辿り着いたオレ。

 店内に入ってみると、和菓子屋らしい古風な造りで、黄金色の壁紙に敷き詰められた内装が目に付いた。レジのそばにあるショーケースには、お饅頭や最中、そして砂糖菓子などが綺麗に飾られていた。

 レジの前では、数人のお客がやきもきしながら並んでいる。よく見ると、みんがみんな、カレードーナツをトレイに乗せていた。

 おろおろしながら、オレは店内を隈なく探してみたが、肝心のカレードーナツは見つからない。念のため、ショーケースも覗いてみたが、カレードーナツの”カ”の字もなかった。

「・・・売り切れちゃったのかなぁ。」

 オレはショックのあまり、ガックリと肩を落としてしまった。買えることだけでも奇跡だという麗那さんの言葉が、身に沁みてわかった気がした。

 カレードーナツ争奪戦に敗れてしまったオレ。このまま帰るのも悔しいので、オレは食べられそうな菓子パンを買っていくことにした。

「う~ん、いいパン置いてないなぁ。」

 好みのパンが見つからず、しばらくの間、オレは唸りながら悩んでいた。諦めて帰ってしまおうかと思った矢先、店内の奥から割烹着姿の女性店員が現れた。

 オレの後ろをすり抜けていったその店員は、店内中央の丸いテーブルの上に、アルミ製のバットを置いていった。

「あ!」

 思わず心の中で叫んでしまったオレ。そのバットの上に、カラッと揚がったサクサクホカホカの、あのカレードーナツがたった二つだけ置いてあったのだ。しかも、”本日これが最後です”と立て札が置いてあって、本日のラストチャンスを告げていた。

 そのカレードーナツを奪い取るように、オレはトングで二つとも掴み取る。羨ましそうな顔をするお客が見つめる中で、オレは勝ち誇った顔で会計を済ませた。

「ありがとうございましたー。」

 落ち着き払って、そして毅然としながら、オレは軽やかな足取りでお店を出ていく。

 抱きかかえた紙袋を覗き込み、オレは幻のカレードーナツがあることを確かめる。人通りの少ないアーケードで、オレは一人力強くガッツポーズをしていた。


 =====  * * * *  =====


「はぎ家」のカレードーナツを手にしたまま、オレは駅西口の商店街まで戻ってきた。

 抜けるような青空を見上げながら、オレは商店街から河川敷方面へ進路を取った。ちょっとばかり寄り道していこうと思って、オレは散策がてら、昨日立ち寄った「山百合河川敷公園」で朝食を済ませていくことにした。

 朝だけに、日差しはそれほど強くなく、そよぐ風は心地よさを感じさせる。快適なウォーキングを満喫しながら、オレは堤防へと続く階段を駆け上っていった。

「ふー、到着したぁ。」

 堤防の上から公園を見下ろしたオレ。生い茂る芝生の緑色、せせらぐ川面の青色、そして、澄み切った空の水色が絶妙なコントラストを描いていた。

 階段を駆け下りて、オレは芝生ゾーンまでやってきた。平日の朝ともあって、犬の散歩をする愛犬家が数人いる程度だった。

「あの休憩場所で食べよう。」

 そう考えながら、オレは昨日休憩した場所へ足を向けたものの、そこはすでに、和気あいあいとした年配者たちで賑わっていた。

 無理にお邪魔しても気を遣うだろうから、オレはここを諦めて、他の休憩場所を探すことにした。

「そうだ、多目的ゾーンの方に、子供の遊び場があったな。」

 多目的ゾーンには、子供の遊具を設置した遊び場がある。背の高い大木で囲まれているので、きっと日陰になるベンチもあるだろう。とりあえず、オレはその遊び場を目指すことにした。

