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甘い運命  作者: 作家椿
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船上にて その1

 夜中、ふと目を覚ます。当然だが真っ暗で、その真っ暗の中、まだ半分寝ている頭が、「ここは家ではない」と把握していく。かすかな揺れ、ツインベッドの間の常夜灯。サイドボードの上には山盛りの灰皿。

 ……ああ、そうだ。今、旅に出てるんだった。

 暗闇に目が慣れてきて、隣に眠る恋人の姿が、うっすらと見えてくる。

 ありきたりな寝言でも言いそうなくらい、隣のベッドで寝ている朱美は、なんの悩みもなさそうな寝顔をしている。安らかに、穏やかに、眠っている。その寝顔を見ていると、心の中の何かが、じんわりと満たされる。ああ、この人を愛せて良かった、この人に愛されて良かった、そんな月並みな言葉がとてもしっくりくる。

 サイドボードの上、様々な物と乱雑に一緒になったアメリカン・スピリットとライターを手に取り、火を付ける。かすかに甘い煙で口腔を、次いで肺を満たし、ニコチンをきちんと吸収してから、全て吐き出す。煙が鼻についたのか、それとも単にそういうタイミングだったのか、朱美は少し身じろぎをして、大げさに寝返りを打った。私は、タバコを灰皿に置くと、彼女の少しはだけてしまった毛布を、肩にきちんとかけ直してやった。

 名古屋から苫小牧まで向かう長距離航路、そのスイートルーム。それが私たちの今の居場所だ。かつて、ある漢との恋愛に疲れ切っていた私を、朱美は優しく、そして少年のように受け止め、そのまま私は彼女と恋に落ちた。それが今年の冬、およそ半年ほど前の話になる。それなりに売れている女優である私は、ちょっと変わったことを大学院で研究している彼女の資金提供者となり、まず車の免許を取らせ、次いで車を買ってやった。もちろん、ガソリンから税金に至るまで、私が支払うのだが、そのことには疑問も、嫌悪も、違和感もない。ただすべきことをしているという自覚があった。愛の力とは、こんなことだって可能にしてしまうんだから、やっぱり愛というのは、偉大だと思う。おへその奥の方が、じんわりと暖かい。

 そして今、彼女と私の愛車は、この船の下の方で、北海道を思い切り走る日を、朱美と同じように夢見ている。

 私は大きめの仕事が終わり、彼女もまた研究に一息つける、というタイミングで、私たち二人は、北海道を好きなだけ旅することに決めた。期日も定めず、どこに行くかも気分次第、絶景があれば堪能し、美食があればやっぱり堪能する、そんな気楽極まる旅だ。北へ行くか、東へ行くかも決めていない。今のところ決まっているのは、とにかく景色と食事を楽しむことだけ。なんともとりとめがなく、なんともあやふやだが、しかし少年の心を持つ朱美に言わせれば、「だからこそ」の旅。

 特別深く煙草を吸ってから、灰皿で丁寧に火を消し、私も再び横になる。この先の出来事に思いをはせながら、すぐに夢の世界へと落ちていった。

 



 朝、いつものように目を覚ます。夜中のことがあったためか、すんなりと「ここ」がいつもの家ではないと受け入れ、穏やかな海の上、かすかに揺れるベッドの上で、思い切り伸びをする。

 隣のベッドに、朱美の姿はない。だが不安は覚えない。以前の私であれば、滑稽なほど狼狽し、慌てたことだろう。だが、シンプルに、ただ単に、朱美がここにいないとだけ、寝ぼけた頭で感じ取り、煙草に火を付ける。少し間を置いて、トイレの方から盛大に水が流れる音がしてくる。ほら、やっぱり。心配することなんてなにもない。

 ついで洗面の音がして、トイレのドアががちゃりと開いた。

「およ、起きてたんだ。おはよ、小枝子」

「おはよう、朱美」

 すたすたとベッドサイドに歩いてきた朱美は、手慣れた仕草で、私の顎を取り、触れるように軽く口づける。いかにも遊び慣れしていそうな仕草だが、悪い気はしない。彼女と夜を共にして、私の方が後に起きれば、大体このキスが待っているのだから。

