Scene9 「追放準備」
アルシェンド公爵家の私室は、いつもと変わらず整然としていた。
高い天井。
磨き上げられた床。
窓辺には、王都の整然とした街並みが広がっている。
――だが、その静けさは、どこか終わりを告げているようでもあった。
「お嬢様……こちらはどうなさいますか」
侍女が、慎重に問いかける。
ベッドの上には、いくつもの箱と衣装が並べられていた。
リリエルは、その光景を静かに見つめる。
胸の奥に、ほんの少しだけ――柔らかな痛みが走る。
この部屋で過ごした時間。
窓辺で読んだ本。
夜遅くまで続いた研究。
すべてが、ここに詰まっている。
だが。
京子の思考は、すでに「旅支度チェックリスト」を開いていた。
(感傷は、あとでゆっくり)
彼女は、机に向かい、記録帳を開く。
新しいページの一行目に、さらりと書き込んだ。
――王都出発準備。
小さく息を整え、荷物の選別を始める。
「持参品は最小限にいたします」
侍女が驚いたように顔を上げる。
「最小限、でございますか……?」
「ええ。移動効率が下がりますから」
淡々と告げながら、リリエルは机の上に品を並べていく。
そして、静かに順位付けを始めた。
まず――
記録帳。
彼女は迷いなく、それを最上段へ置く。
(これがなければ、旅の価値が半分になる)
次に、地図。
王国全図。
街道記録図。
交易航路資料。
丁寧に革袋へ収める。
(現地で追記必須)
その次に、衣服。
豪奢なドレスには目もくれず、実用的な外套と旅装を選ぶ。
布地の耐久性を指先で確かめながら、頷いた。
(砂埃対策も考えたい)
四番目に選んだのは、護身具だった。
短剣。
護符。
簡易警報具。
どれも過剰ではなく、だが不足もない。
最後に。
宝石箱が残る。
煌めく首飾り。
王家から贈られた装飾品。
社交界で評価された髪飾り。
侍女が、不安そうに言う。
「……お嬢様、それは」
リリエルは、穏やかに微笑んだ。
「優先順位は……一番最後ですわ」
侍女の肩が、わずかに震える。
悲しみなのか、安堵なのか、自分でも分からない表情だった。
リリエルは、宝石箱を閉じる。
指先が、ほんの少しだけ止まる。
やがて、静かに棚の奥へ戻した。
部屋に、穏やかな沈黙が落ちる。
しばらくして、老執事が入室した。
「馬車は、明朝準備されます」
「ありがとうございます」
短い会話。
だが、そこには長年の信頼が滲んでいた。
執事は一礼し、静かに続ける。
「……旅が、良きものでありますように」
その言葉に、リリエルの胸が少しだけ温かくなる。
「ええ」
彼女は、ゆっくり頷いた。
「きっと、素晴らしい旅になります」
執事が退室し、侍女も下がると、部屋には一人だけが残る。
窓の外では、王都の灯が瞬き始めていた。
リリエルは、旅装の外套を羽織る。
鏡に映る姿は、もう社交界の令嬢ではない。
だが――
どこか軽やかだった。
京子は、そっと思う。
(少しだけ、寂しい)
だが同時に。
(それ以上に、楽しみ)
机の上の記録帳を閉じる。
指先が、表紙を優しく撫でた。
新しいページが、静かに待っている。
まだ何も書かれていない。
だからこそ――
無限に書き込める。
リリエルは、小さく微笑んだ。
そして、灯りを消す。
明日。
彼女は、この部屋を出る。
追放という名の――
旅へ。