 広大な芝生ゾーンを突き進んでいくオレ。日が高くなって気温が上昇したのか、オレの背中が少しだけ汗ばんできた。

 5分ほど歩き続けると、遊び場の目玉であるジャングルジムやブランコが見えてきた。すると、ブランコが一つだけ、ゆっくりと揺れていることに気付いた。

「あれ、誰かいるな。」

 白地のTシャツにショートパンツ、丈の長い靴下を履いている女性が一人、ブランコに乗って小さく揺れていた。

「・・・奈都美。」

 奈都美は顔を下に向けていた。落とした視線の先には、いったい何が映っているのだろうか。オレはそんな彼女のもとへと歩み寄っていく。

 地面を蹴飛ばして、奈都美はブランコを大きく揺らした。ブランコが大きく後方へ揺れ動き、戻ってくる反動に勢いをつけて、彼女は両手を離してブランコから飛び降りた。

「あっ・・・!」

 だが、奈都美はバランスを失って着地に失敗してしまい、地面にひざを付いてしまった。幸い、運動神経がよかったせいか、彼女は怪我をしたような素振りを見せなかった。

 悔しさを顔に浮かべつつ、奈都美はゆっくり立ち上がると、ひざに付いた砂を振り払った。

「大丈夫?ブランコから飛び降りちゃいけませんって、小学校で習わなかったかな。」

 奈都美はビクッと体を震わせて、驚いた顔をオレに向ける。

「マサ、ど、どうしてここにいるの!?」

「いい天気だったから、ここで朝食を食べようと思ってさ。奈都美はここで何してるの?サッカーの練習かな。」

「・・・うん、そんなところ。」

 気のない返事をすると、奈都美はまた沈んだ表情に戻ってしまった。

 昨日、奈都美が見せたあの苦渋の表情、そして今のこの表情が、彼女の心情そのものなのだろうか。彼女がひた隠ししている何か、オレや住人たちの知らない何かが、オレは気掛かりでならなかった。

「なぁ、奈都美。」

 奈都美に声を掛けたものの、この前のように、この先へつなぐ言葉が出てこない。あまりにももどかしくて、オレはただ苛立つばかりだった。

 口ごもっているオレが腹立たしかったのか、奈都美は眉を吊り上げて声を荒げた。

「この前から何よ。何か言いたいことあるみたいだけど、どうして黙り込むわけ?言いたいことがあるなら、ハッキリ言ってくれないかな。キミ男の子でしょう?そういうところ、ちょっとだらしないよ!」

 強くはないけど、オレだって立派な男の子だ。そう罵られては、黙っているわけにもいかない。気持ちを落ち着かせてから、オレは奈都美の心情について問いただしてみた。

「あのさ、オレ、前から気になってたんだ。奈都美、いつも元気がないというか、落ち込んでるっていうか。住人のみんなも、奈都美の様子がおかしいって心配しているんだ。もしかしてさ、何か悩み事とかあるのかな?」

 オレの問いかけを遮るように、奈都美はオレから視線を逸らした。

「別に、悩みなんてない。あたしは、・・・今のあたしは、普段どおりだよ。」

 奈都美はそう答えるも、オレと目を合わそうとはしなかった。つまらなそうな顔つきで、彼女は砂場に転がっていたサッカーボールと戯れ始めた。

「でもさ、アパートで住人たちみんなと会った時、奈都美、元気がなかったじゃないか。それに、あの日以来、アパートに顔出してくれないしさ。」

 オレの指摘から逃れるように、奈都美は背中を向けてしまった。

「あたしだって人間だもん。不調な時だってあるよ。アパートにちょくちょく遊びに行けるほど、あたしもヒマじゃないんだし。その時その時のタイミングってあるじゃない。」

「それはそうだけど・・・。」

 奈都美の言う通り、時には具合が悪かったり、ご機嫌斜めの時もあるだろう。しかし、いつも元気がない彼女に訴えられても、説得力があるとは言えなかった。

 忙しいからと、この場を去っていこうとする奈都美。無理に引き止めて、オレはもう一つだけ彼女に尋ねる。

「どうして住人たちに現住所を連絡しなかったの?じいちゃん宛てに手紙を出した後、奈都美はこっちの街に戻ってきたんだよね?それなら、もう一度、今住んでる住所や電話番号を連絡できたんじゃないかな。」

「・・・それは。」

 奈都美は押し黙ってしまった。オレが重ねて尋ねても、彼女はうつむいて口を閉ざし続けた。

「やっぱり教えてくれないのかな。それってさ、オレとか、住人たちに言えない、何かそういった理由があるのかな。もし、言い難ければ無理強いはしないけど、ほら、オレたちみんな近くに住んでるんだし、気軽に話してくれると嬉しいっていうかさ。」

 しばらくの間、静寂の空気が流れていく。川辺から吹いてくる風で砂が舞い上がり、オレたち二人の隙間を通り抜けていった。

 背を向けた奈都美の肩がわずかに震えている。全身の震えを大きくしながら、彼女は張り裂けんばかりの怒号を発した。

「どうしてよっ!」

 転がっていたサッカーボールを思いっきり蹴飛ばした奈都美。立ち並ぶ大木の幹をかすりながら、ボールは散策路を越えて川辺の方へと消えてしまった。

「奈都美・・・。」

 振り向きざま、奈都美はオレのことを凝視する。彼女は顔を真っ赤にして、目元に小さな涙を浮かべていた。

「どうして、そんなにあたしを気遣うのよ!あたしとキミは他人同士でしょう?あたしは、もうアパートの住人じゃないんだよ。キミに心配される筋合いなんてどこにもないじゃない。それなのに、どうして、そんなに・・・そんなに、あたしのことを・・・!」

