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第五話 二.それぞれのお見舞い

 翌日、火曜日の午後のこと。梅雨時期らしく蒸し暑くて、生温い風を肌で感じるたびに、梅雨明けを待ち遠しく思うそんな昼下がりだった。

「そう、やっぱり怪しい人いたのね。」

「はい。残念ながら、途中で見失ってしまったんですけどね。」

 オレと麗那さんは一緒に外出していた。今日は買い物ではなく、じいちゃんのお見舞いのため「胡蝶蘭総合病院」へ向かう途中だ。

 午後の仕事がお休みになったと麗那さんから聞いたので、一緒にじいちゃんのお見舞いでもどうですか?とオレが誘ったところ、彼女は喜んで快諾してくれた。ここしばらく忙しかったせいもあって、彼女はオレが東京へ来た日以来、じいちゃんのところに顔を出していなかったそうだ。

 病院に着くまでの間、オレたちは昨日の出来事について話をしていた。紗依子さんを見送った後、アパートの前に立っていた怪しい不審者について、オレは麗那さんに報告した。紗依子さんの身を案じていたのか、麗那さんは動揺を隠し切れない様子だった。

「このこと、紗依子には?」

「いいえ、麗那さん以外には、誰にも話してません。」

「昨日のこと、わたしから紗依子に話しておくね。」

 オレから伝えるよりは、麗那さんから伝えた方がショックが少ないだろう。彼女はそう判断したようだ。

「でも、マサくん、あまり危険なマネはしないでね。お願いしたのわたしだから、何かあったら責任感じちゃうもの。」

「すいません。オレもあの時、無我夢中というか、自分でも自分をコントロールできなくて、つい人影を追いかけちゃったんです。反省してます。」

 そう叱りながらも、麗那さんはオレのことを労ってくれた。そんな彼女を心配させまいと、オレは詫びるように自省していた。

 そんな会話をしているうちに、オレと麗那さんは病院の敷地内まで辿り着いていた。

 病院から出てきた人たちを奪うために、何台ものタクシーが敷地内で輪を作っていた。お客を乗せたタクシーが一台、また一台と病院を去っていくと、どこからともなく、新しいタクシーが一台、また一台と病院へやってくる。そんな争奪戦が、敷地内で延々と繰り返されていた。

 オレたち二人は病棟に足を踏み入れると、ざわつくロビーを横目にエレベーターへと向かう。

「管理人さん、わたしが来たから、びっくりするかな?」

「びっくりというよりは、喜ぶと思いますよ。それはもう、泣いちゃうくらい。」

「ははは、それは大げさよ。」

 これがまた、そんなに大げさでもないのだ。何たって、じいちゃんは筋金入りの淋しがり屋さんだから。

「でも今日は、この花を見て、びっくりするかも知れませんね。」

 ここへ来る途中、オレたちは商店街にある花屋に立ち寄って、お見舞い用の花束を購入していた。もちろん、食べ物のお土産は病院から止められているからである。

「食事も制限されてるなんて、管理人さん可哀想だね。お花で喜んでくれるといいけど。」

 そんな話をしながら、エレベーターが一階まで到着するのを待つオレたち。エレベーターがゆっくりと下降し、一階の表示ランプが光った。電子音とともに、エレベーターの扉が静かに開く。

