夜を編む白い花
ここは……、どこだ。
見覚えのない花畑の真ん中で目が覚めて、首を傾げた。
周りには美しい色とりどりの花々が咲き誇っていて、とても美しい景色が広がっている。しかし、美しい光景に見合わず、空が真っ黒だった。
気味が悪い。
美しいと思った次にはそれだった。柔らかな花の香りはするから、夢ではないのだろうと考える。現実だとて、ここで何かをすることも、帰ることすらできないのが直感的にわかる。
気がついてから数分しか経っていないというのに途方に暮れ、ただ呆然と美しくも気味の悪い光景を見つめた。
端が見えない花畑を少し散策してみようと、後ろを振り返った。
「えっ」
「こんにちは」
そこには花冠をかぶった白い少女がいた。まさか自分以外にも人がいるだなんて思っていなくて、素っ頓狂な声が出た。
白い少女は全体的に細く今にも溶けてしまいそうな輪郭で、花冠がよく似合っている。少女は俺を見て何を思ったのか、ふわりと花が咲くように微笑んでみせた。
「お客さんですか?」
「えっと、わからないです。気がついたらここにいて……」
「そうでしたか。実は私も気がついたらここにいたんです」
「おんなじですね」
笑えない状況であるはずなのに、何故か二人して顔を見合わせて笑ってしまった。初対面のはずなのに、緊張した空気など全く感じず、穏やかで柔らかい空気に緊張が緩んでほっとする。
「ここ、変な場所ですよね」
おもむろに少女がくすり、と笑いながら呟いた。
確かにそうだ。真っ暗であるはずなのに、遠くの方に咲き誇る花々が見える。
「そうですね、不思議な場所です」
「でも、すごく綺麗ですよね」
「はい、すごく」
暗闇であるはずなのに、はっきりと見える花は光っているようにも見えて、とても美しく、柔らかな桃色をしている。
「貴女のつけている花冠はここのお花ですか?」
俺がそう訊くと訊かれると思っていなかったのか、少しだけ驚いたように息を漏らした。すぐに微笑むと楽しそうに花冠を指先でつついた。
「ええ、とても綺麗だったので。せっかく作れるなら、と思って」
くすぐったそうに笑う少女はとても可憐で、本当に花冠がよく似合っている。少女の笑顔を見ているとほっとして、安心してなぜだか、目頭が熱くなる。
ここでいきなり泣き始めた変なやつになるわけにはいかず、慌てて空を見上げた。
改めて見ても本当に変な空だ。一瞬で熱が引いた。
星が見えないから、曇っているのかと思うが、それらしい空に浮かぶ影は見えない。真っ黒のペンキで空を塗りつぶしたように見える。何度も思うが、やはり不気味だ。気味が悪い。
なんだかこのまま見続けると頭がおかしくなりそうで、視線を戻す。
「おわっ」
「……」
なぜか少女が俺の顔を覗き込んでいた。一切の曇りのない瞳に見つめられ、思わず俺も見つめ返してしまう。よく見ると、瞳の色が淡い桃色をしている。ここに咲いている花と同じ桃色だから、この少女は花の妖精なのでは? なんて思う。一度そう思えば、花冠を身につけていることや、儚げなほわほわとした雰囲気など、いろいろ一人で納得してしまう。
「どうしたんですか? 急に空を見上げて」
見つめられたままそう訊かれて、誤魔化そうと目を逸らそうにも逸らせなかった。しかし、何と言うべきかも分からず、黙り込んだまま少女を見つめ返しす。するとやはり不思議そうに首を傾げた。
少女の顔がぐにゃりと歪んだ。
「……!」
視界に映る全てが歪み始め、まるで溶けていくのではないかと錯覚する。
「だ……じょうぶ……す……?」
段々と視界が暗くなり、景色が、音が、香りが、消え……てく…………。
全身の激痛で意識が浮上する。目を開こうにもまぶたが動かない。というか、痛み以外に体の感覚がない。
なんでだ。痛い、痛い……。
あぁ、これは夢……。悪夢なのか……。早く、起き、なきゃ。怖い、怖い、痛い痛い、痛い……! 誰か、誰か……!
