Scene2「水の契約」
キャラヴァーン市の市場は、朝から熱気に満ちていた。
石畳の通路を挟み、天幕が幾重にも連なっている。香辛料の山、乾燥果実の束、宝石を散りばめた水容器――どの店も色彩に溢れていた。
リリエルは、視線を忙しなく巡らせながら歩いている。
「市場構造が層状……水路を中心に商圏が形成されていますね」
「まずそこを見るのか」
ザハルが呆れたように呟いた。
エルナは隣で、小さな水音に耳を澄ませている。
そのときだった。
「旅人殿」
穏やかな声がかかる。
振り返ると、年配の商人が立っていた。深い砂色の衣をまとい、銀装飾の水筒を胸元に下げている。
商人は、丁寧な所作で水筒を差し出した。
「遠路の来訪に敬意を。東泉水です」
透明な硝子杯に、水が静かに注がれる。光を受けて、わずかに青く輝いていた。
リリエルの表情が、ぱっと明るくなる。
「ありがとうございます」
ほとんど反射的に、杯を受け取った。
ひと口含む。
ひんやりとした清涼感が、喉を滑り落ちる。
柔らかな甘みと、ほのかな鉱物の香りが広がった。
「……すごい。軟水寄りですが、後味に深みがありますね」
素直な感想だった。
だが――
周囲の空気が、ほんのわずかに変わった。
商人は微笑を崩していない。
しかしその目が、静かに細められる。
「旅人殿」
「はい?」
「契約内容は、理解されましたかな」
リリエルは瞬きをする。
「……契約?」
市場の喧騒が、遠のいたように感じた。
商人は穏やかな声音のまま、続ける。
「我々の水は、歓迎の証であり――取引開始の宣言でもあります」
沈黙が落ちる。
ザハルが、ゆっくりと額に手を当てた。
「……やったな」
リリエルは、ようやく理解が追いつく。
「つまり……これは」
「無償提供ではありません」
商人は静かに言った。
「水を受けた者は、相応の信用、もしくは対価を示す義務を負います」
リリエルは杯を見下ろす。
透き通る水面が、わずかに揺れていた。
周囲の視線が集まっている。
嘲笑でも敵意でもない。
――文化的緊張。
彼女は、深く一礼した。
「大変失礼いたしました。当地の慣習を理解せず、軽率な行動を取りました」
商人の表情が、ほんのわずかに和らぐ。
「旅人が学ぶことを拒まぬなら、それは侮辱ではありません」
「対価を提示させてください」
リリエルは手帳を取り出した。
「私は旅文化の記録者です。この都市の交易文化を記録し、他地域との比較資料として提供できます」
商人は興味深そうに眉を上げる。
「……文化記録、か」
「加えて、王都周辺の交易需要予測資料もあります。水輸送需要に関する分析も提示可能です」
ザハルが、横で小さく目を見開く。
商人は数秒沈黙し、やがて頷いた。
「よろしい。知識は、この都市でも立派な信用です」
空気が、柔らかく戻る。
市場の喧騒が再び流れ込んできた。
エルナが小声で呟く。
「……怒ってた?」
「ええ。ですが、とても礼儀正しい怒りでしたね」
リリエルは静かに息を吐いた。
そして、改めて杯の水を見る。
(これは飲み物じゃない)
(信用の媒介だ)
胸の奥で、理解が形になる。
環境が価値を決める。
水が豊富な土地では、ただの資源。
だがこの砂漠では――社会そのものを成立させる契約装置。
ザハルが、低く言う。
「覚えておけ。砂漠で水は命だ」
「ええ」
リリエルは静かに頷いた。
「そして、文化でもありますね」
市場を歩きながら、彼女はすぐに手帳を開いた。
筆が走る。
“水――契約媒体。
信用階層を可視化する資源。
環境が価値体系を決定。”
書き進めながら、彼女はふと微笑んだ。
ページの端に、追記する。
“東泉水レビュー
透明度:極上
口当たり:柔和
後味:鉱物香が持続
総評――水のテロワールが際立つ逸品”
ザハルが横から覗き込み、眉を寄せる。
「……何を書いている」
「文化評価です」
「評価するな」
「旅人の職業病です」
リリエルは、どこか楽しげに帳面を閉じた。
市場の中心では、水路の流れが太陽を反射している。
水が、人を繋ぎ、取引を生み、都市を生かしている。
リリエルは、その流れを見つめながら、静かに思った。
――価値は、絶対ではない。
――世界は、環境によって意味を変える。
その理解が、胸の奥で確かに根を下ろし始めていた。