「あら!?」

「あ。」

 エレベーター前で、ニ人の女性が顔を見合わせていた。一人は麗那さん、もう一人は、エレベーターから降りてきた看護婦だった。

「あ、やっぱり、ニヶ咲麗那さんですよね?」

 看護婦はニッコリと微笑むと、麗那さんに向かって一礼する。麗那さんも優しく微笑んで、看護婦に対して小さく会釈した。

「看護婦さん。その節はいろいろとお世話になりました。」

 どうやら、この看護婦は麗那さんと顔見知りのようだった。ご無沙汰です、元気でした?といった感じで、二人は久しぶりに再会したような会話をしていた。

「今日はどうなさったんですか?」

「実は、わたしの住んでるアパートの管理人さんが、こちらに入院しているんです。今日は、そのお見舞いです。」

 そう言いながら、麗那さんは看護婦に花束を見せる。その色鮮やかな花束の美しさに、看護婦は魅了されたような顔をしていた。

「でも、随分とお元気になられたみたいでよかったです。あの頃は、お見かけするたびに、顔色が悪くなってましたから。」

「その節はご心配お掛けしました。・・・もう、大丈夫ですから。」

 麗那さんはひたすら恐縮していた。彼女たちの会話を耳にして、オレの脳裏に浮かぶある記憶が蘇ってきた。

「そういえば、オレが初めてここへ来た時、麗那さんのお友達がここに入院していたって聞いたな。この二人はその時の話をしているのかも。」

 看護婦の口振りからして、麗那さんは当時、かなりショックを受けていたようだ。それだけ、大切なお友達が入院していたのかも知れない。

「それじゃあ、また機会がありましたら。」

 麗那さんと看護婦は、お互いに会釈しながら別れを告げた。

「マサくん、ごめんね。あの看護婦さんには、昔いろいろとお世話になってたの。」

「そうみたいですね。もしかして、お友達がここで入院していた時のことですか?」

 麗那さんは言葉を出さずに、小さくうなづいた。

 外出中に不慮な交通事故に遭ってしまい、この病院に入院したお友達のお世話をしてくれたのが、あの看護婦だったと、麗那さんは力なく話してくれた。

「管理人さんの病室に行こうか。」

 待機していたエレベーターへと乗り込むオレたち。五階のボタン、そして、閉じるのボタンを連続に押すと、扉が電子音とともにゆっくりと閉まった。

 指示されるがまま、オレたちを乗せたエレベーターは五階を目指して昇っていく。五階へ到着したエレベーターの扉がゆっくり開くと、誰もいない真っ白な廊下がオレたちの視界に入ってきた。

「病室って、512号室だったかな?」

「そうです。ここから、もう少し奥ですね。」

 大きな足音を立てないように、オレと麗那さんはゆっくりと廊下を進んでいく。しばらくすると、じいちゃんの病室である512号室が見えてきた。

「あれ。ドアが少し開いてるぞ。」

 不思議なことに、512号室のドアが半開きになっていた。少しでも涼しくしようと、じいちゃんがわざわざ開けたのだろうか。各病室にはエアコンが完備されているので、そんな必要はないと思うが。

 512号室のドアに手が届く辺りまでやってくると、病室の中から何やら話し声が聞こえてきた。オレは思わず、その場で足を止めてしまった。

「麗那さん、じいちゃんの病室に誰かいますよ。」

 オレが小さい声でそう知らせると、麗那さんも立ち止まって、病室のそばで聞き耳を立てる。首を縦に振って、彼女はそうだねと返事をした。

「どうします?」

「少しだけ様子を見てみようか。」

 そう小声で相談し、ドアの向こうから漏れてくる話し声に、オレたちは耳を傾けていた。

 じいちゃんに話しかけているその声は、オレにとって聞き覚えのある女性の声だった。麗那さんもオレと同じく、一人の女性の顔が思い浮かんでいたようだ。

「・・・奈都美。」

 じいちゃんの病室をそっと覗き込むオレ。麗那さんは固唾を呑んで、そんなオレの後ろ姿を見つめていた。

 半開きになっていたドアの隙間から、じいちゃんと雑談している奈都美の背中が見えた。

「いやぁ、それにしても、こうやって奈っちゃんに会えるなんて、わしは幸せだなぁ。」

「やだなぁ、おじいちゃん、大げさなんだから。でも、元気そうでよかった。」

 忍び足で、オレのそばにやってきた麗那さん。良心が咎めると思いつつ、オレたちは病室のニ人の会話を盗み聞きしていた。

「奈っちゃん、もう住人のみなさんには会ったのかい?」

「うん・・・。この前、アパートに行ってきたよ。潤にジュリー、あかりさんに麗那さん、みんな元気そうだったね。」

「アパートに行ったということは、もう、わしの孫にも会ったかね?」

 じいちゃんの問いかけに、呆気に取られた様子の奈都美。

「孫?・・・ああ、マサのことでしょ?会ったよ。」

 奈都美は突然、苛立つように恨み節を口にする。

「おじいちゃん、聞いてよ!マサって、細かいことまでしつこいんだよ。あたしのサッカーボールがね、アイツの持ち物壊しちゃったんだけど、それを見た途端、あたしに謝れ、謝れって、まるであたしを悪人呼ばわりするんだもん。アッタマ来ちゃったよ!そりゃ、あたしにも責任はあると思うけど、アイツだって、サッカー場のベンチで寝てたんだよ?それなのに、一方的にあたしが悪いって屁理屈ばかり言っちゃってさ。」