 奈都美は涙を隠そうと、腕で目頭を擦っている。そんな彼女を前にして、オレは完全に言葉を失っていた。

「もう、あたしのことは放っておいて!キミになんて、あたしことなんてわかりっこないんだもん!」

 涙をこらえて必死に訴えた奈都美。苦しみを通り越して、彼女は悲しみに満ち溢れていた。

 奈都美のことを慰める術も、元気付ける言葉も探し当てられないまま、オレはこれ以上、どうすることもできないのだろうか。苦しめたり、悲しませたりするつもりじゃなかった。ただ、オレは彼女の笑顔が見たかっただけだった。

「ごめん、奈都美。オレ、追い詰めるつもりじゃなかった。・・・ただ、オレどうしても見たかったんだ。あの写真の中にあった、奈都美の笑顔が。」

 奈都美はまだ、目元を腕で拭っていた。オレはそのまま話を続ける。

「あの写真、オレが見つけたんだ。ちょっとだけピンボケしてたけどさ、奈都美が楽しそうに微笑んでいるのははっきりわかったよ。オレのじいちゃんや、住人たちと一緒に笑ってる奈都美に、オレ、どうしても会ってみたかったんだ。」

 潤んだ瞳でオレを見つめる奈都美。そして、彼女はウエストポーチのジッパーを開けて、一枚の写真を取り出した。言うまでもなく、アパートの前で撮影したあの記念写真だった。

「写真、大切に持っててくれたんだね。」

「・・・当り前じゃん!」

 照れくさそうな顔で、奈都美は写真を眺めている。写真の中にいる自分自身の笑顔を見つめていたのだろうか。

 奈都美はゆっくりと歩きだすと、揺れていたブランコに腰を下ろした。

「キミってさ、お節介っていうか、ホントにしつこい性格だよね。」

「その台詞、もう聞き飽きたよ。」

 口元を緩めながら、小言のようにそう漏らした奈都美。オレもはにかんで、苦笑いするだけだった。

「・・・あたしさ、アパート引っ越す時、みんなに格好いいこと言ったんだ。将来、プロサッカーチームのエースストライカーになるんだって。テレビであたしのこと応援してねって。・・・でもさ、今のあたし、エースどころか、プロ失格だもん。情けないよね、こんな現実。」

 奈都美は自分のことを皮肉ると、隠し通してきた胸のうちを語り始めた。

 アパートを離れてから、奈都美は必死に練習を重ねて、晴れてプロサッカーチームに所属することができた。彼女は持ち前の技術を生かして、チームの中でも目立つ活躍ができるまでに至った。ところが、トップチームの監督はそんな彼女の能力を過小評価し、試合のレギュラーに起用してくれなかった。

 悔しい胸のうちを監督にぶつけた奈都美。彼女は自分の能力を見てほしいとお願いをしたが、監督は無駄だと言い放ち、首を縦に振ろうとはしなかった。

 結局、奈都美は監督に楯突いた罰則として、トップチームの練習にも合流できず、合宿所で雑用をさせられる毎日を過ごすことになった。その現実を受け止めることができず、彼女はついに退団を決意したのである。

「あたし、怖かったんだ。自信満々で調子のいいこと言ったくせに、まるで逃げ帰ってきたみたいでさ。だから、アパートのみんなに合わせる顔がなかったんだ。会えば会うほど、何だか自分を追い詰めていく気がして堪らなかった。みんなに陰で笑われたりすると思ったら、自分がすごく嫌になった。」

 奈都美は顔をしかめたまま、苦しい心境を吐露した。

 蒸し暑かった昨日の昼下がり、水門設備の敷地で寡黙に練習をしていた奈都美。それは、住人みんなとの約束を守ろうとする、彼女なりの意地だったのだろう。

 奈都美の隣のブランコへ腰掛けると、オレも地面を蹴って、ブランコをそっと揺らした。

「奈都美。もし、住人の誰かが、奈都美と同じように夢を追いかけて、途中で挫折したら、奈都美はその人のことを笑ったり、罵ったりするかな?」

 奈都美は無言のまま、オレの方へ顔を向けた。オレはブランコに揺れながら話を続ける。

「住人たちみんな、奈都美のことをとても大切にしてるし、本当の友達だと思ってるよ。だってさ、その写真を見たら、みんな嬉しそうに笑ってた。奈都美がアパートに来た時も、元気がなかったって、すごく心配してたんだ。」

