序章 匂坂昭彦(さきさか あきひこ)
夢を見た。大概の例に漏れず、起きた時には詳細な内容は覚えていなかった。ただ目覚めた時の――ざらついた、ねっとりと、と相反する感覚。しかし共通の不快感という感覚。それだけがしっかりと僕の認識の中に在った。フロイトならどう分析するだろうか? ユングならばどう解釈するだろうか? 「君は馬鹿か? 見た内容を覚えてないのにどういう答えをもらう気だ。そもそも、どう彼らに伝えるんだい?」
全くだ。僕はのろのろとベットから降りると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。
「やれやれ。今日も昼過ぎにそうやって起き、無気力に一日を過ごすのかい? 全く良いご身分だな」
僕は返す言葉も無く口許の水を拭った。
「さて――私は君と違い吸収すべき知識が多量にあるのでね。まぁ精々愚鈍に時間を消費し給え」
僕が‘百眼’と呼んでいる男の声が止むと僕はふぅと息をついた。冷蔵庫の唸りが聞こえる。ふと壁に掛かっている唯一の調度品に目がいった。13日の金曜日。気分が少し重くなった。そしてその憂鬱さは二時間後の電話によって実現となる。
「退院よ」
真喜子の声は半年ぶりなのに堅く、冷たい。僕はそれだけを伝え切れた受話器を壁に掛け戻し、黒のフリース、ジーパンという外出着に着替え、ドアが開くのをベットに腰掛け待った。やがてカツンカツンと小気味好い音が近付いて来ると、僕の部屋の前で止まった。
仰々しくドアのロックが自動で外れると、内側に向かって今度は音も無く開く。
「今度はどんな‘神サマ’だい?」
真喜子は上辺だけの挨拶は好まない。半ば禁欲生活者達が詰め込まれているここに来るのに膝上丈のミニスカート、化粧の乗りは今日も良い。自分に自信があるのだ。だから他人の世辞や挨拶など時間の無駄だと考えている。
梅島真喜子――国家公安委員会、第9分室室長。
「宗教法人、神の郷」
それだけ言うと真喜子は僕の足下に身分証を放った。自分より力のある者が跪く。この女はそういった光景が好きなのだ。
「出なさい。国家公安委員会第9分室嘱託補員、匂坂昭彦」
僕は彼女の前に跪き、身分証を拾いあげた。