 その不平不満にムカッと来て、オレは握り拳を突き上げそうになったが、そばにいた麗那さんに慌てて制止されてしまった。

「ひゃっひゃっひゃ、そうかそうかぁ。マサは、根が素直で真面目なんじゃよ。悪いヤツじゃないんだ。そういうところも含めて、仲良くしてやってくれんかね、奈っちゃん?」

「ぶー!おじいちゃんがそう言うなら、許してあげなくもないけどぉ。」

 高笑いしながら奈都美をなだめたじいちゃん。そんなじいちゃんの笑顔につられて、彼女もクスクスと微笑んでいた。

 その後も、奈都美は世間話をしながら、じいちゃんの肩を叩いたり、足の裏のツボをマッサージしたりしていた。そんな二人を見ていたら、本当の祖父と孫がじゃれ合っているかのようだった。柄にもなく、オレはちょっとだけ嫉妬してしまった。

「ん?」

 オレのシャツの袖をつまんで、グイグイと引っ張る麗那さん。そのまま病室から離れるよう、彼女はオレを廊下の奥へと誘導していく。

「・・・ねぇ、マサくん。今日は、このまま退散した方がいいと思う。」

「え?」

 奈都美をこのまま、じいちゃんと二人っきりにさせておいた方がいいと、麗那さんは気を遣ったのだろう。オレも同意見だったので、彼女の言う通りにすることにした。

「マサくん。このお花、後でいいから、あなたから管理人さんに届けてくれる?わたし、そろそろ戻らないと夜の仕事があるから。」

 ちょっぴり残念そうな顔をしている麗那さん。じいちゃんに会って、挨拶だけでもしたかったに違いない。だけど、じいちゃんの元気な様子が伺えただけでも、お見舞いに来た甲斐はあったようだ。

 麗那さんから綺麗な花束を手渡されたオレ。小さく手を振りながら離れていく彼女に、オレは512号室に届かないぐらいの小さい声でさよならした。


 =====  * * * *  =====


 数日が経過した金曜日の夜である。早々に夕食を済ませて、オレはリビングルームで勉強をしていた。

 この数日間、オレは予備校に通い講義を受けてきた。ここ最近、勉強に集中できていないせいもあって、学力の低下は否めない。オレは少しでも遅れを取り戻そうと、今夜は勉強に集中することにした。

 時刻は夜7時を過ぎたあたり。ここリビングルームは、気味が悪いほどの静けさに包まれていた。それもそのはずで、住人の中でも特に賑やかな、ジュリーさんと潤が不在だったからだ。

「あれ、電話か?」

 アパートの電話機のベル音が、オレの耳に届いた。

 勉強の手を休めて、リビングルームを出ていくオレ。階段のそばにある電話機が、けたたましく鳴り響いていた。

「もしもし、ハイツ一期一会です。」

「あ、マサ?よかったワ、いてくれて。ねぇ、これから時間ある?」

 受話器の向こうから話しかけてきたのは、不在中のジュリーさんだった。彼女は確か、夜のアルバイトに出掛けていたはずだが。

「時間があるというか、オレ、勉強してたんですよ。」

「Oh!それなら、ここへ来なイ?今、浜木綿で飲んでるのヨ。」

 アルバイトも終わって、気ままな晩酌としゃれ込んでいたところ、飲み友達が欲しくなり、アパートにいるオレに電話をしてきた。ジュリーさんの思惑は、ざっとこんなところだろう。

 どうしても、今夜は勉強に集中したかったオレ。お断りの意思を示したものの、ジュリーさんは素直に納得してくれず、しつこくオレを誘ってきた。

「つれないわネ、マサ。紗依子も、マサに会いたいって言ってるわヨ!だから、早く来なさいヨ。」

「え、紗依子さん・・・?」

 オレはドキッとした。紗依子さんのアパート前に現れた不審者の影が、オレの脳裏を過ぎった。

 麗那さんは、この出来事を紗依子さんに伝えているのだろうか。もし知っていたとしたら、紗依子さんはどんな心境なのだろうか。そんな思いが、オレの胸中に渦巻いていた。

「マサ、聞いてるの?どうするのヨ!」

 黙ったまま考え込んでいたオレに、ジュリーさんが返答を迫ってきた。

 散々悩んだ挙句、紗依子さんの様子を伺うという名目で、オレはジュリーさんからのお誘いを受け入れることにした。正直、そのことが気になって、勉強に集中できそうになかったから。

