序章 匂坂昭彦2
「休暇は満喫できたのかしら?」
カツンカツン。
真喜子がなんともなしに僕に聞く。
僕らは長い、病的とも言える真白な廊下を歩く。真喜子のハイヒールの音が酷く五月蠅く響く。
ガキンッ。
「前回の影響は残って無いと思います」
一つ目の鉄格子製の扉を抜け、開けた看護師に軽く手を上げながら、僕は答えた。看護師は真喜子の脚に視線を向けたままだったが。
カツンカツン。
「そう。使い物にならなかったら仕方ないしね。良かったわ」
ガキンッ。
「簡単にあらましを教えて欲しい」
二つ目の鉄格子製の扉を抜け、僕は言った。
カツンカツン
「誘拐」
真喜子はそれだけ言うと、ストレートに伸びる黒髪を手で払った。
なるほどね。僕は受付とは名ばかりの、監視所の看護師から、自分の薄手のハーフコートを受け取り、袖を通しながら呟いた。プロレスラーの体躯を持つ、受付の看護師は真喜子の脚は見ず、僕に敵意のこもった視線を投げていた。
「重要犯罪緊急対策機動警察隊は動いているのかね?」
僕の声で‘百眼’が真喜子に聞いた。
「確か誘拐専門チームが存在する筈だが?」
カツンッ。
真喜子の足が止まる。
「確かに、動いているわ。ただ何故動いていると?」
「君の疑問はつまり――なぜただの誘拐が重要犯罪に指定されていると私が分かったのか、という事かい?」
‘百眼’は今にも吹き出しそうになるのを抑え、
そう確認の言葉を吐いた。真喜子の表情は僕からは見えない。が、おそらく頬は赤く染まっているだろう。‘百眼’は真喜子の性格をよく知っている。
‘百眼’は言葉で相手を抉る。
僕はそれより――相方はいつもの時田さんですか、と話題を変えた。
「時田さんもこの前の事件で酷いめに会いましたから……」
「時田は辞めた」
真喜子は簡潔に答えると、ハイヒールを響かせ、また進み出した。どうやら‘百眼’の言葉は聞かなかった事にしたらしい。「相変わらずな、女だ。出世欲に駆られた女ほど分かりやすい者はないな。昭彦くんもそう思うだろう?」‘百眼’が僕に嘲るように言った。
「欲に駆られた人間に隙が出来るというのが奴の教えだったな」
僕は無難にそう答えた。
病院の外は10月にしては肌寒い。入口に横付けされた後部座席のドアが開いた車の横に、真喜子はもう一人の女性と共に僕に向かい立っていた。
「桐谷亜夜警部補、貴方の新パートナーよ」
よよよろしくお願いします、と挨拶をする桐谷さんに真喜子は
「気をつけなさい。彼は人は‘壊す’わ」
と言った。
「人を紹介するのにそんな紹介あるか」
差し出した右手が何も得れないまま、僕のコートのポケットに戻った時、車の無線が切迫した内容をがなりたてた。
「―…害者宅に犯人より入電。害者宅に犯人より入電っ!」