 真っ赤になった目元を指で押さえている奈都美。オレは揺れていたブランコを足で止める。

「そんな大切な友達が、人生に挫折したり、思いを果たせず落胆したり、夢を実現できなかったとしても、みんなは、責めたり追い詰めたりしないんじゃないかな。微笑みながら、もう一度がんばればいいじゃんって、またやり直せばいいじゃんって、そう言ってくれると思うんだ。」

 木漏れ日の光が差し込んで、奈都美の瞳がキラキラと輝いている。感情を抑えきれなくなって、彼女は大粒の涙をこぼしていた。

「潤にジュリーさん、それに、あかりさんに麗那さん。みんな、奈都美のこと、心から応援してくれるはずだよ。もちろん、管理人のじいちゃんに、代行のオレもね。」

「・・・うん。」

 奈都美は小さくうなづいた。もう泣き顔を見せたくないのか、ポーチから取り出したハンドタオルで、彼女は泣き顔を覆い隠してしまった。

「もう泣かないで、奈都美。」

「泣いてない・・・。目に砂が入っただけだもん。」

 そうごまかす奈都美。タオルの隙間から覗いた横顔からは、苦しみや悲しみといった感情が消えていたように見えた。

「そうそう、奈都美に絶好のお土産があるんだ。」

 もったい付けるように、オレは紙袋からそっとお土産を取り出す。

「あ、それ、はぎ家のカレードーナツじゃん!」

 さすがに大好物ともあって、奈都美の反応は素早かった。その喜び方も半端ではなく、今にもオレに飛び掛るような勢いだった。

 オレがカレードーナツを一個差し出すと、奈都美は遠慮することもなく、すがりつくようにカレードーナツを手にしていた。

「苦労して買ったんだから、味わって食べなよ。」

「うん、ありがとう、マサ!」

 カレードーナツを一口頬張る奈都美。おいしいと叫びながら、彼女は満面の笑みをこぼしていた。この笑顔こそが、オレが待ち望んでいた、あの写真に写る彼女そのものだった。

 オレたち二人は、朝食を食べながらブランコに揺られていた。ブランコはゆっくりと揺れ動き、オレたちの過ごす時間までのんびりとさせてくれた。

「振り返ってみると、あたしって子供だったんだなぁって思った。たった一人でもがき苦しんで、抜け出せないところまで行き着いて、苦し紛れにキミに八つ当たりしちゃってさ。・・・もっと早く、みんなに正直に話してたら、きっと、こんなに思い悩むこともなかったかも知れないよね。」

 奈都美は掛け声一つ上げて、ブランコから勢いよく飛び降りる。心身ともリフレッシュしたからか、彼女は綺麗に着地してみせた。

「おいおい、ブランコから飛び降りるなって。小学校で習っただろ?」

「フフフ、あたしの小学校、ブランコなかったもん。」

 憎まれ口を叩く奈都美に、オレは思わず呆れ返ってしまう。

「おいおい、それ屁理屈じゃないか。」

「どうせ、あたしは子供ですから。フフフ。」

 すっかり笑顔を取り戻してくれた奈都美の表情に、オレは心の奥から嬉しさを実感していた。

「ねぇ、マサ。一つお願いがあるんだけど、いいかな?」

 どんなお願いかと問いかけると、奈都美は申し訳なさそうな顔で、川辺の方に視線を送った。

「サッカーボール探すの、手伝ってくれない?ほら、さっき思いっきりキックしちゃったから・・・。ホント言うとさ、大木の太い幹を狙って、跳ね返すつもりだったんだけど。やっぱり下手だね、あたし。」

「ははは、しょうがないなぁ。よし、未熟者のキミのために、一肌脱ぐとするか。」

 ふくれっ面する奈都美に追われるように、オレは川辺方面へと駆け出していった。

 奈都美の蹴ったサッカーボールは、かなり遠くまで飛んでいったようで、捜索してから30分ほど経過してようやく見つかった。ズバ抜けた彼女のキック力に、オレはつい度肝を抜かれてしまった。


 =====  * * * *  =====


 その日の夜、オレと麗那さんの二人はアパートのリビングルームにいた。

 麗那さんはというと、朝からの長い仕事が終わって、ついさっき帰ってきたばかりだった。眠りたい衝動に駆られながらも、彼女はいつものように缶ビールを口にして、テレビから流れるサスペンスドラマを眺めていた。