「サンクス!それじゃあ、待ってるワ。なるべく早く来てチョーダイね。」

 今夜も、受験勉強をないがしろにしてしまったオレ。受話器を置くと、オレは自らの意志の弱さにうなだれてしまった。

「・・・後悔してもしょうがないか。また明日だな。」

 リビングルームのテーブルに並ぶ参考書を片付けると、オレは室内の照明を落とした。

 管理人室へ戻るなり、すぐさま普段着へと着替えて、オレは財布の中身の覗き込んだ。財布の中には、わずかなお小遣いだけが残っていた。

「・・・飲み食いなしで済ませてもらえるかなぁ。」

 いろいろな悩みに不安を感じつつ、街灯からの薄明かりを頼りにしながら、オレは「串焼き浜木綿」へと向かうのだった。


 =====  * * * *  =====


 夜8時になろうかという時刻に、オレは駅西口の繁華街を歩いていた。

 金曜日の夜を満喫する会社員たちで、繁華街は大いに賑わっていた。お店の従業員もここぞとばかりに、会社員たちを呼び止めては割引サービス券を手渡していた。

 そんな賑やかな繁華街の中で、落ち着いた雰囲気で営業している「串焼き浜木綿」。オレはお店の暖簾の前までやってきた。

「はぁ、小走りで来たから、汗かいちゃったな。」

 少しでも体温を冷まそうと、ポロシャツのボタンを外したオレ。夜風が汗ばんだ背中をかすめると、オレはヒヤッと身を震わせた。

「いらっしゃい!おお、マサくん、早かったね。」

 お店の暖簾をくぐったオレに、マスターが威勢のいい挨拶をしてくれた。

 今宵もまた、焼き物のおいしそうな香りが店内に漂っている。これが夕食前だったら、この香りの誘惑に負けてしまい、オレは串焼きを注文していたに違いない。

 カウンター付近にいた紗依子さんが、オレに気付いて声を掛けてきた。

「あ、お疲れさま、マサくん。わざわざ来てもらってごめんなさいねー。」

 紗依子さんはいつも通り、愛想よく微笑んでくれた。明るい表情からして、麗那さんはまだ例の話を伝えていないのだろうか。それとも、オレたちを心配させまいと、平然を装っていたのだろうか。

「マサくん、ジュリーがお待ちかねよ。」

 そう言いながら、紗依子さんはカウンター席の奥を指し示した。

 カウンターの奥で女性が二人座っている。後ろ姿から、一人はジュリーさんだとわかったが、もう一人の女性は顔をカウンターにうつぶせていて、誰なのかわからなかった。

 オレが到着したことに気付いて、ジュリーさんは手招きしながら弾んだ声を上げる。

「Oh、マサ!やっと来てくれたのネ!よかったワ、助かったヨー。」

 ホッとした顔色からして、ジュリーさんはかなり待ち焦がれていたようだ。というよりは、オレに救いを求めているような、そんな表情を浮かべていた。

「マサ~・・・?」

 奇怪なほどのしゃがれ声が、オレの耳を通り抜ける。その声の主は、カウンターにうつぶせていた女性だった。その女性はゆっくり顔を上げると、据わった目でオレを凝視した。

「あれ、潤だったの!?」

 オレは思わず、びっくりして叫んでしまった。ジュリーさんの隣には、仕事に出掛けていたはずの潤がいたのだ。

 ふて腐れたような顔で、潤はぶつぶつと小言をつぶやいている。この有り様に、オレはただ困惑するばかりだった。

「マサ、まぁ座ってヨ。詳しく話すから。」

 ジュリーさんの隣へと腰掛けたオレは、彼女から一通りの説明を受ける。

 夜のアルバイトも終わって、ジュリーさんが携帯電話をチェックしたら、潤からの着信履歴が残っていたそうだ。メールも届いていたので読んでみると、浜木綿にいるからすぐに来てほしいといった内容だったという。

 ただならぬ胸騒ぎを感じて、ジュリーさんはここ浜木綿に駆けつけたとのことだった。

「もう、びっくりヨ!わたしが来たら、この子、お酒飲んでるわけじゃなくて、カウンターで、マスターと紗依子に愚痴こぼしてるんだもん。」

 マスターと紗依子さんは、すっかりお手上げだった。愚痴ばかり聞かされて、かなり疲れ果てていたようだ。

「潤は、どんな愚痴をこぼしてたんですか?」

 オレがそう問いかけると、ジュリーさんは哀れむような瞳で、塞ぎ込んでしまった潤を見つめる。

「この子、通勤の途中で連絡が入ってネ、いきなりお休みになっちゃったそうなのヨ。忙しい金曜日がお休みになるのって、この子にしてみたら、かなりショックなことみたいネ。」

 潤の職場であるキャバクラでは、キャバ嬢はみんな、シフトを組んで出勤日を決めている。彼女はそれなりに人気があるので、混み合う金曜日と土曜日は毎週出勤しているのだ。

 特別なお客が来店したりして、今夜みたいに急遽、休暇を告げられることは稀にあるというが、どうやら、このからくりには、潤の同僚である一人のキャバ嬢が絡んでいるらしいのだ。

