偽りの箱庭
見上げれば、いつもそこには精緻な彫刻が施された石の天井があった。
豪奢なシャンデリアが眩いほどの光を放ち、金箔で彩られたフレスコ画の天使たちが、永遠に変わることのない作り物の微笑みを浮かべている。
――この世界には、果てがないらしい。
私がその言葉を初めて知ったのは、実家の薄暗い書庫の奥底、埃を被った隠し戸棚の中で見つけた一冊の『禁書』からだった。
ボロボロになった羊皮紙のページには、私の知らない言葉が並んでいた。
『空』。
『太陽』。
『雲』。
そして、『青』。
天井が存在せず、頭上にはどこまでも続く無限の空間が広がっているという、狂気じみた、けれど酷く美しい御伽噺。
その日から、私は常に違和感を抱えるようになった。なぜ、私たちの世界には『空』がないのだろうかと。なぜ私たちは、この分厚い石と金属の天井の下、壁に囲まれた屋内だけで生きているのだろうかと。
私が暮らすこの「大天蓋都市・オディール」は、あらゆるものが満たされた世界だ。
人工的に管理された気候、尽きることのない煌びやかな魔石の灯り、そして、人々を支配する圧倒的な「欲望」。
この世界では、欲望の強さこそが人間の価値であり、美徳とされていた。
「ああ、ルシリア様! 本日の晩餐会でお召しになるドレスは、こちらの深紅の絹に、希少な火竜の宝玉を百個縫い付けたものになさいませ! 誰よりも目立ち、誰よりも富を誇示するのです!」
「……ええ、そうね。あなたがそう言うのなら、それにしましょう」
専属の侍女であるマーサは、興奮で頬を紅潮させながらドレスを押し付けてくる。彼女の瞳の奥には、主人の富を間接的に貪るような、ギラギラとした強欲の光が宿っていた。
私は、侯爵令嬢ルシリア・ヴァン・フェルディナント。
この狂った箱庭の中で、最上位の貴族として生を受けた。
周囲の人間は皆、狂信的なまでに欲望に忠実だ。とめどない食欲を満たすために日に五度もの豪勢な宴を開き、吐き戻してはまた食べる者。色欲に溺れ、夜な夜な乱痴気騒ぎを繰り広げる者。他者の財産を妬み、権力闘争に明け暮れる者。
彼らは「欲すること」で生きている実感を得ている。欲を持たない者は「虚無病」と呼ばれる精神の欠陥品として、ひどく蔑まれるのだ。
だから私は、ずっと息を潜めて生きてきた。
私には、彼らのような欲望が一切なかった。
宝石の輝きを見ても石ころとしか思えず、山海の珍味を前にしても砂を噛むような味気なさしか感じない。ただ静かに本を読み、禁書に記された『空』という未知の概念に想いを馳せることだけが、私の唯一の安らぎだった。
私は欲望に塗れたふりをして、微笑みという仮面を被り続けていた。
けれど、この息の詰まるような世界で、私と同じように仮面を被っている人間が、たった一人だけいた。
『……また、無理をして笑っているね、ルシリア』
『アルト……あなたこそ、さっきからワイングラスを傾けるふりをして、一滴も飲んでいないじゃない』
幼馴染のアルト・レム・シルヴェスタ。
漆黒の髪と、禁書に記されていた「夜の闇」のような深く静かな黒曜石の瞳を持つ青年。彼もまた、私と同じだった。
私とアルトは、物心ついた頃から互いの「欠落」に気づいていた。燃え盛る欲望の炎の中で、私たち二人だけが、氷のように冷たく、静かな心を持っていた。
言葉を交わさずとも、視線を合わせるだけで通じ合う。周囲の狂騒から逃れるように、私たちはよくバルコニーの陰で息を潜め、この異常な世界について囁き合った。
彼もまた、私の禁書の秘密を知る唯一の共犯者だった。
――しかし、私たちのその小さな反逆は、あっけなく終わりを迎えた。
きっかけは、異母妹のマイヤの嫉妬だった。
彼女は私の控えめな態度を「傲慢だ」と激しく憎み、私の部屋を密かに探らせたのだ。そして、床材の裏に隠してあった禁書と、私が「無欲の欠陥品」であるという証拠を、大々的に神聖裁判へと突き出した。
「お聞きなさい、皆の者! このルシリア・ヴァン・フェルディナントは、偉大なる欲望の女神を冒涜する『無欲の罪人』です! その上、外の世界などという妄想が記された禁書を隠し持っていたのです!」
円形闘技場のような大審問所。
数万人の市民と貴族たちが見下ろす中、私は冷たい石の床に引きずり出された。
マイヤは勝ち誇ったように笑い、醜く顔を歪めていた。周囲の観衆からは、私を嘲笑し、罵倒する声が滝のように降り注ぐ。
彼らの目は血走り、生贄を求める獣のように爛々と輝いていた。異常なまでに「無欲な者」を処罰するという、新たな刺激(欲望)に酔いしれているのだ。
「神官長様! この恐ろしい魔女に、ふさわしい罰を!」
「よかろう。ルシリア・ヴァン・フェルディナント。汝を『剥落の檻』への永久幽閉に処す」
剥落の檻。
その名を聞いた瞬間、周囲の観衆でさえもが一瞬、水を打ったように静まり返った。