「そう、奈都美がそんなことを?」

「ええ。近いうちにやりたいって、彼女の方から言ってきたんですよ。他の住人たちには、もう伝えてあります。」

 住人みんなと改めて再会パーティーをやりたい、そして、その場でこれまでの経緯や迷惑を掛けたことについて謝罪したいと、奈都美はオレとの別れ際にそう話していた。

 それを聞いた麗那さんは、晴れやかな表情を浮かべていた。奈都美の心身を心配していただけに、喜びもひとしおだったのだろう。

「あの子、お酒飲めないけど、パーティーの場所は浜木綿でいいかな。マスターも紗依子も、奈都美に会いたがってるから。」

「いいんじゃないですか。浜木綿ならウーロン茶もジュースもあるし。他の住人たちもまず反対しないでしょうから。」

 オレと麗那さん二人の判断で、再会パーティーは「串焼き浜木綿」で執り行うことにした。日程などについては、奈都美本人とオレたちみんなの都合を見て決めるということで。

「そうそう。マサくん、紗依子からの誘いの件だけど。」

 唐突に話題を切り替えた麗那さん。

「今日、紗依子と話してね、今週の土曜日に決まったわ。お店も決めてあるから、当日、わたしたち二人で一緒に出掛けましょう。急で申し訳ないけど、都合空けておいてね。」

「了解です。当日予定を空けておきます。」

 例の一件が解決するまでは、紗依子さんにとって不穏な日々が続くのだろう。関わってしまった以上、オレとしても、彼女の心配事を取り除いてあげられればという気持ちが強かった。

 そう考え込んでいると、いきなり、オレに耳に轟音めいた大きな衝撃音が鳴り響いた。

「何の音!?」

 驚きのあまり、上擦った声を上げて辺りを見渡すオレ。その轟音はどうやら、テレビのスピーカーから流れてきたものらしい。

 テレビの映像に見入ったオレに、麗那さんがドラマの展開を簡単に説明してくれた。

 自動車の衝突による交通事故が発生し、運転手の女性が大怪我を負ってしまい、病院へと担架で担ぎ込まれるというシーンのようだ。

 交通事故で怪我をした演出のためか、運転手役の女優は顔中血だらけで、悲痛な叫び声を上げていた。

「すごい緊迫感。うわぁ、運転手の人、迫真の演技ですね、麗那さん。」

 生々しいシーンを見つめながら、オレは麗那さんに話しかけたが、なぜか、彼女から返事がなかった。どうしたのかと思って、オレは彼女の方へと顔を向ける。

「麗那さん・・・?」

 それは誰が見ても、尋常な様子ではなかった。麗那さんは両手で口を塞ぎこんで、全身をガタガタと身震いさせていた。

 気分が悪くなったのか、麗那さんは嘔吐するような格好のまま、流し台に向かって駆け出していった。

「れ、麗那さん、大丈夫ですか!?」

 オレが慌てて呼びかけると、麗那さんは真っ青な顔をして、引きつれたような叫びを張り上げた。

「テレビ消してっ・・・!お、お願い・・・!」

 リモコンを握り締めると、オレはすぐさまスイッチを切った。

 テレビの音量を失ったリビングルーム。張り詰めた静けさを打ち消すように、麗那さんの激しい吐息だけが響き渡っていた。

 身を案じながら、麗那さんに優しく声を掛けたオレ。呼吸をゆっくりと整えつつ、彼女はやつれたような笑顔をオレに見せる。

「マサくん、ありがとう・・・。もう大丈夫よ。少し、気持ち悪くなっちゃって。ほら、少し寝不足だったから、酔いが回っちゃったのね、きっと。」

 麗那さんはおぼつかない足取りで、残ってしまった缶ビールとおつまみを片付けようとした。

「麗那さん、後片付けはオレがやりますから。もう休んでください。」

「・・・ゴメンね。」

 フラフラと体を揺らしながら、麗那さんはリビングルームを出ていく。明日はゆっくり休めるといいなと、オレは彼女の具合がよくなることを願った。

「麗那さん、いったいどうしちゃったのかな。いくら寝不足だからとはいえ、あのお酒に強い麗那さんが、あんな急に具合が悪くなるとは思えないけど。」

 そうつぶやきながら、オレはテーブルの片付けを始める。わずかに残っている缶ビールを手にすると、オレはグイッと一気飲みしてしまった。

 空になった缶ビールを見つめながら、オレは不謹慎にも、麗那さんの色っぽい唇を思い浮かべてしまった。

「オレ、麗那さんと間接キスしてるじゃん・・・。」

 年甲斐もなく、ポッと頬を赤らめる純情なオレ。麗那さんの体調を心配しながらも、情けない男心をさらけ出してしまって、自分自身がちょっとだけ恨めしかった。

第六話は、これで終わりです。

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