広島2
ガタン、ゴトン。電車の進行には欠かせない音。その音は、時に人を憂鬱にさせ、時に人を興奮させる。つまり、平日の出勤は憂鬱で、休日の逸遊は楽しみでしょうがないということ。だけれど、僕たちはそのどれにも当てはまらない。簡単な話だ。新幹線に乗っているだけだ。
「君は今、下らないことを考えてはいないかい?」
隣に座っているアデレイドが僕に問いかける。僕たちは今、新幹線の自由席車両で到着の時をのんびり待っている。自由席は狭い。当然、モデル体型のアデレイドは窮屈さを感じているはずだけれど、僕にはそうは感じられない。優雅に座り、ペットボトル飲料(ミルクティー)を飲みながら雑誌をめくっている。もしかしたら、無駄な脂肪による体積が無い分、その限定された空間を効率よく利用できるのかもしれない。ちょっとだけ羨ましい。
「まあ、その通りなんですけれど、下らない事も大事ですよ」
簡単に答えてみる。僕のちっぽけなモットーを忍ばせて。
「ほう? どういうことかな?」
僕の意図を知ってか知らずか、アデレイドは興味を示したようだ。雑誌に集中していた双眸が、今はこちらに向いている。
「ちょっとわかりにくいかもしれませんが、僕は笑うことが好きなんです」
「ふむ」
「世間一般の人は、楽しいこと、面白いことが先にあって、その対応、反射行動として笑っています。いや、僕が勝手に妄想してるだけかもしれないですけれど。だけれど、僕は笑うという行為そのものが好きだから、笑うために楽しいこと、面白いことを探しているだけです」
「ふむ。君が笑うことが好きだということは理解したよ。だけれど、何故下らない事が大事なのかな?」
確かに、僕の答弁は説明になってはいなかった。ちょっと恥ずかしい。
「下らない事。下品な事。下世話な事。そういうことを考える時、人は最も頭が働きます。あ、これは僕の持論です。理性を制して本能が主役になるからだと思っています。ですが、その結果得られるモノは余りに非生産的なので、僕は一体何をしているんだろう、といった自嘲気味の笑いがこみ上げてきます。下らない事は、僕の気質と合わせて考えると僕にとっては非常に重要なことなのですよ」
「なるほど。君はやはり奇特な人間だね。そういうワケの分からない考えを堂々と論じられる点は君の美徳だと思うよ。年寄り臭い発言だとは思うけれどね、長生きしていると、その人間の個性は目に表れるということを思い知るんだよ。初めて会ったときから、君の目は今私が語った事を告げていた。そして、私は君のような人間が大好きさ。何故かはわからないが、血が美味しいからね」
「な、なるほど・・・」
調子に乗ってべらべらと喋った結果がこれだ。
-----------------------------
新幹線のアナウンスが、僕たちが目的地に着いたことを告げる。僕は広島に来た事がない。だから、その発展ぶりに驚いた。というのも、地方住民には失礼だが、僕は広島を田舎と思っていたから。駅ビルの背は高いし、その目の前にはモダンな噴水があって、待ち合わせには便利そうだ。第一印象は、意外にオシャレ。
人がゴミゴミしている。歳末で、仕事が休みの人が多いからだろうか。明らかに外見が日本人でない者も沢山いる。まぁ、お目当ては僕とアデレイドと一緒だろう。日本人は意外と、自国が唯一の被爆国家(語弊の無いように言っておくと、原爆を落とされた国ということ)だという事を重大な事実と認識していない。実は僕もそうなのだけれど。大抵の人は、歴史の授業や、修学旅行などで、その痛ましい負の遺産を見て、戦争は悪いこと、人が大勢死ぬことは悲しいことだと、何となく把握するだけ。もっとも、僕も多分に漏れず、その一人であったのだけれど。
「ふふ。人間は面白い。六十年やそこらで、あの更地をここまで復興させてしまう。しかし、一方では、六十年も以前と変わらない生活を営んでいる者もいる。まあ、諸般の事情(諸外国からの復興支援等だろうと僕は思う)が絡んでいることも一因ではあるだろうけどね。私はそこが素晴らしいと思うよ」