それは、都市の最下層にある暗黒の処刑部屋。
光一つない完全な闇の中に放り込まれ、水も食料も与えられない。何もない空間で、ただ静かに飢えと渇きに苛まれ、「生きたい」「食べたい」という本能的な欲望を極限まで引き出された末に、狂い死にするための場所。
この世界で最も残酷な、餓死による処刑だった。
私は抵抗しなかった。
どうせ、この狂った箱庭で生き続けることなど、とうの昔に限界だったのだ。
重装兵たちに両腕を掴まれ、地下へと続く螺旋階段をどこまでも、どこまでも下らされた。冷たい空気が肌を刺し、シャンデリアの光はとうに届かない。
やがて、巨大な鉄の扉の前に辿り着いた。
錆びた蝶番が耳障りな悲鳴を上げ、重々しく扉が開かれる。中には、底知れぬ漆黒の闇が口を開けていた。
「せいぜい、己の無欲を呪って死ぬがいい」
背中を強く押され、私は闇の中へとよろめき倒れた。
背後で、鼓膜を破るような轟音と共に鉄の扉が閉ざされる。幾重にも鍵が掛けられる金属音が響き、そして――完全な静寂が訪れた。
視界は完全に奪われた。目を閉じているのか開けているのかすら分からないほどの、絶対的な暗闇。
冷たい石の床に座り込み、私は小さく息を吐いた。
恐怖はなかった。ただ、もうあの吐き気のするような晩餐会に出なくていいのだという、奇妙な安堵感があった。
だが、その静寂はすぐに破られた。
「……ルシリア?」
闇の奥から、掠れた声が響いた。
心臓が大きく跳ねた。幻聴ではない。確かに、私の名を呼ぶ声。
私は床を這うようにして、声のした方へ手を伸ばした。冷たい石畳の上で、誰かの温かい指先に触れる。
「……アルト? アルトなの!?」
「ああ……まさか、君までここに落とされるなんて」
暗闇の中で、アルトの大きな手が私の手を力強く握り返した。
数日前、彼が突如として行方不明になったという噂は聞いていたが、まさか彼も「無欲」の罪でこの檻に入れられていたなんて。
「アルト、怪我は? どのくらいここに……」
「分からない。ずっと暗闇だから、時間の間隔がないんだ。でも、君が来るまでは、不思議と渇きも飢えも感じなかったよ。ただ、君にもう一度会いたかった」
彼の声は少し弱っていたが、確かな理性が残っていた。
私は彼の手を両手で包み込み、そして、ある決意を固めた。
「アルト。私たち、ここでただ死を待つわけにはいかないわ」
「……ルシリア?」
私はドレスの胸元に手を差し入れた。
捕縛される直前、自室の書庫から禁書と共に持ち出し、肌身離さず隠し持っていたものがある。かつて禁書が収められていた箱の底に眠っていた、手のひらサイズの奇妙な金属片。
禁書には、それが『光をもたらす古代の遺物』だと記されていた。
「これを見つけるために、私はずっと耐えてきたのかもしれない」
私はその金属片――小型の魔法のランプの表面にある、小さな突起を強く押し込んだ。
カチリ、という硬質な音が響く。
次の瞬間。
淡い、けれど鮮烈な青白い光が、ランプから溢れ出した。
何百年、あるいは何千年もの間、闇に包まれていた檻の中が、一瞬にして幻想的な光で満たされる。
光に照らし出されたアルトは、頬が少しこけていたものの、あの夜の闇のような美しい瞳を丸くして私を見つめていた。
「これは……」
「古代の遺物よ。禁書には『星屑のランタン』と書かれていたわ」
私は立ち上がり、ランタンを高く掲げた。
処刑部屋であるはずの『剥落の檻』の全貌が照らし出される。
そこは、ただの何もない四角い石室ではなかった。
壁の全面に、ぎっしりと幾何学的な紋様が刻み込まれていたのだ。
そして、部屋の奥。ただの壁だと思っていた場所に、ランタンの光に反応してうっすらと浮かび上がった『扉の輪郭』と、複雑に絡み合った複数の歯車のような窪みがあった。
「……処刑部屋じゃないのかも」
アルトが息を呑んで立ち上がり、壁に近づいた。
「ただの檻じゃない。これは……『機構(仕掛け)』だ。どこかへ続く、隠された道……? まさか!?」
「ええ」
私は壁の紋様を見つめながら、静かに微笑んだ。
欲望に狂ったあの愚かな都市の人間たちは、誰も気づいていなかったのだ。この最下層の処刑部屋が、彼らが否定した『楽園』へと繋がる迷宮の入り口であることに。
「アルト。私、見たいの」
私はランタンを握りしめ、彼を振り返った。
「禁書に書かれていた『空』を。果てのない青を。私たちを縛り付けるこの醜い天蓋脱出して、本当の世界を」
アルトは少しの間私を見つめた後、ふっと、これまで見せたことのないような、力強く、それでいて少年のような無邪気な笑みを浮かべた。
彼の中に、初めて「外の世界を知りたい」という、純粋な好奇心という名の火が灯った瞬間だった。
「……ああ。一緒に行こう、ルシリア。地の底の果てまで、君と」
私たちは壁の歯車へと手を伸ばした。
ここから始まるのだ。私たちの自由と冒険が。