 私も、ベッドの上から彼女を軽く抱きしめ、耳元にキスを返す。この一連のキスとハグの応酬が、やはり、おへその奥が暖かくなるような、薄ぼんやりとした幸福を私に与える。

「どうだった?」

 ソファに腰掛け、私と同じように煙草を手に取りながら、朱美が訊ねてくる。

「何が?」

 私はもう一度伸びをすると、彼女の隣に腰掛け、問い返した。

「船。お船の中で寝るの、初めてでしょ?」

「乗る前は、海が荒れたらどうしようって思ってた部分はあるわ。でも……」

 しんとした部屋の遠くに、潮騒を感じる。

「杞憂だったというか、幸いというべきか……とにかくよく眠れたわ。なんなら、ちょっと物足りないくらい安らいでる」

「最初だっていうのに、肝が据わってるっていうか、けどそれも小枝子らしいか」

 言いながら、朱美ははにかんだ。

「けど、小枝子って寝相悪いんだ?」

 朱美の視線が下がり、胸元からおへそのあたりで止まる。言われて、自分も下を見る。ナイトウェアは、はだける、という言葉が可愛く思えるほどの乱れっぷりで、乳房がほぼ丸出しだった。

「このナイトウェアが悪いのよ。私には小さいのかな」

「はいはい、そういうことにしとくよ。せめて隠せば?」

「必要性を感じないわね」

「じゃああたし、ガン見して良いってこと?」

「恋人に見られて、悪い気がする女がいると思う?」

「あーもう。降参、降参」

 朱美はぱっと両手を挙げる。しかし、口元には満足げな笑みがあった。

「朝風呂でもする? それとも珈琲淹れようか?」

「気分的には珈琲かしら」

「りょ」

 言って、朱美は立ち上がりながら私のおでこにキスをすると、てきぱきと珈琲の準備を始めた。豆はわざわざ地元の店で焙煎してもらった物で、電動のミルまで彼女は荷物に入れてあった。もちろん、ハンドドリップのためのもろもろも。

 豆を挽く甲高い音が終わる頃には、挽き立ての珈琲豆特有の、あのえもいわれぬ香りが漂う。彼女がドリップを始めると、その香りはいっそう華やぎ高まって、芳香、と呼ぶにふさわしくなる。

「けどさぁ」

 珈琲の方をじっと見つめたまま、背中……というかお尻で、彼女は言う。

「そんなに着崩しちゃうくらいなら、いっそのこと、あたしみたいに裸で寝たら? きもちーよ、裸で寝るの」

「それは魅力的な提案だけれどね」

 珈琲の芳香と煙草の硬質な香りに包まれるのは、本当に良い気分だ。朱美と付き合うことで得られる、数多い役得の一つ。

「お互い素っ裸になって、じゃあおやすみなさい、また明日、なんて、朱美が我慢できても、私ができる自信ないわね」

「朝っぱらから何の話よ……はい、珈琲」

 朱美は、なみなみと珈琲が注がれたカップを二つ、ソファテーブルに置いて、元通り、私の隣に収まる。

「朱美が始めたんじゃない」

 彼女の頬に、人差し指を少しだけ押しつけてみせる。そしてその手を、朱美のよく引き締まった太ももに置く。わざと、かなり根元の方を。

「そういう朱美こそ、はいおやすみ、なんて出来るのかしら?」

「はいはい分かった、あたしの負け、だからこの話はやめー。朝から盛るのもなし」

「盛る、って」

 小さな悲鳴のような朱美の声。彼女の性格に似合わない、妙に古風な言い回しが、少しおかしくなって、私は笑った

「もうちょっと別の言い方があるでしょう」

「朝はそういう話するの苦手なのー」

 からかわれたのが恥ずかしかったのか、朱美はぷいっとそっぽを剥いてしまう。手にはきちんとカップを持ちながら。

「職業病なの? 起きて即エロスイッチ入れられるの」

「朱美が魅力的すぎるのがいけないのよ」

 もうちょっとからかってみよう。朱美の羞恥心をダイレクトに刺激するような言葉を、私は吐く。みるみるうちに、彼女は耳まで真っ赤にして、カップを両手に持ったまま、うつむいてしまった。

「小枝子さん、それ反則……」

 か細い声で、絞り出すように朱美が言う。

「本心だけどね」

 私は朱美の後頭部に、軽く口づける。

「こういうこと言うの、朱美にだけよ」

「知ってる……。はずいから服着る」

 相変わらずの恥ずかしそうな声。朱美は少しだけ珈琲を飲んだ。そして、ソファから立ち上がると、遠慮がちに服を着始めた。

「私も着替えようかしらね」

 私も、珈琲をテーブルに置いて、下着を着け、ゆったりとしたワンピースに袖を通した。



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