Scene9「偽コンパス事件」
キャラバンがキャラヴァーン市へ帰還したのは、夜明け直前だった。
オアシスの水面が、朝焼けに染まり始めている。
しかし市場広場に集まる商人たちの空気は――
どこかざわついていた。
「またか」
「西回廊隊商が迷走したらしい」
「南砂路でも事故があった」
断片的な噂が、砂煙のように広がっている。
リリエルは足を止めた。
「……迷走?」
隊商長が低く言う。
「最近、航路事故が増えている」
「砂嵐ではなく?」
「違う。航法具の誤作動らしい」
ザハルが腕を組む。
「月影バザールで見た装置だろうな」
その言葉に、リリエルの瞳がわずかに細くなる。
「調査してもよろしいですか」
「好きにしろ」
隊商長は即答した。
「ただし――」
「危険な橋を渡るなら、必ず護衛を付けろ」
「はい」
◇
数時間後。
キャラバン会議帳庫。
そこには、各隊商から寄せられた航路記録が積み上がっていた。
羊皮紙、魔力記録石、航法日誌。
リリエルは机いっぱいに資料を広げる。
ザハルが椅子に腰を下ろし、腕を組んだ。
「本当に全部読むつもりか」
「はい」
「量を理解しているか」
「文化解析は積み重ねです」
真顔だった。
ザハルは小さく息を吐く。
リリエルは、最初の航路ログを開いた。
魔力刻印式の記録石。
霊脈流の同期波形が刻まれている。
「……妙ですね」
「何がだ」
「流れが、途中で“跳ねている”」
別の記録を重ねる。
さらにもう一つ。
彼女は、素早く書き込みを始めた。
――同期周期ズレ
――強制補正痕跡
――自然乱流と非一致
エルナが、机の端から記録石を覗き込む。
「……これ、痛そう」
「痛そう?」
「霊脈が、無理に曲げられてる」
リリエルは頷いた。
「やはり」
彼女は、地図を広げた。
砂漠交易路の大地図。
そこに、赤い印を打ち始める。
「事故発生地点」
次に青い印。
「迷走報告地点」
さらに緑。
「偽装航法具使用確認地点」
ザハルが地図を覗き込み――
「……偏っているな」
「はい」
リリエルは指で線を結んだ。
点が、一本の帯状に繋がる。
「この流通帯に沿って、被害が集中しています」
「つまり?」
「装置は無差別ではなく――」
彼女は静かに言った。
「特定の交易圏を狙って流通している可能性があります」
ザハルの眉が上がる。
「競争商会の妨害か」
「あるいは――」
リリエルは次の資料をめくる。
「航路依存度の高い中規模キャラバンを狙った市場操作」
「……随分冷静に言うな」
「物流戦略です」
彼女はさらに分析を進める。
航法具購入記録。
取引証。
露店印章。
そして――
「ここです」
彼女が指差したのは、複数の商会名。
「同一卸商が関与しています」
「どこだ」
「……砂月交易組合」
ザハルが低く唸る。
「裏市場に強い連中だ」
リリエルはさらに書き込みを続ける。
――偽航法具
――裏市場経由流通
――交易事故誘発
――信用崩壊誘導
彼女は、ペンを止めた。
「これは単なる詐欺ではありません」
「どういう意味だ」
「交易圏の信用構造を崩す行為です」
ザハルは沈黙する。
リリエルは、被害マップを見つめた。
赤と青の印が、砂漠に無数に散っている。
「キャラバンは航路信用で成り立っています」
「はい」
「航路が信用できなくなれば――」
彼女は静かに続ける。
「交易そのものが崩壊します」
エルナが、ぽつりと呟いた。
「……流れが止まる」
その言葉に、リリエルは小さく頷く。
「文明の血流が、ですね」
ザハルが立ち上がる。
「隊商長に報告だ」
「はい」
彼女は資料をまとめながら、ふと呟いた。
「ですが……」
「まだ終わっていません」
「何がだ」
「供給源が特定できていません」
ザハルが振り返る。
「まだ上がいると?」
「はい」
リリエルは、月影バザールで見た装置を思い出していた。
あの魔力の歪み。
あの不自然な調整精度。
「この装置は――」
彼女は静かに言う。
「素人が作れる品質ではありません」
ザハルの表情が変わる。
「つまり」
「製造拠点が存在します」
外では、市場の喧騒が広がり始めていた。
交易は、今日も動いている。
だがその裏で――
信用を揺るがす影が、静かに広がっていた。
リリエルは、被害地図を見つめる。
そして、静かに手帳を閉じた。
「この問題は――」
「交易だけではなく、文明そのものに関わります」
朝日が、砂漠都市を照らし始めていた。