アデレイドが語る。僕はそんなことは考えたことも無かった。彼女の言うことはもっともだ。僕は中学校の社会科の授業を、ちょっとだけ必死に思い起こす。
確か、縄文時代が一万年以上続いていたこと、そして現代はたったの十年で大きな建造物が造られ、インターネットが普及し、衣食住がより快適になることを比較していた。当時の教科担当の先生は、人間の発展ってものすごいことなんだなあとしみじみ呟いていた。なるほど。六十年という歳月は、歴史上ではほんの一瞬なのだろう。技術水準が破竹の勢いで高まっていた時期とはいえ、その一瞬で東京にも引けを取らないほど復興したことはやはり通常では考えられないことなのか。
そこまで思索にふけって、ふと気付く。通常って何だろう、と。
通常の人間ならば、かつて日本に原爆が落とされたことなど、さして気にも留めないはずだ。毎年毎年、追悼式を催したり、千羽鶴を捧げたり、少なくない人数の人々が犠牲者の冥福を祈る。過去の悲劇を繰り返さないために。しかし、総和の観点からすると、その人々はやはりマイノリティなのだ。一億人の中の百万人にはどれだけ価値があるのだろう。同じ割合でたとえると百円の中の一円でしかない。百万人以外の人々は、単なる夏の風物詩としてしか捉えていない。
「君の考えていることは正しいよ」
不意に、アデレイドが呟く。
「通常なんて言葉は、正義と一緒さ。人の数だけ存在する。君と同じ生活を送っている人間を、君はどれだけ知っているかい?」
アデレイドは、その言葉以外にも、僕に話しかけてくれていたけれど、僕が覚えているのは、その一言だけだった。その時の僕は、何だか無性に寂しい気持ちを覚えていたから、アデレイドの言葉に幾分か救われたような心持がした。
-----------------------------
「冬の朝は素晴らしいね。程よい冷気が目を覚まさせてくれる。路傍の道草に霜が降りているのも乙じゃないか。見てもよろしいし、踏んで触感と小気味良い音を楽しむのもよい。あぁ、日本の四季は私を飽きさせることが無い!」
アデレイドは朝から興奮気味に、そして誰ともなしに叫ぶ。傍にいるのは僕しかいないのだから、勿論僕に声をかけているのだろう。年を取ると睡眠が浅くなると言うが、やはりそれは真実に違いない。僕はそう結論付けた。
「アデレイド、日本が好きだとおっしゃるなら、早朝はもっと声量を抑えてください」
といっても、見渡す限り山野だけですけれど、と心の中で付け足す。アデレイドの透き通る声は、早朝のスッキリしない僕の頭には余り良い影響は与えない。ありていに言えば、キンキンしてうっとうしい。
しかしながら、アデレイドの発言には完全に同意するのが実情だ。アデレイドにとっては程よく、僕にとっては身を切る様な冷え込みも、何故だか心地いい。風が落ち着いているからだろうか。霜が降りた野草を踏むのも、童心を思い出して楽しいと感じる。
僕達は山間の旅館に泊まった。目の前の道路や、脇の駐車場はアスファルトで舗装されておらず、また、クマが出たとか出ないとかでニュースになったこともあるらしい。その所為かどうかはわからないが、サービスは良く、駅からバスでの送迎まであり、そして何より値段が安い。と、ここまで書けば至れり尽くせりの様に聞こえるが、一泊二食で、料理の質は中の下、更に畳張りの和室は狭く(ツインのはず)布団は埃っぽい。値段相応というところである。しかしながら、値段相応ということは、満足のいく価格設定ということであり、経営者であるだろう女将に僕は少し尊敬の念を抱いた。
「何を難しい顔をしているんだい?」
僕の視界に突然、アデレイドの顔がズームアップされて映る。反射的に仰け反ろうとした僕の上半身をアデレイドが支え、そのまま僕達はキスをした。