Scene6 「巡礼少年ユノ」
夜も更け、三叉の鶴亭の広間は静かな落ち着きを取り戻していた。
酒の声は穏やかな談笑へ変わり、暖炉の火はゆっくりと炭へ姿を変えつつある。
リリエルは窓際の卓で、旅記録帳を整理していた。
今日得た情報。
街道灯の揺らぎ。
宿文化の特徴。
料理の環境適応傾向。
整然と文字を並べていると、控えめな足音が近づいてくる。
「あの……」
顔を上げると、小柄な少年が立っていた。
年は十二、三ほどだろうか。
巡礼者の外套を着ているが、まだ布は新しく、荷袋も不自然なほど整っている。
「はい?」
少年は少し迷ってから、椅子の背に指をかける。
「ここ……座っても、いいですか」
「どうぞ」
リリエルは帳面を閉じ、微笑んだ。
少年はそっと腰を下ろす。
しばらく、沈黙が続いた。
暖炉の火が、ぱち、と小さく鳴る。
やがて少年が、意を決したように口を開いた。
「……旅って」
声は、少し震えていた。
「怖いですか?」
率直な問いだった。
リリエルは、すぐには答えなかった。
窓の外に視線を向ける。
三叉路には夜霧が降り始めており、街道灯の淡い光が滲んでいる。
そして、静かに頷いた。
「怖いですよ」
少年の肩が、わずかに揺れる。
だが、彼女は続けた。
「道に迷うかもしれません。天候が変わるかもしれません。知らない文化に戸惑うこともあります」
言葉を選びながら、穏やかに紡ぐ。
「……人と出会うのも、少し怖いですね」
「え?」
「相手がどんな人かわからないですから」
少年は驚いたように目を丸くする。
リリエルは、柔らかく微笑んだ。
「でも――」
暖炉の火を見つめる。
「だからこそ、楽しいんです」
少年は黙っている。
彼女は続ける。
「怖さがあるから、準備をします。調べます。記録します。人の話を聞きます」
そっと、旅記録帳を指で撫でる。
「そうして少しずつ、自分の世界が広がっていくんです」
少年は、小さく呟く。
「僕……初めての巡礼で」
「はい」
「正しい道を歩けるか、不安で」
その言葉に、リリエルは少し考え――静かに首を振った。
「正しい道、というものは、きっと無いと思います」
「無い……?」
「ええ」
彼女は、宿の広間を見渡す。
商人。
傭兵。
巡礼者。
旅芸人。
「ここにいる旅人たちは、みんな違う理由で歩いています」
声は、穏やかで、確かな温度を帯びていた。
「ですが、誰一人として同じ道を歩いていません」
少年は、暖炉の火を見つめる。
リリエルは続ける。
「旅は、答えを探すものではなくて」
少しだけ間を置く。
「問いを増やしていくものだと思います」
沈黙。
暖炉の火が静かに揺れる。
その時、隣でエルナがぽつりと呟いた。
「……道は、歩いたあとにできる」
少年が振り向く。
エルナは炎を見つめたまま続けた。
「霊脈も、そう」
意味を説明することなく、静かに言葉を落とす。
少年はゆっくり頷いた。
「……ちょっと、怖くなくなりました」
「それは良かったです」
リリエルは柔らかく笑う。
少年は立ち上がり、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。僕、明日北街道へ行きます」
「水場が少ない地域です。塩を少し多めに持っていくと良いと思います」
「はい!」
少年は少しだけ背筋を伸ばし、宿の階段へ向かっていった。
その背中を見送りながら、リリエルは小さく息を吐く。
エルナが、彼女を見上げた。
「……先生みたい」
「そんな立派なものではありません」
苦笑しながら首を振る。
「ただ、旅が好きなだけです」
外では、夜霧の向こうで街道灯が静かに揺れている。
リリエルは、その光を見つめながら思う。
――旅は怖い。
けれど。
――怖さごと、世界を知る喜びになる。
それが、きっと。
旅というものなのだ。




