Scene6 「価値観反転」
処分宣告が終わり。
講堂の空気は、まだ重く沈んでいた。
ざわめきはある。
しかしそれは、興奮ではない。
葬送に似た、低い波だった。
リリエルは、静かに立っている。
護衛騎士が、背後に位置を取る。
移送準備が始まっているのだろう。
その事実を理解しながら。
彼女の胸の奥では――
まったく違う音が鳴っていた。
何かが。
ほどけていく音だった。
重く巻き付いていた鎖が、一本ずつ外れていくような感覚。
その正体に、京子はゆっくりと気付く。
(……終わった)
それは、絶望の言葉ではなかった。
むしろ。
長く続いた業務が、ようやく完了したときのような――
静かな確認だった。
王都社交界。
王族婚約。
政治的義務。
格式。
責任。
それらすべてが、遠ざかっていく。
京子の意識の中に、前世の光景が滲む。
夜のオフィス。
蛍光灯の白い光。
終電間際の駅ホーム。
コンビニの棚に並ぶ弁当。
机の引き出しに積まれた旅行パンフレット。
「いつか読む」と決めたまま、増え続けた雑誌。
そして。
開かれなかったページ。
その記憶が、静かに胸を締め付ける。
だが――
同時に。
別の感情が、ゆっくりと広がっていく。
胸の奥に、小さな空間が生まれる。
そこに、風が吹き込む。
自由な、空気。
京子は、ようやくその言葉を認識する。
(やっと……)
喉の奥で、そっと形になる。
(仕事から解放された)
その瞬間。
胸の奥に溜まっていた何かが、静かに崩れ落ちた。
叫びたいほどの歓喜ではない。
涙が出るほどの感動でもない。
ただ。
深く、長い息を吐ける。
そんな安堵だった。
肩が、わずかに軽くなる。
視界が、ほんの少しだけ明るくなる。
そして――
未来が、浮かび上がる。
北方辺境。
未知の街道。
見たことのない市場。
知らない言語。
知らない料理。
知らない生活。
それらが、白紙の地図の上に次々と描き込まれていく。
京子は思う。
前世では。
旅は、遠い場所にあった。
休みが取れたら。
お金が貯まったら。
仕事が落ち着いたら。
――その「いつか」は、結局来なかった。
だが、今は違う。
この世界で。
この身体で。
この立場で。
彼女は、すべてを失った。
家も。
地位も。
名誉も。
しかし。
京子は、静かに結論を出す。
(失ったんじゃない)
(手放したんだ)
義務に縛られた人生。
予定表で埋め尽くされた時間。
他人の期待に合わせ続けた日々。
それらを、置いてきたのだ。
胸の奥で、わくわくとした感情が芽吹く。
それは恐怖ではない。
不安でもない。
――高揚だった。
これから何が起きるか分からない。
どこへ行くことになるか分からない。
けれど。
それこそが、旅だ。
京子は、ゆっくりと目を閉じる。
浮かぶのは、前世のスマホメモ。
「死ぬまでに行きたい場所100」
未達成のまま残ったリスト。
そのページが、静かにめくれる。
そして。
新しい欄が生まれる。
この世界の地名。
知らない国。
知らない文化。
知らない空。
京子の胸の中で、確信が形になる。
観光は、逃避ではない。
観光は。
世界と出会う行為だ。
文化と触れ合い。
価値を知り。
生き方を広げる。
それは――
人生を、もう一度始める方法。
護衛騎士が、静かに声をかける。
「出発準備が整いました」
リリエルは、ゆっくりと頷いた。
その瞳には、迷いがなかった。
講堂の重い扉が、ゆっくりと開かれる。
外から差し込む光が、床に長く伸びる。
彼女は、その光を見つめる。
そして。
静かに、一歩踏み出した。
それは――
追放者の歩みではなかった。
旅人の、最初の一歩だった。