「……っ。はっ、はっ、はっ……。はぁ……はぁ」
目が開く。瞬きができた。体が、動く……。
痛みと恐怖から解放された安堵で、目尻から液体の流れる感覚がする。その感覚にすらほっとして体の力が抜けた。
ふわりと優しく頭を撫でられる。
「大丈夫ですか」
その柔らかな優しい手つきに、余計に心がほぐれた。さっきから一緒にいてくれたのか、白い少女が大げさに眉を八の字にして俺の顔を覗き込んでいた。返事の代わりに頷くと安心したように微笑んでくれた。
まるで子供を慈しむ母のような優しく温かな手つきに、また微睡みそうになる。一つあくびを噛み殺したときに、ようやく俺は気がついた。
「ってあれ……?」
慌てて体を起こして少女に向き直る。きょとんとした顔で、首を傾げてこちらを見ていた。
「どうしたんですか?」
「いや、どうしたんですかじゃなくてですね……」
さっきまで自分は膝枕をしてもらっていたことに気づいたら、誰だって慌てるだろう。しかも異性に。
それでも不思議そうに首を傾げる少女に、思わず苦笑いしてしまった。
「そういえば、俺どのくらい寝てました?」
話題を逸らそうとした訳ではないが、ふと疑問に思った。意識を失う前の感覚と、悪夢の恐怖は途方も無いほどの時間が経ったような錯覚をさせた。
「……」
「?」
「いえ、そんなに時間は経っていないと思います」
長く感じたように思えていたが、そうでもなかったのか。時間の感覚も少し狂ったのかもしれない。
少女は何を思ったのか、数輪の花を摘んで俺に差し出してきた。
「一緒に作りませんか?」
自分のかぶっている花冠を指さしながら、無邪気な笑顔で提案された。その笑顔につられて思わず俺も笑顔になった。二人で花畑の絨毯に座って夢中で花を摘んでは編んでを繰り返した。
花冠を作るのなんていつぶりだろうか。
……あれ? 花冠なんて作ったことあったっけ?
たしかに作ったことはあったような気がしたのに、記憶が一気に朧げになって溶けて消えたような感覚がある。そもそもそんな記憶があったのかも、わからなくなってしまった。
あったのか、そもそもそんなものなかったのか、全くわからなくなって混乱する。必死に記憶をかき集めようとした時にようやく気がついた。
俺は、誰だ……?
少しだけ編まれた花を握りながら硬直した。桃色の花を見つめながら、必死に自分に関する記憶を探す。それでも一欠片も見つからなくて、焦りで涙が滲んで視界がぼやける。
俺は、本当に誰だ? 何一つ思い出せない。ここに来るまでの記憶だけじゃない。きっとずっと前のことも、大切にしていたはずの思い出も。何もかも、最初からなかったかのように真っ白でわからない。
「はいっ、できました!」
俺の心境には場違いとも言える無邪気な声に、救われたような気分になった。ツンと痛くなった鼻の痛みも消え、ぼやけた視界がはっきりし始めた。
ああ、そうだ。目の前にいる少女は俺のことなんて知らないんだから、別に、いいのか。忘れていても……。
にこにこと愛らしい笑顔で差し出された花冠を受け取り、笑顔に急かされるまま被る。柔らかな花の香がふわりと香る。甘い香りに緊張が緩む。
「…………」
俺は、何に緊張なんてしていたんだ? …………。まあ、いいか。今はもう、どうでもいいか。
先ほど受け取った数輪の花を、感覚のままに編んでいく。思いの外、綺麗な円になって花の形を潰さずに作ることができた。よくできたと思う。無言のまま両手で少女に差し出すと、嬉しそうに頬を緩ませて受け取ってくれた。
渡したあとに気づいたが、少女はすでに花冠を被っている。二つ重ねることになってしまう。どうするのかと見つめていたら、突然糸の切れた操り人形のように、がくりとうなだれた。驚いて言葉を失ったのは一瞬だけ。動揺しながらも、肩を揺すろうと手を伸ばした。
俺の手が少女の肩に触れるとすぐに起き上がった。そして何事もなかったかのように微笑んだ。糸が切れても手を離さなかった花冠を、前かがみになっている俺の頭に載せた。
花冠が頭に触れた瞬間、また少女の顔がぐにゃりと歪んだ。思わず目を見開いて頭を抱える。少し顔を上げると視界の端に少女の微笑みが見えた。
その笑顔はとても懐かしい気配を纏っていた。
その懐かしさの正体がわからないまま、何もかもが溶けて消えて、なくなって……い、く。
かすかに聞こえる機械音。全身が痛い。苦しい。目を開けようとしたが、まぶたを動かせない。
そこで、以前見たような夢に酷似していることに気がついた。
前と違うのは、一定の間隔でかすかに音が聞こえること。痛み以外に体の感覚があること。手に力を入ると半ば痙攣のような形だが、動いたのがわかる。どうにか動いてみようと、足に力を入れると、やはり痙攣したように動いたのがわかる。自分の意志でうまく動かせないのがもどかしいが、何度も繰り返す。
何度も繰り返していると、なにか柔らかいものに手が包まれた。
手を、握られている……?
目眩を起こしたのか意識がぐわんと歪んで、暗闇の中に溶けていった。
手が、暖かい。その手の温もりで、紐を引かれたように意識がはっきりしていくのがわかる。
「おはようございます」
目を開くと視界いっぱいに白い少女の微笑みが見えた。驚いて言葉が詰まったが、驚きのあとにはなんとも言えない幸福感が胸に広がった。
どこか懐かしい誰かの笑顔。温もりを感じる右手を見れば少女が宝物を包むように、大切そうに俺の右手を両手で包みこんでいた。
少女の顔はやはり慈しむような、懐かしい微笑み、があ、る……?