「・・・お店の人気ナンバーワンの子がネ、どうも、潤のことを嫌っているらしいのヨ。自分のお客を取られたくないから、お店のオーナーを抱え込んで、出勤日を裏で操っているみたイ。きっと、潤に人気ナンバーワンの地位を奪われたくないからって。」

 もし、それが事実だとしたら許しがたい話だ。オーナーの振りかざす権力の前では、雇われている身の潤ではなす術もないだろう。

「・・・なるほど。それじゃあ、潤にしてみたら納得できませんね。」

 再びカウンターにうつぶせてしまった潤。ぼそぼそと、彼女は何やら言葉を漏らしている。

「あの子、オーナーのお気に入りなんだよぉ。だから、あたしがどんなにがんばっても、どんなに売上を上げても、あたしはいつもあの子に勝てない・・・。悔しいよ、そんなのぉ・・・!絶対に認めたくないんだもん・・・!」

 潤は搾り出すような声で、不平不満をぶちまけていた。あの能天気で明るい彼女が、まさかこれほどまでに落ち込んでしまうとは思わなかった。

 オレたちみんな、ただやるせなく口を閉ざしている。もどかしいけど、潤を励ますだけの相応しい言葉が浮かんでこなかった。

「うう、ううう・・・。」

 しばらくの間、潤は悔しい胸中を吐露し続けた。彼女の流した悔し涙の粒が、何滴も何滴も足元へと落ちていった。

 マスターと紗依子さんは、そんな潤を優しく見守っている。そして、ジュリーさんとオレも気遣いながら、彼女の心の回復を待ち続けた。

「みんな、ごめん・・・。」

 顔を起こして、泣きはらした目をしている潤に、紗依子さんが冷たいおしぼりを手渡す。そのおしぼりを目元に宛てて、潤は滴り落ちる涙を拭っていた。

「ありがとぉ、紗依子さん・・・。」

 女性を慰めることなど滅多にないから、オレはこういう時にどう接したらよいかわからない。そう心に思ってはいても、今だけは、オレが潤を励まさなければいけないような、そんな気がしてならなかった。

「あのさ、潤。オレ、潤の悔しさとか辛さって、きっとわからないと思うんだ。本当は、潤の気持ちをわかってあげたいけど、たぶん無理だと思う。・・・でもさ、わかってあげられなくても、励ますぐらいはできると思ってる。」

 潤は目元におしぼりを宛てたまま、オレの話に耳を傾けている。

「悔しさなんかさ、持ち前の明るさと賑やかさで吹き飛ばしちゃう、オレの知ってる潤はそんな女の子だよ。オレなんかに泣き顔見られる方が、よっぽど悔しいと思うけどね。泣き虫って呼ばれたくなかったらさ、オレに笑った顔を見せてごらんよ。」

 すると、潤はおしぼりで顔を隠してしまった。ほんの少しだけ、沈黙の時間が流れていく。

「・・・マサ、あたしのこと泣き虫って言ったらぁ、あんたにずーっと意地悪し続けるからね。」

「あ、いや冗談だって!オレがそんなこと本気で言うわけないだろう?それだけは勘弁してくれ。」

 オレが必死になって許しを請うと、おしぼりから覗いている潤の口元が、わずかに緩んだように見えた。

「あんたのせいでぇ、悔しさがどこかに飛んで行ったじゃん、もう。・・・ははは。」

 恥ずかしかったのか、おしぼりで顔を覆いながら、潤はトイレへと逃げ出していった。

「マサ、ナイスケアだったわヨ。」

 ジュリーさんは労うように、オレの肩に優しく触れる。マスターと紗依子さんも、ホッとしたような顔でそれぞれの仕事に戻っていった。

 しばらくすると、潤がトイレから戻ってきた。真っ赤になっていた目元をシャドウでごまかし、彼女は職場スタイルの美しさを粧っていた。

「みんな、どうもありがとぉ。言いたいこと言って、すっきりしちゃった。」

 愛くるしく微笑んでいる潤。明るさを取り戻してくれてよかったと、一安心するオレだった。

「よーし、潤がこれからもがんばれるように、オレから一杯酎ハイをごちそうしちゃおう!その代わり、二杯目は禁止という条件付きだけどね。」

「えー、マスター、ひどーいぃ!」

 ブーブー小言をつぶやきながら、潤は口を尖らせていた。そんな彼女の茶目っ気ぶりに、オレとジュリーさんは互いに笑顔を見合わせていた。

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