黒い傷み
振り返ると、そこには……男がいた。
歳は、中学生か高校生くらい。
つまり、僕と同じか、少し上。
黒髪で、良く言えば真面目そうな、悪く言えば地味で気弱そうな雰囲気だった。
そんな人が、驚いたような顔で、僕に問う。
「今、ツバメって言ったか……? どうして彼女の名を……?」
僕は混乱した。
この人も、ツバメを知っているらしい。
「どうして、って……ツバメは、僕の恋人で……」
「はぁ?! 何言ってんだよ!」
僕の言葉を遮る、高ぶった声。
しかしそれは、目の前にいるのとは別の男から上がった。
新たに現れた、もう一人……やはり、僕と歳の近い男。
その人が、僕の胸ぐらを掴んで言う。
「ツバメは俺の彼女だ! お前、一体何なんだよ?!」
「待ってくれ! ツバメは俺と付き合っている! 君たちこそ、一体何者だ?!」
と、先に現れた方の男も声を上げる。
僕の背中に、暑さのせいではない汗が伝う。
……わからない。何が起きている?
この二人も、ツバメを知っていて……恋人であると主張している?
……いや、まさか。
ツバメは、僕と付き合っているんだ。
この一年間、たくさんの時間を共有して、心も身体も重ねてきたんだ。
何かの間違い。
そうでなければ……悪い夢に違いない。
そう考える僕の視界が――文字通り、悪夢のような景色に染まった。
夕暮れの廃工場だったはずの景色が、突如、暗闇に変わったのだ。
「な……なんだ、これ……?!」
僕の胸ぐらを掴んでいた男が、離れながら言う。
僕ともう一人の男も、真っ暗になった周囲を見回していると……目の前が、ぼうっと光った。
その光は、徐々にはっきりとした形を成し……やがて、白いベッドを象った。
ベッドの上には数人の男がいて、座ったり横たわったりしている。
そして、その男たちに囲まれるように――
――ツバメが、脚を組んで座っていた。
「つ……ツバメ……?」
掠れた声で、名前を呼ぶ。
彼女は、赤い唇をニッと吊り上げて、
「来てくれてありがとう……私の愛しい恋人たち」
そう、言った。
――恋人たち。
僕たち三人に向けられたその呼称に、一気に吐き気が込み上げる。
「どういうことだ……お前、俺以外にも男がいたのかよ!?」
「説明してくれ、ツバメ!」
僕の疑問を代弁するように、二人がツバメに詰め寄る。
彼女は、綺麗な髪をさらりと揺らし、
「ごめんなさい。あなたたちが魅力的すぎて……一人になんて絞れなかったの」
まるで、聖女のように、柔らかに笑った。
「……嘘だ」
それが、自分の喉から出た声であることに、言った後で気付く。
僕の呟きに、ツバメは憐れむような目を向け、
「残念だけど、嘘じゃないわ。でも、好きだったのは本当よ? 純粋で、真っ直ぐで、一生懸命で……私が失くした綺麗なものをすべて持っている君たちが大好きで――憎かった」
彼女の目が、笑みに歪む。
その形は、いつか一緒に見た三日月に似ていた。
……こんなの、信じない。
何故。どうして。
あんなに、愛し合っていたはずなのに。
僕の手から、百合の花がこぼれ落ちる。
「そんな……俺はお前だけだったのに……」
「俺だって、君にすべてを捧げたのに……」
絶望に満ちた表情で、僕以外の二人が真っ暗な床に膝をつく。
ツバメは、「ふふ」と笑い、
「本当に……こういう表情を見るのって堪らないわ。どう? リィトも胸が痛い? 私が憎くてたまらない?」
どこか高揚した様子で、尋ねてくる。
そのままベッドから立ち上がると、僕に近付き……
足元に落ちた百合の花を、ぐしゃっと踏み潰す。
「それでいいの。私は、あなたたちの『消えない傷』になる……いつまでも私を想って悲しんで? 焼き付いたこの傷みに苦しんで? 私を、自分を、世界を、全てを憎んで…………その感情を、あのお方に」
言って、ツバメは……しなやかな手を、高く掲げた。
刹那――
「う……あ……ぁぁああ…………ッ!」
二人の男が、呻き声を上げた。
見れば、床にうずくまるその身体から、黒い靄のようなものが上がっていて……
その靄が、ツバメの手のひらに吸い寄せられていた。
これは、一体……
「どうして……愛していると言ったのに……!」
「俺にはもう、君しかいないのに……ああ……あああ……!」
抱えた頭を振り乱す男たち。
その口や鼻からも、黒い気体が溢れ出す。
なんだよ、これ……
夢なら、早く覚めてくれ。
「ツバメ……君は、一体……」
後退りしながら問うと、彼女はやはり微笑を浮かべ、
「私は、"絶望の信徒"……そして、"憎悪の使者"。あなたたちのような純朴で馬鹿な男たちから、ゾウオウラを集める者よ」
「ゾウ、オウラ……?」
「そう……すべては、アメノ様のため。だから――」
……と、そこで。
うずくまる男たちから、呻き声が止んだ。
同時に、身体から溢れていた黒い靄も止まる。
彼らはスッと立ち上がると、ふらふらとした足取りでツバメの方に歩み寄り……彼女の隣に並んだ。
その表情からは、絶望が消えていた。
……というより、感情そのものが失われているように見えた。
「ふふ。これでこの子たちも立派な信徒……私と共に覇道を歩む、永遠の同志よ」
「……どういうこと?」
「恋人よりも深い仲になった、ってこと。恋愛感情なんて、所詮はまやかし。人と人を繋ぐのは、愛なんかじゃなくて……"傷み"よ」
ツバメは、男たちの頬を撫でる。
艶かしく、愛撫するように。
「さぁ……リィトも、同じ"傷み"を持つ同志になりましょう……? そうしたら、私と……ずうっと一緒にいられるわよ?」
ツバメの手が、他の男に触れている。
その光景に、心が……じわじわと、蝕まれていく。
どうして……何故、裏切った?
愛してると言ったのに。
次の冬も一緒だと言ったのに。
同じ言葉を、他の男にも囁いていたのか?
言葉も、温もりも、すべて嘘。
そんなの……そんなのって。
「ぐ…………っ」
苦しい。
悲しい。
憎い。
にくい。
ニクイ。
心が千に裂け、身体が万に千切られたように、傷む。
胸を押さえ、床に膝をつく。
すると、何かが、ぼたっと垂れた。
黒い、墨汁のような液体。
これは…………僕の涙?
気付けば身体中から黒い靄が出ていた。
けれど、そんなことに構っていられないくらいに、痛い。傷い。憎い。ニクイ。
「あはっ。やっぱりリィトはすごい。こんなにたくさんのゾウオウラを生み出せるなんて……! そのまま憎しみに身を委ねて? リィトはいい子だもの。私が教えたことは何でも上手にこなしてくれた。だから……これも上手にできるわよね?」
身体が震える。
黒い涙が止まらない。
……そうだ。
この感情に、心を明け渡してしまおう。
優しさを怒りに。
愛しさを憎しみに。
すべて転換してしまえば、なかったことにできる。
それがいい。そうしよう。
この傷みから逃れるために…………
心を、黒く塗り潰そう。
「っ…………う……」
僕の心が、深淵に飲み込まれる――
――その直前。
「――君! しっかりしろ!」
そんな声と同時に、誰かが背中を叩いた。




