Scene4「ザハル登場」
出発前の隊商区は、まるで戦場の前線のようだった。
水袋の封印確認。
荷の重心調整。
砂獣の蹄鉄点検。
乾いた掛け声が、絶え間なく飛び交っている。
リリエルは天幕の端に立ち、出発準備の流れを観察していた。
手帳を開き、忙しなく筆を走らせる。
“荷積み順=生存優先順位の可視化。
水→保存食→医療→交易品。”
そこへ、低く、硬い声が降ってきた。
「お前が文化記録官だな」
振り返る。
そこに立っていたのは、背の高い男だった。
砂色の外套。
使い込まれた護衛剣。
日に焼けた肌と、鋭い灰色の瞳。
視線が、まっすぐリリエルを射抜く。
「ザハルだ。護衛責任者を務めている」
短い名乗りだった。
リリエルは優雅に礼をする。
「リリエルと申します。同行の許可をいただきました」
ザハルは無言で、彼女の装備を確認する。
旅装、手帳、簡易魔道具、携行水筒――
数秒の沈黙。
やがて彼は、はっきりと言った。
「貴族の観光遊びは、砂漠では死ぬ」
周囲の護衛たちが、小さく頷く。
空気が少しだけ重くなる。
しかし――
リリエルは、表情を崩さなかった。
「ええ」
さらりと頷く。
「ですから観光を学びに来ました」
ザハルの眉が、わずかに動く。
「……どういう意味だ」
「文化は、生存戦略です」
静かな声だった。
リリエルは手帳を軽く持ち上げる。
「例えば水契約文化。あれは単なる礼儀ではありません。資源管理と信用体系を同時に成立させる社会装置です」
ザハルは腕を組む。
「それを理解して、水が増えるのか」
「増えません」
即答だった。
「ですが、水を巡る争いは減ります」
風が、砂をさらう。
ザハルはしばらく黙っていた。
「砂漠で生き残るのは剣だ」
「そして知識です」
「……剣の方が早い」
「剣は問題を減らします。知識は問題を予測します」
わずかな沈黙。
近くで砂獣が鼻を鳴らした。
ザハルは、深く息を吐く。
「観光客にしては口が回る」
「職業柄です」
「何の職業だ」
「旅行代理店勤務でした」
ザハルが、ほんの一瞬だけ目を細める。
「……それが生存に役立つと?」
「はい」
リリエルは、真顔で答える。
「宿文化、交易文化、移動文化――それらはすべて、生存技術の体系です」
ザハルは、しばらく彼女を見つめていた。
そして、肩をすくめる。
「……好きにしろ。ただし」
声が低くなる。
「護衛の指示には従え」
「承知しました」
「水の管理は自己責任だ」
「はい」
「迷子になるな」
「努力します」
ザハルが、わずかに眉をひそめる。
「努力では困る」
「では、迷子にならないよう事前に市場動線を分析しておきます」
即座に手帳を開く。
さらさらと地図を書き始める。
ザハルは数秒それを見つめ――
小さく息を吐いた。
「……本当に記録するのか」
「はい」
「今?」
「はい」
リリエルは顔を上げる。
「出発前は文化が最も凝縮される時間帯ですので」
沈黙。
周囲の護衛の一人が、小さく吹き出す。
ザハルは視線を逸らした。
「……好きにしろ」
そう言い残し、踵を返す。
数歩歩いたところで、ふと立ち止まる。
「ひとつだけ忠告しておく」
振り返らずに言った。
「砂漠は、好奇心の代償を必ず請求する」
リリエルは、穏やかに頷いた。
「はい」
そして静かに答える。
「ですが、好奇心がなければ文明は広がりません」
ザハルは何も言わなかった。
ただ、わずかに肩を揺らして去っていく。
その背中を見送りながら、リリエルは手帳に書き込む。
“護衛責任者ザハル
価値観:実務主義・生存優先
剣=即時解決
知識=遅延解決(評価保留)”
そして、小さく追記する。
“対話可能性:高”
エルナが隣で、ぽつりと呟いた。
「……あの人、優しい」
「え?」
「ちゃんと説明してくれる」
リリエルは微笑んだ。
「ええ。とても親切な警告でした」
隊商区では、出発合図の角笛が鳴り始めていた。
砂漠の風が、旗を揺らす。
そして――
護衛責任者と文化記録官。
温度差の大きな関係が、静かに始まったのだった。




