Scene2「空を飛ぶには書類がいる」
翌朝。
天空都市ラピュルは、朝霧の中で静かに目を覚ましていた。
多層航路にはすでに飛行艇が列を作り、飛行獣たちが朝の気流に乗って滑空している。都市そのものが、巨大な空の港として動き始めていた。
「――というわけで」
リリアナは、宿のバルコニーから身を乗り出しながら言った。
「今日は空域交通文化の現地調査をします!」
「やめろ。嫌な予感しかしない」
ザハルが即答した。
「観察だけです。飛びません」
「お前が言うと信用できない」
だが結局、二人は雲上港の行政棟へ足を運ぶことになった。
◆
行政棟は、港の中心にそびえる白銀の塔だった。
装飾は極めて簡素。代わりに、無数の航路図と空域区分表示が壁面を覆っている。
内部に入った瞬間、リリアナは立ち止まった。
「……すごい……」
天井から吊るされた巨大な立体航路模型が、ゆっくり回転していた。色分けされた航路が三次元的に交差し、まるで空そのものを縮小したようだった。
「……完全な空域交通管制システム……」
彼女は目を輝かせる。
「ここ、文明の神経中枢ですよ」
「観光地扱いするな」
ザハルが小声で言った直後。
「観光目的での立ち入りは、申請が必要です」
澄んだ声が、背後から響いた。
二人が振り返る。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
白と群青の制服。肩章には空域監察官の紋章。銀色の髪をきっちりとまとめ、感情の揺れをほとんど見せない瞳が、まっすぐこちらを見ている。
「天空都市ラピュル空域監察官、セレスです」
形式的な一礼。
「飛行、滑空、空中移動、航路観察、すべてにおいて許可が必要になります」
リリアナは一歩前に出た。
「文化調査目的でも、ですか?」
「はい」
即答だった。
「空は公共資産です」
その言葉には、一切の迷いがなかった。
◆
数分後。
リリアナは机に座らされていた。
目の前には――書類の山。
「……」
彼女は一枚を手に取る。
さらに一枚。
さらに一枚。
そして。
「これ……」
ザハルが横から覗き込む。
「どうした」
リリアナは、真顔で言った。
「完全に旅行申請書です」
セレスの眉が、ほんのわずかに動いた。
「違います。飛行許可申請書です」
「項目がほぼ同じです」
リリアナは指で数え始める。
「移動目的、滞在予定高度、同行者情報、利用航路、危険行動歴、保険加入状況、緊急避難計画……」
「安全管理の基本です」
「海外渡航申請フォームと構造が一致してます」
「偶然でしょう」
セレスは一切動じない。
リリアナはさらに書類をめくる。
「この“文化観察飛行補助申請”って何ですか?」
「観光目的での低危険度航路利用許可です」
「観光、あるじゃないですか」
「統制された観光です」
言い切った。
◆
リリアナはペンを持ちながら、じっと書類を見つめた。
「……空って」
彼女はゆっくり言った。
「自由の象徴だと思ってました」
セレスは、静かに答える。
「自由は事故を生みます」
空気が、少しだけ張り詰めた。
「事故は、都市を壊します」
彼女は壁の航路模型を見上げる。
「過去十年で、違法飛行による衝突事故は三倍に増加しました」
「……」
「貨物艇衝突。旅客艇墜落。飛行獣暴走。都市外縁落下」
淡々とした報告口調。
「空は美しいですが、同時に最も脆い交通空間です」
リリアナは、ゆっくりと息を吐いた。
「……なるほど」
彼女は頷く。
「文化が成熟すると、自由は必ず制度に変わる」
セレスが、初めて少しだけ興味を示した目をした。
「あなたは理解が早い」
「いえ」
リリアナは苦笑する。
「理解はまだ途中です」
彼女はペンを走らせながら言った。
「制度は文明を守る」
「はい」
「でも同時に」
顔を上げる。
「制度は、文化の呼吸を止めることもある」
沈黙が落ちた。
◆
そのとき。
行政棟の窓の外を、轟音が横切った。
全員が視線を向ける。
高速滑空機が、許可航路を無視して急旋回していた。背後から、監視艇が追跡している。
「……またですか」
セレスが低く呟く。
彼女の表情に、初めて苛立ちが浮かんだ。
「最近、違法レースが増えています」
「レース?」
リリアナが反応する。
「空域境界を賭けた非合法競技です」
「……文化的反発……」
無意識にメモを取る。
「自由の象徴としての空を、制度から奪い返そうとする動き……」
セレスが彼女を見る。
「それは文化ではありません」
はっきりと言った。
「無責任です」
リリアナは、少しだけ首を傾げる。
「でも」
「……」
「制度に不満がある時、人は必ず非公式文化を生みます」
彼女は静かに言った。
「観光も、もともとは密航文化から始まった側面がありますし」
「それは」
セレスが言葉を止めた。
否定しようとして――出来なかった。
◆
やがて、書類審査が終わる。
セレスは一枚の許可証を差し出した。
「限定観察航路のみ、飛行見学を許可します」
「ありがとうございます!」
リリアナが満面の笑みを浮かべる。
だがセレスは、静かに言い添えた。
「違法空域には近づかないでください」
「約束します」
「観光客は」
一拍置く。
「よく、空の危険を軽視します」
リリアナは少しだけ考え――
真剣な表情で答えた。
「私は、軽視しません」
そして。
「理解します」
セレスは、彼女をじっと見つめた。
その瞳に宿る熱量を測るように。
◆
行政棟を出たあと。
リリアナは許可証を掲げながら言った。
「空文明、面白くなってきました」
「お前はいつも楽しそうだな」
ザハルが呆れる。
「当然です」
彼女は空を見上げる。
整然と並ぶ航路。
その隙間を縫うように走る、非許可の光。
「文明がある場所には」
小さく呟く。
「必ず交渉がある」
その視線の先で。
違法滑空機が、雲の中へ消えた。
まるで――
この都市が抱える、もう一つの空を象徴するかのように。




