Scene3 「初街道宿 ― 三叉の鶴亭」
日が傾き始めた頃、街道はゆるやかに三つへ分かれた。
それぞれが異なる地方へ続いているらしく、分岐点には小さな石標が立ち、行き先が刻まれている。だが文字よりも先に目に入るものがあった。
三叉路の中央。
旅人たちが自然と集まるように建てられた、一軒の大きな木造建築。
屋根の棟には、翼を広げた鶴の彫刻が掲げられていた。
看板には、流れる筆致でこう書かれている。
――三叉の鶴亭。
馬車が止まると、焚き火の匂いと煮込み料理の香りが風に乗って届いた。
入口の前では、巡礼者と商人が談笑している。荷を降ろす音、馬の鼻息、笑い声。すでにそこは、小さな町のような賑わいを見せていた。
護衛兵が御者と料金交渉を始める横で、リリエルは静かに宿の外観を観察する。
梁の角度。
雨樋の位置。
煙突の本数。
(宿泊棟と共同食堂が分離構造……)
自然と分析が始まる。
(旅人動線が混雑しにくい設計)
エルナはというと、すでに入口近くに吊るされた風鈴を興味深そうに見上げていた。
澄んだ音が、夕風に揺れている。
宿の中へ入ると、空気がさらに賑やかになった。
広間の中央には長机が並び、旅人たちが食事や酒を囲んでいる。壁際には暖炉があり、その上には各地の護符や記念札が無造作に飾られていた。
そして――
入口脇の壁一面に、大きな木製棚が据え付けられている。
帳簿が何冊も並んでいた。
リリエルの足が、自然とそちらへ向かう。
護衛兵が声をかける。
「部屋の手配を――」
「少々お待ちください」
すでに彼女の意識は帳簿へ吸い寄せられていた。
最上段に置かれた厚い冊子を、そっと開く。
宿帳だった。
旅人たちの名前、出発地、目的地、そして簡単な近況や注意事項が書き残されている。
リリエルの瞳が、わずかに輝いた。
(宿帳……)
ページをめくる。
「北街道橋梁、一部崩落。荷馬は回避推奨」
「南湿地帯、雨期は霧多し。灯具必携」
「巡礼団、来週三十名通過予定。食材需要増」
文字は粗雑なものもあれば、妙に几帳面なものもある。
だが共通していたのは――実用性だった。
(宿帳は……旅人文化のアーカイブ)
さらにページをめくる。
そこには短い詩や、料理の感想、時には誰かへの伝言まで残されていた。
リリエルは完全に没頭していた。
その背後で、エルナが物資棚を覗いている。
木箱の中には、旅人同士が自由に置いていく小物が並んでいた。保存食、補修糸、予備の靴紐、簡易薬草束。
必要な者が持ち、余裕のある者が補充する。
街道独特の助け合い文化だった。
一方で、広間の中央には大きな掲示板も設置されている。
交易価格表。
天候情報。
失せ物の連絡。
護衛募集の貼り紙。
宿そのものが、情報交換拠点になっていた。
そのすべてを観察しながら、リリエルの思考は静かに整理されていく。
やがて――
彼女の脳内で評価表が組み上がった。
(清潔度……星一つ)
床はしっかり掃除されているが、旅塵は避けられない。
(料理……星二つ)
香りから判断して保存性重視の煮込み。長旅向き。
(情報密度……星三つ)
宿帳と掲示板、交換棚。極めて優秀。
(交流文化……星一つ)
交流は活発だが、体系化はされていない。改善余地あり。
そこまで思考が進んだ瞬間――
「……あんた」
低く、しかしどこか楽しげな声が降ってきた。
顔を上げると、恰幅のよい女性が腕を組んで立っていた。
年の頃は四十代半ばほど。焼けた肌と鋭い目をしているが、その奥には人懐こい光がある。
「そんな真顔で宿を採点する客は初めてだよ」
広間の数人がくすりと笑った。
リリエルは、わずかに瞬きをする。
「……表情に出ておりましたか?」
「丸見えだね」
女性は肩をすくめる。
「三叉の鶴亭の女将、ミラだ」
差し出された手は、商人のように力強かった。
リリエルは丁寧に握り返す。
「本日宿泊を希望しております」
「護衛付きとは珍しいね。訳ありかい?」
「観光研究の一環です」
間が空いた。
ミラは数秒、真顔で見つめ――
ふっと吹き出した。
「いいねぇ。久々に面白い客が来た」
彼女は帳簿を軽く叩く。
「読み漁るのは構わないが、飯が冷める前に戻っておいで」
「はい」
素直に頷きながらも、リリエルの視線はすでに次のページへ向かっていた。
ミラは苦笑し、肩越しに声をかける。
「嬢ちゃん、その人は放っとくと夜通し読むよ」
エルナは物資棚から顔を出し、小さく首を傾げる。
「うん。たぶんそう」
その無邪気な肯定に、広間の空気が柔らかく揺れた。
外では夕日が三叉路を染めている。
旅人たちはそれぞれの道から集まり、また明日には別々の道へ散っていく。
だが今夜だけは――
ここが、彼らの交差点だった。