「貴女は、誰ですか?」
唐突に生まれ、叫び声を上げた違和感に気圧されて、衝動のまま問いかけた。少女の桃色の瞳が驚きに彩られたのを見て、やってしまったと背に冷や汗が伝う。
そもそも、自分だって同じことを訊かれたら答えられないというのに。自分が訊かれて嫌なことは、人にも訊いちゃいけないって、ずっと言われていたのに。
誰に、何を、言われたのか。思い出した記憶は、冷凍庫から出した氷みたいに溶けていく。
「貴女は、誰なんですか? 俺の、知っていた人ですか?」
少女は言葉を失って、わずかに口を開いて俺の目をその桃色の瞳でまっすぐに見つめた。何度もその大きな目を瞬かせると、自然と作ったような笑みを浮かべた。
「私は、死神」
言葉を失った。足元の桃色の花が、一瞬で全部くすんだ色に変わっていく。急速に萎れて、最後には枯れて、花が丸ごと地面に落ちた。
しに、がみ……? なぜ、そんなモノがここに……?
「如何にも。この姿は貴方が愛した人の姿を模しています。最期の温情、とでも言うものでしょうか」
抑揚がなく無機物のような声で、わざとらしく上げた口角をさらに引き上げた。
そして、その瞬間全部思い出した。俺の名前も、記憶も、思い出も、全部。間違いなく愛した人がいたことも。その人と、花冠を作ったことも。笑顔が大好きだったことも。喋りすぎて日が暮れたことも。
――その人がずっと昔に病死したことも。
だからもういるはずがない、二度と会えないはずだったのだ。けれど目の前にいるのは紛れもなく俺が愛した――陽菜乃の姿だ。死神を名乗ったからにはきっと中身は違うのだろうけど。いや、違ってほしい。
「記憶があるとこちらとしては面倒でしたので、一時的に消しておりました。ですが、もうそれも必要ありません。準備が整いました」
死神の言葉の意味がわからない。なぜ、もう必要ないのか。なんの準備が整ったのか。最悪の事態しか想像ができなくて、考えることをやめたくなった。
「貴方を冥界へとご案内いたします。誤解をされているようですが、私たち死神は命を殺すことが仕事ではないのです。私たちの仕事は、迷える魂を正しく、導く……ミチビ、ク」
突然死神が錆びついた機械のように首を傾けながら、訳のわからないことを喋り始めた。
「横取り、は、いけません、いケません。今、すぐにやめなサ、い。それは、魂へ、ノぼうと、く…………」
死神は人形使いのいなくなった操り人形のように、その場に崩れ落ちた。そうかと思うと、ゆっくりと起き上がってあたりを見渡す。俺と目が合うと、勢いよく立ち上がって頬を掴んできた。
「綾斗! これは悪い夢! 早く起きて! あいつの言うことなんて信じちゃだめ!」
俺の名前を叫び、悲痛な声が鼓膜を激しく揺さぶった。声色に乗った感情に懐かしさを感じる。
「陽菜乃……?」
「そう、そうだよ……! でも、今はそれどころじゃないの! 今すぐ起きないと、間に合わない……!」
一瞬だけ、嬉しそうに顔をほころばせたが、すぐに悲しそうな声を荒らげた。
「でも、起きるってどうやって……」
そう呟いたと同時に、左手が温もりに包まれているのに気がついた。
また、視界が歪む。ぐにゃりと溶けた陽菜乃の顔が狂気的な笑みに変わった。
今度はあっという間に何もかもが溶けて消えていった。
手が、暖かい。その温もりが他の感覚をつなげてくれた。
機械音のような規則的な音が聞こえる。消毒の匂いが鼻を刺激して、ゆっくりと目を開く。ほのかに花畑の香りがする。
白い、天井。
ここが病院なのだと、察するのに時間はかからなかった。
——じゃあなぜ花の香りが……?
体を起こすと、不思議と痛みはなかった。夢の中で作ったはずの花冠が頭から落ちる。温もりの正体は、俺の手が握られているから。言葉が、出なかった。これが夢じゃないなら、何なのだろうか。これこそ、悪い夢じゃないのか?
花冠を被った陽菜乃が、俺の手を優しく包みこんでいる。その俺の手には病院には似つかわしくない金属の腕輪、そこから鎖が伸びている。
どういうことかと声をかけようと彼女に手を伸ばしたとき、陽菜乃が俺の目を見つめた。そして、心底嬉しそうに、花畑で気を失う直前に見た、狂気的な笑みを浮かべた。
「ああ、よかった。間に合って。目が覚めてくれて。――ずっと、ずーっと、待っていたのよ?」
花畑は、最も美しい罠だった――




